序幕 畠の村の朝
開いた。
指先の目が開くのに、ずいぶんとかかった。
まだ冷たい。土中まで太陽の熱が届くのは、もう少し後。それまでに長い根を1つ、いや2つは探して抜いてやる。
ひんやりとした空気は、ほんのわずかな重みでさえも、大事のように伝えてくれる。きっと上手くやれる。大丈夫。ゆっくりと。動くな、もっとゆっくり。
鼻で吸い込めそうな砂粒の尖り1つも見逃してやるものか。空に手をのばしたような草の根を、そのままの形で抜いてやる。命の素を奪うこいつらを、欠片も残さずに抜くのは、僕だ。
「おい、早くしろよ、のろま」
「さっきから動いてないぜ、死んだのか」
「目も閉じてるしな、ほんと、どうしようもないやつ」
……真っ暗。目が頭に戻ってきた。
背が痛む。ああ、蹴られたのか。
指先には……短い。くそっ、もう少しで上手くいったのに。
「おまえ、羊の子なんだから、草を抜くんじゃなくて食えよ」
重い。首がちぎれそう。まったく息ができない。ぐあんぐあんと鳴るこの気持ち悪い音はどこからだ。足の力をゆるめてくれ。お願い、せめて僕に口を開けさせて。土を口に入れたら少しは息ができる。きっと冷たい空気があるはずだ。
「おまえ、もう1回言ってみろ」
眩しい。顔が出た。酸っぱい空気。喉奥の血の味。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ」
大きな声。きっと深く息を吸い、口を大きく開いて、たくさんの空気を声にしているのだろう。言葉を声にするのに躊躇いがない。畠に残る顔の跡、さっきまで僕だったものからも低い声。
必ず聞いてもらえる声を出すのは、どんな気分なのだろうか。
「喧嘩だ、行こうぜ」
「うわっ、あいつ、あの人にもやったのかよ、どうなるんだろうな」
重さがすべて消えた。鳥がまったく見えなくなっている。
……またか。あいつが文字を使うようになってから、こんな揉め事が増えた。うるさい。早く村が静かになればいいのに。遠くで鳴く鳥の声を、せめて朝くらいは高くてきれいな歌を聴きたいんだ。
でも、今日は揉め事のおかげで助かった。静かだったら、誰も助けてくれない。祈りにもならない僕の苦しみは、みんなにはどうでもいいこと。静かな水の溜まりは波を求めない。あるがままを望むんだ。
そう、あるがまま。変わらないことが一番望ましい。
「おまえ、ちゃんとやれ、おれは、わたしはおまえの名前を文字にしない」
「ちゃんとやったじゃねえか、ふざけんな、文字にしろよ」
あいつの気分しだいで名前が文字にされるか決まる。こんなのはおかしい。
文字は仕事した人の名前を神様に伝えるためのもの。文字は神様のもので、人のものではない。神様に選ばれた人だけが使うことを許されている。
小さい人が初めて畠に出る前の日、ずっと遠くを見る目をしながら、偉い人はいつもそう言っているじゃないか。
だから、名前を文字にするかどうかを、人が決めてはいけない。こんな当たり前のことを、なんで偉い人はあいつに言ってくれないのだろう。あいつを怒ってくれないんだ。
羊の子
食われるために生かされて
なにも持たずに立ち歩く
おまえの皮はただ臭い
おまえの毛は少なくて
肉も肝も祈りにならず
羊になれない羊の子
……ああ、そうか。あいつは偉い人の子だから怒られないのか。
細くて、でも強い草。土に指を押しこまないと根が残る。なんでこんなに小さくてやわらかいのに強いんだ。人は細くなれば弱るし、小さい人はすぐに死ぬ。
だめだ、土の中に目が入っていかない。
3本の指をゆっくりと。まだ速い。もっとゆっくり。よし、これでいい。このままだ。指の腹から少しずつ先のほうに力を移す。指先の目が開くまで待つ……だめだ、開かない。騒ぎが気になって仕方ない。
体の中に溜まった屑が、ここから飛び出したいと暴れている。あの歌のせいだ。抑えないといけない。屑で濁った僕の心を一滴もこぼしてはいけない。たった一筋の流れが、命を奪う勢いを生む。そうならないように見張らないと。
僕には心は不要で、我慢が必要だ。
いつもより太陽が強い。肩には小さな痛みの粒が集まり、もうすぐ熱をたくわえた土が膝を焼く。体の中の中までじっくりと熱が入り、肉は粘りを失い、ほんのわずかな摩擦で二度と元に戻らない傷を負う。まるで特別な日の肉みたいに。
食われるために生かされて
なにも持たずに立ち歩く
うるさい。黙れ。
はあ、力が続かない。いや、やる気が出ないんだ。ただただ同じことを繰り返すばかり。上手に根を抜くやり方を見つけても、遅いと言われるだけ。木のような根を抜いても、褒めてもらえない。
……そうか。腹が減るから、嫌なことしか思い出せないんだ。
麦がとれなくなってきて、どれくらい経ったのだろうか。あいつが、あいつの好き嫌いで文字を使うから、神様が川の水を減らしたに違いない。たくさん食べていないから、川の守りも力が出ないんだ。蛮族が畠にまで入ってくることが増えた。あいつのせいで、村のみんなが死んでいく。
どれだけ血を流しながら土と戦っても、肉を噛みちぎられた末に狼を追っ払っても、あいつに好かれないと名前は文字にされないまま。だから、機嫌をとるだけの人が増え、気に入られるためのことができない人の仕事は増える。
あいつが文字を使っているうちは、なにも変わらない。
「おれの名前を文字にしないのはおかしいだろ」
「おまえ、おれの、わたしの悪口を言ってた」
「おまえが神様を知らないのはほんとうだろ」
「おれは、わたしは偉い人から文字を教えてもらった、わたしは偉い人になった、偉い人だから神様を知ってる」
「月が消えたときのことを忘れたのか、おまえの言ったようにならなかっただろ、おまえが神様を知らないからだ、おまえは偉い人じゃあないんだ」
……あのときのこと。朝になれば水が土をやわらかくすると言った。なのに、乾いた土は乾いたまま。どこにも水は溜まらない。細かな砂が喉にはりついて息が苦しく、雨で土が跳ねた匂いもない。あいつは偉い人とは違う。
「黙れ、おれがおまえの名前を文字にしない、そしたらおまえが神様に怒られる」
「おれはちゃんとやった、神様を思ってな、だから、おまえが、おれの名前を文字にしないのは神様を知らないからだ」
鼻から一気に息を吸い込んだ。まだなにかを言おうとしている。視線が高い。この人はみんなになにかを言おうとしている。葉っぱがくるりくるりと表裏。臍の上が、声になる前の空気で満たされる。空を見た。
「みんな、おれの話を聞いてくれ、こいつはずっと雨が降らなかったときに雨が降ると言った、だけど、降らなかった、覚えてるやつもいるだろ、こいつは偉い人の子だけど神様を知らない、だから、文字にすることがどういうことなのかをわかってないんだ、他の子に文字を教えてほしいって、偉い人に頼もうぜ、そうしないと、ずっとこのままだ」
「そうだ、そうだ」
「いいぞ、よく言ってくれた」
小さい声。誰が言ったかもわからない。そんなの意味ないよ。
「こちらです、すいません、騒ぎが大きくなってしまって」
……偉い人。いつもと同じ、しっかりと足を地面につける歩き方。
「聞いてください、こいつは神様を知らないのに」
「おまえが神様のことを言ってはいけない、おまえは文字を知らぬ、文字を知る者にそのようなことを言えるものか」
「だけど……」
早く言ってよ。他の子に文字を教えてくださいって。あいつに文字を使わせたらいけないんだ。あんたしか言えないんだよ。ほら、さっきまで味方していた人たちの声は続かないだろう。言えないんだよ。でも、あんたは違う。しばらくしたら川の守りになるって話じゃないか。川の守りの首領にも気に入られている。あんたがはっきりと言えば、偉い人も無視できない。みんなそれを待っている。頼むよ。さっさと言ってよ。
「おまえの体は強い、だが、それはおまえの力ではない、おまえの体は畠でとれたものでできているのだ、おまえは神様の力で生かされている、ここにいるすべての者と同じように」
……この目。視線は合うけど、目は合わない。目の奥、頭を越えてずっと先のなにかを見ている目。僕の思うこと、いや、みんなの思うことを見透かしている。神様の言葉を聞く目。
「神様はわたしを子としてお認めになった、わたしの子も同じだ、わたしはこいつに文字を教えた、そのときからこいつも神様の子である、これは神様がわたしに示されたお考えである、おまえは文字を知らず、神様のことを知らない、おまえが神様のことを言うのはお怒りに触れ、災いの神様が来られ、この地で生きる多くの者の体は細くなり、色は悪く、死んでしまうのだ」
……いけない。神様が怒った。偉い人が言ったことはほんとうになる。いや、ほんとうのことを言う。今よりも酷くなる。あいつ、なにも考えずに言いたいことを言って神様を怒らせやがった。
「おお、なんということだ、腹が食べられ、骨になるのか」
「おまえ、おい、おまえ、おまえだけが死ね」
「もうすぐ産まれるのよ、どうしてこんなことに」
「前の恵は少なくてたくさん死んだ、次こそはと思ってやってきたのに、どうしてくれるんだ」
麦がとれない。順調だったじゃないか。前より畠が潤ってきたじゃないか。根を抜くのが上手くなったんだ。せっかくここまできたのに、あいつ、大きな声でぶち壊しやがった。
たくさん食べて、あったかくなった体で眠りたい。多くの麦がとれれば、村も静かで、朝の仕事を気分よくできる。どうか神様、怒らないでください。なだめるためには……偉い人しかいない。
「お願いします、どうすればいいんですか、神様にお願いできませんか」
……しまった。声が出た。
「おまえ、黙れ、おまえみたいなやつが偉い人に指図するな」
熱い。右頬を殴られたのか。新しい血の匂い。左耳が小石の山に入り込んだんだ。頭から足をどけてくれ。
「こいつを神様にお渡しする、人が神様を怒らせた、いつもと違うものをお渡しせねばならぬ、そうすれば、わたしの話を聞いてくださり、災いも小さくなろう」