第1話 不穏な影
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「はぁ……」
自宅からの登校を終えた少年、櫻木恋。
割り当てられた席に座ると大きく溜め息を吐く。まだ開門から時間が経っておらず、一人しかいない教室には音が響いて聞こえた。
四月も中盤。開けた窓からは散りかけの桜が見える。立ち並ぶ建造物と薄桃色の花、見慣れないながら意外とその相性が良い。
しかし、そんな明るい環境に反して、恋の心は曇っていた。
春が嫌い、ということではない。春夏秋冬を通して春は一番好きなまである。春の風物詩である桜は綺麗だし、花見をしながら食事をするのも風情があって良い。
別に天気が悪い、というわけでもない。今日は雲一つない快晴。昼頃になれば夏もかくやという暑さになってしまうだろうが、今はつい眠ってしまうほど穏やかな気候気温である。
そういったことではなく、心鬱はもっと別のところにあるのだ。その原因についてはこの言葉がぴったり当てはまる。
『春は終わりと始まりの季節』
春とは何かが終わり、何かが始まる季節である。わかりやすい例を挙げるならば――子供、とりわけ学生だろうか。
小学六年生だった児童は中学一年生となり、新しい環境に期待や不安を胸に抱いているだろう。中学三年生だった生徒は義務教育を終え、多くの人が高校へと進学する。高校三年生だった生徒は就職、進学などそれぞれの進路に向かって飛び立っていく。
そんな恋も例に漏れず、中学校を卒業して今年の四月から晴れて高校一年生となった。しかし、その進学は少し毛色が違っていた。
「自分で選んだとはいえ、やっぱり肩身が狭い……」
吐き出された息が確かな重さを持って落下していく。
そう。恋は今まで通っていた地元の中学校から遠く離れた、都会の高校に進学したのだ。
『星宮学園』。それが恋の通っている学校の名前。中等部と高等部で分けられた内部進学を採用しており、そこそこの偏差値を持っている中高一貫の学び舎だ。
有名大学への進学率が高いらしく、それを目当てに入学した人もいるらしい。また単に家が近いからといった理由でこの学校を選んだ人もいるとのこと。事実、恋も進学を目的としてこの学校を選んだわけではない。
重要なのはそこではない。この学校、都会にあるだけあって生徒数がとても多いのだ。
地元の中学校ではそこそこの生徒数しかいなかった。学年での人数は三〇人程度で、同学年だけでなく先輩後輩の中に知り合いもそこそこいた。
それに比べて星宮学園では一学年につき何組まであるんだといわんばかりの組数が存在している。そして生徒数が多いこともあって部活や同好会も多岐に当たり、地元では見られなかったものが目白押しだった。
入学式終了後の勧誘活動で揉みくちゃにされたのは記憶に新しい。ただそれだけの生徒数なこともあって校舎はとても大きく、敷地も大学顔負けの広さを保有している。体育館やグラウンドを見た時は馬鹿みたいに大きい、という感想しか出てこなかった。
――少し脱線してしまった。
要するに、星宮学園は人数が多すぎるのだ。そのくせ恋自身が遠くから入学してきたため、知り合いという知り合いは皆無。校内で気軽に喋ることができる友達が存在しないため、肩身の狭い思いをしていた。
だが、恋が憂鬱な気分になっているのはこれだけが原因ではなかった。
“喋る友達がいない”というのは正しいが、他人と全く喋らないわけではない。普通にクラスの男子ともほどほどに話すし、日直の際にはペアの人と日誌について相談したりする。
そういったのとはまた別に、このクラスには熱心に話しかけてくれる奴が一人だけいる。
――いるのだが、これが曲者なのである。
そんなことを考えていると、教室の扉が開く音がした。
「あ、レンちゃん。また机に突っ伏してる」
「……ん。また早いんだな、葵」
聞こえたソプラノボイスに身体を向けて返事をする。女子生徒は教室に入って来ると恋の右隣りの席へと座った。
――そう、この人物こそ学校生活におけるもう一つの心労。立花葵である。
窓から吹き込む温和の風。揺らめく銀色のショートヘアーはさならがら指から零れ落ちる砂のよう。
此方を見つめてくる碧眼は宝石に似ている。美しさと力強さ、そして儚さが共存していた。
身長は女子にしては少し高い程度で、スタイルは細めといったところ。あまり表情を変化させないこともあってクールな印象を受ける。
そんな彼女が部活の朝練が無いにも関わらずなぜか朝早くに学校に来て、隣の恋と話している。有り体に表現して奇妙に尽きるだろう。
それには恋と彼女との出会いに理由があるのだが――今それは置いておく。
話しかけてくれるのは恋としても非常に嬉しい。これだけ生徒数が多い学校で話し相手一人いないというのは流石に心にくるものがある。
しかし、一つだけ問題があった。
「ん。レンちゃんが寂しくしてないか心配だったから」
「……葵は俺の母親なのか?」
「私、レンちゃんの家族になれるの?」
「いや、なれないからな?」
葵の発言に否定の言葉を投げると、思わず小さくため息を吐く。
――そう、これである。
葵が天然なのかは分からないが、突拍子もないことを言ったりするのだ。しかもタチが悪いのは、こういった発言を恋だけにしてくるところ。おかげでいつも頭を悩ませている。
他人は葵と仲良く話す様子に嫉妬、羨望しているのかもしれない。しかし当の本人からすれば話しているだけで気を遣うことが多く、少し苦手である。
ただ、この学校で積極的に話しかけてくれるのも彼女だけ。そういった面では感謝の気持ちが大きいため、一概に迷惑とも言えないのだ。
もう少し変な発言が減れば素直に喜べるのに――そんなと考えていると右隣から視線を感じる。気になり視線を移動させると、葵が今や慣れ親しんだ無表情で見つめてきていた。
「どうした、何かあるのか?」
「……今日は髪が爆発してない」
葵の言葉に、恋は思わずたじろいだ。
実は昨日、恋は人生で初めての寝坊をやらかしてしまったのだ。眠りから覚めて目を開き、飛び込んできた時計の時間はまさかの九時。おかげで身支度も最低限に家を飛び出してしまい、クラス全員に壮大な寝癖を披露してしまった。
幸い髪そのものが短めだったためそこまで酷くはなかったのだが、それでもやはり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「頼む、そのことは思い出させないでくれ……」
「ごめん。でも、レンちゃんが寝坊するのは、珍しいから」
「いやほんとにな。心臓止まるかと思ったし」
あの瞬間は一生忘れないだろう。時計を見た瞬間に自身の生きてる世界が止まったあの感覚、いつの間にか出てきて止まらない冷や汗。
そして次の瞬間には身体が勝手に動き、頭の中が早く家を出なければという思考で埋め尽くされる。初めての感覚だったが、もう二度と味わうのはごめんだというくらいには嫌なものだった。
「……大丈夫?」
そんな昨日の出来事を思い出していると葵から心配する声が聞こえた。その様子は不安そうで、心から心配してくれていることが感じ取れた。どうやら思っていた以上に心配させてしまっていたらしい。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとな」
「ん。なら良かった」
優しく微笑みながら返すと、葵の不安そうな表情は鳴りを潜め柔らかく微笑みながら返事をしてくれた。こうやって話す分にはとても優しく、気配りも上手なためとても楽しい。
このままなら一〇〇点満点としたいところではあるが、変な発言のことを加味すると八〇点くらいに落ちてしまう。
勿体ない、などと思うのは烏滸がましいかもしれないが、そう感じずにはいられなかった。
「そういえば、なんで寝坊しちゃったの?」
そんなことを考えているとふと葵が質問してきた。その様子はとても気になっているようで、恋のほうに身を寄せてきていた。
一応、ちゃんと理由はある。しかしそれは恋にとっては恥ずかしいものであり、なかなか言いづらいものだった。
「あー、その……笑わないか?」
「うん、笑わない」
真剣な表情で葵は見つめてくる。無表情ながらもその碧眼は力強い。恐らく折れてくれるようなことは無いだろう。
これから話す内容を考え、体温が上がる感覚を覚えながらも話すことにした。
「夢を見たんだよ」
「……どんな夢?」
大雑把に話すだけで乗り切ろうと思ったが、どうやら葵はそれを許してくれないようだ。いかにも興味津々といったように次の言葉を待っている。
恋は意を決し、全てを話すことにした。
「その……宇宙にいる夢」
「……宇宙?」
恋は小さく頷き、続ける。
「そう。無数の星が綺麗に光ってて、その中で俺がふわふわと浮いてる夢」
「……、」
葵は真剣な表情で話を聞いていた。その様子から、俺が一通り話し終わるまで聞き続ける姿勢のようだ。
恋はさらに夢の内容を言葉にしていく。
「それでこう……なんというか感覚の話になるんだけど。その浮いているときの感覚がすごく心地よかったんだ。それでいつまでも此処に居たいなー、なんて夢の中で思ってたらいつも以上に寝てしまった……というわけ」
「……なるほど、大体わかった」
話を聞くだけだった葵は何回か頷き、納得した様子だった。一体何がわかったというのだろうか。疑問に思い聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「……レンちゃんが見た夢の感覚ならなんとなくわかる。私も感覚的な話になるけど……たぶん、プールに脱力してただ浮かんでる状態に近い。あれは私も心地いいと思うし、眠くなる」
それを聞いた恋は思わず「なるほど」と呟いていた。確かに昨日見た夢はそれが一番近いと思う。
――それにしても、葵はなぜそんな感覚を知っているのだろうか。
「気になったんだけどさ。その感覚を知ってるってことはやったことあるんだと思うけど、そういうことするの好きなのか?」
「うん」
簡潔な回答を聞いて、思わずその光景を恋は想像する。
ただ無表情でプールに浮かぶだけの葵――申し訳ないが、少しシュールに感じてしまう。
「というか葵、プール行ったりするんだな」
「……意外?」
「正直に言うと意外だな。葵、部活はアーチェリーだし、プールとか普段行かなそうだから」
「浮かんだまま漂ったり、底に沈んで水中から光る水面を見るのが好きだから」
「えーっと……泳いだりはしないのか?」
「……泳ぎはあまり、得意じゃない」
葵は落ち込んだように表情を暗くさせた。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。
「あー……まあ誰にでも得意なこと、苦手なことがあるから大丈夫だろ」
言葉を選び、励ますように声をかける。そうすると葵の表情は元に戻り、控えめな笑顔を浮かべていた。
「……ありがとう。優しいね、レンちゃんは」
「当たり前のことを言っただけだよ。それに、葵はアーチェリーがあるじゃないか」
「アーチェリーは、小さい頃からやってたから……」
少し弱気になりながらも葵が答える。一応恋も武術経験こそあるが弓なんてものは触ったこともない。それだけで目の前の彼女は尊敬に値するものだった。
何度か遠目ではあるが葵が矢を放っているところも見たことがある。一直線に放たれた矢が的の中心近くを射抜いたときは自分事のように感動したものだ。
「それでもだよ。葵がアーチェリーやってる姿、すごいカッコいいって思ったしな」
「ッ!? み、見たの……?」
「ん? そうだけど」
それを聞いた葵はいつもの無表情ではなく、少しではあるが顔を綻ばせて頬を赤く染めていた。やはり、知り合いに自分の部活動を見られるのは恥ずかしいのだろうか。
教室の床と窓外の景色を行ったり来たりしていた視線が恋に固定され、葵は小さく呟く。
「……レンちゃんのえっち」
「なんで!?」
――こういうのが無ければ、本当に良い会話友達なのだが。
「――よし、これでホームルームを終わる。最後になるが、最近この付近で子供が行方不明になる事件が発生している。それに伴いしばらくの間、部活動は一七時までとなった。帰るときは必ず複数人で、明るいうちに帰るようにしてくれ」
最後に「以上、解散」という男性教師の一言で今日の就学が終わった。教室は一気に賑わい、各々が目的の為に動き出す。
恋もまた自分の鞄を持ち上げ席を立つと、葵から肩を軽く叩かれる。視線を向ければ、その表情は少し曇っているように見えた。
「今日、病院?」
「おう」
「……気を付けてね」
「ん、ありがとな」
心配するような言葉に苦笑いしながら答え、教室を出る。去り際に見た葵は悲しそうな、寂しそうな目をしていた。
学校から近場のバス停まで歩き、乗り込んだバスで二〇分ほど揺られると目的の『星宮総合病院』に辿り着く。
病院のバス停に降り立った時、ふと背後を見ればバスから降りることに苦労している様子の老人がいた。
「大丈夫ですか? 手伝います」
「ああ、ありがとうねぇ。助かるよ」
「いいえ。困ってる人を助けるのは当然ですから」
老人の手を取り、ゆっくりと導く。無事地面に脚を降ろした老人と別れると整備された道を歩いた先、入り口の自動扉を抜けた。
広い窓から陽の光が差し込むエントランスを進み、受付にいる見知った女性へと声をかける。
「すみません、連絡していた櫻木恋です」
「ああ、恋くんね! ごめんなさい、ちょっとだけ待っててね?」
申し訳なさそうに言うと、彼女は手元の書類にペンを走らせる。
受付の人の名前は月吠四葉。これから見舞う人物の世話をよくしてくれている看護婦だ。
何度も通っているのもそうだが、一度お世話になったこともある。それもあって名前を覚えるのは早かった。
とても気優しく、彼女が持つ柔らかくも明るい雰囲気は他の患者だけでなく同職場の職員からも人気。面と向かって話した回数も多く、ほぼ同じ感想を抱いた。
「よし、完了っと。おまたせ! お見舞いかしら?」
「そうです」
「おっけー、受付するね」
そう言った四葉は体温計を渡すと手元にある機械を操作を再開する。
体温を測り始めて一分もすると体温計から音が鳴った。機械の操作をやめ、視線を戻した四葉に体温計を渡すと紙に次々と記入していく。
そうして暫くするとペンを置き、全ての項目を目で追い確認した。
「うん、大丈夫だね。受付終わったから行っても大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
了承が得られると少し足早に近くにあるエレベーターに乗り込む。目的の階へのボタンを押し、エレベーターの中で思考を整理。そうしているうちに目的の階層で扉が開くとエレベーターから降り、真っ白な廊下を歩く。設置されたトイレに入った恋は、備え付けられている鏡で自分の姿を確認する。
黒が混じったかのように暗く赤い髪に、それと同色の瞳。特別良くはないがそこそこな顔立ちに、高校男子にしては少し低い身長が鏡に映し出される。
実を言うと、恋は自分の容姿が好きじゃない。
別に不細工だからといった理由ではなく、誰かに悪口を言われたからというものでもない。
――その姿が、まるで頭から血を被ったように見えるから。
ただそれだけ。たったそれだけの、自己認識の問題だ。
制服を整えると洗面台で丁寧に手を洗い始める。手洗いが終わってハンカチで丁寧に水を拭い、もう一度自身の姿を確認する。
トイレから出た恋は再び廊下を歩き、一分も経たない内に目的の病室へ辿り着く。病室の番号の下にある『柊桐花』と書かれたネームプレートを確認すると何度か意識して呼吸をした。
心の準備ができると同時、病室の扉を開けて病室に入る。
そこには様々な器具に繋がれ、寝たきりになっている黒髪の少女がいた。
自分の顔が歪んだのを感じ、直ぐに元に戻す。病室に備え付けられている椅子を手に取るとベッドの直ぐ横へと付け、静かに腰を下ろした。
「……一週間ぶり、桐花」
柊桐花、それが眠り続ける少女の名前。
恋よりも一つ年上の幼馴染み。本来なら高校二年生になっているはずだった。
性格は明るく、何にでも興味を示す奔放さがあった。紗百合という名前の二つ年下の妹がいて、三人で一緒に遊んだりふざけあったりした仲でもある。毎日いろんなことをしたのはいい思い出だ。
しかし、そんな日常は中学二年生の冬休みに終わった。桐花が突如、目を覚まさなくなったのだ。
一番初めに気づいたのは紗百合だった。いつも起きる時間になっても起きないことから不審に思ったらしく、何回揺すっても起きないことを泣きそうな顔で俺に相談してきた。
恋はすぐさま病院、共働きで仕事だった桐花の両親へ電話をして部屋に駆けた。ベッドに横たわる桐花の肩を何度も叩き、大声で呼びかけても起きる気配が全くなかった。
直ぐに救急車が家に到着、桐花が搬送されていった。病院にはすぐに桐花の両親が来たが、そこで伝えられたのは衝撃のことだった。
検査の結果、桐花の身体は健康そのものだったのだ。
医師は精神的なことに原因があると考え桐花の両親、恋、紗百合に最近の出来事や調子はどうだったかなどを聞いてきた。それでも、結局原因は何もわからなかった。
ひとまずは経過観察として入院させることになったが、入院してから一か月後に桐花は都会の大きな病院に移されることとなった。大きい病院の整った設備の方が万が一何かあった場合に対処がしやすい、ということらしい。
桐花の両親もそれに賛成。恋と紗百合は、離れていく桐花を見ることしかできなかった。
そして恋は桐花が移された星宮総合病院の近くにある星宮学園を受験することを決意した。今では合格し、仕送りのおかげでなんとか生活できている。彼女の両親と紗百合には見舞い後連絡を欠かさないようにしている。
――しかし、どうしても桐花がこのまま目を覚まさないのではないかと思ってしまう。もう二度とあの日常が戻ってこないことを想像すると胸が痛くなる。
「実は昨日さ、人生で初めて寝坊しちゃって。ほんととんでもない思いをしたよ。あの時の感覚といったらそれはもう――」
でも、いつかまた笑顔で話せる日が来ると信じてる。
だからこそ恋は笑顔で、ここ一週間に起こった出来事を少女に語るのだ。
「――あ、もうこんな時間か」
話し続けていた中、ふと病室に備え付けられている時計を見ると時刻は一七時三〇分を過ぎていた。窓の外を見ると辺りは暗くなり、夜空には満月が浮かんでいる。
何を話せばいいか悩みながら、結局は全てを話してしまう。時間が経つのもあっという間だった。
「……そろそろ行くよ。早く目を覚まさないと、苦手だった勉強がとことん難しくなっていくぞ」
最後にからかうように告げ、座っていた椅子を片付ける。最後に桐花を一瞥し、静かに病室を出た。
病院内は静かで、歩く際の足音がやけに大きく聞こえる。
病院から出た恋は帰るためのバスを待ちながら電話をかける。数コールした後に電話が繋がったことを感じると話し始める。
「もしもし」
『もしもしお兄ちゃん!』
「お、紗百合か。まだおじさん達は帰ってないのか?」
『うん、二人とも遅番なんだって』
電話に出たのは紗百合だった。いつもは彼女の両親のどちらかが電話に出るのだが、今日は紗百合しかいないらしい。
「よし、それじゃ紗百合にお見舞いのこと話すから、ちゃんと伝えてくれよ?」
『あいあいさー! 一言一句間違えずに伝えるよ!』
最後に会った以来まったく変わらない様子に思わず笑いが込み上げてしまう。落ち込んでいた気分も少しマシになったところで、今日の見舞いの内容を話す。
『……そっか』
話し終わった後、紗百合から聞こえた声から、明らかに落ち込んでいるのが理解できた。
「ほんと寝過ぎだよな。あんまり寝てると起きてから勉強で痛い目見るぞーって言ってやったよ」
『ふふっ、お姉ちゃん勉強できないから。助けて恋、紗百合! って泣きついてくるよ』
「そこで妹にも助けを求めるあたり桐花だよな」
お互いが軽口を言い、笑い合う。それでもどこかから回っている実感はあった。
そうしていると恋の視界の端にライトの光が入り込んでくる。吊られて視線を向ければバスが近付いてくるのが見える。
「帰りのバス来たから電話切るよ。趣味はいいけど勉強も頑張れよ?」
『私は勉強できるからいいんですぅー! ……あ、そういえばニュースで見たよ。最近そっち物騒みたいだから気を付けてね?』
どうやら紗百合も星宮市で起きている行方不明事件を知ったようだった。心配してくれる声は優しく、心から心配してくれているのだと分かった。
「おう、気を付けるよ。それじゃあまたな」
『またね! たまにはお見舞い報告以外でも電話かけてきてね!』
「はいはい、わかったよ」
苦笑いして返事をすると電話を切りスマホをポケットに突っ込みバスに乗り込み、ぽつぽつと人がいる中空いている前方の席に座る。
扉が閉まり動き出したバスの中、恋は自分の頬を軽く叩いた。
「……よし、また一週間頑張ろう」
言葉に出して気合を入れなおす。桐花が目覚めたときに格好悪いところは晒さないように日々を頑張るのだ。
車窓を見ると、そこには宵闇に負けじと輝く街の様子が映されていた。
恋が立ち去り、規則的な機械音だけが鳴る病室。
カーテンの開けられた窓から病室に月の光が差し込み、病室内のベッドが影を生み出す。
時間が経つごとにゆっくりと伸びていく影が病室の壁へと付いた瞬間、音を立てながら影が蠢き始めた。
不規則に蠢いた影だったが、数秒後には影の動きが不自然なまでにぴたりと止まる。
次の瞬間影が盛り上がり、ソレはゆっくりと姿を現した。
まるで影がそのまま浮き出てきた言うほどに全身が黒く染まっており、フード付きの大きな外套に身を包んだ人間のようだった。月の光の影響か、フードから覗くはずの顔は闇で覆われていて一切視認できない。身体にあたる箇所は赤い線が幾何学模様のように走っており、不気味に脈動している。
人型の影は病室にて眠る少女に視線をを向ける。しかしそれも一瞬で、次に病室の扉へと視線を向けると移動を始める。その動きは歩くといったものではなく、浮遊しているようだった。
そのまま扉へとまっすぐ進んでいくと、黒い影の身体が扉を貫通。そのまま病室から姿を消した。
――病室には、規則的な機械音が鳴り続いていた。