第9話 暗影を掻き分けて
『霜冥の殿』調査、二日目。
時刻は午前八時五〇分時。『霜冥の殿』に葵、エリザヴェータ、ノエルが到着する。
空は清々しい晴れ模様で、雲一つない青空が広がっている。朝食を食べながら見た天気予報によると今日一日は晴れとなっていたため、天候面での心配はしなくていいだろう。肌で感じる空気も心地良く、キャンプなどの野外活動を行うならこれ以上ない条件が揃っていると言えた。
待ち合わせの十分前にやってきた葵たち。『霜冥の殿』門前には日が昇ってからそれほど経たない内に出立していたリュドミラが既に待っていた。その背丈を優に超す茶色の革張りケースを肩にかけながらも立ち姿に歪み無し。天から垂れる糸にぴんと張られたような姿勢は聖職者の振る舞いとして満点と言えた。
葵は一足先に車から降り立ち、リュドミラに向けて小さく手を振る。
「リュー、今日もよろしく」
「おはよ、シュトーカっ! 気を付けて頑張ってね!」
「ん、ありがと。……そのケースは?」
葵の視線の先にはリュドミラが持つ巨大な箱。デザインはシンプルな直方体。スライドを七番まで伸ばしたトロンボーンがそのまま入りそうなほどの高さを持つそれは、否が応でも興味を惹きつけられる。
「ああ、これ? 私が使う聖具が入ってるの」
「……聖具?」
「聖具っていうのは聖教会が認めた奇跡を起こせる道具のこと。こう言っちゃうと不敬かもしれないけど、魔法使いが使う魔道具と意味合いは一緒だよ」
「これが分かりやすいかな」そう言ってリュドミラは首から掛かった白銀の十字架を手に取って見せる。「これに魔力を通すと込められている奇跡が使えるの。聖教会では一番ポピュラーな聖具だね」
聖教会の象徴ともされる十字架。信仰者なら誰もが身に着けているので、そこに不自然さは無いだろう。
とはいえ、誰も彼もが使えるという訳でもなく。
車の運転に免許が必要なように、聖具を扱うには聖教会が執り行う厳しい審査を乗り越える必要がある。一般信徒に配られている十字架にはそういった奇跡は施されていないのだとか。
「なるほど……勉強になった。ありがとう」
「どういたしまして! 他に分からないことがあったらまた聞いてっ」
「うん。その時はお願い。……それにしても、リューの聖具は重そうだけど」
「あはは。今では慣れちゃったから全然だよ」
からからと笑うリュドミラ。実際意にも介してない様子から本当のことだと理解できる。リュドミラにとってはごく当たり前の、それこそ日常の一部となっているのは想像に難くなかった。
「真面目な話をしてるわね」そうこう会話をしていた二人に割って入る声。目を向ければ荷物を手に背に運ぶエリザヴェータとノエルがやってきていた。かけられた言葉からして会話内容は聞こえていたらしい。
「あっ、ごめん。他に運ぶ物ある?」
「もう無いわ。代わりに帰る時はお願いね」
「ん、任せて」
友人との会話にかまけて荷運びを任せきりにしてしまったのだ。調査後の片づけ等は当然手伝わなければならない。
エリザヴェータは荷物を下ろし、悠々と背を伸ばす。そしてリュドミラに
「リュドミラ、頼んでた物は持ってこれた?」
「はいっ。ちゃんと許可が下りましたよ。どうぞ」
リュドミラが差し出したのは一つのランタン。古めかしいながらも神秘的な気配を感じさせる意匠が特徴的。底部に火を付ける部分はなく、ガラスも密閉されている。見た限りでは電気式ランタンのように思えた。
エリザヴェータは受け取ったランタンをぐるりと目視で検めると「ありがと」と満足そうに感謝を告げる。
一方でリュドミラの表情は優れない。不安や憂慮といった心境が滲む面持ちでエリザヴェータを見つめていた。
それに気づいたエリザヴェータは「大丈夫よ、心配しないで」と優しい声色で諭す。「……はい」とリュドミラは納得しきれない返事ながらも引き下がった。
葵は今まで見たことがなかったやり取りに一時目を奪われるも、意識は直ぐに好奇心が進む方へと向けられる。
「お姉ちゃん、それは?」
「これは『巡礼灯』。聖教会の聖具の一つよ。暗闇を照らすのはもちろん、寒さを防ぐ力があるの。……頼んだ私が言うのもなんだけど、よく許可が下りたわね? 結構渋られたんじゃない?」
問いに対してリュドミラは「あはは……」とから笑い。その様子を見れば何があったのか想像に難くない。苦労のほどが読み取れた。
「でも、調査する皆さんの安全には変えられませんから。根気よく話したら上層部の方も分かってくださいました」
「ああ……それはまた」
「むっ。何ですか、その憐れむような目は」
「べっつにー? あなたの”根気よく”とか、対応した人が大変だっただろうなって思っただけ」
「……リューリカさん? それではまるで私が、相手が諦めるまで止めないしつこい人間だと言っているように聞こえるのですが?」
「あら、しっかり自認できてるのね。安心したわ」
「――そこに直りなさい! 昔から思っていましたが貴女の言動は目に余ることが多すぎます! その性根、今日こそ叩き直して差し上げますっ!」
豹変したリュドミラは怒髪天を衝かんとばかり。対してエリザヴェータは「きゃーっ、怖いシスター様だわー♪」と黄色い声を上げて逃げ回る。かつて葵が何度も見た光景が時を超えて再び繰り広げられていた。それを眺めるノエルも「二人とも仲良いね」と微笑んでいる。
過去に倣うのなら自然に終わるまで見守ってもいいのだが、今日はこれから調査活動になる。ここで下手に体力を消耗しないほうが賢明だろう。
「リュー、リーザお姉ちゃんも。あんまり動きすぎない方がいいよ」
「…………、………………ふぅ。シュトーカに助けられましたね」
「あらやだすっごい目付き。でも止めてくれるなんてシスター様ってばお優しいのね」
「言っておきますけど、今は収めるだけですからね! 調査が終わったら覚悟しておくように!」
「はぁーい」
「くっ、なんて舐めた態度を……!」
わなわなと肩を震わせ歯噛みするリュドミラ。気楽そうに口笛を吹くエリザヴェータを鋭く睨みつける眼は忌々しさを隠そうともしていない。とはいえそれは決して憎しみなどではなく、親愛の延長線上の感情表現。だからこそ険悪な雰囲気にはなっていない。
とはいえシスターとしてそれはいいのだろうかと思わなくもないが、それは心の内にそっと仕舞っておく葵なのだった。
そうこうしていると、時刻は九時となった。
「さて、そろそろ始めましょうか。準備はいい?」
「ん、大丈夫」
「オッケー!」
「私もよし、と。それじゃリュドミラ、後はお願いね」
「……気をつけてください。事前の打ち合わせ通り、其方から要請があった場合、または此方側が危険と判断した際には救助に向かいます」
「ええ。それじゃ行ってくるわ」
エリザヴェータは地面に置いていたバッグから道具を引っ張り出す。
それは一般的なトランシーバーに見える機械が二つ。ただ普通と違うのは、機械底部から白銀色の長いケーブルが伸びていて二個一組となっていること。ケーブルはかなりの長さを持っているようで、金具で幾重にも輪状に束ねられたそれの重厚感から一目で分かる。
『霜冥の殿』はあらゆるエネルギーを吸収する性質を持っていると予想されている。教会側が調査に用いたドローンが操作を受け付けなくなったことからもほぼ間違いない。
つまり一度深みに立ち入ったのなら、携帯端末といった通信手段が機能しない可能性が高い。何か危急の事態に遭遇しても助けを呼ぶことすら出来なくなってしまうのが、『霜冥の殿』の探索において大きな課題だった。
これを解決するために考えられた方法は実にシンプルなもの。つまるところ、無線が駄目なら有線を使えばいいのだ。
そこでエリザヴェータが用意したのは魔法式通信機。使用者の魔力を吸い上げて駆動し、ファイバーケーブルを通して音声を交わすことが出来る代物だ。
ただし、並みの通信機ではない。活火山や氷原といった極限地帯でも問題無く使用可能な極めて高い耐久性を持つ逸品。その性能は以前から使っているエリザヴェータが証明済みである。
門の傍には地面に深々と突き立てられた長い杭があり、複数の支柱とロープでもって厳重に固定されている。前日には無かったので聞いてみると、これもまたエリザヴェータの注文で教会側が用意したものらしい。葵が試しに杭を握って揺らしてみたが、かなりの力を込めてもビクともしなかった。
エリザヴェータは片側の通信機のケーブルを杭へと結び付け、強く引っ張っても解けないことを確認する。簡単そうに見えながらも高い強度を発揮していることは明らかで、一連の流れを見ていた葵は感心するばかりだった。
なぜこのようなことをしているのか。それは通信機のケーブルを命綱としても利用するからだ。
この計画を聞いたノエルから「そんなことして大丈夫?」と心配の声が上がった。当然ながら葵も同じ感想を抱いた。
対してエリザヴェータは「大丈夫よ」と安心させるように笑う。想定されている使用方法の内で、今回と同じく命綱として使ったことは何度もあるとのこと。更なる実例として懸垂下降にも使ったこともあるのだとか。またケーブルを束ねる金具には一定の速度を超えてケーブルが延ばされるとそれを止めるストッパー機能があることも加えて説明される。
一抹の不安は残りつつも、他に何か別案を提示出来るわけでもないので、エリザヴェータを信じて身を預けることにした。
杭側の通信機を担うのは監督役のリュドミラ、もう片方は調査班の葵たち。先頭を行くエリザヴェータが通信機を所有し、三人は『霜冥の殿』の門を潜り抜ける。
エリザヴェータ、葵、ノエルという順番で縦一列に並ぶと腰に装着した器具をケーブルに繋ぐ。慣れていない葵はエリザヴェータの手を借りながらも無事に装着。それぞれの状態を目視及び呼称確認した。
さながら登山に挑むようだが、あながち間違ってもいないだろう。何せ未知の遺跡を探索するのだ。それだけ危険が伴う可能性があるのだから用心に越したことはない。
「――GLORIA HIC」
エリザヴェータが短い聖唱を言祝ぎ、祈りを捧げる。
それに応えるように『巡礼灯』が白色の光を発し、暗がりと寒さが嘘のように退けられた。
葵は改めて、照らされた地下への入り口を観察する。
黒い洞は高さ、幅共に二メートル強。身近な物に例えるなら、ショッピングモールなどにある入口と出口が別で設けられているタイプの地下駐車場だろうか。底が計り知れないことを除けば、日常の中でこれ以上に合致するものもない。
――ここを、降りていく。
暗闇とは古より人類が恐れたモノ。死と隣り合わせの象。
文明の光によって克服したかのように錯覚しがちだが、その本質は一切変わりなく、寧ろ狭まっただけ色濃くなってすらいる。
そんな暗闇を掻き分けて行かんとする――なんと無謀で、なんと愚かな行為か。
けれども、そうやって道を切り開いてきたのもまた、人類という生き物だ。
原初の男女は知恵の木の実を食べたことで楽園から追放された――葵でも知っている聖書の一幕。
もしも本当に、人類が聖書によるところの原初の男女から連なる生命ならば。
なるほど確かに、人類は罪を背負うに相応しい。命の危機を自覚しながらも未知を切り拓くという行為に、どうしようもなく高揚してしまうのだから。
そして立花葵という少女もまた、そんな愚か者の一人だった。
狂気に身をやつしていると謗るのならば謗ればいい。
それでも、その歩みを止めることは決して無い。
「……………ふぅっ」
葵から発せられる短くも細い吐息。心の座りを整えるために行われた小さな儀式は、静かな空間では葵が思っていたよりも大きく聞こえた。
怖くない、などと嘯くことはできない。恐怖とは動物が持つ自己保存の本能。寧ろ無い方が生物として不健全だろう。
だからこそ、重要なのは恐怖との対話。隣人としてどのよう手を繋ぎ、共に歩いていくか。
これといった答えを葵は出せてはいないが、今回の調査はその答えを見出す切っ掛けになるかもしれない。そしてそれは自身の成長と切っては切り離せないものだとも覚っていた。
そうして考え事にふけっていた時、葵の背がとんとんと軽く叩かれる。それは全くの意識外からの刺激。半ば反射的に振り返れば、ノエルが春の日差しの如き笑顔を浮かべて「リラックス、リラックス」と一等優しい声がかけられる。それはさながら幼子へ言い聞かせるようだった。
すっと身が軽くなったような感覚が葵に。どうやら自身で思っていたよりもずっと気負っていたらしい。緊張感を持つことは確かに大切だが、それでも程度がある。何事も過ぎれば毒となるように、気を張り詰めすぎれば視野錯綜などに陥ってしまうのは言わずもがなだ。
「ありがとう」と感謝を告げればノエルは「どういたしましてっ」と軽やかな返答。こういった状況の慣れに流石は先達と敬意を抱いた葵だった。
そして、遂にその時はやってきた。
「それじゃあ、始めるわよ」
掛け声を発したエリザヴェータが階段を降り始める。微かな恐れも感じさせない普段通りの歩みだった。
事前に決めた通り、階段換算で七から八段程度の間隔を空けて葵が続く。壁面を手すり替わりとして、静かながらも鮮烈に刻まれる一歩目。靴裏から伝わってきたのは何とも奇妙な感触だった。
石畳を踏んだにしては沈み込むようで、されど張り板を踏んだにしてはしなりが無い。足を取られないように最大限注意を払い、かつ歩みを止めることなく足元に目を向ければ、先ほどまで立っていた入口と同じ材質で造られているように見える。
早々に降って湧いた疑問だったが、その答えは直ぐに得られた。段々と歩を進めるに連れて、壁画を観察していた時と同じ歩行感覚が戻ってきたからだ。
平時と異なる精神状態、感覚神経の昂りによって引き起こされた現実との乖離。とはいえ自力で立て直せたのは僥倖と言えよう。事前にノエルから声をかけられていなかったらそれこそ事故が起こっていたかもしれない。
葵は深めの呼吸を一つ置き、改めて気を引き締めつつ肩の力を抜く。先行くエリザヴェータの明かりを頼りに、底知れぬ暗影を下る。




