第19話 瞑目
「ああ、首裏にあるやつ? 制御装置の接続部だよ。大人たちが言ってた」
「制御装置……? 接続部って……」
「能力者の活動を強制的に停止させるためにあるんだって。まあ私のは壊れてるんだけどね」
「そう、なの?」
「じゃなきゃ研究所から脱出なんて出来ないよ。外に出たい、って言ったら協力してくれたの。なんでやってくれたのかは分からないけど、そのおかげで自由になれたから」
はにかむエマに対し、凪の内心は穏やかではなかった。
彼女が置かれた状況は無憶から聞いた。それを踏まえても研究者たちがそんなことをする理由が思い当たらない。利益よりも不利益の方が大きいのは明らかだ。
良心の叱責か、はたまた別の思惑があるのか。風見化学工業という組織はどうやら一枚岩ではないらしい。
「ねえエマちゃん、ちょっと触ってみてもいいかな?」
「いいよー。優しくしてね?」
「もちろんだよ。それじゃ失礼して」
凪の指先がエマのうなじにある鍵穴へと触れる。されど見えない壁があるように進めない。ボディペイントの一種だと言われれば信じてしまいそうだが、そこには温度など微塵も感じられない。
特殊な工程を経る、もしくは特定の道具を使用することで制御装置にアクセスする。それが魔女である凪が出した結論だった。
「……よし。ありがとね」
「どういたしまして! 満足できた?」
「それはもう。そうだ、お礼に髪洗ってあげよっか?」
「ほんと? やってやって!」
「任されましたっ」
凪はシャワーを手に取る。エマの体に纏う泡を強すぎない温水で流し、そのまま髪を充分に濡らす。普段自身が使っているシャンプーでマッサージするように優しい手つきで洗い、リンスで補修をすれば、最後に乾いたタオルを巻いて完成だ。
「こんな感じかな。自分でやりたくて分からなかったらまた聞いてね」
「はーい。凪って髪洗うの上手だね。すっごく気持ちよかった!」
「ふふ、ありがと。それじゃあ私も洗っちゃうから、エマちゃんはお風呂入ってみて?」
「う、うん。分かったっ」
温水で満たされた湯船からは白い蒸気が立ち上がっている。
喉を鳴らすエマ。手だけを突っ込んで温度を確認すると、ゆっくり足先から浸かっていく。湯船内の段差に腰を下ろした半身浴がちょうど良かった。
「大丈夫そう?」
「ん、このくらいなら平気だよ」
「それなら良かった」
凪は慣れた手つきで体を髪を洗う。泡をしっかり落とし、エマと向かい合う形で肩まで湯船に浸かる。「はぁぁぁ」と気の抜けた声が浴室に反鏡する。
「凪、お風呂好きなの?」
「大好きだよ~。こう、心が洗われてるっていうかさ。凄く落ち着くんだよねぇ……」
「それは分かるかも。初めてだけど、ほっとする。体が温かくなるからかな? お風呂って思ってたよりもずっと良い物なんだね。……そういえば、みんなってどうやってお風呂入ってるの? 人数が多いと待ち時間長くなりそうだけど」
「子供たちは大浴場を時間割りで使ってるの。私たち魔法使いは普段こっちのお風呂で、一週間に一回大浴場を使わせてもらってるんだ。ここよりもうんと広くて、みんなとお喋りしながら入れるから楽しいよ」
「確かに! こうやって凪とお喋りしてるの楽しい」
「もうっ、そんなに褒めても魔法しか出せないよ?」
「それはそれで見てみたい! 凪ってどんな魔法使うの?」
「じゃあ実際使ってみようか。しっかり見ててね」
凪は浴槽から上がり、手にした風呂桶にお湯を溜める。湯気を掻き消すようにふうっと息を吹きかけると、あら不思議。揺らいでいた水面が動かなくなってしまった。
そう。四十度弱の温水が、一瞬の内にして芯まで凍り付いたのだ。
エマは桶の取っ手を掴み、側面をそっと撫でる。
「つめたっ。ちゃんと凍ってる!」
「これに関しては専門だからね。どう、びっくりした?」
「うん! 恋たちのもそうだったけど魔法って不思議だね。まあそんなこと言ったら私の超能力もそうなんだろうけど」
「超常現象を引き起こすことには変わりないからね。名前と仕組みがちょっと違うだけで本質は同じ物だよ」
会話もそこそこに二人は湯船から上がる。肌に残る水滴を拭き取って浴室から出ると寝間着を身に着け、凪はドライヤーでエマの髪を乾かしていく。
丁寧に優しく、かつてきぱきと。水気が飛んだ髪は絹糸のように美しかった。
「はい、おしまいっと。……そんなに髪触ってどうしたの?」
「なんかいつもと違うの。すっごくサラサラしてる!」
「ああ、シャンプーはともかくリンスまで使ってなさそうだしね。女の子の髪は大切な物だから、これからはしっかりケアしようね」
凪は自身の髪を乾かし終え、ドライヤーを元の場所に片付ける。廊下に出て、少しばかり歩いた先に寝室はあった。
小さな本棚、机とそれに侍る椅子、ライトスタンドが設置されたベッドなど、全体的に落ち着いたデザインの家具が多い。
中でも、エマが目を付けたのはベッドだった。
「研究所のベッドよりおっきい! それにふかふかしてる!」
「毎日使う物だからこだわってるんだ。今日はいっぱい動いて疲れたでしょ。ちょっと早いけどもう寝よっか」
「うん!」
天井の照明を落とし、凪とエマは小さな明かりの元で寝転び向かい合う。セミダブルのベッドは少女二人でも余裕があった。
「誰かと寝るのも初めて?」
「うん。いいねこれ。胸の奥があったかくなる。よく眠れそう」
「そっか。なら良かった」
「……ねえ、凪は大変じゃないの? 私の面倒見るの」
「んーん、全然。どうしてそう思ったのか聞いても良い?」
「だって、客観的に見ても私って厄介事の塊だもん。この風力操作だって、自分の一部なのに分からないことが多いし。何かあった時のために、凪が一緒にいるんだよね?」
それは単なる疑問にあらず。既に分かっていることを確認する問いだった。
事実エマの指摘は正しい。緊急事態が発生した場合を考え、沈静化に最も適している魔法使いの凪が常に同じ空間に居る。
特殊な出自と生育過程。それが齎したのは卓越した観察眼、あるがままを認め受け止める精神と年齢にそぐわない思考能力だった。
そのことを証明するかのようにエマの瞳には揺らぎというものが無い。暗闇に浮かぶ緑色の双眸は無機質で寒々しい。
幾ばくかの静寂を経て、視線を一身に受ける凪はゆっくりと口を開く。
「確かにそうだよ。荒事を収めるなら一番適役っていう自負もある。でもそんなことを考えるより先に、エマちゃんのお世話をしたいって立候補してた」
「……それは、どうして?」
「私ね、子供が好きなんだ。特に子供の笑顔が大好きで、ひたすら愛おしいと感じる。だからこそ、エマちゃんがこれから笑って過ごせるようにしてあげたいって思ったの」
そう語る凪はなんとも複雑な顔をしていた。
痛々しくて、暖かく。華々しく、それでいて冷たくて。
笑っているはずのに、どことはなく泣いているように見える。
エマに理解できたのはたった一つ。凪の口より紡がれた言の葉こそ、彼女の根幹を成すモノだということだけだった。
「そんなわけで、一緒に居て面倒だなんて思わないよ。確かに大変なことはあるだろうけど、それも楽しみの一つだもん」
「……そっか。ありがとね、凪」
「はい、どういたしまして」
礼を述べる凪。その表情が湛えるのは澄み渡る光を思わせる柔らかな笑み。
そこでエマは、胸を打たれるような感覚を得た。
笑顔。人間という動物が数多持つ顔、その内の一つ。喜びを表すもの。
以前まではその程度の認識。だけれどこれからはそうもいられそうにない。
――だって、こんなにも綺麗なのだから。
混ざり物が塵一つとて介在しない凪の笑顔を前にして、エマは初めて外の世界を見た時と同種の衝撃を受けたのだ。
「お喋りし過ぎちゃったね。そろそろ寝よっか」
「……ぁ、うんっ」
聴覚を刺激され意識を戻すエマ。ライトスタンドの電源が切られ、部屋には暗闇の帳が降りる。
「おやすみエマちゃん。また明日」
「……うん、おやすみ」
挨拶を皮切りに寝室が静まり返る。
エマは今日という日の出来事を自然と思い返す。
研究所という檻から解き放たれた。外の世界はガラス窓から覗くよりも一段と鮮やかで、初めての体験はどれも筆舌に尽くしがたい。
視線を動かした先には自らの力で獲ったボーラちゃん。クレーンで引っ掛けて入手口に無事落ちて来た時の達成感は格別だった。
ゲームで勝った時は気分が高揚した。逆に負けた時は勝った時より何倍も悔しかった。
外の世界の食べ物はどれも味が濃くて、それが凄く美味しく感じた。でも栄養価の高さは何となく察したので、食べ過ぎには気を付けないとと後で思ったのは自分だけの秘密。
全てがあの白い箱の中に居ては一生得られなかったであろう物たち。至高の宝物だ。
何もかもが新しく、何もかもが夜景のように輝いて見える。
急激に睡魔が襲ってくる。自分と違う温もりが隣にあるだけで、こうも眠たくなってしまうものなのか。これもまた一つ貴重な思い出が増えた。
明日で待っている出来事に思いを馳せ、エマの瞼が意識と共に緩やかに落ちていく。
――無意識に抱いている想いに、未だ気付かぬまま。