第3話 柳に風
「あぅ、いたた……」
少女から発せられたのは鈴を転がすような声。それなりの勢いでぶつかったからか反動も相応だったようで、痛みに喘ぎながら腰の辺りを自らの手で擦っている。
ただ、一つだけ問題があった。
「あっ、ご、ごめんなさい! 前を見てなくて……あれ? なんでそんなに顔逸らしてるんですか?」
謝罪途中ながら不思議そうに首をかしげる少女。
しかしそう思うの無理はない。緑眼に映る恋は顔を真横に向けている。何か気になるものがあるというよりは、必死に目を背けているように思えた。
投げかけられた問いにどう答えるべきか悩んだ恋だったが、そのままというのも色々まずい。ここは正直に、それとなく伝えることにした。
「えっと、その、早く脚を閉じた方が良いと思う」
「……? 脚――」
少女は恋からゆっくりと視線を下ろしていき、自らの下半身を見て凍ったように固まる。
その体勢は尻もちをついたまま時のまま。転んだ勢いで投げ出された脚が半開きとなっていてしまっていた。
「――ッ!?」
シュバッ! と風切り音が立つほどの素早さで脚を閉じ、閉じた膝をぺたんと床に下ろす。俗に女の子座りなどと呼ばれる座り方だ。
「………………見えました……?」
恐る恐るといった様子の問いかけに対して、ただ気まずそうにしながら首肯を返した。
視認してからすぐさま目を逸らしたため本当に一瞬ではあるのだが、確かに見てしまった。開け放たれたフレアスカートの奥にある、パステルイエローの布地を。
ここで気の利いたことでも言えれば良かったのだが、生憎そんな機転も技能も持ち合わせていない。あるがままを語る他なかった。
「あぁ、そういうことですか。お見苦しい物を見せてしまいすみません」
少女が露わにしたのは、意外にも恥じらいなど欠片も見られない淡白な反応だった。
少女は軽々と立ち上がるとスカートを払って整え、ミニバッグを肩に掛け直した。
おそらく許してくれる、ということでいいのだろう。あまりにもあっさりした対応に此方の方が不安になってしまう。
合わせて目視確認をしても外傷の類いは特に見当たらない。脚元もしっかりとしており、不自然さは見られなかった。
あるとするなら服に隠れている部分か。
「どこか打ったとか、そういうのは無いか?」
「私は平気ですっ。むしろあなたの方こそ大丈夫ですか? 勢い良くぶつかっちゃったから……」
「全然大丈夫。これでも鍛えてるから」
実際、恋がよろめいた原因を占めるのは全くの意識外だったことが大きい。ぶつかったことによる衝撃自体は少女が軽いためか存外に弱く、痛みも瞬間的にはあったものの既に引いている。
そうした壮健な様子を見て、少女はほっと一息つくと共に胸を撫で下ろす。強張っていた表情も幾分か柔らかくなっていた。
和やかな雰囲気になりつつある場に、事のいきさつを見守っていた清蔭が参加する。
「恋、怪我は無いか?」
「問題ない。意外と心配性だな?」
「茶化すなよ。これでも結構マジで気にしてるんだぜ」
「そっか、ありがとな。この通りピンピンしてるから大丈夫だよ」
回していた思考を中断。おどけて笑って見せると、清蔭は溜め息を零しながらも薄い笑みを浮かべた。
相手も自分も怪我がないことは確認済み。後はこの小さな事故を締めくくるだけ。
そうして別れを切り出そうとしたその時、『ぎゅるるる』という飢えた獣の唸り声にも似た音が明瞭に聞こえた。
清蔭を見ると意図を察してか首を左右に振る。どうやら彼ではないらしい。
――となると、残るは一人しかいない。
二人の視線が向かった先には、自身の腹部を両腕で抱き締めるようにしている少女がいた。心なしか少し震えているようにも見える。
「……あ、あの…………ご飯を、食べさせていただけないでしょうか…………」
少女は美麗な顔に熱を溜め込みつつ、消え入りそうな声でそう言った。
時刻は一二時ジャスト。
先程利用したフードコートの角席に腰を下ろしている恋と清蔭は、その頬を若干引きつらせていた。
「はぐはぐ、ングング……ッ、美味しい……ッ!」
原因は件の少女。爛々と瞳を輝かせ、今も一心不乱に天ぷらうどんを啜り続けている。
庶民の食べ物を口にしながらも貶められない魅力。なるほど、容姿に秀でた者が何をやっても映えるとはこのことかと実感できる。
ただ一つ、四人掛けのテーブルを埋め尽くさんばかりにお盆と空皿が並んでいることを除けばだが。
「ラーメン、かつ丼、たこ焼きにハンバーガー、そんでもってうどんと来た。よくもまぁこんなに食えるモンだな。胃袋がブラックホールで出来てんのか?」
「例えとしてそれはどうなんだ。いや、そう思うのも仕方ないけど」
最初は恐る恐るといった様子で出された食事を見つめていた少女だったが、勇気を振り絞ったように一つ口にした瞬間全てが変わった。
まるで人が変わったかのように一気に食べ進め、あれよあれよと器が空っぽに。それだけでは満足できなかったのか、気になる食べ物を片っ端から注文して現在に至る。
見ているだけで胸やけを起こしそうな光景。幾ら育ち盛りの男二人といえどもこれには面食らうしかない。
そんな彼らを差し置き、咀嚼を終えた少女。満面の笑みを湛えながら立ち上がると、向かった先にあったのはソフトクリームを売っているブースだ。
どうやら食事は満足したようで、これから食後のデザートに移るらしい。遠目ながらメニューとにらめっこでもするような顔が確認できる。
その様子からして暫く帰っては来ないだろう。漸く本格的に話せる状況が整った。
「それで、ぶっちゃけどう思うよ。俺的には怪しさ一二〇パーセントなんだが」
「……同感、だな。あんまり疑いたくはないけど、こうも見せられると流石に」
そう、少女には不審な点が複数見受けられた。
一番大きかったのは常識の欠如。料理を注文する際に料金を支払うことを知らなかったり、箸を握りこぶしで持ったり、レンゲだけで麺を食べようとしたりと枚挙に暇がない。
子供だから、外国人だから、たまたま知らなかったから――幾つかの理由は考えられる。しかしそれらを考慮に入れたとしても、違和感を感じる行動が多いのも事実だ。
特に財布や通貨の存在を知らなかったのは奇怪に尽きる。身なりを見るに山奥の自給自足を行っていた可能性も低い。
そしてもう一つ。これは武術を習っていた恋だからこそ気付けたことだが、少女はあまりにも左右対称的過ぎた。
顔のパーツや体つきだけではない。体軸や重心の動き――少女を構成するありとあらゆる要素が、体の中心線を基準として綺麗に対称的だった。
それこそ、以上を感じてしまうほどに。
人間という生き物は意図せず左右非対称になってしまうものだ。手足を使う場面があれば利き腕利き足を無意識に優先して使うし、立つだけでも左右どちらかの脚に重心を預けてしまうことも珍しくない。
そもそも人体に収められている臓器が左右非対称だ。歪んでしまうのも必然と言える。
習慣や行動によって人体が左右非対称になってしまうエピソードの例として、スポーツのテニスが挙げられる。
テニスラケットという物は存外に重く、幾度となく振っていると片腕の筋肉だけが肥大化してしまうといったことが起こる。これは無意識に利き腕を酷使してしまうことによって、いつの間にか片腕だけ重点的に鍛えらてしまうがために発生する現象だ。
これはあくまで極端な例だが、小規模ながら同じことが誰にでも起こっている。意識している人間はそれこそプロのスポーツ選手や武術修練者といった者たちに絞られるだろう。
だが、少女にはそういった左右非対称を解消するために鍛錬した形跡が一切ない。あくまで外から見ただけに留まるが、細かい所作や立ち振る舞いにすら一切の偏りを感じさせないのだ。
まるで精巧に作られたロボットか生まれたての赤ん坊。機械のように設計図から人間を造ればこんな風になるのでは――そんな薄ら寒い夢想をしてしまうほど、少女はひたすらに真っすぐだった。
どうしたものかと悩んでいると、迷いの森に立ち込める霧を払うが如く清蔭が切り出した。
「まっ、難しいことは置いておこうぜ。とりあえず今はあの子が怪我しないように見張っとくのが吉だろ」
「そうだな。色々物知らずだし、何かあったら目も当てられない」
そうした打ち合わせを終わらせたところで、バニラと抹茶のソフトクリームを両手に持った少女が帰ってくる。椅子に座るなり先端にかぶり付き、口に広がる甘味に頬を緩ませた。
それでも今まで発揮してきた食欲の前に氷菓子など有って無い様な物。軽々と胃の中に収められていった。
「ふぅ……。あっ、ごちそうさまでしたっ! 美味しい物いっぱい食べさせてくれてありがとう!」
「どういたしまして。財布は軽くなったが、それだけ幸せそうに食ってくれりゃ文句は無い。その代わりと言っちゃなんだが、色々と聞いても良いか?」
「うんっ、だいじょーぶ! 『恩に報いる』ってヤツだよね! 何でも聞いてっ」
そう言って胸を張る少女。こちらが何か邪なことを考えているなど疑っている気配は微塵もない。最初にあった他人行儀のやり取りもすっかり消え失せている。
それ幸いと、清蔭は遠慮なく切り込んだ。
「んじゃまずは自己紹介からいこうぜ。俺の名前は綾小路清蔭、今年で一六。こっちはダチの櫻木恋で、同い年だ」
「二人とも年上なんだ! あやのこうじきよかげ、さくらぎれん……えっと、名前はどうやって書くの?」
「もしかして漢字のことか? ちょっと待っててな」
清蔭はスマートフォンを取り出すとメモ帳を立ち上げ、『綾小路清蔭』『櫻木恋』と打ち込めば少女に見せた。
「ふむふむ、なんだか難しい漢字を使うんだね。……あっ、次は私の番だよね。私の名前はね、エマ・アネモイ・ブラウンノットっていうの。長いからエマって呼んで。せい――んんッ、今月で十一歳になるんだ」
「となると小学五年生か。それにしても――宇宙、か。いい名前だな」
「そう? えへへ、ありがとっ! あなた達の名前も素敵だと思う! ちょっと怖いのが清蔭で、そっちの冴えないのが恋! うん、ばっちり覚えた!」
名前を褒められたことが余程嬉しかったのだろう、エマと名乗った少女はぱぁっと笑顔を咲かせる。それでいながら発せられる言葉は鋭利な棘となってぐさりと刺さった。
当の本人はきょとんと首を傾げている。無知ゆえに存在する残酷さは“純真無垢”という四文字を見事に体現していた。
「そうか、それなら良かった。……ところでエマ、お前さん今日はどうしてここに来たんだ? それも金も持たずに。もしかして親御さんとはぐれたりしたか?」
「ううん、私一人だよ。出発の時は手伝って貰ったけど、ちゃんと一人で来れたの。ここに来た理由だけど、色んな物がいっぱい詰まってるっていうショッピングモールが見たかったから! 確かこういうのを“社会見学”って言うんだよね!」
すらすらと質問に答えていくエマ。しかしその言葉選びは少々――いや、かなり独特なもの。ショッピングモールに出かけることを“社会見学”と称するなど初耳だ。
だが、同時に納得できることもあった。施設を見て回るだけなら確かに金銭は必要ないだろう。移動に関しても自分たちのように近場に住んでいるなら歩くだけで事足りる。
――かなり個性的な子だな。最近の小学生ってみんなこうなのか?
なにぶん恋にとって小学生時代の思い出はあやふやだ。
無論、明瞭に覚えていることもある。孤児院から柊家に引き取られたこと。更にその前には山深くに建てられた寺院に一時期お世話になったこと。
そして――家族が全員亡くなったこと。
しかし、覚えている記憶に比べて霞がかったように思い出せない物の方が多い。代わり映えしない日常は得てして記憶の底に埋もれてしまう物だ。
ただ一つ言えることがあるとするなら、エマのように独特の空気感を持つ子供は何処にでも居た。桐花がまさにその筆頭であり、そういった人物は子供でなくとも何人か知り合いに存在する。
改めて考えれば特別なことでもない。十人十色、三者三葉。人はその数だけ違う生き物なのだから。
「――ほーん、それなら一緒にゲーセン行くか? 遊びの達人であるこの俺が面白いモン沢山教えてやるよ」
「本当!? 行く行くっ! 楽しみだなぁ~!」
二人の声によって意識が現実に引き戻される。会話も終盤だったようで、どうやらエマはゲームセンターに同行することになったらしい。
「いやちょっと待て、どうしてそうなった?」
確かに会話を聞かず物思いに耽っていた恋も悪い。しかし、先ほどまでそれとなく別れようとしていた筈ではなかったか。
困惑混じりの問いを向けられた清蔭はさも当然のように答える。
「なんだ聞いてなかったのか恋。エマはどうやらゲームを知らないらしくてな。百聞は一見に如かずなんて言うが、何事も見るだけじゃなくて体験することも大事だろ? 『俺たちこれからゲーセンに行くけど一緒に来るか?』って言ったら二つ返事だったぜ」
「そうかそうか――――いや、なんで?」
過程を聞いて素直に納得とはならなかった。
本当に分からない。一体どう会話が弾めばそのような結果になるのか。
清蔭のコミュニケーション能力の高さに驚けばいいのか、それともエマの純朴さと好奇心を嘆けばいいのか。恋にはもう何も分からなかった。
「よしエマ、腹の調子は大丈夫そうか?」
「うん! とっくに落ち着いてる!」
「分かった。それなら早速ゲーセンで遊ぶぞ!」
「おーっ!」
小さく握った拳を掲げ、意気揚々と声が上がる。
男二人の一日に、不可思議な少女エマが加わった瞬間だった。