1-3. 運命と奇跡
そいつが俯くと、目にかかるほど長い前髪がその表情を隠す。色素の薄い、茶色っぽく見える髪は、男にしては少し長過ぎる。オレの高校なら生徒指導に注意されてしまう。
この方面にある高校は限られるが、長いコートを着込んでいるから制服は見えないし、マフラーを巻いているからブレザーなのか学ランなのかすらわからない。いったい、どこの高校なのだろう。
オレが探るように見ていたことに気がつくと、そいつは申し訳なさそうに微笑んだ。
「この辺の高校じゃないんだ。制服を見ても、学校の名前を聞いてもわからないと思うよ」
「この辺じゃ無いって……?」
「遠くだよ。ここから何百キロも先にある」
「なんだ、転校してきたのか?」
「違う。キミとお別れしたら、それからその高校に行くよ」
「いやいや、おかしいだろ? 何百キロも先の学校に、これからどうやって行くんだよ」
嘘にしては下手すぎると思って、少し呆れた。けれど、そいつは真顔でオレの様子をじっと見ている。その顔を見ていると、徐々に冗談や嘘ではないと思えてきた。
「可怪しくないよ。オレにとって、それは普通のことなんだ」
「嘘だろ……?」
「嘘じゃない」
そういえば、こいつは最初から可怪しかった。突然、オレに声をかけてきたんだ。足音もなく現れて、気が付いたらそこに居た。こいつは、いったい何者なんだ……? どうやってあのホームにやって来たんだ?
「……すごく久しぶりに電車に乗ったんだ。だからつい、はしゃいじゃった」
「なっ……!」
突然、胸ぐらを掴まれて、グイッと引き寄せられた。至近距離で迫ってくるので、驚きと焦りで、息が詰まる。
「ねぇ、もう学校とかいいじゃん。ホルンを聴かせて。オレ、ホルンも持ってるから貸してあげる」
「持ってるって……」
そう言ってから、ずっと感じていた違和感が恐怖心に変わる。こいつはホルンどころか、鞄すら持っていないことに気がつく。オレと列車に乗ったのは、学校に行くためじゃ無かったんだ。
オレは掴まれたまま動けなかった。目の前で微笑むその男に恐怖し、言葉を失う。
「ここじゃあ人目につきやすいから、移動しようよ。いい場所を知ってるんだ」
移動……? 何を言っているんだ? オレは脅されているのか?
「ねぇ、そんな顔しないでよ。オレはキミに会えて嬉しいだけなんだ。さぁ、立って。その荷物もキミのだろ?」
そいつは胸ぐらを掴んでいた手を離すと、そのままオレの腕を掴んだ。オレは言われるまま、ゆっくりと立ち上がると、空いたほうの手で鞄を取った。
わけがわからない。ホルンを吹けなんて脅し文句は聞いたことがない。だが、オレを掴むその握力は見た目の可愛らしさとは反対にとても強く、とても逃れられないと感じた。
「それじゃあ、行こう。少しの間、目を閉じて」
オレは言われるままに目を閉じた。……腕が痛い。何をされるのか不安だったけれど、言うことを聞くしかなかった。今、この駅には他に誰もいない。オレがここから消えてしまったら、どうなるのだろう。毎朝、同じ列車に乗る人たちは、オレがこの駅で降りたことを証言してくれるだろうか。
そう思った時、周囲の空気が変わるのを感じた。暖かい陽の光に晒されたような温度を感じた。腕を掴む力が、ゆっくりと和らげられて、オレは解放されると同時に目を開けた。
信じられない光景に、絶句した。目の前には、暖かな日の光が降り注ぐ草原が広がっていた。空に点々と浮かぶ白い雲。山間から顔を出したばかりの眩しい太陽。さっきまであんなに曇っていたのに……いや、そもそもここは駅じゃない。
「まさか……瞬間移動?」
「まぁ、そうだろうね」
驚くオレを余所に、そいつは満面の笑みを零して、淡い水色のマフラーをゆるゆると外し、コートを脱ぎ捨てた。ブレザーの制服だったけれど、確かに見たことがない制服だった。
「ここなら人目を気にすることも無いし、騷いでも暴れても問題ないだろ?」
「……ここは、どこなんだ?」
「そんなこと知ってもしょうがないだろ。早くしないと学校にホントに行けなくなっちゃうよ。早く、ホルンを聴かせてくれよ」
「さっきから、いや最初から……何がしたいんだ? おまえは何者なんだ、どうしてオレを知ってるんだっ!」
オレは少し声を荒げた。頭がおかしくなりそうだ。こいつは、なんでオレに固執するんだ。どうしてそこまでして、ホルンを吹かせようとするのか、本当にわけがわからない。
そいつは、焦るオレから目を逸らすことなく、真剣な表情で右腕を真っ直ぐに伸ばした。
「キミは運命を信じる? リンカネーションを信じる?」
「……なんの話だよ」
「此処よりもずっと遠くの星で、オレたちはずっと一緒だった。それなのに、キミは勝手にこんな星に逃げてきた。オレは、追いかけてきたんだ。キミを連れ戻したくて」
「そんなの、妄想だ。リンカネーションがあるとしても、そんなことを覚えている奴なんていない」
「いるだろ? キミの目の前に、オレがいる」
そいつは突然、右手にフルートを持った。どこからそのフルートが現れたのかわからないが、とにかくいつの間にかフルートを持っていた。朝日に光る銀のフルートを、慣れた手つきで構え、吹き口に唇を当てた。そのまま目だけでチラリとこちらを見る。
「……でも、本当のところはそんなのどーでもいいことなんだ。キミが選んだなら、オレもこの星で生きてみようと思って生きてきたんだ。だけどキミは、いつもオレのことを忘れちゃうからさ。忘れられるのは困るんだ。今朝は特にそう思っていたら、いつの間にかキミの後ろに立っていた」
スゥ――と、息を吸う音に、思わず息を止める。
そいつが吹き始めたのは『G線上のアリア』という、有名な曲だ。聞き惚れるほどの美しい音色で、まるでプロの演奏を聴かされているような……。
こんなに鮮明なフルートの音を聞いたことがない。どこまでも響き渡るような透き通った音色に魅了されるように、オレは目を閉じた。
穏やかな陽射しの降り注ぐ草原に、フルートの音だけが響く。どこか哀しく、そして懐かしく、心に響く。
確かに、この音を聞くのは初めてじゃない、そんな気がした。こいつの言うことは、妄想なんかじゃないのかもしれない。遠くの星で……いつも、聞いていた……優しい、魔法のような音……。
そんな懐かしさと、切ない想いが、草原を掛け巡るように響き渡った。
そいつは演奏を終えると、満足そうな笑みを浮かべた。こんなに上手く演奏できると気持ちがいいのだろう。単純に、羨ましいと思った。