第19話 目を逸らしたその結果
【前回のあらすじ】
ロイの凶行に不信感を募らせたスフィアは、ラミアの町から逃げ出してしまう。森で見かけた魔族を追って傷を癒す不思議な泉と、謎の小屋に辿り着く。そこで修行を始めてひと月、謎の光を目撃した……。
西の空を照らした謎の光。それは空からではなく地面から放たれたようだった。
「今のは……」
私は大急ぎで泉から出る。近くの木に引っかけていた衣服を取り、鎧を付けて駆け出す。
小屋に戻ると、玄関口にすべての荷物がいつでも持ち出せるようにまとめてあった。元々少し寝泊まりしたらラミアに戻るつもりだった。まとまった荷物はその表れであり、私自身の罪の意識そのものである。
既に日は暮れかけているが、私はあの光を確かめに行かずにはいられなかった。
一人になってひと月。考えないわけではなかった。残されたロイたちはどうしているのだろうかと。
きっと心配しているだろう。きっと気にしているだろう。顔を見せなければならなかった。声を掛けてやらねばならなかった。
しかし、私は逃げ出したのだ。逃げ続けていたのだ。鍛錬に励むことで、私は己の職務をまっとうしているのだと安心したかった。
「どこがよ……。まずは生き残った兵士をまとめて、王国に連れ帰るのが職務でしょうが!」
あの光が何だったのかは分からない。だが明らかに異常な事態なのは間違いない。魔族領にほど近いこの山で、部下たちを見捨てて逃げ出したこのときに。
どうしよう……。取り返しのつかない事態になっていたらどうしよう。
あのとき目を背けた自分の心の弱さを呪いながら、私は一目散に森の木々を縫っていくのだった……。
「きゃっ!!」
ずざざざざ……。
土の上を滑り落ちる。突然、足元の感覚が無くなったのだ。どうやら小さな崖から足を踏み外してしまったらしい。辺りは既に真っ暗闇、どうなっているか分からない。至るところから魔物の気配がするが、彼らも先の光を警戒しているのか襲い掛かってくるものは殆どいなかった。寧ろ怯えている様子すら感じられる。
やはりそれほどに警戒すべき事態だというのか。こういう未知の物に対しては、自然から離れつつある我々人間よりも魔物たちの方が的確に対処できる。
すなわちこれ以上近付くべきではないのだ。見に来るべきではないのだ。
「何なのよ、この魔力……」
その崖からは異様な魔力の残滓を感じられた。手で触れると、まるで地面が丸く切り取られたような形をしている。
ここだ……。その勘を信じて辺りに目を凝らす。星の光が森の中を淡く照らし出す。今夜は満月のはずだがやけに暗い。月の周りにだけ分厚い雲でもあるというのか。
そこはどうやら峠の近くのようだった。地面の抉れは思ったより大きく、直線的に削れていた。星空が告げる方角は、私が峠の北側、すなわち魔族領にいることを知らせていた。
あっちからか……。
崖に手を添えながら坂を上り、その何かが放たれた方へと向かう。そんな跡を残すような何かと、先ほどの光と、一体どんな関係があるというのか。これが戦いの跡だというなら、これほど激しいものはもう自分の理解の範疇を超えるだろう。
つん……。
そのとき、鼻に覚えのある刺激が届く。その不快感には未だ慣れないが、動きを止めるわけではない。寧ろ条件反射で息が上がり始める自分に不気味さすら覚えた。
ぬる……。暫く進んだ後、地面を踏む感覚が気持ち悪いものに変わる。間違いない、これは血だ。濃厚な戦場の臭いに神経が研ぎ澄まされていく。近くに警戒させる気配はない。
そのうち懐かしい気配を感じた。まだはっきりとは分からない。だがずっと私の傍にあった気配。このひと月ほど離れていた気配。
同時に背筋が凍っていくのを感じた。嘘だと言ってくれ。こんな血生臭いところで、お前の気配なんて……。
ふっと明るさが増す。月明りが徐々に地面を照らしていく。てらてらと不気味に光る地面、大きく抉れた大地、ざわざわと騒ぐ木々の間に、何かが倒れているのが見えた。
人影だ。私は思わず駆け出していた。やめろ、やめてくれ……。嫌な予感がまた、私の目を逸らさせようとしている。だが、駄目だ。もう目を逸らしてはいけない。見なくてはいけない。
ここまで来たのだから……。
「お前……、こんなところで何をしているんだ……」
人影は峠の真ん中に突っ伏して倒れていた。
「死ぬなと、言ったじゃないか」
膝が俄かに震えだす。景色が突如一段上に持ち上がる。否、私の視点が落ちたのか。私は膝から崩れていた。
「なあ……何でこんなところにいるんだよ」
それは血だまりの中で、不自然に右肩を地面に埋めていた。否、地面に穴は無い。右肩が無いのだ。
「なあ……何があったんだよ」
チクタク、チクタク、チクタク……。
暫く収まっていた耳鳴りが、再び激しく鳴り出した。目の前が暗くなる中、その影だけが鮮明に目に焼き付いていく。これが、逃げ出した私に対する罰だというのか……。
「何で……ロイ!!」
無残な姿になり果てた彼の前で、私は人知れず嗚咽を漏らしていた。
「ここら辺ですか……」
と、と、と……。峠に足音が響く。私の他にも光に誘われた者がいたようだ。
「先客がいましたか……。スフィアさん、お久しぶりですね」
アリスの声だった。
「貴様……。どの面下げて来やがった!!」
「あなた、一国の元姫君なのでしょう?そのような言葉を使うと、亡き国の品位を落とすことになりますよ」
「黙れ!!」
私の声は自分でも驚くほど悲痛なものになっていた。
私のことなど警戒もせず、彼女はロイの亡骸に近寄っていく。
「まさかもう魔王様に挑むだなんて、身の程を知らないにも程がありましたね。まあ温室育ちのお坊ちゃまには仕方のないことですが」
魔王様……だと?こいつら、やはりそちら側だということか。
「貴様……ロイを愚弄したいだけなら今すぐ立ち去れ!こいつは誇り高き戦士だ!!第一、田舎育ちの傭兵上がり、実力で衛兵になったこいつのどこが……」
「何を……。あんなコネばかりの街の小さな闘技大会で優勝も出来なかった彼が実力?冗談でしょう?」
こんなときまで何と腹立たしい。盗賊の娘であるばかりでなく、腹の中でそんなことを思っていたというのか。こんなやつをロイに近付けさせるわけには……。そのとき。
「う、ぐ……」
ロイの口から声が漏れた。
「お、お前、生きてるのか!!」
私は咄嗟にその口元に耳を寄せる。
「驚いた……。まさか魔王様の攻撃を受けて生き残るなんて」
アリスがまた一歩ロイに近付く。
「待て、何するつもりだ!!」
私は剣を抜き、彼女の眼前に突き付ける。
彼女の周りに魔力が集まる。とどめを刺すつもりだろうか。そんなことはさせない!!そのまま剣を突き出そうとするが、身体が動かなかった。何をされたのかも分からない。そのまま彼女の魔術は発動へのフェーズを踏む。それを止めることすら、私には叶わないというのか。
「何って……私、回復魔術師ですからね。邪魔しないで見ていてくださいね」
彼女が展開したのは天使の翼。見慣れた回復魔術だった。淡い光がロイの周りに集まる。やはりどう見ても、それは見慣れた回復魔術の効果でしかなかった。
「この出血量で生きてるとは思いませんでした。失った部位も戻らないし、私も初めてのケースです。私の魔法は完璧だと思っていたんですけどね。これが限界のようです」
気付けばロイの出血はすっかり止まり、血と泥でべったり汚れていた身体もすっかり綺麗になっていた。
「あとはあなたが何とかしてくださいね。私は他にもやらなきゃいけないことがあるので」
そのままアリスは立ち去っていく。私はまたしても何もできなかった。彼女の意図も分からない。
「はっ!!」
彼女が坂の向こうに消えた頃、ようやく動けるようになる。私はすぐにロイの元に駆け寄って、その身を抱き寄せた。血の気もなく欠けた右腕はそのままだったが、弱々しくも息がある。確かに助かっていた。
私はただ彼を抱きしめていた。涙を流しながら……。
その涙がロイの生存を喜んだものだったのか、自分の不甲斐なさに絶望した悔しさからだったのか、今となっては分からない。ただ、私はそのまま夜が明けるまで、その峠で片腕のロイを抱き締め続けていた。
その後、ロイを担いでラミアの町へと戻った。片腕を失った彼は随分軽くなっていた。町にはまだ生き残った2人の兵士も残っていた。町の皆の協力を得てロイを看病し、自力で動けるようになってからサモネア王国へ帰還した。彼はあの夜のことをすっかり忘れていた。
ロイが勇者の力を授かって魔王に挑んだこと、そして魔王に敗れたことはすぐに王国に知れ渡った。生き残ったロイがさらに腕を鍛えなおし、魔王にリベンジすることが期待されたが、彼に宿った力は既に失われていた。
1年ほど経った頃だろうか。私の心は荒れていた。ここは戦場。相手は、人間だった。
「姫騎士様、新たな軍師様がお見えになりました」
私は既に元ブラン王女であったことを公表し、国王から『姫騎士』の称号を賜っていた。
「通せ。どうせ私の剣技があれば負けはないのだ。誰でも同じだろうがな」
「おや、どうやらあまり期待されてはいないようですね」
やって来た軍師は、来て早々馴れ馴れしく話しかけてきた。私はその姿を見て、固まってしまった。
「戦場で指揮官が固まってしまうとは、これは助言のし甲斐がありそうですね、姫様?」
そこに立っていたのは、片腕に義手を取り付け、剣をペンに持ち替えたロイだったのだ。勇者の力も失い、以前の剣技ももう見られなくなってしまったが、彼の類稀なる経験は新たな戦術を次々と生み出し、王国のために大いに役立てられることになる。
元勇者候補のロイ・ルミネールは、サモネア王国の新たな天才軍師として、この日から数々の武勲を打ち立てることになるのだ。
「今度は私が姫様を守る番ですね」
馬鹿。私はお前を守ってやれなかったというのに……。彼はいつかの旅の夜のような、熱に浮かされたように赤らんだ無邪気な顔で笑っていた。
「まったく、お前には敵わないな。私が出来なかったことも、お前なら出来ると信じている。頼んだぞ」
彼はその右腕を失ってなお、私の右腕となったのだった。