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その夜、第十八区の闇夜を跳躍する一つの影があった。
建物の屋上から屋上へ。真夜中ともあって路上には誰一人、歩いている者はない。
それでも、目撃されてはなるまいと、慎重に移動をしていた。
飛び出す力と、着地する衝撃を魔力によってコントロールする。
全身黒ずくめで固めた服装は闇に溶け込み、街明かりは最低限の街灯しかないため、迷彩色としての効果を十分に発揮していた。
「この先の、建物か」
檜山颯太は顔の下半分を覆っていたフェイスマスクと、眼鏡の代わりにかけていたサングラスを外し、建物の屋上から目的の方角を見る。
街灯の機能が停止され、暗黒に包まれた区画。まるで埋葬墓地の墓石が乱立しているように見えた。
空は薄ぼんやりとしていて、月もない。
暗闇に目が慣れているとはいえ、跳躍移動を続けていると遠近感を失いそうになる。
背中には、サイファーとして支給されていた魔術兵器の剣。移動の時、鞘から抜けてしまわぬよう。服と同色の、黒い布で覆っている。
彼の右手も、また同じように黒い布で巻き付けられていた。妙に角張った膨らみ。指先から始まり手首まで。
それは『略式魔導鉄甲』と呼ばれる強力な武器。
一部の人間しか所持を許されていない物だけに、人目に付くのは危険と判断した檜山は、グローブの上に布を巻くことで、武器そのものを隠していた。
基本的に、十八区には魔力がない。ゼロではないが体内に取り込んで魔術として実用するには薄すぎる。
だから檜山は、昼間に訓練場で魔力を溜め込み、夜に備えていた。
体内に留めておける魔力の量は、人それぞれ個人差がある。魔導師としての地位を持つ檜山は、普通の人間よりも許容量は大きく。魔力を無駄遣いしなければ長い時間、単独行動が出来た。
静寂に包まれた街の中、布の擦れる音や、駆け抜けるときの風、鉄甲の軋みが耳にうるさい。
十八区にある西新井大橋。それを北に渡ると関原養成所が管理する訓練場の巨大施設がある。そこで異形が発生したのだが、檜山が向かったのは事件現場から西に数百メートル向かった先。
到着したのは事件後に磯良が発見したという『実験場』と例えていた建物だ。
建物の外観は、どこにでもあるコンクリートの四階建て。周囲には明かりがなく、建物自体にも誰かがいるような気配はない。階数ごとに並んでいる窓ガラスの全ては暗闇で統一されていた。敷地を囲む塀。門扉は閉ざされ、古びた鎖によって繋がれている。最近まで何者かが出入りしていた形跡はなく、完全な無人を表していた。檜山も自分が訪れた形跡を残さぬよう……門に手を触れず、身長よりも高い塀を軽々と乗り越えた。
敷地内に入ると、どこか湿気を帯びた、冷たい空気が立ち籠めていた。
磯良が見たときは無人で、急ぎ足で引き払われたという。もう誰かがいるとは思わなかったが、そういった思い込みが、自分の足下を容易く掬い上げるのを承知していた。不用心は始末に負えないが、過剰な警戒は行き過ぎて損をする事はない。
門が固く閉ざされていたのに、入り口には鍵が掛かっていなかった。
鉄製の重い扉を開くと、外よりも更に冷たい空気。不気味な雰囲気が体中に纏わり付いていた。
建物内部は壁の面積が少なく。最低限の骨組みとして組まれている柱以外は、突き抜けている。
長い間使われていない、廃屋同然の形跡。
暗闇の中でも、檜山には違和感を感じずにはいられない部分が、いくつかあった。
しっかりと戸締まりされた窓ガラス。雨風が入り込んだ様子はない。地面は無人になって、長い年月が経過しているにもかかわらず、それなりに原型が保たれていた。
野生化した動物が出入りしているような痕跡もなく。使用していない状態であったにしては――建物自体は古ぼけているものの、無人によって風化する独特の劣化具合が見当たらない。
事前に磯良から報告を受けていた固定観念もあってか、どうにも人が出入りしていたような漠然とした気配がある気がしてならない。
檜山は二階へ通ずる階段を無視し、一階を歩き回った。
手入れを怠っている床は汚く。ところどころ剥がれたタイルの下は、セメントが露出している。
――内部を歩き続ける事しばらく。それぞれ立ち並んでいる主柱の一本。
ポッカリと口を開けて、地下へと通ずる階段を発見した。
柱に見せかけて作られているということは、以前は柱に何かを置いて、塞いでいたのだろう。
入り口の地面は、何度も重いものを同じ方向へ引きずったような跡が残されていた。
………………夜闇よりも暗い――漆黒。
普通の人間ならば、入ることも躊躇われるような闇であるが、檜山はポケットの中から小型のペンライトを取り出し、下へと続く段差を照らした。
「さて。……何が出てくるのだろうな」
地下への通路は、異様に長い。
入り口よりも階段は幅広くなっていて、大人が三人並んで降りられるくらいはある。
なるべく足音を立てぬよう、檜山は慎重に下る。




