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……あんな所に養成所の生徒がいるとは夢にも思わなかった東堂宗二郎は、完全に無防備になっていた自分を垣間見られた気がして、幾分か嫌な気分になっていた。
花は学校の近くで密かに育てている人から買ったもの。不定期ではあるが、一ヶ月に一回のペースで花を、あの河川敷に捧げていた。宗二郎が校則を反しても金を得ていた理由の一つが、この献花にあったのだ。
かつて大規模な河川として存在していた荒川であるが、今はもう川としての主張はなく、雨水が残る、小ぶりな岩が密集しているだけのいるだけの、成れの果てでしかない。
宗二郎は河であった窪みを横目に、元来た場所へと戻る。
「そうだ……俺はこのあと、やるべき事があるのだ」
凛々しい顔つきで彼は、沈みはじめる夕日を、目を細めながら見つめる。
早いところ、用件を済まさねばなるまい。宗二郎は不敵に笑う。変わらぬ早足で西新井橋を渡り切り、養成所のある方向とは逆の、学生寮がある区画に向かった。
生徒たちが暮らす学生寮は、橋を渡りきった先にある十字路、そこから道路を挟んで東方面の一帯にある。関原養成所は学校以外のプライベートまでも囲うことをせず、学校への登校は一般と同じルートを使う。建物が密集している地域なのか、あるいは確保した土地を上手く使えていないのかは定かではないが、関原養成所は徹底した管理と監視をしているわけでは無いらしい。その点においては多少なりとも自由度があった。
夕べに栄えるオレンジが、十八区を染め上げる中。関原の河川敷で花を添えたその足で訪れたのは、関原養成所が所有している学生寮の駐車場。
駐車場といっても、住んでいるのは全員が学生であるから、車両などは一切駐まっていない。パンドラクライシス以前にあった建物をそのままの形で使用している名残。数台の自転車が駐められているだけで、スペースは有り余るほどあった。
彼はポケットの中から携帯端末を取りだし、登録されている友人との通話を開始すると。相手はすぐに出た。
「…………俺だ。大変な事になった。家の前の駐車場に来てくれ」
そう告げると、何やら視線を感じたので、上を見た瞬間、カーテンが激しく揺れて閉じられた。電話主が住んでいる部屋だった。
しばらく黙って待っていると、部屋から日曜大工でもやっているかと思えるほどのドタバタ物音がする。建物の向こう側から乱暴に扉を開ける音、革靴らしきテンポの速い足音。よく響く。
本人をまだ目にしていないのに、階段を下りる所まで丸聞こえだ。
「ど、どうしたの宗二郎! なんかあったの!?」
肩で息をしながら駐車場に走り込んできたのは、制服に身を包んだ女子。
腰まであるツインテールは、朝会ったときよりも、妙に中途半端。頭には寝癖らしきものまで付いている。別にパジャマで出てきても良いのに、ご丁寧に髪の毛をセットして制服を着込んだらしい。……ちょっとだけ罪悪感。
「ねえ? 宗二郎? だ、だいじょうぶなの?」
女の子は本気で優心し、顔を覗き込んでくる。
真面目な顔で平静を保っていた宗二郎。
黙っていた姿を心配して、女の子がもう一度、名前を呼んだ瞬間――。
宗二郎は――顔をぐしゅっと拉げさせた。
「だぁあああああん! ルカ子ぉおおお。なんとかしてよーぅッ!」
恥じも躊躇いもなく、東堂宗二郎は悲鳴じみた声を上げ平伏し、女の子の靴にしがみついた。
素足に飛びつかなかったのは、本気で怒る危険性があったから。ギリギリの節度は保っている。
無防備な後頭部をサッカーボールキックされたら、たまったものじゃない。
「ビャッ!? また、いきなりなにさ宗二郎……ってか気持ち悪いから! 呼び出しておいて、いきなり靴にしーがーみーつーくなーっ! 離せ離せ、このっ、このっ! アンタその状態で上向いたら、ぜったいぜったい踏み潰すかんね!」
「ルカ子さん、あなただけが頼りなんです! 俺はいまピンチを迎えてます! 明日の俺はお前が握っている。エマージェンシーエマージェンシー」
女子寮には似つかわしくない裏声混じりの奇声。男子生徒がヒーヒー言いながら女生徒の足にしがみついて、しかも足蹴にされている。端から見れば痴話喧嘩から起る縺れといったところであろうが、踏みつけられているという構図が構図だ。気になって仕方がない別の女子達がカーテンの隙間から覗いている。バレバレの視線。それらは各部屋で一人ないしは二人で除いているつもりだろうが、駐車場側から見れば大半の居住者が盗み見ているという異様な光景。