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――この数年で、自分を取り巻く世界の情勢は大きく変化した。
まず、固有刻印を持っている人間は、半ば強制的に関原養成所に入学させられたことで、今まで普通に行ってきた生活が制限されてしまったこと。自由な時間はあれど、完全な自由は与えられていない状態。自由を奪われた以外にも、関原養成所では、普通の高等学校で行われている学問の他に、特殊な訓練や授業が行われている。
…………それは戦うことを想定した訓練だ。
それがいま固有刻印を持っている人間に科せられている使命であり、授業に当たり前として組み込まれているカリキュラムであり、重要な責務となっている。
戦うといっても、相手は人じゃない。この内界に生息している人外の生物だ。
東京都心のど真ん中。空間に原因不明の大穴が開いた事によって、空間の向こう側から、得体の知れない怪物が現れた。世界が反転したこの出来事はパンドラクライシスと呼称されている。
パンドラとは、かの有名なギリシャ神話に登場する『パンドラの箱』がモデルとなっており、あらゆる厄災が詰め込まれたものとされている。まさにその箱が開け放たれた様が、東京で起こったのだ。
箱の代わりに異次元と変えて、穴は蓋の代わりに〝扉〟と例えられる。開かれた先から、この世界には存在していない種々雑多の生物。……それらを人間は『異形の者たち』と命名し、人類の敵として定めた。
異形は爆心地と呼ばれる空間の大穴を中心に、その生息地を拡大させている。
爆心地の場所は、新宿区と呼ばれていた場所で、東京都でも有数の歓楽街やオフィスビルが密集していた地域。人の活動していた場所が、いまや人の住めない魔境と化している。
これら異形を討伐しながら、爆心地の扉を塞ぐのが『サイファー』と呼ばれる異形専門の兵士に化せられた使命であり、サイファーになるため、学生達は日夜、訓練に励んでいる。
――得体の知れない怪物と戦うのは恐ろしい。まだ養成所で訓練をおこなって、経験を積み重ねている時期ではあるが、これら訓練は……いつか実戦に移行する日が来るということだ。一年後か二年後か。もしかしたら、いきなり明日にでも戦地に投入される可能性だってあるのだ。
他の生徒たちは表だって話そうとしないが、誰しも不安の種が胸の内に埋まっている。
突然に叫び出したくなるような、深く大きな不安や恐怖。負の感情は日々、友人や普通の学校生活を送っている中で、中和されてた。
この普通でない日常が、知らぬ間に日常として変わってしまった場所で、
祈理はこれら固有刻印を持ってしまった責務以外にも、
学校生活で自分が置かれている立場に、息が詰まりそうな毎日を過ごしていた。
真っ直ぐ更衣室に向かい、彼女はゴム質の服――トレーニングスーツと呼ばれている衣服を脱ぐ。肌に密着するように作られているこのスーツは、特殊な力が備わっていて、スーツの効果が許される範囲であれば、身体に直接のダメージを負わすことが出来ない効果を持っていた。
これも立派な魔術であり、機械と魔術を融合した、レムシステムと呼ばれる複合技術が使用され、基本的にレムシステムは大型であり運用と制御が難しくある。この技術をより小型化し、独立した機構を持たせたのが、異形の者たちに対しての致命を与える魔 術 兵器に進化したと言われている。
スーツの下はじっとりと汗をかいていた。ゴム質であるが密閉ではなく、肌の通気機能は悪いわけではない。運動量もさほどじゃないのに。汗をかいている理由は、単純に緊張状態から発生したものであった。
どんなに優秀であるとか、完全無欠なんて大仰な名前を勝手に付けられようと、私だって一人の人間だ。剣を振り上げられれば恐怖を感じるし、相手が是が非でも一撃を加えようと向かってこられれば恐れ戦く。
個室のシャワーが左右に並ぶ。幸いにも中には誰も使用している様子はない。一番奥に入ると脳天から暖かいお湯が浴びせかける。握り絞めた両手はとても冷たくなっていて、水の温かさが染みるほどだった。俯いたまま、うなじから背中、胸元に流れてくる水を感じながら、祈理は目を閉じた。
学校の中では、いつも人目にさらされた状態。歩けば見知らぬ生徒に挨拶をされるし、声もかけられる。沢山の目線があって気が緩む暇さえない。ときどき人気の無いところを選んで行ったとしても、後を付けてくる人がいるのは深い悩みの種であった。穏やかな空間を確実に確保できるのは、トイレかシャワーの個室か……ほんとうに数えるほどだ。さすがにここまで誰かが来るなんて事はない。
こんな小さな箱の中でしか、学校の中で安息はない。朝から気が張っている毎日。目を閉じていると、とても落ち着く。私のシャワーが長くなってしまったのは、きっと周囲の環境のせいだと思う。
どれだけの時間が経ったのか祈理すらもわからず、指先がすこしふやけてきたあたりで、彼女の安息は突如として、別の女生徒達が入ってきたことにより破られる。
「あー。つっかれた……」
「どう? 明日の実技テスト。なんとかなりそう?」
「どうだろーねー。できるだけ頑張ってみる。つき合ってくれてありがとね。後で甘いもの食べにいこ」
「いいねぇー。…………そういえばさ。練習してるとき、隣の試合見た?」
「うんうんうん。すごいよねー。石蕗先輩。あたしも今度、おねがいしてみよっかな?」
「やめときなって。立場が違いすぎるっての。一瞬で負けちゃうよ。声かけるのでさえ、緊張するわ。私たちからしたら雲の上にいるようなひとだもん」
「そーねぇ。相手の人は友達かなんかかな? うらやましいなぁ。私も同じ学年だったらよかったなぁ」
――いえ。今日、声をかけられたばかりの人なんです。
自分の話題に対して、祈理はシャワーをゆっくり止めながら、心の返答をする。
バスタオルで入念に全身を拭き上げたのち、身体に巻き、二人に気がつかれぬよう、濃密な湯気の中、退散した。
そそくさと着替え、出来るだけ短い時間で髪にドライヤーを吹きかけ、汚れ物の衣服を学校指定のバッグに詰め込み、最低限の外に出られる身なりで、祈理はロッカールームから飛び出す。
湿っぽい髪の毛を揺らし、彼女は前髪の左側を指で撫でつける。どんなに直そうとしてもこのくせっ毛は反り上がってしまう。髪の毛が乾いてくると徐々にくせっ毛は活力を取り戻し、いつものポジションへと戻る。もうここまでくると形状記憶の呪いでも掛かっているのかとおもってしまう。