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パンドラクライシスの事件以降、政府は東京の大部分を封鎖し『旧首都』として、時間の流れを止めた。まだ未完成な部分はあるものの、僅かな期間で作りあげた旧首都を取り囲む超長距離の防壁は異形の流出を食い止めるためであり、同時に刻印や旧首都の住人を隔離するための、人道を逸した措置としての機能を持っていた。
旧首都と外を隔てる『人工防壁第九層』この壁を中心に、
内側の――『内界』と。
外側の――『外界』に分けられている。
内界は全九枚の防壁――現在は四枚が崩壊し五枚が残っている――で運用され、各防壁の内側は四分割のエリアに分けられ、内側から一区で始まり、一番外側は二十区まで設けられていた。
――封鎖都市・第十八区。最も安全とされる外周。四つのエリアの一つ。
かつては『東京都足立区』と呼ばれた土地の一角。
干上がって川底が露出した河川『荒川』を挟んだ一帯に、『関原養成所』と呼ばれる大規模な施設があった。
少女はゆっくり呼吸しながら、始まりの合図を待つ。
――ここは、関原養成所にある模擬戦闘用のホール。
冷たいコンクリートの地面があるだけの簡素な作りであるが、シンプルが故に、どんな練習でも出来る。学校の閉門時間ギリギリまで、必ず誰かがいるような活気ある場所であった。
放課後というのに、客席には何人もの人間が目を輝かせながら、少女と同じくその合図を固唾を飲んで待ち続けていた。
少女がこの模擬戦闘場を『活気ある場所』だと認識しているのは、いつも来る度に大勢の人間がいるから。
…………そして。この場所を人気とたらしめているのは、
少女が訪れることを事前に聞きつけたから、人が集まっているのである。
ルームメイトの友人には『鈍感な性格』と指摘されたことがあるが、どんなに散漫な毎日を送ろうとも、養成所で一年以上過ごしていれば、否が応でも客席に座る多くが、自分を目的としているのだと判ってしまう。
――いま、成り行きを見守る観客を除くと〝始まりの合図〟は二人だけの為にあった。
模擬戦闘用の施設だと言うことは、これからはじめられるのは即ち模擬戦闘において他ならない。両者は微動だにせず、双方が同じ格好をしていた。全身タイツのようなゴム質のスーツ。その上にはシャツとハーフパンツ。そして模擬戦闘用の剣を片手に持っている。
「……………………」
少女は黙しながら、鼻から少しばかりの空気を吸い込んで、リラックスしていた。外から見える動作とは別に、彼女の思考は驚くべき速度で回転をはじめていた。
頭の中で作りあげる工程は約二十弱。その全てが『魔術式』と呼ばれる魔術に直結する紋様の部品である。バラバラの要素では何の効力もないのだが、一つ一つが性格に組み合わされば一つの効果。つまり『魔術』となる。
――魔術で必要なのは結果ではなく工程だ。数学と同じで、解を求めるため方程式を使うように、魔術も一定の規則がある。
この場合は、数字ではなく図形。ソレは円であり記号で有り。囲いや、幾何学模様めいた線と点の塊であったりもする。
人間のイメージとは本人が思っている以上に曖昧なもの。どんなに鮮明に描こうとも、完璧な記憶を掘り起こす事は難しく、思い出せる物には、自ずと不確実な欠陥部分が現れる。
――魔術を使うには、まず基礎燃料となる魔力が必要だ。
――魔力を大気から取り込み、制御できる身体が必要だ。
――これらエネルギーを変換させるのには術式が必要だ。
――そして、術式は精密さを以て魔術とせねばならない。
準備は出来ている。すでに撃鉄を上げる指が頭の中で掛かっていた。
…………スピーカーから大音響のブザーが鳴る。
耳に届くや否や、彼女は術式構成をはじめる。
相手は身体を前に倒して、自分の魔力を両足に込めた。
集中した両足は推進力を補助する筋力へと変換される。
「……廻れ」
一方、少女は始まりの合図から一歩も動くことなく――言葉を小さく発した。
言葉は強い強制力を持つ。ソレは体内から外部に向かって発せられるもので有りながら、同時に言葉を放った自分自身にも大きな影響を以て、条件付けされた特定の形を鮮明に思い起こさせる。
魔術を行使するための詠唱は、言葉そのものに意味はなく。頭の中で図形を描くための自己催眠において他ならない。一言は歯車のひとつとし、いくつもの歯車が合わさればかみ合い、魔力によって回すことが出来る。コレが短絡魔術の前提基盤。
相手は通常よりも速いスピードで突進してくる。
魔力は単純に身体を循環させるだけで身体能力の向上を上げることができる。
魔術による強度の増強よりかは効率が悪く、術式を通さない分……魔力が霧散しやすい。
ただ一瞬の余談も許さない場合、頭の中で術式すら起動するのも惜しくなる刹那を争う場合、身体に魔力が回せるか否かで、相手との差に繋がる。
魔力をコントロール出来れば、誰でも発動が可能な基本技術。基本であるから劣っているのではない。基本が一瞬で行えると言うことは、それこそが魔術を扱うに長けている生徒であるのだ。
始まりから十秒と経っていない、まだ一合も刃を突き合わせていない。しかし……双方の戦いは既に相手がどう動くかの読み合いに神経を注いでいた。
走り詰める相手は、自分の攻撃ではなく、少女の初手の行動においてのみ意識し。
対する少女は、相手が単純に距離を短くするだけに行動しているのではないと、ギリギリの瞬間まで見定める冷静さを保つ。
「ハァッ!」
射程距離がまだ開いている状態で、初手を起こしたのは相手の女生徒からだった。
剣を片手に持ったまま、空いている手を少女に向ける。
「っ!!」
何が来るかなど解るはず無い。よって最善の方法で、どのような展開になろうとも防ぎきれるであろう、堅実な選択を取る。
「繋ぎ――遮れ!」
全身に循環させていた魔力は、言葉の合図で頭の中で出来上がった術式に直結し、魔術として起動する。少女が足を一歩踏み出すと、足の裏から地面に術式が展開された。
半円に展開し、淡く光る『紫色』の紋様。
伸ばされた相手の手から飛び出たのは、拳大の光球。
牽制のつもりであったのだろうが、少女が事前に展開させた防御壁によって光弾は阻まれ、砕け四散する。
相手は加速するスピードを更に上げ、半円の防御壁の横から周り、無防備な少女の元へ辿り着いた。
「次ぐは、纏う顎」
半円の防御壁の弱いところなど、使用する本人が知らぬはずはない。正面以外の左右後方。あるいは防御壁を乗り越えるだけの跳躍。この場合跳躍はリスクが高く、こちらの次なる魔術の的となる可能性があり、正面から来ている人間がいきなり後方に現れる非常識はありえない。
事は秒を争う攻防。狙うは左右しかない。
消去法で出てくる相手の動きは読みやすく。少女の思惑通り、女生徒は左を回り込み、速度を落とさず側面から仕掛けてきた。
――解っていた。だからこそ、相手に選択肢を与えたのだ。完全な防御を成してしまえば、相手は立ち止まり、組み上げられていた流れに歯止めが掛かってしまうから。
少女はようやく剣を構え、相手の勢いを受け止める姿勢を見せる。
「たぁあああああ!」
気合い一閃。全力で落とされる攻撃が少女に襲いかかる。
――だが、ソレも少女の計算の手の内であった。
剣が重なり合わさった、最初のぶつかり合い。そこからは金属同士のかち合う衝突は起こらず、無音のまま振り下ろした剣が、双方の刃に小さな間隙を作ったまま静止した。
「行けッ!」
初めて少女は声を出して、その隙間を爆発と共に押しやった。
爆発は炎を纏わず、単純な空気圧によって相手の気負いを返したのだ。
剣に纏わせていたのは衝撃の魔術。濃密な空気の層が触れれば、反発した破裂を起こす。
戦いの成り行きを見守っている生徒たちからしたら、攻撃を仕掛けた相手が自ら剣を引いたように見えるのだが、勝手に押し返された勢いに、剣を振った本人が一番驚いているようであった。
押し返された衝撃で、四歩、五歩と大きくたたらを踏み、その分だけ距離が開く。少女はその間隔を許さない。足の裏に魔力を集め、次ぎの足を上げる速度を高める。
最初に相手が行った身体能力を向上させる魔力操作とは別格。筋力を強化するだけではなく、その一歩一歩に強烈な空気圧の爆破を残して突進する手法。
速度が得られる代わりに、爆発の一つ一つに気を配らねばならず、ヘタをすればコントロールを失い、自分の身体が投げ出されて中空で一回転してしまう。バランスを崩しやすく、基本を応用しなければ達す来ることの出来ない、高度な制御を行っていた。
剣を離せず、まだ後ろに下がり続ける女生徒に向かい、一瞬で詰め寄る少女。
焦りを隠せない女生徒は、魔術に頼らず渾身の筋力を振り絞ってバランスを取り戻し、上がったままの剣をそのまま、特攻を仕掛ける相手の脳天めがけて落とし込む。
――少女には、たった一つだけ、完全暗記している魔術がある。
この魔術を例えるなら、熱エネルギーを機械的サイクルにさせるのと変わらない。
大気吸収、圧縮、部分的解放、放出……これらは空気を使うだけで、対象を強く押し込むことができる――目には見えない武器が出来上がる。
別に特殊な術式など必要は無い。周りの大気を単純な魔術でコントロール出来ればいい。
単純にして、強力な物理が生み出せる。
翳した手にはすでに、手の平ほどの複雑な術式。
放たれた魔術は、周囲の大気が押し込まれる――〝ぼわッ〟という音。
音こそさほど印象はないが、本人が受けた衝撃はかなりのもので、
全身に叩き込まれる空気圧に耐えかねて為す術もないまま、両手で握っていた剣が引き剥がされ、剣のみならず身体ごと吹き飛び、小さな悲鳴を上げて地面に叩き付けられる。
――戦闘不能と見なされ、開始の時と同じ、訓練終了を告げる二度のブザーが放たれる。
ようやく少女は一息。誰でも行っている普通の訓練と変わらないというのに、周囲からは一瞬たりとも見逃すまいと息を止めていたのか。
終了の合図で……吐き出した息と、拍手じみた賞賛が疎らに起こった。
「……だいじょうぶですか? 怪我はありませんか?」
ゆっくり起き上がる女生徒に向かって、少女は駆け足で近づき、すぐに手を差し出した。
「は、はい。スーツのおかげで、少し目眩がするだけです」
心配してくれたことに対して、恥ずかしそうに顔を赤くしつつ、女生徒は手を取った。
「さすが、石蕗さん。最後のは手も足も出ませんでした」
自分が負けたというのに、どこか清々しい表情。悔しさを滲ませて居らず、むしろ当たり前の結果であると満足に語る。
「私の方もいきなり回り込まれるとは思っていなかったので、焦ってしまいました」
本当はそうなることも想定済みで、防御壁を展開させたのだ。やろうと思えば光弾の一つも避ければいいだけの話。避けた後は力技で押し込めば良いのだが堅実ではない。単純なマニュアル通りの勝利で収めたにしか過ぎない。
出来るだけ謙遜……相手に不快な思いをさせぬよう、できる限り努めた。
練習相手の女生徒とは顔見知りではなく、いきなり自分の前に現れては、特訓につき合って欲しいとお願いされて、承諾をした程度の間柄である。
少女――石蕗祈理は、この第十八区、関原養成所の二年生だ。
この学校の中で、彼女を知らぬ者はいないほどの認知度を誇っていて、彼女が入学した一年生のときから実力を示し続け、カリスマの頭角を現していた。二年生ともなれば、完璧な成績でトップを邁進し、本人の知らぬ所で〝完全無欠の石蕗祈理〟として呼ばれていた。
「……忙しい中、訓練につき合って戴き、ありがとうございました」
深々と頭を下げる女生徒。同じ二年生の子なのに、垣根の違う扱い方をされる祈理。一年も経過すれば慣れたもので、彼女も鼻にかけることなく、同じようにして頭を下げ、その場を後にした。