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……祈理はいつもどこかで迷っていた。
迷って、迷って、悩んで、困って。
期待されている自分。周りはその価値があると思って持ち上げているのだろうが、とうの本人である祈理は、周りから注がれる熱のある希望を受け容れられずにいた。
何もしないで、何でもできているわけではない。何もしないことをしないで、自分にできる限りの事をしてきて、いまの自分があるのだ。
一年生の頃。置いて行かれないよう、一生懸命頑張った。
サイファーになることとか、異形と戦うとか。そんな先の未来は見据えておらず、毎日ただ目の前で出されてゆく課題を消化してゆくので精一杯。
単純に偉くなりたいからじゃなくて『アイツは使えないから』と見限られるのを恐れた。
だから寝ずに勉強し、放課後は誰よりも刻印と魔術を使えるよう、必死になった。
周りに置いて行かれないように頑張ってきた自分が、単純に周りを追い越してしまっただけで、追い越してもなお――従順に走り続けた結果が、いまの彼女であった。
才能なんかじゃない。初めから備わっていたものじゃない。擦り切れて疲れてしまうくらい悩んで。みんなの目が怖くて、でも頑張っているように装うのは嫌で。頑張っているフリをしてまで自分に嘘をつくのは堪えられなくて。本気で頑張ってきたとは違う、どこか方向性の間違った歪みのある本気さをもって、修正すら許されない、矛盾の心を抱え――魔導科で耐え忍んできた。
…………完全無欠の石蕗祈理。
いったい、いつからそんな名前が付いてしまったのだろうか。
自分が名付けたものではない。そこまで自分が立派ではないし、能力が高いとも思っていない。
何かやる度に、周りは私を褒める。その言葉言葉が皮肉に聞こえてくるような気がする。
本当は、能力の低い私を嘲笑っているのではないのか。評価されるべき生徒は他にもいっぱいいるはずなのに。私は私の周囲を取り巻く人々が怖かった。
明るい笑顔と、心が浮くような嘆賞。声をかけられればかけられるほど、自分のプレッシャーとなっていた。もしかしたら明るい声かけの裏で、私は恨まれているのかもしれないと思った。
一年生の頃から話題になり、きっと私を超えてくれる生徒が現れるであろうと期待し続け、気がつけば二年生になってしまっていた。学年が上げれば知名度は更に上がり、後輩からは入学したときから私の顔を知らずとも、名前が勝手に一人で歩いている始末だ。
イヤだった――この立場が煩わしかった。
私だってサイファーになりたくて、訓練生をやっているのではない。
この能力は、生まれついての才能でも、特別優れたものでもない。
何よりも、私に期待してくる熱が、息も出来ないほど酷く苦しかった。
他人の期待とは、必ずしも本人の許容の範囲に収まるものとは限らない。
一人一人の希望は微々たるもの。いっときに舞い上がる羽根くらいしか無い。だがその羽根が集まれば、人を潰すに足る暴力となることを、一人一人は解っていない。期待を込めれば込めるほど、その重さは凄まじく。一人が抱えるには大きすぎる。
持ち上げられて、持ち上げられて――。
気がつくと、私は自分でも降りられないほど。
高い所まで登らされてしまっていたのだ。
降りたくても降りられない。誰にも助けを求められない。
凡人の努力なのに――天才であるからと言われるのはイヤだった。
天才と一言で片付けられるほど、私の努力と苦悩は、そんな簡単な言葉で洗われるものではないからだ。
天才ならば、このような苦悩すらも呑み込めるだけの心を持っているはずだ。
たとえば……そう。ディセンバーズチルドレンのような。
怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。怖い、こわいこわいこわいこわいこわい。
この雁字搦めに問われてしまった自分を救い出してくれる人が現れないだろうか。
そんな妄想など、現実になるはずはないと、祈理は諦めきっていた。
――石蕗さんしかいない。石蕗さんだけが頼りです。
自分を殺す言葉があるとしたら、きっとそんな感じの始まり方で紡がれるだろう。
期待された果てに、私は私を持ち上げてきた人々により背中を押され、突き落とされてしまうのだ。きっとその時には、私がどれほど嘘をついて期待を持たせていたのか、一気に化けの皮が剥がれるのだ。
私は飛べない。仮に飛べるほどの力があったとしても、片方の翼しかない不完全な人間だ。
人々を焚き付けた、立派な偽翼を持っていても、双翼でないのなら意味を成さない。
例え飛べたとしても、背負わされている重みに負けて、
――私は地に叩き付けられるだろう。
………………………………。
…………………………。
……………………。
………………。
…………。
祈理が瞼を開くと、暗闇があった。
長そうで短い一日の終わり。安息が得られる数少ない時間。
二段ベッドの下で祈理はぼんやりと暗さを見つめる。手を伸ばせば届く木製天井。
目をこすりこすり、彼女はプライバシーの一つとしてベッドに備え付けたカーテンを開いた。
――素足にフローリングの冷たさが染みる。
足でスリッパを探して、両足に収めた。
ゆっくりと暗闇の中、立ち上がってリビングへと向かおうとしたとき。
「だぁむ……それ。――き、ゅうり。ちがう……き、キーウィは……あっち。ぐぅ。つかまえろぉ。いけど、り」
一体どんな夢を見ているのか、ベッドの上にいるルームメイトが、カーテン開け放たれた布団の中で、奇妙な寝言を呟き続ける。
彼女を起こさぬよう、祈理はそっとリビングへと向かった。
石蕗祈理が与えられている部屋は、関原養成所が管理している学生寮エリアの一角にあるアパートの一室だ。彼女が一年生の時から同じ部屋で生活をしていて、ルームメイトも当初からおなじ。今は二段ベッドの上に寝ている彼女とは、数少ない親友という間柄であった。
コップ一杯の水を時間をかけて飲み干す。
息を吐いて、祈理は暗がりの台所に付着している小さな汚れを見つけた。きっと料理をしたときに出来たのだろう。指でゆっくり拭うと汚れは落ちて、なぞった分だけ、ステンレスの台所には体温との温度差によって出来た、白い軌道が残る。白い跡が消えるまで、彼女は時間を忘れて見入る。
完全に消えて、ステンレスの艶が戻ると、彼女は自分の足を見た。
――片方は飾り気のない自分の青いスリッパ。片方は友人が履いている、巨大なカエルの頭が付いたスリッパだった。明らかに違うものを履き違えている時点で、知らないうちに疲れが溜まっているのだと、心の端で思った。
――あぁ。早く寝ないと。何時間かしたら、また学校に行く時間がくる。
学ぶことは悪いことではない。現状この旧首都が陥っている危機はよく理解しているつもりだ。知識は至要であり、挑む相手が強大であればあるほど、詰め込むべき情報量は大いに越したことは無い。
力を持ってしまったからこそ、異形に抵抗できる能力を授かってしまったのなら、戦うべきなのは仕方ないと、自分に言い聞かせている。
祈理は台所のシンクを、きゅっと握った。
指が白くなるほどの強さであったが、薄暗さで色など判別できない。
すこし痛いくらいが丁度いい。この震えをごまかせるくらいには、自分を御したかった。
――こんなのは間違っている。なにも……なにもしていない私たちが、どうしてこんんなにも悩み、苦しみ。人外の生き物が跋扈する死地に赴かなければならないのか。
誰もが感じている疑問を、誰も声を大にして言わないのは。みんながまだなにも知らないことを良いことに、全てを丸く収めて正当化し、作りあげた籠の中で――『コレが日常なのだ』と暗黙の元に囁いている制度のあり方、そのものなのだ。
一年も同じ環境で生活をしていれば、もはや異常は日常になっていた。
それら異常のなかの中心で、みんなを振り回しているようにも思えた。
私は……誰かが世界を救ってくれることを望んでいる。
本当に汚く、身勝手でズルい考え。でも――年を追うごとに、私の気持ちは強くなる。
サイファーの誰かが、異界にある爆心地に到達し、穴を塞いだ吉報がくるのを願ってやまない。私なんかがサイファーにならずとも、もう終わったのだ。戦わなくていいのだと。
肩を叩いて、大丈夫……もう気にすること無いんだよと。言って欲しい。
「……………………………………ぐす」
ずっと思考に没頭していたからか。
不安定となっていた感情がそのまま、涙になって溢れてしまった。
――コレが、私の弱さであり。
――もう誰にも話すことのできない、私の小さな心。
誰も私に弱さなんか望んでいない。
弱くてもいいんだよと、言ってくれるひとはいない。
自分にはない完璧さと、高潔さを望み。
ソレを求め、追いかける目印が欲しいだけ。
私は道化の看板を背負って、踊り続けなくてならない。
気がつけば履かされていた『赤い靴』
この身に潜む、弱さや脆さを隠しながら、
きっと、この身が壊れるまで。
――私の未来は、望まぬ方向へと踊り狂い続けなければならないのだろう。