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留歌子はつくづく思う。あんな態度を取られてどうして怒らずにいられるのだとうか、と。
逃げる事をしないから、決して臆病なんかではない。
自分自身を強いと言わない。……実際、彼の腕っ節は訓練を見ていたときからわかっているが、それほど強いわけでもない。どれを取っても平均以下。おまけに生徒の誰もができる魔力の取り込みをできない時点で、普通よりも大きく劣ってしまうなんて、最弱も甚だしいデメリットを背負ってしまっていた。
様々な不都合を抱えているというのに、彼は絶対に逃げるような事をしない。むしろ……難関の壁が現れたら乗り越えずには居られない性分なのだ。悪く言えば無鉄砲にして自らの力を弁えない愚蒙な男。――よく言えば、自分の欠点をなんとも思わず、自分を信じて貫き通す意志の強さを持った人間。
二言目にはふざけた道化の態度を見せるが、その真なる部分は、道化などではないのだと、留歌子は解っていた。だから彼が、本気で困っていたら手伝ってあげたいし、壁を乗り越えたいのであれば、手伝わずにはいられない。
「…………あっちでも、なんかやってるぞ? お盛んなことで」
「うわー。なんか今にも殴りかかりそうな感じだね」
校舎の前。生徒たちが通学路として使用している通り道なだけに、早朝は人が多い。
そこで、生徒間のトラブルが起これば、人集りが出来るのは当然のことで……。
野次馬の中心には――二人の男子生徒。留歌子と宗二郎もそんなギャラリーの中に入って事の成り行きを見守る。
遠くからだと、階級を確認できないが、魔導科の〝円環〟と普通科の〝逆三角〟がお互いの肩に収まっている。そうであれば、もうトラブルの概要は、わかったも同然だった。
朝から聞くに堪えない罵詈雑言。
宗二郎からすれば、どっちもどっちである。最初に始めた方が悪い。しかし突っかかれた方も寛容になって無視でもすればいい。お互いが一歩引くだけで、心がぶつかり合うことなど無いというのに。
つかみ合った両者は、口だけでは飽き足らず、ついに殴り合い取っ組み合いでも始まりそうになろうかという時。
「貴方たち。何をやっているんですか?」
宗二郎たちとは逆の方から、透き通った女子の声が聞こえた気がした。
……二回目に『やめなさい』と言った時には声を張った訳でも無いのに、よく聞こえた。
何故なら、最初の一声で、つかみ合っていた男子生徒のみならず、ギャラリーから漏れ出ていた話し声すらも、喉の奥に引っ込んでしまったからである。
前にいた生徒の背中ごしに、宗二郎も争いの中心に歩いて行く女子を見る。
「…………あ。あの人」
宗二郎には見覚えがあった。
昨日の夕方。誰も来るはずのない橋向こうの河川敷に現れた女生徒。
人を憶えるのは苦手だが、あの場所で出会った人間は強く印象づけられていた。
自分を覗き込んでいた瞳は、黒とは違う、どこか緑がかった変色をしていた。
優しそうな目とは打って変わって、いま居る彼女は表情が固い。温かさを取り払った機械的にして冷たい目つき。
そして、どこか他の生徒たちとは違う空気を纏わせていた。
第一印象に刻みつけられる、半分の前髪が外に跳ねている姿。
ストレートの黒髪が歩くたびに動く。
「公然でなにをやっているのですか、貴方たちは。まずはその掴んだ手を離しなさい」
女生徒が言うと、二人は口答えをする余裕もなく、手を離して地面を見つめ縮こまる。
そこからは一方的なお説教が始まり、やっと周りを囲んでいたギャラリーが、バラバラと崩れて校舎へと流れていった。
「でた……〝完全無欠の石蕗先輩〟だ」
「ふぅん。完全ねぇ。――で、何者? すごい貫禄ですけども」
「宗二郎って、他校の生徒? 関原じゃなくて、旧三鷹訓練所に居たとか? 入学式までアタシと一緒だったのに、なにすっとぼけたこといっちゃってんのよ」
留歌子は本気で知りませんと言った顔をする宗二郎を見て、演技じみた溜息を吐き出す。
「二年生魔導科。石蕗祈理。アタシも詳しくは憶えていないけどあの肩の〝二重円環に六角〟の紋章はそこらの生徒じゃ、まず付けていない。いわゆるエリートな四文字熟語をこれでもかーって詰め込んで、ごった煮状態にしたら、あんな先輩が出来上がるってわけ。すごく有名。見た目キレイカワイイから、人気はなおさら。あんな感じでクールな人だから人気があるのかもね。普通科のアタシが知ってるくらいだもん。誰でも知ってるんじゃないかなぁ?」
「へー。俺とは全く関わりない人だってのは判った。…………ちなみにルカ子。あの先輩を例える四文字熟語ってどんなのがあるんだ?」
「………………うーん。塩鯖定食? すごくしょっぱいし、いつでも焼きたて。迂闊に食べると、素人は火傷するぜーみたいな?」
「熟語かどうかは怪しいとこだが、焼き肉で来ないところがさすが。……チョイスが渋いなルカ子さん」
「でそぉー? 魚ってあんま出回ってないけど、美味しいところしってるから、今度いっしょに行こ」
「そだなー。善処しときましょうか」
くだらない会話に変わる頃には、もうほとんど野次馬は残っていない。
二人も流れに逆らわず、自らの教室へと足を運ぶのであった。