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………………冷たさの、ようなもの。……なにも感じない。
なんの抵抗も出来ないまま〝無〟になる感覚は、今でも昨日のことのように思い出すことが出来る。きっとこの思い出は……一生、俺の中に残り続けるのだろうと思う。
昨日の事のように回想できる理由は――よく見る夢にある。
八年も前の出来事を、どうしてこんなに夢見るのかというと、
きっと、俺の人生の中でも、特に鮮烈なものとして、脳裏に刻み込まれているからであろう。
――そして、今夜もまた、あの光景から、夢の繰り返しは始まる。
「…………おはよう。ここがどこだか判るかな?」
視界は霞みきっていて非常に悪い。俺は起き上がろうとするも、体が上手く動かせない。
全身が締め付けられているような状態。唾液はほとんどなくて、口の中が苦い気がする。
左の視界が……ない。
まだ判断できない。
何があったのか。
俺はどうして、寝ていたのか。
――嗚呼。変わらぬ繰り返し。苦しさまでも再現されているような体験。
目覚められるのならば、いまココで目覚めてしまいたい。
「ここは病院だよ。まず名前を教えてもらえるかな?」
少しの間があって、俺は自らの名前を言う。
満足そうに、相手はどこかホッとした表情を作った。
自らが医師であることを説明した男はキャスターが付いた移動型のシャウカステンの電源を入れると、白色のボードに柔らかな明かりが点く。そこへレントゲン写真を貼り付け、俺に見やすいよう近づけた。
「動くためには、まだリハビリが必要かもしれないが、君はとても幸運だったんだよ……五日前――あ、つまりきみが巻き込まれた爆破事件は憶えているかな?」
「ばく……は?」
どれだけ眠っていたのか、満足に声が出せない。
五日前――すると、年越しすら終わって新年の緩やかな始まりを、俺は病院のベッドで過ごしていたということになる。
「うぅ……う……ぅ?」
もう一度、起き上がろうとして腹に力を込めるも、やはり十分な動作が出来ないでいた。
痛みは無いのに……どうして身体が動かないのか。
いや、違う――感覚がないのだ。手足の感覚が無い。
視界が左の視界がないのも、何かに遮られているからではなく、視界そのものが機能をしていないのだ。
とにかく生きていることの安心感よりも、いま自分の身に何が起こっているのか、それだけが気がかりであった。
医師は身体に写り込んでいる、奇妙な白い粒を指さしながらゆっくりとした口調で話を続ける。
「何か覚えている事はないかな? 君は荒川の河川敷近くで倒れていたんだ」
何も知らない。どうしてそんな所に居たのかも。俺は言葉に出して言おうとするが、口の近くにも巻いてある包帯の締め付けが、タダでさえ鈍くなっていた唇の動きを止めさせていた。
「この白いのは、破片だよ」
「ン…………へ、ん?」
身体に写り込んでいるのが破片であるとしたら、その破片がいまどこにあるのか……。
まだ混乱と、まだ身に起こった事に対する明確な思考判断が出来ないでいた。まだ時間が欲しい。目が覚めたばかりだというのに、押し込まれてくる情報が多すぎた。今は何日だったか、何日間眠っていたんだったか――三日だったか、六日だったか? 今日は何日目になるんだか。
ああ、そうだ。身体の話をしているんだった。
爆発、巻き込まれた。すると怪我をしたのか? だから病院か。でも痛みがない。
視線はせわしなく、天井と近くにある医療機器と、カーテンと医師とを、行ったり来たりさせた。一番目立つレントゲン写真は出来れば見たくなかった。身体に分散している真っ白いのは、どう考えても異常としかいいようが無い。気持ちが悪くなる。何かの冗談であると思えるほど満遍なく点在している。自分の身体を透過させたものだとは考えたくない。一方的に突きつけてくる現実が怖かった。
「破片。……ん。なに、が……中に、入っている、んですか。俺の――中に」
もう説明されたから破片が入っているのは解っている。問題はソレが何であるのかを知りたかった。鉄片なのか礫なのか。全身がドクドク波打っている脈を感じるのは、破片とやらのせいななのか……。身体が動かせないのも、写真に写り込んでいるそれらが悪さをしているのか?
……この左目が見えないのも、どうしてなんだ。
――この頃は、絶望に打ちのめされ、安らぎなんてなかった。なにもしていないのに、不条理な運命に対して、俺は辛さと悔しさで涙を流していた。身に起こったことを回避できなかった自分。身体すら起こすことの出来ない脆さ。医者が通告する現実を許容することのできない弱さ。無力が全身に駆け巡っていた。
天井が涙で歪む。こぼれた雫が包帯に吸い込まれて、温かさが頬にひろがる。
…………そんな、温度を感じた気がした。
痛みを感じないということは、温度も感じられないということ。神経は俺にとって都合の良い損壊をしていなかった。先の人生に、希望が感じられなかった。きっと誰かが掬ってくれた希望を、心に流し込んでくれたとしても、俺の気持ちが温かく感じ、満たされることはないだろう。
「とにかく、まずは時間をかけて良くしていこう。いいですね? 東堂さん」
なんとかして、俺の心の中にある、一縷の希望を掘り起こそうとする医師。
そんなものなんか、もうあるはずない。彼の声など心にすら届かない。
……なにも感じなくなってしまっていた手足と同じように。
俺の心は深く凍り付いてしまっていた。
ただ、あの夜に聞いた最後の声は……鮮明に残っていた。
――『生きろ。お前が救え』
意味はまるで判らず、生き残った自分すら救われない状況。
そんな言葉を投げかけた相手に、当時の俺は憎しみしか湧かなかった。