コーヒーの香りはあの人の香り
あぁ、寒いな。
十二月のある雪の日、俺はいつもの帰り道を歩いていた。
なんてことの無い、いつも通りの日だ。
大学の講義を受けてそのままバイト先に行って、なんてことの無い業務をこなしてきた。
いつもならさっさと帰ってゆっくりしたいため寄り道などしないのだが、その日はなんとなくすぐ家路につくのが惜しく思えて少し遠回りをして帰ることにした。
普段通らぬ道を行き、イヤホンから音楽を流して薄いコートのポケットに手を突っ込みながら俺はこれといった寄る辺もなくフラフラと雪の振る暗い空の下を歩く。
その途中で俺は一軒の本屋らしき場所を見つけた。中はあまり見えないが店構えとわずかに見える蔵書の感じ、「営業中」と立てかけられた看板からおそらく本屋だろうと踏んだ。雪で文字がよく見えないが看板も立てかけてある。店であることは間違いない。
本自体は小さい頃からよく読んでいたしなんなら最近は自作の小説を書いたりしている。これも何かの縁と、折角だから立ち寄ることに決めて古びたドアを開けた。
「いらっしゃい」
カランカランとドアに付いた鈴の音が鳴って、このお店の人が俺に声をかけた。
いざ入った店内は完全に本屋のそれとは全く違って、簡単に言えばカフェだった。
申し訳程度の本屋要素としてカウンター席の隣に本棚が幾つか並んであったがそれ以外はコーヒーのいい匂いがするごくごく普通のカフェだった。
「あ、もしかして、本屋だと思って入ってきちゃいました?」
長くて綺麗な黒髪を持つ赤い眼鏡のそのお店の人は俺に申し訳なさそうに聞いてきたため、素直に「はい」と答えた。
「ごめんなさい。この場所前まで本屋さんで、そのまま使っちゃってるの」
「そうだったんですか、てっきり本屋だとばかり」
「一応看板立てかけてあるんだけど、最近この時間暗いし雪降ってるから気づかないよね」
なるほど。そうだったのか。
ちらりと入り口付近を見るとちょうど小窓のあたりに本が積み重なっていた。
完全に早とちりをした。
「もしよかったら、コーヒーかなんか飲んでいきます?」
「では、折角ですので」
「はい、じゃあこちらのお席へどうぞ」
しかしながら一度入ってしまったお店、「じゃあいいです」なんてこともいえるはずもないし、こういった喫茶店には一度行ってみたかったのでよしとする。
店員さんに促されて、俺は店員さんの目の前のカウンター席に座った。
「はい。こちらメニューです」
差し出されたメニューにはコーヒー類から紅茶類、サンドイッチなどの軽食やケーキなどのスイーツなどそれなりに充実していた。
「……じゃあ、ブレンドコーヒーと自家製チーズタルトを」
「はい。砂糖とミルクはいる?」
「いえ、大丈夫です」
「大人だねー、私まだどっちも入れないとダメなんだ」
店員さんはそう言いながら手慣れた手つきでコーヒー豆をコーヒーミルで挽き、カウンターの奥にあるサイフォンのところへと持って行った。店員さんが重なっているせいで何をやっているのか詳しくは見えないが、それが逆にわくわくする。
それから店員さんは冷蔵庫からチーズタルトを取り出し、順に目の前においてくれた。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーとチーズタルトです」
「ありがとうございます」
立ち上る湯気とともにコーヒーの良い匂いが漂う。
コーヒーを一口すすり、その美味しさにほっと一息ついてケーキを一口。ほどよい酸味がこれまた美味でコーヒーとの相性も抜群だった。
「……美味しいです」
「そう? ふふっ、良かった」
「何というか……落ち着く味です、凄くリラックスできます」
「やった」
温かいコーヒーが喉を通って体全体に染み渡り、温かさが体全体を巡って俺の体温を上げた。
店員さんは俺がコーヒーとケーキを食す姿を凄く嬉しそうに見て、ニコニコとしていた。
俺はコーヒーを飲みながら、怪しまれないように目線で店員さんを見た。
近くで見ると、凄く綺麗な人だなと思ったのが素直な感想だ。
艶がありサラサラの黒い長髪、赤いアンダーフレームの眼鏡でまつ毛が長く、右目の下には泣きぼくろあって、喋り方や雰囲気もなんだか安心するような感じの、そんな人だ。
綺麗で温かみのある人だけど儚さも抱えているようで、街中で見かけたらまず間違いなく目で追いかけてしまうだろう。
「学生さん?」
「はい、大学三年です」
「てことは……二十一歳かな?」
「はい、つい先月になりました。店員さんは?」
「女の人に年を聞くもんじゃないよ」
「あ……すみません」
「ふふー、いいのいいの。私は二十三、明日で二十四になるの」
「おめでとうございます」
「ありがとう。君、年の割に結構大人っぽいって言われることない?」
「ええ、たまに」
「やっぱり。今の若い子って感じしないもん」
「褒めてるんですか、それ」
「褒めてる褒めてる」
あなただってかなり落ち着いた人ですよ、とは返せなかった。
それから俺と店員さんは話を交えながらこのあたりさわりのない話をして、コーヒーをおかわりしてケーキを食し、とても良い時間を過ごした。年上のお姉さんとの冬の日に二人きりで話す。とても良い。
それでも終わりはある、俺は最後のコーヒーを喉の奥に流し込んで、ふぅと一息つく。
「ご馳走様でした」
「三杯目はいる?」
「いえ、そろそろ帰ります」
「そっか」
「いくらですか?」
「いいよいいよ、今日は」
俺がリュックの中から財布を取り出して代金を支払おうとすると、あろうことか店員さんは受け取るのを断った。
「えっ、いや、えっ?」
「今日はサービス。本屋だと思ってきちゃったのを私が呼び止めちゃったんだから」
「いやいや流石にそれは」
「んー……じゃあさ、また明日も来てよ」
流石にそれはお店としてどうなんだろうかと思ったが、直感的にこのやりとりはイタチごっこになりそうな気がし、折角の好意ということもあってここは店員さんの言葉に甘えることにして財布をしまった。
お店のアンティーク調な壁掛け時計の針は午後八時半時を指しており、大体一時間ちょっとこの店にいたことが分かった。
俺はマフラーを首に巻いてお店のドアに手をかけてぐっと押す、カランカランと音が鳴り、目の前には真っ暗な外の世界が目に飛び込んできた。幸いにも雪はやんでいる。
「あの」
「ん、なに?」
俺はドアを少し開けたまま店員さんの方を振り返った。
「明日は、誕生日プレゼントを持ってきます」
「……うん。楽しみしてるね」
店員さんはにっこりと微笑み、俺は鼓動が高鳴るのを感じた。
店員さんはフリフリと俺に手を振り、若干の戸惑いを見せながら俺も手を振り替えした。
俺はドアをさらに開けて、店を出た。後ろからはドアの閉まる音とカランカランという音が聞こえた。
さっきの胸が高鳴りが何なのかは分からない。女性慣れしていないせいか不意の笑顔にやられたのだろう。一目惚れ……なんてことは無いと思うがあれだけ綺麗な人だ、惹かれていてもおかしくはない。それにまたあの人に会いたいと思っているのは確かだ。
誕生日プレゼント、か………
数十秒前の自分の発言を少々後悔したが口に出してしまったものは仕方ない。
女性の人に贈り物をするのは初めてだから勝手が分からないが明日はバイトが休みだ、講義も午前だけだし選ぶ時間は十二分にあるはずだ。
覚悟を決めて俺は、黒に染まった空の下、白に染まった道を歩く。
プレゼントのことや明日のことを考えると少し早歩きになる。
早く明日が来て欲しくて。
コーヒーの香りがするあの人に会うために、早く今日を終わらせたくて。