命の秤
ある夜の事、背中を丸めた男がとぼとぼと道を歩いていた。
男の名は、皿井・利満。くたびれた紺色のスーツを着た彼は足を止めずに右手のスマートフォンを見つめていた。画面の中では表情豊かな少年少女が鮮やかな姿で戦闘を繰り広げていたが、しかし利満の表情は暗く沈んでいた。まるで決められたルーチンワークをこなす機械のように片手を動かしている。
……単なる気晴らしだ。
きっかけは仕事の失敗だった。ミスをすると上司から叱責を受ける。それは当然だ。だがそれが毎日続いた結果、自分は変わってしまった。いつのまにか上司は自分にだけ厳しく当たるように感じた。会社に居るだけで苦痛を感じた。家に居てもその小言が頭の中で反芻されて何も手に付かない時さえあった。
そんな時に利満はそのゲームに出会った。簡単に始めれて、どこでもできて、すぐにレベルアップできる。ミスをしたてもやり直しが効く。気付けば仕事以外の時間はゲームに費やしていた。
その集大成がこのパーティーだ。
利満がキャラクターに指示を出すと、少女は神秘的なモンスターを召還。そのまま強力な魔法を放って敵モンスターのライフゲージを吹き飛ばした。
『クエスト・クリア!』
輝く文字が中央に浮かんだ。利満は慣れた手つきで挨拶の言葉を選択した。
『お疲れ様』
すると続けて別のメッセージが連続して浮かび上がった。
『ありがとう!』
『助かった』
『強すぎぃ!』
『ありがとうございます!』
それは一緒に敵モンスターを攻撃していた仲間のものだった。苦戦していた彼らに助太刀した利満への賞賛の言葉が画面を埋め尽くした。だがそれを見ることなく、利満は次のクエストを探しに部屋を後にした。
華麗な戦闘で戦友を沸かせたにも関わらず、その表情は変わらず退屈そうだった。
……今日のノルマはあと十五戦って所か。
数メートル隣では何台もの車両が彼の横を行き交い、その都度眩いヘッドライトで利満を容赦なく照らしていた。一方で彼は、そんな事は日常なのだろう。スマートフォンの中の世界以外はまったく気にも留めていない。
けれど利満はふと顔を、ちらりと上げた。
目線の先は、交差点の信号機。
運悪く黄色、そして赤へと移り変わったそれを見て、横断歩道の手前で足を止めた。
そしてまた手のひらの上に広がる世界に没頭する。
だが次の瞬間──
「えっ……?」
車が停止して静寂した一体に似つかわしくない騒音に、音の方向へ顔を向けた。
トラックだ。
ギラギラとランプで飾り付けたその車は交差点に侵入してもまったくスピードを緩めることなく、利満を目がけて突き進んでいた。
だが利満は、その場から逃げる事もせず、恐怖に凍りつきさえもなく、驚き慌てふためくこともなく──
「ああ……」
迫り来るトラックを見つめて嘆息をした。
もう仕事をしなくていいんだ、と。
◆
「うっ……」
わずかな呻き声と共に利満は目を覚ました。
視界には、白い天井。
体を起こそうと上半身を持ち上げると、関節が軋む音と全身に鈍い痛みを感じた。床に突っ伏して寝た翌日に似たような症状が起きた記憶があるが、それ以上に体が重く硬くなったようだった。
諦めて枕に頭を預けて一息、今度は少しずつ首を動かしてみた。
左手には白い壁。
右側にはベッドを囲う白いカーテン。
そして可能な限り首を動かして一つの状況が分かった。どうやら部屋の隅のベッドに寝かされて、二つの面を壁に、もう二つの面をカーテンで囲われているようだ。
「これじゃあ、何も分からないじゃないか」
だが見覚えのない場所なのは確かだ。
雰囲気から察するに病院の一室だろう。生憎これまで生きて入院するような大事になった事がないので、想像ではあるが。
それから数十分ほど立つと来客が現れたが、彼女は口に手を当てて驚き、すぐさまどこかへといってしまった。そしてさらに十数分後、再び訪問者がカーテンの内側へと入ってきた。
「ええっと、サライさん?」
「はい?」
一人は白衣を着た小太りの男。部屋の蛍光灯を照り返す頭が特徴的で、人当たりのよさそうな柔和な笑みを浮かべていた。もう一人は真っ白なナースウェアに身を包んだ看護師の若い女性。十数分前にも見た顔はどこか緊張した面持ちだった。
「調子はどうだい?」
「あー……、体が──」
「動かないの?」
「いや、かちんこちんで。動かすと痛みが」
親しみやすい口調で話す医者に、利満はその時の痛みを思い出して苦い顔で答えた。
「うんうんなるほどね。今は右腕と左足治してる所だから、動かしちゃだめだからね」
医者はペンをさらさらと走らせて、
「お仕事は何をされてるの?」
「そのカルテの、名前の所に書いてないですか?」
「うん? サライ、トシミツ、サン?」
「皿井利満って」
自分の名前と『サラリーマン』をかけた持ちネタだ。自分は初見の相手には毎回これをやるようにしていた。
「サライリマン……ああ、サラリーマンね、ふっふっ」
「ぶふっ」
人生経験が豊富そうな医者は口角を少しばかり上げて鼻で笑いながら再びペンを動かした。
対して付き添いの看護師は堪えきれず、口元を押さえながら顔を逸らして笑い声を抑えた。ツボ(・・)にはまったのか、一分近く体を震わせて笑っていた。
そして何気ない会話をいくつかしてから、医者はまた来るといってカーテンの向こうへ消えていった。
自分がここに居る理由は教えられなかった。
◆
何時間かすると、再び訪問者が現れた。今度は自分が世界中で、最もよく知る人物だった。
「調子はどうだ、利満」
白髪交じりの男は震えた声でそう言った。
「うん。まあ、ボチボチだよ。父さん」
利満の言葉を聞いて、男は涙を流して崩れ落ちた。
彼は、自分の父。皿井和夫。
利満が近くにある椅子を勧めると、和夫は眼鏡を外してハンカチで目元を押さた。カーテンのこちら側へ来た時には既に目元を腫らしていたが、それでも「よかった、よかった」と言いながら自分の前でひとしきり泣いた。
しばらくして落ち着くと、今度はそわそわと果物が盛られた籠からリンゴを取り出し、まだ思うように体を動かせない自分に切り分けて食べさせてくれた。
少し顎が痛いが、久々の食事と実父の優しさに利満は頬が自然と緩んだのを感じた。
「父さん、俺、今どうなった?」
「……腕と足の骨折、だそうだ。それだけですんで運が良かったと、当たり所が良かったと先生は言ってたよ」
「じゃあ……俺、何日寝てた?」
「……一週間だ」
一週間。働いていれば一瞬に過ぎる時間だ。だがそれが意識不明の息子を待つ時間だとすれば、父親にとっては長い戦いだったろう。
だが一週間でよかった、と利満は思った。神様の気まぐれ一つによっては『一週間』が『一生』に変わっていたかもしれない。そうと思うと背中にぞっと寒気を感じた。
でも、今は生きてる。
その実感を感じ取ろうとリンゴを噛み締めて、こくりと喉に果肉を流した。
「どおりで。リンゴがおいしい訳だね」
「ああっ……。まだある、どんどん食え……!」
泣きそうな顔で和夫はもう一切れを爪楊枝でとって差し出すと、利満は目じりから一筋の雫を作りながらリンゴを口に咥えた。
◆
数日後、利満が眠りを誘う気温に呆けていると、和夫と共に一人の冴えない客が狭い彼の部屋へと訪れた。
「はは、どうも……葦原といいます」
長身だがひょろっと頼りなさを感じる細い外見の、地味な服の男。
和夫は男を、自分の『事故』を担当している警察だと説明した。
「ええ、まあ。といってもあの交差点は交通量が多くて、当日も目撃者が何人も居たんで。あくまでも今日は確認だけですが」
「確認、ですか」
「ええ。例えば、信号がどうだったのかとか。ぶつかったのは歩道でなのか、車道でなのか、横断歩道の途中だったのか、とか。ああ、気分が優れないようでしたらまた後日うかがわせていただきますんで」
そういう葦原の横から、和夫は不安そうな目で利満を見て、
「……利満。その、なんだ。無理はしなくてもいいからな」
「いいよ、大丈夫。……話を続けてください。」
当たり障りのない質問から始まり、当日の自分の行動の説明まで。十分程度、利満は葦原と会話をした。
「なるほど……」
葦原はペン先で手帳を軽くノックしながら利満をちらりと見やると、
「今日はこの辺で」と、手帳をパタンと片手で閉じて鞄へ仕舞った。
「お疲れになるといけませんから、そろそろ失礼します」
男の言う通り、話す前とは利満の様子が少し違っていた。初めはどこか気が抜けた表情だった彼だが、終わってみると僅かに硬い面持ちになっている。
「アシワラ、さん」
「はい?」
恐る恐るという風に利満は問いかけた。
「事故は、夢じゃあなかったんですよね……?」
葦原は今更聞く内容に数秒間困惑して何も言えなかったが、疑問を飲み込んで答えた。
「はい、事実です」
和夫をに見送られながら病院を後にして、葦原はあの質問が『夢であって欲しかった』という意味を含んでいる事に、自分も今更ながら気付いたのだ。
◆
一人病室で──正確には同室の患者は居るのだが、見たことはない──利満は一週間と少し前のことを思い出し、耽っていた。
あの時自分は、死ぬ事を選んだ。
ありふれた社会の歯車の一つとして働き、くたびれ、潰されながら生きていく人生もあった。だがそれよりも小汚いアスファルトの上で轢かれ、引きずられ、鉄の塊にすり潰される最後を選んだ。
だが実際には、全てが中途半端のまま。
目が覚めて一部始終を聞いて、一番受け入れがたかった事はそれだった。
体の方は、一週間寝たきりになって、片腕と片足が折れてるだけだ。検査が終われば退院して松葉杖をかりて普通に生活ができるそうだ。
仕事もだ。父いわく、自分は休職扱いになっているだけだそうで、退院して利き腕が使えるようになれば会社へ戻らなければならないのだ。
二番目に受け入れ難いのは、父に苦労をかけた事。
自分が目を覚まして初めてみた父親は、生まれて初めて見た顔をしていた。車に轢かれたと知らされて、意識不明と聞いて、さぞ心配した事だろう。もう父が苦しむ姿は二度と見たくはないと思うくらいに自分の中でのショックは大きかった。
退院した後は暫く父の住む実家に厄介になることになっている。そこでもまた苦労をかけることになるだろうが、これを最後にしたいと俺は胸に誓った。
◆
目が覚めると、
「っはぁ──」
荒い息と共に利満は覚醒した。
シャツが汗をすって肌にまとわり付いて非常に不快だが気にしている余裕はない。慌てて体を起こし、タオルケットを蹴り飛ばす。まるで銃撃戦を転がりぬけた後のように全身を確認した。
右手は、ある。左手もだ。体も、両足も──痛みも、骨折もない。
「は、は……」
口から笑い声を漏らして天井を仰いだ。くすんだクリーム色の壁紙が涙目の瞳に映る。
息を整えながら利満は周囲を見回す。自分が寝ていた薄っぺらな布団。寝る前に読んでいた、床に散乱したコミック。電源を入れたままの埃かぶった時代遅れのパソコン。
「そっか──」
ようやく落ち着きを取り戻した利満は、状況を理解した。
ここはカーテンの中の世界じゃあない、現実なのだ。全て夢だったのだ、と。
いや、
「夢でよかったんだ……」
夢の中で自分は死を選んで後悔していた。
「選ぶ所か、そもそも選択すらしていなかったっけか」
それでも、生きる事を諦めてもきっといい事はないのだろう。必ずしがらみがどこかに残るのだ。
「それにしても、仕事を辞めれなくて後悔するなんて、夢の中の自分はえらく自分勝手だったな」
夢とはいえ自分のした事が奇妙で思わず自嘲気味の笑いをこぼれた。床に置かれた愛用のスマートフォンで曜日と時間を確認して、利満は立ち上がった。
……今日は月曜日だ。
いつも通りのルーチンワーク。
顔を洗って、朝食をとって、着替える。数え切れない程繰り返した出勤前の支度を済ませて、利満は背広姿でアパートの部屋を出た。
ひんやりとした朝の空気の中、鍵を閉めながら一人ぼやく。
「今日仕事が終わったら……昔の友達を飲みに誘おうかな」
……それで近況報告でもしよう。ついでに仕事を紹介して貰うのもいいかもしれない。
とりあえず今の会社は辞めよう、と決意を固めて、男は今日も会社へ向かう。
仕事が終わって帰宅する途中で主人公のようにとぼとぼグラブルしながら思いつき、むしゃくしゃしてストレス解消になればと書きました。
生きる・命を大切にするというのは、もしそれが逃げる事だとしても何よりも優先すべき大切な事なのだろう、投げ出してもきっといい事なんてないのだろう。そう思ってこういう話にしました。