目覚めると、ベッドの中だった。
目覚めると、ベッドの中だった。乗馬帽をかぶっていたとはいえ、頭を打ったはずだと、まずは動かずに目線だけで辺りを見る。
見上げれば、寝かされているのはなんと、天蓋付きのベッドだ。菫色の天幕は金の房で縁取られ、頭上に高く伸びる柱はマホガニーで蔓の絡まるような彫刻が施されている。随分と重厚なデザインはバロック調だろうか。ベッドヘッドの左右には棚か箪笥のような家具が、足元の向こうにはビューローやドレッサーらしきものも遠くに見える。
左手からは陽光が差し込んでいて、大きな窓があるようだ。右手には応接セットらしきもの。部屋があまりに広過ぎて目線だけでは何もかもがはっきりしないが、品のいい内装の広い部屋は、どこかの豪勢な別荘のように思われた。
有名な避暑地だ、合宿地のそばにそんな建物はいくらでもある。おそらくここは、そのうちのどれかなのだろう。掬い上げた子供か事故を起こしかけた自動車、どちらかの関係者かもしれない。病院ではなく何故とは思ったが、室内の豪華な様子からして或いは、医者が往診に来てくれた後なのかもしれない。若干体がきしむくらいで、そこまでのダメージを覚えないことから、きっと安静にしていれば大丈夫との診断が下ったのだろうと見当をつける。
ならば、と首をそっと動かして、左へと向いてみる。明るい光は、テラスへと続く大きな二連のフランス窓からのものだった。外はいい天気だ。青空の下、ティーテーブルが置かれているのが見える。あんなところで過ごすティータイムはさぞ優雅なことだろう。
頭に痛みは感じない。麻痺や痺れの気配もないが、用心しつつゆっくり首を巡らせて、今度は右側を向いてみた。
右手にはソファセット、その奥には扉が二つ、壁にはタペストリーが飾られている。足元の方に見えていたのはやはりドレッサーで、横長の鏡が優雅な曲線を描く金の彫刻で縁取られている。
よし。次は体だ。腕に力を入れてみると、かけられていた薄く柔らかな布団がふわりと持ち上がる。ついで膝を立ててみると思ったよりも軽やかに体が動いて、つい調子づいてそのまま身を起こした。
勢いがつきすぎて、やりすぎたかとはっとしたものの、なんの異変もない。私がこれだけ無傷なら、あの子供は問題ないだろうとほっと胸を撫で下ろす。
なんだろう。むしろ、普段より調子がいい。体が妙に軽く、きしみは若干あるものの、それを上回る清涼感がある。とても落馬した後とは思えない。勢いのままに軽やかに窓の側へと寝台を降りると、寝間着の裾がひらりと纏わり付いてきて、自分がネグリジェを着せられている事に気づいた。
淡く差し込む日の光に照らされる光沢のある薄い生地は薄紫で、おそらくシルク。摘まんだ裾のとろりとした絹の感触に驚いて、次の瞬間、その摘まんだ手が見慣れたそれとだいぶ違う事に、思考が停止する。
ん?
やけに幼い。どう見ても子供の手だ。とても自分とは思えない。子供特有の瑞々しく柔らかな肌は白く、爪は磨いた桜貝のようだ。目を疑って、自分の掌を目の前にかざす。その動きについてくるのだ。肩から腕から繋がっている。どうしたって自分の手なのだが、どうにも信じられない。
はっとして両手で、ネグリジェをつまみ上げてみた。裾から覗く裸足も腕と同じに白く、ほっそりしているのにふっくらとした、子供の足だ。
……ということは、まさか、顔も?
焦って、さっき見たドレッサーへと飛んでいく。飴色に磨かれたウッドモザイクの床が、ぺたぺた鳴って裸足に冷たい。
そうして。
食らいつくように覗き込んだ鏡の中には、予想よりもずっと低い位置に、呆気に取られた顔の見知らぬ少女がいた。
どう見ても幼い。どう見ても白色人種。全てが変わりすぎて、もうどこに驚けばいいかわからない。
アラベスクのような透けた雪肌に、髪はゆるふわプラチナブロンドが胸元辺りまである。瞳は明るい菫色、睫毛も白金、唇は淡い薔薇色。目の覚めるようなとびきり麗しい顔立ちで、小学生くらいの立ち姿は、ハリウッド子役レベルじゃおさまらず、天使もかくや妖精もかくやといった様だ。
ぽかんとしながら、長くなった髪の先を引っ張ってみる。元々は、肩にかかる程度のごく一般的な髪質でしかなかったはずだ。少々女らしさにはかけるものの、どこにでもいる日本人女子大学生だったはずの私が鏡に映った姿が、コレだとは。まったく理解がついていかない。
しかし、だ。
しげしげと眺めると、どことなく、自分の顔で間違いはないとわかる。瞬きや口パクに鏡がついてくることもあるが、目つきや表情の作り方が、これが元々の自分の顔をベースにしていることを教えてくれる。
というか、この顔をベースに薄めて伸ばして平均的日本人の顔を作ると私の顔になるといった感じだろうか。バランスの崩れたベースをブラッシュアップしてもここまで綺麗には整わないだろう。整ったベースを劣化させた、と考えた方が自然だ。
あどけなくもきりりとした、絶世の美少女だ。ただし、可愛らしいというよりは凛々しいというか、むしろ、美少年と見紛う方向で。その点が最も、これが自分の顔だと認識した所以かもしれない。髪の長さに助けられてはいるが、なんというか、今の自分は立ち姿込みで、"'美少女にしかみえない美少年'にみえる美少女”だった。中性的というか無性的というか、その曖昧な美が、天使や妖精を連想させたのだと思う。自分で自分を天使だ美少女だというのは大変居心地が悪いが、そのなんともいいがたい残念さだけは、実に自分らしかった。
あぁ、これが私か。
事態を当たり前のように受け入れ、一息ついて、不意に気がついた。そんな現実があるはずもない。あれだけの落馬をして無傷というのもおかしい。おそらく、したたかに頭を打って、昏睡状態で見ている夢なのだと、ようやく気がついた。
肉体も精神も、五感のすべてが、これが現実だと訴えているので騙された。昏睡状態の脳のなんとすごいことか。何より、自分で自分を美少女に仕立て上げるあたり、案外自分もナルシストな部分があったのだと笑ってしまう。いや、コンプレックスの裏返しか。どうせ好きに妄想するなら、幼い頃には憧れたような、もうちょっとふんわりした愛くるしいフェミニンな美少女にすればいいのに、いらないところで現実を取り入れている。
夢ならばなんでもありかと、体調を心配するのもやめた。ばかばかしい。せっかくなら楽しまないと。なんだか心まで幼くなったかのように軽く、さっき見た外が気持ち良さそうだったなと、身を翻して窓へと向かう。ひらひらついてくる絹の感触も気持ちいい。内鍵を試すとスムーズに開いたので、外へ出ようとして靴がないことにちょっと躊躇う。テラスは碧を基調としたモザイク張りで、まぁいいかと足を踏み出す。
天気がいいせいか、部屋の床とは違う硬い冷たさが意外にも気持ちいい。広いテラスを端まで行くと、眼下には美しい庭園が広がっていた。明らかに手の込んだ庭には、現実ならきっと専任の園丁がいるのだろう。どれだけ豪華な設定なんだかと笑ってしまう。下に降りて、あの中を歩けるだろうか。本体が昏睡状態ならば早く目が覚めるに越した事はないはずなのだけど、もう少しこの屋敷を堪能してからでもいいかなと思えてくるくらいには、素敵なところだ。
時折肌を撫でていくそよ風に身を任せながら景色に見蕩れる。空気も甘く感じる程澄んでいる。
誰もいない穏やかな時間。夢の中なのに、なんだか眠気すら訪れる。と。
「エルウィン?!」
突然、鋭い声が室内で誰かの名前を呼んだ。なめらかな若い男の声だ。途端、背後が騒がしくなって、何事だろうと私はテラスの縁にもたれるように振り返った。
「エルウィンがいない! どういうことだ、衛兵! 窓が開いている! 誰も気づかなかったのか!!」
剣呑な気配。叫びとともに人影が窓の方へ駆けてくるけれど、外からはよく見えない。衛兵だなんて、インテリアにふさわしい世界観だ。侵入者だと思われるのはちょっと困るなぁと呑気に構えているのはもちろん、これがただの夢だとわかっているからだ。
「エルウィン! ……お前……」
テラスに飛び出してきた若い男性は、やはり美形の白色人種だった。二十歳までは行ってないだろう。おそらく十八歳前後。引き締まった体格に、空色の瞳と長めのハニーブロンドが、陽光に輝いている。金髪碧眼の見本のような姿の男は、目を丸くして私を見た。
「目を覚ましたのか……!」
うん? 私をあのベッドに寝かせたのはこの人なのだろうか。予想と台詞の方向が違って、どうしようと思った次の瞬間には、喜びがほとばしるような明るい笑顔で駆けてきた彼に、抱きすくめられていた。
「エル! エルウィン! 俺は、信じてた!」
ちゅっと勢い良く額に口づけられて、ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
えー!
見知らぬ男の人に、額とはいえ、キスをされてしまった。初体験だ。そのうち青年は私を抱きあげ、揺さぶりぐるぐる回りだす。呆然と振り回されて目が廻る。
「あ、すまん。喜びすぎた。起きたばかりなのに、大丈夫なのか、お前」
すとんと下ろしてもらえたのはいいが、背の高い美形の青年に至近距離から顔を覗き込まれ、咄嗟に顔を引く。すっきりくっきり整った顔立ちが、笑うと少し目がたれて甘やかな表情になる。
「……エルウィン?」
柔らかいテノールがいぶかしんで、大きな掌で、頬を包まれる。男の人にここまで接近されたことがなかった私には衝撃的すぎて、なんと答えたらいいか、わからなかった。
内心口をぱくぱくさせて言葉を探していると、私の動揺が激しいのに気づいたようで、見上げたその人は真顔になって私の背中に腕を回して促した。
「エル。ベッドへ戻ろう」
「エル、エルウィンさんって、誰ですか? あなたは?」
「お前……。覚えてないのか。あぁ、無理もない。すまなかった」
「え、ええと」
ようやく絞り出した言葉は、あっさりと受け止められた。歩きながら、ぽんぽんと慰めるように頭まで撫でられた。
そのまま室内へと連れて行かれ、ベッドに押し込まれて、置き去りにされては困ると声を上げると、椅子を持ってきた彼が、枕元に腰を下ろした。
「じゃあ、状況を説明するから、体を楽にして、横になってろ。なんてったって、お前はかれこれ八年ちょっと、ずっと寝ていたんだからな」
「えっ?」
「正確にはもっとアレだぞ。驚くなよ? あのな。正確には、仮死状態だった」
目が点になるとはこの事だろうか。落馬してから八年経ったとか? 現実と夢のシチュエーションとが交錯し、混乱する。
「お前が七歳の頃、大きな事件に巻き込まれて……そうなった。俺が十六だから、今は、十五歳だな」
「十五歳」
十五の体じゃない。どうみたってこの体格は、七歳だ。彼の方は、白色人種だからか、印象よりも二三若い。それにしても、自分の年齢との差で覚えているこの人は、身内という事でいいのだろうか。
「あの、あなたは」
「ケリン。ケリン・ケンドリック・デュー。お前の下の兄だ。ちなみに、上はアーヴィルで、弟がアルヴィス。お前は、エルウィン・ケンドリック・デュー」
「エルウィン・ケンドリック・デュー」
「そう。それが、お前だ」