2 ぼくの冬の日
12/3 修正
冬になった。故郷から離れ都会の大学に通うぼくは、新年を実家で迎えるべく、今年も一週間ほどを残した頃に帰省していた。師走と書く年末は、世間から隔絶された山間にある故郷の集落ですらも相応に忙しい。
とはいえ、既に家を離れ自由気ままな学生のぼくは、決まった仕事を請け負うこともなく、生活強度も下宿と大学を行き来するだけでやや自堕落な生活を送っている普段とほとんど変わらない。
働き者な農家の女である祖母や母、姉から簡単な家事を言いつけられる他は、大学の課題をそこそこにこなしている程度だった。今も、ばたばたとせわしない中、自室の布団の上に寝転んで講座の教授に勧めていただいた文献を読んでいる。一日のほとんどをそのように過ごし、たまに小学生の甥、姪と遊んでやるだけで朝昼夜の三食とちょっとした晩酌が着くのだから、高等遊民と言って過言でない扱いである。母たちからしても、ぽっと帰ってきたぼくなどが下手に手を出しても迷惑なのだろう。それを重々承知しているし、ぼくはこうして知識を得たり、それを元に思考をめぐらせたりといった作業が好きだったので、もちろん何も言うことはない。邪魔にならぬことが求められたありようなのだ。
布団の上で文献に記された内容に没頭していると、控えめだが集中を解くには充分な異音が耳に届いた。部屋の窓の外側からだ。カリカリと引っかくような乾いた音。縁側に続く大きなガラス戸は、冬の時分には吹き込む雪のために閉ざされていることが常だった。
昼食を摂ってからどのくらいの時間が経っただろうか。それなりに厚みのある本は、もうまもなく結びの節に差し掛かる。それを枕の上に伏せ、音の方へ向かった。サッシの鍵を外し、少しだけ戸を開けてやる。すると、僅かな隙間から毛むくじゃらの顔が現れた。
ぼくが三年前の夏に連れてきて以来、この家の住人となった猫のセキハンだ。
どうも彼は雪中行軍をしてきたようだ。拾ったときの鼠だかなんだかわからない頃と比べるとずいぶん猫らしくなった縞柄のからだに、雪の玉を鈴なりにしている。カーテン留めに掛けてあるタオルを使ってそれを拭ってやり、部屋へと迎え入れた。
どうも彼は、ぼくが帰省している間はこの戸から帰還することにしているらしい。そのために戸口付近には彼のためのタオルを用意してもらっている。
「外は寒かったか?」
柔らかな毛からタオルに移動してもなおへばりついている雪球を戸外に払い、彼に尋ねる。すると、彼は少し乱れた腹の毛並みを繕いながら、たいしたことはないとでも言いたげな堂々とした視線をちらりと投げて寄越した。ほうぼう勝手な方を向いた毛をきれいに撫で付けていくその手際に感心しながら、彼の、少し濡れた頭に手を伸ばす。耳の付け根を軽く揉むようにしてやれば、少し遅れてぐるぐるとうなっているような声が返ってきた。一体どうやってそんな音を出しているのかというのはいつも疑問だ。
「こんな雪の中、何して遊んでくるんだね」
返事は無かった。おおかた、風に吹かれる雪を追いかけているか、山で兎にでもちょっかいをかけているのだろうと勝手に予想する。案外、猫の友達でもいるのかもしれない。と考えたところで、はたと気づく。
ぼくが生まれ、十八年を過ごしたこの集落でこれまでに猫など見かけたことがあったろうか。いや、飼い猫どころか野良猫もいなかったはずだ。セキハンがやってきてからぼくが共に過ごした時間は確かに僅かだが、彼が他の猫と連れ立っているところも、彼以外の猫の存在も、見たことは無かった。
「お前、どっから来たんだ?」
セキハンとは、三年前の盆に集落を見守る土地神様がおわすという社で出会った。この辺りに彼の親がいないというのなら、どうしてそんなところに子猫がひとりぼっちでうろついていたのだろうか。いつの間にかあぐらをかいて座った足の上に乗って丸くなったセキハンの喉元をさすりながらぼくが首を捻っていると、古びたふすまが少し軋みながら開いた。冷たい空気がするりと侵入してくる。廊下から現れたのは、五つ年上の姉であった。
「あんた、そろそろご飯にするから手伝いっせ!……あら、セキちゃん帰ってただか。セキちゃんもご飯よ。いらっしゃい」
姉は、ぼくにぴしゃりと言いつけた後急に声色を変え、それこそ猫を撫でるようにセキハンへ呼びかけて、台所へと戻って行った。手元で気持ち良さそうにしていた彼はというと、ご飯という言葉を覚えているのか、すっと立ち上がり大きな伸びをしてから姉の後をついて行ってしまった。高等遊民などと言っているうちに、この家では猫よりも下に位置づけられてしまっていたようだ。遺憾である。ぼくは、部屋の石油ストーブを消してから、姉とセキハンに大きく遅れて廊下を進むことにした。
夕食は年末ということで集まっている親戚一同が集い、居間で摂る。普段は六人程度ならばゆうに掛けられる大きな座卓が部屋の中心にゆったりと据えられているが、人数の多い今日は座卓を二つ繋げてあるため、やや手狭だ。ぼくはというと、祖母、母、姉、伯母二人が忙しく働いている台所から黙々と料理を運び出し、居間に持ち込まれたジャーと秋の芋煮で使われるような大鍋を開けてご飯と汁物をよそい、人数分の箸とコップを用意し、と姉にこき使われた。皆でちゃきちゃきと働いたためか程なく食卓は整い、家の中外に散らばって何らかの仕事をしている男衆を呼び集める。父など裏の畑の隅で雪の中から大根を掘り出していたので探し出すのに骨が折れた。
ともあれ、居間の食卓には十五人が勢揃いし、父の音頭でめいめいが持ち上げたコップが軽く打ち鳴らされて食事が始まった。盆暮れ正月には親戚一同で本家に集まって過ごすというのは我が家のちょっとしたしきたりのようなものだ。今日の午後に車でやってきた長女である伯母夫妻、次女の伯母夫妻、父の弟で末子の叔父家族三人、そして我が家で暮らす祖母、父、母、姉、義兄、姪と甥、加えてぼく。
都会の人にすれば随分と早い飯時であり、つけられたテレビには丁度夕方のニュースの画面が映し出されていた。父をはじめとした男衆の手元には早速ビールが用意され、早くも宴会の様相を呈している。などといっている間にぼくのコップにも注ぎ足されていた。
「んでどうなんだい、勉強の具合は」
「まあぼちぼちです」
そうかそうかと伯父たちは大いに頷き、それきり話題は移る。どこそこの家の誰兄が会社を始めたとか、誰姉のとこの息子が今度嫁を取るとか、そういったことが大半だ。ここ数年間集落から離れているぼくにはさっぱりわからないので、ふんふんと聞き流しながら料理に手を付けることにした。ビールを適度に煽りつつ、大量に用意された脈絡のない茶色の献立をつまみ、白米を食べる。そうこうしているうちに茶碗の飯がなくなったので、おかわりをよそいに席を立った。
「おお、若えのは食え食え!」
そんな声が背中から飛んできた。
銀色に鈍く光る、年代物の大きなジャーの中には、白いご飯が湯気を立ててきらめいている。しゃもじでそれを掬いながら、ジャーの傍らに陣取っている姉に話しかけた。
「ねえちゃん、このムラってセキハンの他に猫とかいねえよな?」
「ん?んだね」
「そしたら、あいつってどっから来たんだろ」
「どういうこと?」
お茶を飲みながら首を傾げる姉に先ほど考えていた通りのことを説明する。
「誰かが捨ててったんでないの?」
「こんな山奥に?変でない?」
「んなこと言ったってもなあ。わかんねべした。近くの集落のおんつぁかもしんねし」
「そのへんの集落さ、猫いたかし」
「かーちゃん、めし!」
「ああはいはい」
それきり、姉は甥の方へ向き直ってそちらの世話を始めてしまった。確かに誰かが捨てて行った、という可能性もなくはないかもしれない。そんなとき、にゃあと一声鳴いて当のセキハンが居間に姿を現した。
「セキ、だめでねえの。こっちさ来たら」
「さや姉、今日くらいいいべした。ほれセキ、おめえも食うか?」
セキハンは普段食事時には居間に入るのを禁じられており、そのため居間の戸をしっかりと閉めておく。今日はうっかり誰かが開けていたのだろう。母が見咎めて注意したが、セキハンは既に叔父の差し出した魚の方へとトコトコと近づいてしまっていた。
「しん、あんまし猫さ人の食いもんくれてはなんねだぞ」
しん、というのは叔父の愛称だ。叔父は伸哉という。
「なあにちっとならよかんべえ。なあセキ、年末くれえはうめえもん食いてえべしたなあ?」
母がやれやれと肩を竦めた。セキハンはどこ吹く風で、少し酔った様子の叔父に撫でられご満悦だ。
「ほんとにちっとだぞ。……セキ、卓の上さのぼったり勝手に食ったりしたら追い出すかんね」
セキハンは、母の言葉に神妙な顔つきで一声鳴いた。了承したとでも言いたいのだろうか。実際、その晩居間に居座り続けたセキハンが食卓を荒らすことは無かった。やはり賢い猫である。
「じゃ、おやすみ」
「おう、若者はよく寝ねどな!」
乾杯の音頭が執られた時刻から五時間ほどが経ってもまだ父や叔父たちの宴会は続いていたが、ぼくはというと早々に宴を抜け出していた。幼い甥や姪は随分前に姉に連れられて風呂を済ませ、もう床に就いている。その後にぼくもゆっくりと湯につかり、そろそろ寝ることにした。
寒々とした廊下を抜け、部屋へと戻る。宴会を抜けて戻ってきてからずっとストーブを焚いていたのでもうすっかり暖かく、電気毛布の敷かれた布団もいい塩梅にぬくもっている。ストーブと電気を消そうとしたとき、襖が少しだけ開いて、セキハンが顔を出した。どうやらこの部屋を今夜の寝床に決めたらしい。彼を快く迎え入れ、暖かい空気を逃がさぬよう襖をまたきっちりと閉める。彼は襖を開けることができるが、閉めることはできないのだ。
セキハンはまだ部屋の中をうろついていたが、そのうち布団に入ってくるだろう。ぼくはストーブがちゃんと消えたことを確認し、電気も消して、布団に潜り込んだ。
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