1 ぼくの夏の日
以前書いたねこ好きによるねこ好きのためのねこの話です。(当社比)
不定期更新。
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大学二年の夏。
地元から遠く離れた都会の大学に進学したぼくは、一年半ぶりに帰省した。ちょうどその先月二十歳になっていた。案の定親戚たちにつかまって、その晩、次々と注がれる酒を味もわからずに飲み続けた。同じ集落に住む伯父の家での宴会だったと記憶している。あれほどの量の酒、今でも数える程しか経験していないはずだ。
当時のぼくは、今よりも十キロほど体重が軽く、思い返してみればもやしのようにひょろりとした青年だった。その割に酒に強かったのは、父方の、酒飲みの遺伝子によるものだと思われた。
ようやく田舎特有の粘り気のある宴会の空気から解放されたのは、その日の夜十時頃だったろうか。深夜の訪れが、田舎では都会よりも早い。
伯父宅からの帰り道、ふわふわと心地よい足取りで舗装もされていない農道を歩いていた時のことだ。手には伯母からの土産である茶色い惣菜が詰まったタッパーと裾分けの野菜が入った使い古しのレジ袋。車で一時間ほど走ったところにあるしょぼくれたスーパーマーケット、というより商店の袋だ。
家で翌日の盆参りの準備のために忙しくしている母たちへの夜食の足しにということだった。先ほどまで一緒にいた父と義理の兄は酒盛りに残るようなことを言っていた。伯父たちとのどうってことない世間話を彼らは好んでいたし、なにより彼らは根っからの呑助なのである。
一方母と祖母、そして姉はというと、盆の準備のため家に残っていた。とは言っても、今頃の時刻になれば、彼女らの仕事もあらかた片付いて夕食後のテレビタイムといったところだろう。現在ぼくに課せられた任務というのが、彼女たちに伯母からの土産を無事届けることである。ぼくの左手に下げられたビニール袋がガサガサと音を立てた。
早く実家に帰ろう。
少しふらつきながらも早足で歩くぼくの耳に、その声は届いた。か細いが、確かに耳に届いた。
出所はというと、帰宅路の途中にある鳥居の向こうであった。
その小さな神社には、地域を見守る土着の神様が祀られていた。一見すると納屋のようですらある控えめな本殿には、そのご神体が納めてある。鳥居から先の道沿いには古い墓石が立ち並んでいるということもあり、この時間帯にはあまり足を運びたくない場所ではあった。
しかし、その日のぼくはどうかしていたのだろう。おそらく酒の力かもしれない。
気持ちをざわつかせるような声に引き寄せられるがまま、赤い塗装の剥げかけた鳥居を潜ってその先へと足を伸ばす。視界の右側にちらつく墓石をできるだけ見ないようにしながら、神社の境内ともいうべきささやかに開けた場所へとたどり着いた。生ぬるい空気の流れが、わずかに葉ずれの音を演出している。もしそこにちらとでも動く影などあったなら、情けなく悲鳴を上げながら走り去った自信がある。もともとその方面には滅法弱いぼくのことだ、手に提げた袋はきっと投げ出してしまったに違いない。そうなれば母や伯母から叱責されることは避けられないだろう。幸いだった。
木々の隙間から僅かに差し込む遠い街灯を頼りに、境内をぼんやりと眺める。半分以上山の中と言って差し支えないそのこじんまりとした広場には、灯りなど設置されていない。
先ほどから断続的に聞こえる例の声は、どうやらこの広場の中心近くに建てられている本殿の裏側あたりからのようだ。もしこれが更に先の、鬱蒼と茂る暗闇の中からなどということなら、残念ながら引き返さざるを得なかったところだ。
好奇心の赴くまま、しかしおっかなびっくりと、ほとんどにじり寄るようにしてそちらへと近づいてみる。声は先ほどよりも弱々しくなっていた。
本殿の裏手には、随分と長く生きているように見える巨大な杉の木があり、声はその辺りから聞こえてくる。その根元に茂る夏草をかき分ける。
そこに、いた。
痩せぎすのからだのくせに、足を揃えてしゃんと座っている。顔は少し上へ持ち上げられて、こちらをまっすぐに見つめていた。青灰色の瞳。
両手の中にすっぽりと収まってしまいそうな、子猫だった。いやしかし、はたして猫だろうか。以前に見たことのあるどの猫よりも小さい。ぼくはこの時まで、猫という生き物に近寄ったことがなかった。もしかして、狸かなにかの子かもしれないし、鼠かもしれない、とも思った。
声の正体を確かめたからか、ぬるい夜風に当たったからか、酔いはすっかり覚めていた。先ほどまでの高揚した気分は既にない。
それは、ぼくの姿を認めると、またか細く鳴いた。腹が空いてでもいるのだろうか。生憎それが食べられそうな物は持ち合わせていなかった。
しかしその小さな生き物は、小さな斑のある桜色の鼻をひくひくとさせながら、ぼくが手に提げたビニール袋を嗅ぎ回っている。弱々しい声や見た目のくせに、図々しい奴だ。
爪で袋を破かれでもしたらたまらない。望むものはないと告げるが、もちろん伝わるはずもなかった。しぶしぶながら袋を一旦草の上に置き、中を見せてやる。すると、それは袋の匂いを確かめながら、頭を突っ込んだ。さて、期待するような物は何一つ入ってはいないと気づいたろうか。
少しの間だけがさごそとやってから、諦めたのか、小さな顔が袋からのぞく。あまり中身を荒らされるとまずかったのでほっとした。
袋を漁り終えたそれが行儀良く座り直したことを一瞥し、立ち上がる。忘れかけていたが、あまり遅くなるわけにはいかない。短い間の付き合いだったが、足元の小さな奴に別れを告げて踵を返した。
来た道を早足で逆向きに進み、例の、塗装の禿げかけた鳥居まで戻った。途中、やはり墓地の方からは意識的に視線を外した。枯れすすきとは言うものの、もし何か見てしまったら平静ではいられないだろうからだ。
鳥居を抜けてしまえば、その先にはぽつりぽつりとではあるが民家や街灯があり、有る程度の明るさが確保できる。それなりに落ち着いてきたところで、念のためビニール袋の中身を確かめることにした。
伯母から聞いたのは、頑丈なタッパー詰めの惣菜と、少しの野菜、アルミ箔で包まれた上に手拭いで巻かれた握り飯。先ほどのあれが荒らしたとは考えにくかったが、念のためだ。もし不備があれば、届け先に文句を言われるのは配達人のぼくなのだから。農家の嫁である彼女らは強い。
歩きながら、ビニール袋を覗き込む。ぽつんと立った街灯はいかにも頼りない明るさだが、他に頼るものもない。それほど多くもない土産物を確かめていると、一つ、少し気になる物を見つけた。
握り飯を包む薄布の結び目が綻んでいる。不審に思ってそれを取り出した。灯りがあるとはいえ、十分に薄暗い。じっと目を凝らしていると、不意に物音がした。
すぐ、後ろだ。
何かいる。
額から汗が流れた。
ゆっくりと、振り返る。
暗さのせいか、何も見えない。
いや、気のせいだったのだろう。息を漏らし、視線を降ろす。そのまま硬直した。
いる。
爛々と光る、二つの目がこちらを見つめている。一瞬にして背筋が粟立った。手の中の包みが零れ落ち、幾つかの握り飯が地面に転がる。
すると、それは、そちらの方へ駆け寄って行った。アルミ箔を破き、一心不乱に食いついている。
よくよく見てみれば、先ほどの子猫と思しき生き物だった。後を付いて来ていたらしい。
考えていた以上に暗闇を恐れていたのだろう。我ながら情けないことに、枯れすすきならぬ小動物だった。大きく空気を吸い込む。いつの間にか息を止めていたことに気づいた。
気が抜けて、食事を続けるそれの傍へしゃがみ込むが、意に介することもない様子だ。その中身は赤飯であると伯母が言っていた。それがもし猫であるなら、赤飯を食うとは珍しい趣味をしているように思う。よほど空腹で、口にできれば構わないのかもしれない。
ぼくは、僅かな灯りを頼りに、落としてしまった握り飯の包みを拾い集め、立ち上がる。そいつを見やると、どうやら腹がすこし満ちたらしい。また、こちらを見上げて座っていた。
猫をはじめ、ぼくは動物は嫌いではない。しかし、それまで、何かペットと呼ばれる愛玩動物を養おうと思ったことなどなかった。
しかしそれは、相変わらずこちらを見据えている。
その薄膜の張ったような瞳に魅入られたのかもしれない。あるいは人間ですら好まない者のいる赤い豆の飯を美味そうに食べていた姿が可笑しかったからか。それとも、その小さな痩せぎすの足で、ここまでぼくをおそらく必死で追い掛けて来たためだろうか。
ぼくは、それに、我が家の一員となるか否か、問うてみた。獣に人の言葉が通じるとはとても思えなかったが、それは一声鳴いてみせた。
存外、賢い奴だ。
おそらく偶然に鳴いたのだろうが、ぼくは了承の返事と受け取ることにして、未だそいつが咀嚼し続けている握り飯ごと抱き上げた。
これが、ぼくの、そして我が家の愛猫セキハンとの出会いであった。
お読みいただきありがとうございます。