前編
懍と直人が初めて出会ったときの御話。
直人と懍が初めて出会ったのは、直人が9で懍が19のときでありました。そのことを書くことにする。但し、直人はこの出来事をほとんど記録していません。
柚木悠三の再従兄に当たる、柚木懍が、夏休み中の三日間だけ佐藤家に来ることになりました。直人と悠三は性格が近いので、小さいときから大変な仲良しでありました。ので、悠三の御母さんから、直人の母ちゃんに「これこれこう言うわけがあるので、懍を御宅で預かってくれませんか」と、頼まれたとき、彼女の母ちゃんは、喜んで引き受けたのでした。この、「これこれこう言うわけ」は、直人にも、弟でまだ5歳である、ノブにも伝えられませんでした。これを伝えられていなかったので、直人は、広島から遥遥やってくる柚木懍とは、どんな人物なのか、9歳の頭で想像していました。きっと、頭が良く、強そうな、頼りになる人物、そう考えていました。
さて、その日、懍は時間通りにやってきました。みれば、一見惚れ惚れするような美しい顔つきをしていました。白い肌と墨色の髪の大差が効果的で、目も黒くて大きく、鼻は高く、眉は真っ直ぐで、額の広い、そう言う顔つきでした。背はさほど高くありませんが、これだけ美しい顔なら、人目を引くに違いありません。但し、一箇所だけ愕然とする個所があって、それは左の足が跛で、歩き方がおかしいと言うところでした。
服装は紺色の着物に、白足袋をはき、左右の高さの違う下駄を履いていました。
その日は取りあいず、夕食を取って、取りとめもない世間話をしました。懍は、母ちゃんの話によく笑いました。笑うと真珠のような歯並が見えました。悠三やみっつがするようなガハガハ笑いではなく、片手を口元に添えた、上品な笑い方でした。ので、直人は「こんな上品な人が、うちの身の回りにいてくれたら良いのになあ。」とさえ言ったほどでした。ノブは、この新しい顧客になついて、明日二人で買い物に行きたいと言いました。母ちゃんも同意しました。それから、テレビを見て、客間を懍の部屋にあてがって、皆は寝ました。
さて、明くる朝、朝食をとった後、懍とノブは約束通り買い物へ出かけました。直人は又別に用事があったため、母ちゃんとそちらのほうへ行きました。用を済ませて帰ってくると、ノブたちはまだ帰ってきていませんでした。暫く居間でテレビを見て、母ちゃんにせかされて、勉強しようと自分の部屋へ行って、机に座っていつも置きっぱなしにしてある、筆箱を取ろうと思ったらありませんでした。直人はいつもここにおいてある筈なのに、と、思いながら、「母ちゃん、あたしの筆箱知らない?」と、何気なく母に聞くと、「あんたはいつも置きっぱなしにするから、もう知らないわよ。」と、叱られてしまいました。ちょうどそこへノブと懍が帰ってきました。見れば、直人がああだこうだと騒いでいますので、「どうしたんですか?」と、懍が尋ねました。「もう、直人ったら、本当にだらしがなくて、なんでも置きっぱなしにして、後になって騒ぎ出すのよ。今も、筆箱がないって騒いでるわ。」と、母ちゃんが説明すると、「それはもしかして、スヌーピーの顔がついている、箱型の物ではありませんか?僕、それなら見ましたけん、居間の戸棚を開けたときに。」と、言いました。直人がその通りに開けてみると、しっかり彼女の筆箱が入っていました。
「ほら見なさい。あんたは、いつも何でも置きっぱなしにするから、後でわからなくなるのよ。これからはきちんと、必要なものは決まったところへしまいなさい。」と、母ちゃんが言いました。「懍ちゃんごめんなさい、こんな恥ずかしい所見せちゃって。」
「いえ、誰でもあることですよ。」と、懍が言いました。直人は、そんなところへしまったかなあと思いましたが、すぐ物を置きっぱなしにしてしまう癖があることは事実なので、そのままにしておきました。懍が面白がって、ノブと一緒に笑っていました。
そして昼食をとって、直人たち全員は庭の花壇に花を幾つか植えようと言うことになって、まず、花屋へ出かけました。直人はポーチュラカを買いました。懍は、これは珍しい植物だからと言って、イソトマと言う植物を買いました。それを植えるための素焼き鉢と肥料も買いました。イソトマという植物は、青色で星型の花をもった美しい植物でした。小さい花ですが、人目を引くような形だと直人は思いました。直人たちは家に帰って鉢に土を入れ、買ってきた植物を植えました。直人はイソトマを植えました。三時になると、母ちゃんが、「皆おやつですよ。」と、麦茶と切った梨を持ってきました。直人は「やったーおやつー。」と、すぐ梨を手にとってかぶりつきました。その途端、急にものすごい苦味がして、口に入れたものを全部吐いてしまいました。吐いた後も、数分間咳き込みました。母ちゃんが「何やってるのあんたは、園芸やった後はすぐ手を洗うって教えたでしょうが、」と、彼女を洗面所に連れていって、口を漱がせました。これでやっと楽になりました。戻ってくると、「直人さんって本当におっちょこちょいなんじゃね、注意書きを見なかったの?この植物は毒草じゃけ、素手では触ってはいけんと書いてあったじゃろ?」と、懍が言いました。顔は笑っていますが、口調はきつく、どこか馬鹿にしているように聞こえました。「なんで教えてくれないの?」と、直人はむきになって言いました。懍は何にも言いませんでした。顔は笑っていました。しかし、直人はどこか腑に落ちない気がしました。
次の日は土曜だったので、直人たちは夕食を食べに出かけることにしました。その前に、洗濯物を畳むため、直人は母ちゃんと一緒に裏口から外へ出ました。一通り洗濯物を取りこんで、母ちゃんが先に家へ入り、直人は後で入りました。それが終わると、もうおっちょこちょいで馬鹿にされないようにしようと思って、直人はしっかりとスリッパをスリッパ入れにしまってから出かけました。
さて、食事をおえて、家に帰り、スリッパを履こうと思って、スリッパ入れをのぞいたら、ありませんでした。さきに家に入った母ちゃんが「直人!またあんたは裏口にスリッパを置きっぱなしにして!」と、怒って言いました。「あたしちゃんとしまったわよ!」と、直人は言いました。
「又言い訳して、どうしようもないんだから!本当にだらしない、気をつけなさい!」
「本当にあたし、しまったのよ!」と、直人ははっとしました。そして、びっこをひきながら歩いてきた懍をみて、「あんたがやったのね!」と、叫びました。「あたしのスリッパをうごかして、あたしが怒られるようにしたのね!」
「直人!」と、母ちゃんが怒りました。「人のせいにするのはやめなさい!」
「まあ、そう言う年頃かもしれませんね、」と、懍が言いました。
「そんなことで済ませないでよ!どうしてあたしが嫌な思いするようなことばっかりするのよ!」
「直人さんはだらしないけん、やってないと思っても、無意識にやっているんじゃろ。」
「そんなことないわ!あたしは確かにしまったんだから!」
「かといって、責任を僕におしつけるのは、いけんじゃろ?勘違いは誰にでもある。」
「御姉ちゃんも、懍ちゃんも喧嘩はしないで!」と、ノブが言いました。懍は笑って、「大丈夫じゃ。君の姉さんは勘違いを自分で認められんから、おこっとるんじゃ。」と、言い、ノブと一緒に客間へ行ってしまいました。懍は笑うと、黒い目と白い肌で、大変美しく見えるので、直人は何も言えなくなってしまいました。
暫く立って、母ちゃんが懍に風呂に入れと言いました。ノブが懍ちゃんと一緒に入ると言ったので、二人は風呂に入りました。ノブには何にも意地悪をしないという点が不思議でした。風呂場から、楽しそうに話している声が聞こえてきました。その中で、「あっ、懍ちゃんお絵かきしてある!」と、ノブが言っていて、懍が、「ただの彫物じゃから、絵にはならん。」と、応答したのが聞こえました。又楽しそうな話が聞こえた後、ノブが、寝巻きに着替えて「あー気持ちよかった。」と、風呂から出てきました。直人はぴんときて、「懍ちゃんて絵を書いてあるの?」と、聞きました。「うん。両方の手と背中に。」と、ノブが言いました。「で、まだ風呂に入ってる?」「うん、服着るのに時間がかかるから、先でろって言われたの。」直人はこっそりと風呂場の戸を少し開けて、中を覗いてみました。すると、金色の目をした青龍が彼女を睨み付けました。そして、懍の右腕が見えて、肩から手首の辺りまで朱雀が描かれてあり、左腕には同じように麒麟(頭がと尻尾が龍で、胴体は馬の姿をし、口から火をはく怪物、キリンビールの缶に描かれている)が描かれていました。懍の肌は白いので、これらの彫物は赤や緑や黒色をはっきり示していました。特に背に彫られた青龍は、今にも飛び掛ってきそうなポーズをとっていて、大変恐ろしげに見えました。
直人は思わず悲鳴を上げそうになりましたが、急いで戸を閉めて、自分の部屋へ逃げていきました。