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婚約者が歌劇の台詞で断罪してきますが、その悪役令嬢はわたしの祖母です

掲載日:2026/09/30

「ソランジュ・デュフレーヌ。君との婚約を、今この場で破棄する」


 その台詞を、わたしは六つのときから知っている。

 歌劇『百合の王妃』第三幕、幕が上がって最初の台詞だ。名前のところだけが違う。舞台では、そこに祖母の名前が入る。


 楽団の弓が、曲の途中で止まっていた。

 白百合宮の大広間は、天井まで蝋燭の光で埋まっている。王立学院の卒業舞踏会。今夜学院を出る娘たちは、みな胸に白い百合をつけていた。わたしの胸にも一輪ある。今朝、祖母が庭の井戸端で茎を切りそろえ、ピンを打ってくれたものだ。「曲がっていますよ」と、祖母は二度直した。

 国王陛下と王妃様は、最初の輪舞を踊り終えたところで、習わしどおり退かれた。扉が閉まって、まだ十も数えていない。

 ジェローム様は、それを待っていたのだと思う。


 その輪舞を、わたしは彼と踊った。婚約者だからだ。彼は一度もわたしの顔を見ず、わたしの肩の向こうの誰かを見ていた。曲が終わると、礼もそこそこに手を離した。

 今、その人が広間の真ん中に立っている。王弟ボーモン公の嫡男で、歌劇が好きで、話すときは少し胸を反らす人だ。隣に、ヴィルヌーヴ伯爵家のポーリーヌ様がいた。扇を胸の前で握りしめて、白い顔をしている。

 三週間前から、ジェローム様からは婚約の香りがしなくなっていた。八つの年に両家の香水を一滴ずつ混ぜて調香させた、少し苦い橙の香り。今夜、彼の上着から匂うのは菫だった。


「第三幕よ」

 誰かが囁いた。年配の婦人の声だった。

「悪役令嬢の孫ですもの」

「ねえ、今夜って、あの夜と同じ日じゃなくて?」


 この国で悪役令嬢といえば、わたしの祖母のことだ。五十一年前、この広間で当時の王太子殿下に断罪され、その五年後には歌劇になった。


 上座を見る。

 金の椅子に、王太后アニエス様が座っておられた。十年、人前にお出にならなかった方だ。今夜は、孫であるジェローム様の卒業のためにいらしている。細い手が、銀の杖の頭に重ねてあった。

 あの方が、歌劇の「百合の王妃」だ。

 わたしとジェローム様の婚約は、あの方の肝煎りで決まったと聞いている。宮廷から遠ざけられた子爵家の、しかも悪役令嬢の孫を、なぜ王弟家の嫡男に。理由は誰も知らなかった。父も知らなかった。祖母は、知っていたのかもしれない。何も言わなかったけれど。


 今ごろ、家の門には灯りがついているだろう、と思った。

 毎年この夜、わたしはランタンを持って門に立っていた。七年、欠かしたことはない。今年は、祖母が門の灯りをつけて待っている。この夜だけは決して家を出ない祖母に、父が付き添っているはずだ。

 あの人は、今年も来るのだろうか。


 わたしは、裾をつまんで浅く礼をした。

「理由を、お聞かせくださいませ」

 日付を訊けばいい。台本には日付がない。粗は、そこから出る。

 ジェローム様は、舞台の上の人のように片手を広げた。

「言わずとも分かろう。君は、あの人の孫だ」

 どこかで、くすりと笑う声がした。

 広間の壁ぎわには、娘たちの母親や祖母の世代の客が、椅子を並べて座っている。その人たちは、たぶん舞台を何度も観ている。何人かは、扇の陰で次の台詞を待つ顔をしていた。

 一つ笑えば、次が続く。広間の端から端へ、細い笑いが波のように渡っていった。


    *


「ポーリーヌ嬢。皆に聞かせてやってくれ」

 ポーリーヌ様が一歩前に出た。扇を少しだけ開いて、その内側に目を落とす。何かを読むときの目の動きだった。

「三月の二日。学院の噴水の庭で、ソランジュ様は、わたくしを……噴水に突き落としました」

 声が震えていた。

「三月二日は木曜日です」

 わたしは言った。

「わたくしは午後ずっと図書室におりました。貸出簿に、ラテン語の辞書を借りた記録と、返した時刻が書いてあるはずです。図書室の係の方に、お訊きください」

 ざわめきが、少しだけ向きを変えた。

 ポーリーヌ様がまた扇の内側を見る。一行ぶん、目が下りた。

「四月の、春の夜会の晩。わたくしの夜会服を、裂きました」

「その晩は、学院長のエロディ様のお招きで、特待生の皆さんと朗読会をしておりました。夜の九時まで。エロディ様がご存じです」

 反証は、ある。記録をつける家に生まれたのだ。父は高等法院の書記官長で、祖父もそうだった。日付と時刻は、わたしの味方のはずだった。

 ポーリーヌ様の唇が、音を出さずに動いた。次の行を、口の中で探しているようだった。

「……そして先週。お茶の杯に、毒を」


 ジェローム様が、人垣のほうへ顎をしゃくった。

「見た者がいる。そうだな、レミ」

 ボーモン家の取り巻きの一人が、咳払いをして前へ出た。

「はい。先週の茶話会で、デュフレーヌ嬢がポーリーヌ嬢の杯の前に立っているのを見ました。手に、小さな青い瓶を」

 青い瓶。第三幕で、悪役令嬢が袖から出す瓶の色だ。舞台では、客席の後ろからでも見えるように、ことさら青い硝子を使う。

「先週の茶話会に、わたくしは出ておりません」

「出ていたさ。わたしが見た」

 レミ様は、わたしの目を見なかった。


 わたしは、つい言ってしまった。

「噴水が第一幕。ドレスが第二幕。毒の杯が第三幕。順番まで、歌劇と同じですのね」


 一拍、静かになった。

 それから、広間が笑った。

 ジェローム様ではなく、わたしを。


「ほら、お祖母様とそっくり」

「血は争えないのね」

「歌劇と同じことをしておいて、よく言えたものだわ」


 扇の陰の笑い声が、蝋燭の熱と一緒に首筋にまとわりついた。日付も、貸出簿も、もう誰も聞いていない。皆が知っているのは歌劇の結末で、わたしがその結末どおりの顔をしていることだった。

 祖母ゆずりの、切れ長の目。黒い髪。笑えば冷笑に見えると言われて、人前で笑うのをやめたのは、十の年だった。


 六つの年、初めて『百合の王妃』を観た。父は止めたのに、わたしが観たいとせがんだ。

 舞台の上で、黒い髪の女が、祖母の名前で呼ばれていた。噴水の場面で客席が息をのみ、毒の杯の場面で誰かが悲鳴を上げ、最後に女が百合を投げつけて呪うと、劇場じゅうが拍手をした。

 帰りの馬車で、わたしは一言も話さなかった。家に着くと、祖母は庭にいた。夕暮れの百合の中で、しゃがんで雑草を抜いていた。舞台の女とは、少しも似ていなかった。

 それからも、わたしは歌劇を観に行った。一人で、何度も。祖母がどんなふうに笑われているのか、自分の耳で確かめたかった。台詞は、幕ごとに全部覚えてしまった。


「婚約を破ったのは、君の罪のゆえだ」

 ジェローム様の声が、よく通った。

「証書の定めどおり、違約金はデュフレーヌ家に払ってもらう。それから——君のお祖母様が行くべきだった北の修道院へ、君が行くといい。五十一年越しに、帳尻が合う」


 違約金の額を、わたしは知っている。家の年の実入りの、四年分だ。父の書斎の、鍵のかかる引き出しに、証書の写しが入っている。

「祖母は」

 口を開いて、そこで止まった。

 祖母は、何もしていません。そう言いたかった。言えなかった。わたしは、それを知らない。


 十二の春、一度だけ祖母に訊いたことがある。

 庭で、祖母は球根の土を払っていた。毎年この夜、差出人のない包みが一つ門に届く。中身は白百合の球根で、祖母は受け取るとき、いつも小さく「お幸せに」と言う。翌朝、年号を書いた札を立てて植える。庭の百合は、今年の春で五十本になった。夏になると、門の外まで匂う。

「おばあさま。本当に、なさったの」

 祖母は手を止めなかった。

「言い訳はしないの。約束したから」

 それだけだった。

 わたしはそれを、半ば認めたのだと受け取ってきた。近所の人は、悪女が百合の王妃への当てつけに百合を育てていると言う。庭師は一度、球根を手に取って、「これは白百合宮の品種ですよ。どこで手に入れなさったんで」と首をかしげた。祖母は答えなかった。

 わたしは、祖母の庭の百合が好きではなかった。


    *


「さあ」

 ジェローム様が、指揮棒を振るように手を上げた。

「言いたまえ。君の家の台詞だろう。百合は枯れても——」

 年配の客の何人かが、口の中で節をなぞった。第三幕の終わり、悪役令嬢が胸の百合をむしって恋敵の足もとへ投げ、呪いをかけて退場する。あの歌は、この国の誰もが歌える。子どもが、石蹴りをしながら歌うくらいに。

 広間は待っていた。半ば怖がって、半ば楽しんで。


 喉の奥に、最初の一語が上がってきた。

 百合は。

 言ってしまえば楽になる気がした。どうせ、そういう顔をしているのだ。そういう血なのだ。祖母は何もしていない、と言い切れない孫に、何を守れるだろう。皆が望む役を、望むとおりに演じて、幕を下ろしてしまえばいい。


 わたしは目を逸らした。泣かないように、上を見た。

 上座の、王太后様の椅子の後ろに、若い侍従が一人立っていた。


 青い仕着せ。背が高い。蝋燭の光で、髪の色がよく分からない。

 でも、立ち方を知っていた。両手を体の前で組んで、右の踵にだけ少し重さをかける立ち方。毎年、門の前で、ランタンの輪の外に立っていた人の。


 ニコ。


 十一の春だった。祖母がその年だけ膝を悪くして、わたしが代わりに門へ出た。大きすぎる外套を着た少年が、布の包みを差し出した。

「お届け物です。お返事は要らないと、言いつかっています」

 寒そうだったので、台所から茶を一杯運んだ。少年は門の外で、それを両手で包んで飲んだ。門の内には、一歩も入らなかった。

 次の春も、その次の春も、同じ少年が来た。毎年、少しずつ背が伸びた。外套の丈が合うようになったのは、三度目の春だった。

 十四の春、名前を訊いた。「ニコ」とだけ、彼は言った。どこの家の方か訊くと、困ったように笑って、茶を飲み干した。

 十五の春、わたしは学院で「棘」と呼ばれて、その夜も目が赤かった。ニコは包みを渡してから、しばらく黙って、それから言った。

「棘があるのは、守るものがある花だけです」

 わたしは何も言えずに、空の杯を受け取った。その年の球根は、わたしが植えた。

 十六の春は、雨だった。ニコは外套の中に包みを抱えてきて、濡れていなかったのは包みだけだった。茶を運ぶと、「今年は熱いのをお願いしたかったんです」と言って、少しだけ笑った。門の外で笑う彼を見たのは、それが初めてだった。

 十七の春。去年だ。茶の杯を返しながら、彼は訊いた。

「来年も、門にいてくださいますか」

「婚約者のいる身ですので」

 わたしはそう答えて、それから、長く黙った。ランタンの火が、二人のあいだで小さく揺れていた。

「……いると、思います」

 一年に一夜。茶を一杯ぶんだけ。八つの年から婚約者のいる身で、わたしが自分に許したのは、それだけだった。


 そのニコが、王太后様の後ろに立っている。

 球根は、王太后様から届いていた。


 頭の中で、何かが静かに並び直した。

 白百合宮の品種。仕着せを着ない使い。「お返事は要らない」。十年人前に出なかった方が、この夜にだけ、ここにいる。祖母が五十一年、この夜だけは家を出ないこと。

 歌劇のヒロインが、悪役に、五十年、毎年百合を贈ってきた。人目を避けて、名前も書かずに。

 憎い相手に、五十年も贈り物はしない。

 祖母の「約束」の相手は、あの方だ。

 祖母は、恥じて黙ってきたのではなかった。誰かとの約束を、五十一年、守ってきたのだ。庭の五十本の札は、当てつけでも何でもなかった。受け取った数を、数えていたのだ。


 喉の奥の一語が、どこかへ消えていた。

 かわりに、今朝の祖母の指を思い出した。曲がっていますよ、と二度、胸の百合を直した指。祖母は、今夜ここで何が起きるか、知っていたのだろうか。知らなくても、祖母なら二度直しただろう、と思った。


 ニコが、わたしを見ていた。

 目が合った。彼の靴の先が、半歩、前に出かけた。言う気だ、と分かった。主人の後ろから、この広間の真ん中へ。

 その前で、王太后様の杖を握る手が、白くなっていた。王太后様は目を閉じておられた。唇が、何かをこらえるように結ばれていた。


    *


 一言でいい。

「陛下。毎年春に祖母へ百合を届けてくださるのは、なぜですか」

 そう訊いて、ニコに証言を頼めば、祖母もわたしも晴れる。違約金も、修道院もなくなる。父は引き出しの証書を燃やせるし、明日の朝、近所の人は祖母の庭を別の目で見るだろう。

 そのかわり、祖母が五十一年黙ってきたことが、今夜一晩で終わる。王太后様は、国じゅうの前で嘘をついていた方になる。ニコは、七年守ってきた主人との約束を破る。

 言わなければ、家は違約金に沈む。わたしは北の断崖の修道院へ行く。夜通し灯を守って日を数える、あの修道院へ。来年の春、門でランタンを持つ人は、いない。


 父の顔が浮かんだ。書記官長の机で、一日じゅう他人の言い分を書き写している人。祖母の噂を、一度も口にしたことのない人。違約金の証書を、鍵のかかる引き出しにしまったとき、父はわたしに「心配しなくていい」と言った。心配しなくていい額ではなかった。


 広間の音が遠くなった。蝋燭の芯が、どこかでじりっと鳴った。

 祖母なら、どちらを選ぶだろう、と思った。

 答えは、知っていた。五十一年、庭にあった。


 わたしは、ニコに小さく首を振った。

 彼の足が止まった。何か言いたげに唇が開いて、閉じた。組んだ両手に、力が入るのが見えた。


 裾を両手でつまんだ。

 右足を引く。膝を深く折る。背は伸ばしたまま、頭だけを垂れる。床に沈むような、古い宮廷の礼だ。今の若い人はもう、こんなに深くは膝を折らない。

 八つの年から毎朝、祖母の居間でこの礼を稽古してきた。膝が震えると、祖母は黙ってわたしの背に手を当てた。「いつか要る日が来るから」と祖母は言った。宮廷に一度も上がらない人が、なぜそんなことを言うのか分からなかった。何のために要るのか、一度も教えてくれなかった。

「今どき、あの礼を」

 年配の誰かが、息をのんだ。

「五十年前の礼だわ」


 立ち上がって、胸の百合を外した。祖母が今朝、二度直してくれたピンを抜く。

 広間が、しんとした。皆が、それが床に投げられるのを待っている。第三幕のとおりに。

 わたしはポーリーヌ様の前まで歩いて、百合を、その手に渡した。

 冷たい指だった。わたしより、ずっと震えていた。


「どうか、お幸せに」


 祖母の口癖だ。毎年、球根に向かって言っていた言葉。

 合図のつもりはなかった。わたしは祖母の孫で、祖母ならきっとこう言う。それだけだった。


 広間が戸惑った。台本にない台詞だったからだ。どこかで誰かが、「違うわ」と小さく言った。

 ジェローム様が、先に我に返った。

「……それが、君の答えか」

 唇の端が上がる。

「では、北の修道院へ」

 どこかで拍手が起きた。ぱらぱらと、まばらに。拍手した人も、途中で手を止めた。


 ポーリーヌ様が、泣き出した。

 百合を持ったまま顔を覆おうとして、扇が手から落ちた。床の上で、扇が開く。

 その内側に、細かな字の紙が貼ってあった。印刷された頁だった。『百合の王妃』の台本だ。第三幕の、罪状を読み上げる場面に、鉛筆で線が引いてあった。


    *


 こつん、と音がした。

 杖が、床を突く音だった。


 王太后様が、立っておられた。

 ニコが、その腕を支えている。王太后様は段を一つずつ下りて、広間の真ん中まで来られた。一段下りるたびに、杖の音が響いた。誰も動かなかった。ジェローム様でさえ。


「その言葉を」

 かすれた、けれどよく通る声だった。

「わたくしは五十一年前、この広間で聞きました」


 王太后様は、わたしを見ていた。わたしの向こうの、誰かを見ているようにも見えた。


「悪役は、あの方が自分で引き受けた役です。王家の婚約は、王の許しなしには解けません。先の王は、フランソワ様とわたくしの結婚をお許しにならなかった。あの方にも、ほかに想う方がいた。高等法院の、若い書記の方です。だから、あの方が言ったのです。わたくしが悪者になれば、三人とも好きな人と生きられる、と」

 杖の先が、かすかに震えていた。

「噴水には、わたくしが自分で入りました。ドレスは、二人で裂きました。あとで繕えるように、縫い目に沿って。毒の杯の中身は、薄荷水です。わたくしが噎せたので、それらしく見えた」

 誰かが、小さく声を漏らした。

「あの方は、百合を投げませんでした。胸から外して、わたくしの手に渡して、どうか、お幸せに、と言ったのです。歌劇は、それを呪いに書き替えました。わたくしは、五十一年、それを止めませんでした。言わないで、とあの方に言われたから。言えば、あなたが王妃でいられなくなる、と」

 王太后様は、少しだけ目を伏せた。

「それを、言い訳にしてきました」


 王太后様は、広間を見回された。年配の客の何人かが、目を伏せた。

「あの方の家は、あの方を勘当しました。オートヴァルの家訓を、皆さんはご存じでしょう。預かったものは、預かったまま返す。あの方は、フランソワ様のお心を、預かったまま、わたくしに返してくれたのです。そのお礼を、わたくしは一度も、人前で言ったことがありません」


 王太后様が、わたしの前で足を止めた。

「罪を着るべきだったのは、黙っていたわたくしです。あなたとジェロームの婚約は、あの方から取り上げたものを、少しでも返したくて決めました。それが、同じことの繰り返しに使われるとは」

 杖を握る手に、力がこもった。

「……あなたが言わなかったから、わたくしが言うのです」


 それから王太后様は、床の扇を、杖の先で示された。

「ジェローム。あなたは台本を読み違えました」

 ジェローム様の手が、上着の裾を握った。

「おばあさま、わたしは、ただ——おばあさまの物語と同じように」

「わたくしの物語に、濡れ衣を着せられた者は一人もいません。着たのです。自分で」

 静かな声だった。

「婚約の破棄は認めます。ただし、非はあなたにあります。証書の定めどおり、違約金はボーモン家が払いなさい。お父上の借金と一緒に、あなたが返すのですよ」

 人垣の奥で、ヴィルヌーヴ伯爵が咳払いをした。

「……娘の縁談は、なかったことに」

 ジェローム様は何か言いかけて、やめた。胸を反らす癖が、どこかへ行っていた。


 ポーリーヌ様が、百合を差し出してきた。

「お返しします。わたくし、父に言われて、こんな」

「持っていてください」

 わたしは言った。

「渡したものですから」

 ポーリーヌ様は、百合を胸に抱いて、もう一度泣いた。


 王太后様が、ニコに振り返った。仕着せの懐から、布の包みが出てきた。見覚えのある、生成りの麻。

「今年の分を」

 王太后様は包みを彼に渡して、少しだけ笑われた。

「これが、あなたの最後のお使いです」


 ニコが、広間を横切ってきた。

 楽団の前を過ぎ、上座の段の下を過ぎ、ジェローム様の横を、一度も見ずに過ぎた。

 靴音が、磨かれた床に一つずつ響く。ランタンの輪の外から、いつも三歩で門まで来た人が、今夜は広間の端から、わたしのところまで歩いてくる。人垣が、黙って道をあけた。

 目の前で止まって、包みを差し出した。

「今年の分です」

 七回聞いた声だった。

「……お茶は、ありませんけれど」

「構いません」

 受け取ると、中で丸いものが転がった。

 ニコは、包みから手を離さなかった。

「ここからは、お使いではなく、わたしの用です」

 青い仕着せの袖が、少しだけ震えていた。

「ニコラ・ド・サン=タマンと申します。七年、名乗らずにいて、申し訳ありませんでした。……最後の曲を、踊っていただけますか」


 楽団の誰かが、止まっていた弓を弦に戻した。

 わたしは、包みを片手に抱えたまま、もう片方の手を彼に預けた。

 手袋ごしの指は、門の外で茶の杯を包んでいたときと同じくらい、冷えていた。曲が始まると、それが少しずつ温まっていくのが分かった。

 広間の人たちは、しばらく誰も踊らなかった。それから、学院長のエロディ様が、ご主人の手を取って輪に入ってこられた。特待生の誰かが続いた。一組、また一組と、止まっていた曲の中へ人が戻ってきた。

 ニコラは、ときどきわたしの顔を見た。目が合うと、門の前と同じように、困ったように笑った。


    *


 夜明けの庭は、土の匂いがした。

 祖母は、門の灯りをつけたまま、一晩じゅう居間で待っていたらしい。王家の紋の馬車が門の前に止まっても、祖母は驚かなかった。ショールを肩に掛け直して、庭へ出てきた。父が、戸口で口を開けたまま立っていた。


 王太后様は、馬車を降りて、しばらく動かれなかった。

 庭には、細い芽が並んでいる。一本ずつ、小さな木の札が立ててあった。一〇九二。一〇九三。一〇九四。祖母の字で、五十本。

 王太后様は、札を一つずつ読みながら、ゆっくり歩かれた。杖が、柔らかい土に沈んだ。一一三九の札の前で、少し長く止まった。わたしが初めて植えた年だ。


 祖母が、その前に立った。

 二人とも、同じくらい背が縮んでいた。


「毎年、届いておりましたよ」

 祖母が言った。

「五十一年、言えなくて」

「言わない約束でしたもの」

 祖母はそれから、わたしを横目で見た。

「婚約のことは、余計なお世話でしたわ」

 王太后様が、声を出して笑われた。笑いながら、目もとを押さえておられた。


「最初の年のは、咲きましたか」

 王太后様が訊かれた。

「三年目に」

 祖母は、一〇九二の札の前にしゃがんで、土の上の枯れた茎を指でどけた。

「主人が、植える場所を間違えたんですよ。日陰に。あの人は、字を書くほかは何にもできない人でしたから」

 王太后様は、その札をしばらく見ておられた。それから、小さな声で、ジャン様はお元気で、と訊きかけて、やめられた。祖母が、三年前に、とだけ言った。


 王太后様は、絹の裾のまま、土に膝をつかれた。

 祖母は何も言わずに、移植ごてを渡した。

 五十一個目の球根が、五十本目の隣に埋められた。祖母が新しい札を差し出すと、王太后様は震える字で年号を書かれた。一一四二。


「お幸せでしたか」

 祖母が、一つだけ訊いた。

「ええ」

「なら、よろしいの」


 翌週の『シャンテル新報』には、作者の名のない風刺小説が載った。題は『台本どおりの公子』。借金取りに追われる公子が、台詞を読み違えて舞台から落ちる話で、王都じゅうが笑った。ポーリーヌ様からは、押し花にした百合を挟んだ短い手紙が届いた。

 その春の終わり、ベランジェ伯爵が、第三幕の最後の台詞を書き直させた。悪役令嬢は、もう百合を投げない。


 門の前で、ニコラが帽子を持って立っていた。夜明けの光で見ると、髪は栗色だった。

「来年の春も、参ります」

「何のご用で」

「わたしの用で」

「では、お茶を二杯、用意しておきます」

「一杯は、門の内側で飲ませていただけますか」

 七年、彼は一度も、門の内に足を入れなかった。わたしは門の閂に手をかけて、それを外した。

 錆びた鉄が、夜明けの庭に高い音を立てた。祖母と王太后様が、そろってこちらを振り向いた。


 わたしは、笑った。

 人前で笑うのは、十の年から八年ぶりだった。冷笑に見えたかどうかは、知らない。ニコラは、目を細めて、それを見ていた。


 庭の奥で、祖母と王太后様が、また並んで五十本の芽と、新しい札を一本、見下ろしている。

 わたしは、悪役令嬢の孫だ。五十一年、たった一つの約束を守り通した人の。

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― 新着の感想 ―
その人をモデルにした歌劇があるとはいえ、脚色のことも考えずそれになぞらえた行動をやっていること自体なかなか痛々しいような。広間にいた人たち自体が反省してほしいですね。
王太后が真相を告白したのは自分達の青春の苦悩を利用して、孫が嬉々として恩人の孫を貶める醜悪さに耐えられなかったからだろうな。 人を晒し者にすることを選んで自分が晒し者になったジェロームもポーリーヌ…
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