婚約者が歌劇の台詞で断罪してきますが、その悪役令嬢はわたしの祖母です
「ソランジュ・デュフレーヌ。君との婚約を、今この場で破棄する」
その台詞を、わたしは六つのときから知っている。
歌劇『百合の王妃』第三幕、幕が上がって最初の台詞だ。名前のところだけが違う。舞台では、そこに祖母の名前が入る。
楽団の弓が、曲の途中で止まっていた。
白百合宮の大広間は、天井まで蝋燭の光で埋まっている。王立学院の卒業舞踏会。今夜学院を出る娘たちは、みな胸に白い百合をつけていた。わたしの胸にも一輪ある。今朝、祖母が庭の井戸端で茎を切りそろえ、ピンを打ってくれたものだ。「曲がっていますよ」と、祖母は二度直した。
国王陛下と王妃様は、最初の輪舞を踊り終えたところで、習わしどおり退かれた。扉が閉まって、まだ十も数えていない。
ジェローム様は、それを待っていたのだと思う。
その輪舞を、わたしは彼と踊った。婚約者だからだ。彼は一度もわたしの顔を見ず、わたしの肩の向こうの誰かを見ていた。曲が終わると、礼もそこそこに手を離した。
今、その人が広間の真ん中に立っている。王弟ボーモン公の嫡男で、歌劇が好きで、話すときは少し胸を反らす人だ。隣に、ヴィルヌーヴ伯爵家のポーリーヌ様がいた。扇を胸の前で握りしめて、白い顔をしている。
三週間前から、ジェローム様からは婚約の香りがしなくなっていた。八つの年に両家の香水を一滴ずつ混ぜて調香させた、少し苦い橙の香り。今夜、彼の上着から匂うのは菫だった。
「第三幕よ」
誰かが囁いた。年配の婦人の声だった。
「悪役令嬢の孫ですもの」
「ねえ、今夜って、あの夜と同じ日じゃなくて?」
この国で悪役令嬢といえば、わたしの祖母のことだ。五十一年前、この広間で当時の王太子殿下に断罪され、その五年後には歌劇になった。
上座を見る。
金の椅子に、王太后アニエス様が座っておられた。十年、人前にお出にならなかった方だ。今夜は、孫であるジェローム様の卒業のためにいらしている。細い手が、銀の杖の頭に重ねてあった。
あの方が、歌劇の「百合の王妃」だ。
わたしとジェローム様の婚約は、あの方の肝煎りで決まったと聞いている。宮廷から遠ざけられた子爵家の、しかも悪役令嬢の孫を、なぜ王弟家の嫡男に。理由は誰も知らなかった。父も知らなかった。祖母は、知っていたのかもしれない。何も言わなかったけれど。
今ごろ、家の門には灯りがついているだろう、と思った。
毎年この夜、わたしはランタンを持って門に立っていた。七年、欠かしたことはない。今年は、祖母が門の灯りをつけて待っている。この夜だけは決して家を出ない祖母に、父が付き添っているはずだ。
あの人は、今年も来るのだろうか。
わたしは、裾をつまんで浅く礼をした。
「理由を、お聞かせくださいませ」
日付を訊けばいい。台本には日付がない。粗は、そこから出る。
ジェローム様は、舞台の上の人のように片手を広げた。
「言わずとも分かろう。君は、あの人の孫だ」
どこかで、くすりと笑う声がした。
広間の壁ぎわには、娘たちの母親や祖母の世代の客が、椅子を並べて座っている。その人たちは、たぶん舞台を何度も観ている。何人かは、扇の陰で次の台詞を待つ顔をしていた。
一つ笑えば、次が続く。広間の端から端へ、細い笑いが波のように渡っていった。
*
「ポーリーヌ嬢。皆に聞かせてやってくれ」
ポーリーヌ様が一歩前に出た。扇を少しだけ開いて、その内側に目を落とす。何かを読むときの目の動きだった。
「三月の二日。学院の噴水の庭で、ソランジュ様は、わたくしを……噴水に突き落としました」
声が震えていた。
「三月二日は木曜日です」
わたしは言った。
「わたくしは午後ずっと図書室におりました。貸出簿に、ラテン語の辞書を借りた記録と、返した時刻が書いてあるはずです。図書室の係の方に、お訊きください」
ざわめきが、少しだけ向きを変えた。
ポーリーヌ様がまた扇の内側を見る。一行ぶん、目が下りた。
「四月の、春の夜会の晩。わたくしの夜会服を、裂きました」
「その晩は、学院長のエロディ様のお招きで、特待生の皆さんと朗読会をしておりました。夜の九時まで。エロディ様がご存じです」
反証は、ある。記録をつける家に生まれたのだ。父は高等法院の書記官長で、祖父もそうだった。日付と時刻は、わたしの味方のはずだった。
ポーリーヌ様の唇が、音を出さずに動いた。次の行を、口の中で探しているようだった。
「……そして先週。お茶の杯に、毒を」
ジェローム様が、人垣のほうへ顎をしゃくった。
「見た者がいる。そうだな、レミ」
ボーモン家の取り巻きの一人が、咳払いをして前へ出た。
「はい。先週の茶話会で、デュフレーヌ嬢がポーリーヌ嬢の杯の前に立っているのを見ました。手に、小さな青い瓶を」
青い瓶。第三幕で、悪役令嬢が袖から出す瓶の色だ。舞台では、客席の後ろからでも見えるように、ことさら青い硝子を使う。
「先週の茶話会に、わたくしは出ておりません」
「出ていたさ。わたしが見た」
レミ様は、わたしの目を見なかった。
わたしは、つい言ってしまった。
「噴水が第一幕。ドレスが第二幕。毒の杯が第三幕。順番まで、歌劇と同じですのね」
一拍、静かになった。
それから、広間が笑った。
ジェローム様ではなく、わたしを。
「ほら、お祖母様とそっくり」
「血は争えないのね」
「歌劇と同じことをしておいて、よく言えたものだわ」
扇の陰の笑い声が、蝋燭の熱と一緒に首筋にまとわりついた。日付も、貸出簿も、もう誰も聞いていない。皆が知っているのは歌劇の結末で、わたしがその結末どおりの顔をしていることだった。
祖母ゆずりの、切れ長の目。黒い髪。笑えば冷笑に見えると言われて、人前で笑うのをやめたのは、十の年だった。
六つの年、初めて『百合の王妃』を観た。父は止めたのに、わたしが観たいとせがんだ。
舞台の上で、黒い髪の女が、祖母の名前で呼ばれていた。噴水の場面で客席が息をのみ、毒の杯の場面で誰かが悲鳴を上げ、最後に女が百合を投げつけて呪うと、劇場じゅうが拍手をした。
帰りの馬車で、わたしは一言も話さなかった。家に着くと、祖母は庭にいた。夕暮れの百合の中で、しゃがんで雑草を抜いていた。舞台の女とは、少しも似ていなかった。
それからも、わたしは歌劇を観に行った。一人で、何度も。祖母がどんなふうに笑われているのか、自分の耳で確かめたかった。台詞は、幕ごとに全部覚えてしまった。
「婚約を破ったのは、君の罪のゆえだ」
ジェローム様の声が、よく通った。
「証書の定めどおり、違約金はデュフレーヌ家に払ってもらう。それから——君のお祖母様が行くべきだった北の修道院へ、君が行くといい。五十一年越しに、帳尻が合う」
違約金の額を、わたしは知っている。家の年の実入りの、四年分だ。父の書斎の、鍵のかかる引き出しに、証書の写しが入っている。
「祖母は」
口を開いて、そこで止まった。
祖母は、何もしていません。そう言いたかった。言えなかった。わたしは、それを知らない。
十二の春、一度だけ祖母に訊いたことがある。
庭で、祖母は球根の土を払っていた。毎年この夜、差出人のない包みが一つ門に届く。中身は白百合の球根で、祖母は受け取るとき、いつも小さく「お幸せに」と言う。翌朝、年号を書いた札を立てて植える。庭の百合は、今年の春で五十本になった。夏になると、門の外まで匂う。
「おばあさま。本当に、なさったの」
祖母は手を止めなかった。
「言い訳はしないの。約束したから」
それだけだった。
わたしはそれを、半ば認めたのだと受け取ってきた。近所の人は、悪女が百合の王妃への当てつけに百合を育てていると言う。庭師は一度、球根を手に取って、「これは白百合宮の品種ですよ。どこで手に入れなさったんで」と首をかしげた。祖母は答えなかった。
わたしは、祖母の庭の百合が好きではなかった。
*
「さあ」
ジェローム様が、指揮棒を振るように手を上げた。
「言いたまえ。君の家の台詞だろう。百合は枯れても——」
年配の客の何人かが、口の中で節をなぞった。第三幕の終わり、悪役令嬢が胸の百合をむしって恋敵の足もとへ投げ、呪いをかけて退場する。あの歌は、この国の誰もが歌える。子どもが、石蹴りをしながら歌うくらいに。
広間は待っていた。半ば怖がって、半ば楽しんで。
喉の奥に、最初の一語が上がってきた。
百合は。
言ってしまえば楽になる気がした。どうせ、そういう顔をしているのだ。そういう血なのだ。祖母は何もしていない、と言い切れない孫に、何を守れるだろう。皆が望む役を、望むとおりに演じて、幕を下ろしてしまえばいい。
わたしは目を逸らした。泣かないように、上を見た。
上座の、王太后様の椅子の後ろに、若い侍従が一人立っていた。
青い仕着せ。背が高い。蝋燭の光で、髪の色がよく分からない。
でも、立ち方を知っていた。両手を体の前で組んで、右の踵にだけ少し重さをかける立ち方。毎年、門の前で、ランタンの輪の外に立っていた人の。
ニコ。
十一の春だった。祖母がその年だけ膝を悪くして、わたしが代わりに門へ出た。大きすぎる外套を着た少年が、布の包みを差し出した。
「お届け物です。お返事は要らないと、言いつかっています」
寒そうだったので、台所から茶を一杯運んだ。少年は門の外で、それを両手で包んで飲んだ。門の内には、一歩も入らなかった。
次の春も、その次の春も、同じ少年が来た。毎年、少しずつ背が伸びた。外套の丈が合うようになったのは、三度目の春だった。
十四の春、名前を訊いた。「ニコ」とだけ、彼は言った。どこの家の方か訊くと、困ったように笑って、茶を飲み干した。
十五の春、わたしは学院で「棘」と呼ばれて、その夜も目が赤かった。ニコは包みを渡してから、しばらく黙って、それから言った。
「棘があるのは、守るものがある花だけです」
わたしは何も言えずに、空の杯を受け取った。その年の球根は、わたしが植えた。
十六の春は、雨だった。ニコは外套の中に包みを抱えてきて、濡れていなかったのは包みだけだった。茶を運ぶと、「今年は熱いのをお願いしたかったんです」と言って、少しだけ笑った。門の外で笑う彼を見たのは、それが初めてだった。
十七の春。去年だ。茶の杯を返しながら、彼は訊いた。
「来年も、門にいてくださいますか」
「婚約者のいる身ですので」
わたしはそう答えて、それから、長く黙った。ランタンの火が、二人のあいだで小さく揺れていた。
「……いると、思います」
一年に一夜。茶を一杯ぶんだけ。八つの年から婚約者のいる身で、わたしが自分に許したのは、それだけだった。
そのニコが、王太后様の後ろに立っている。
球根は、王太后様から届いていた。
頭の中で、何かが静かに並び直した。
白百合宮の品種。仕着せを着ない使い。「お返事は要らない」。十年人前に出なかった方が、この夜にだけ、ここにいる。祖母が五十一年、この夜だけは家を出ないこと。
歌劇のヒロインが、悪役に、五十年、毎年百合を贈ってきた。人目を避けて、名前も書かずに。
憎い相手に、五十年も贈り物はしない。
祖母の「約束」の相手は、あの方だ。
祖母は、恥じて黙ってきたのではなかった。誰かとの約束を、五十一年、守ってきたのだ。庭の五十本の札は、当てつけでも何でもなかった。受け取った数を、数えていたのだ。
喉の奥の一語が、どこかへ消えていた。
かわりに、今朝の祖母の指を思い出した。曲がっていますよ、と二度、胸の百合を直した指。祖母は、今夜ここで何が起きるか、知っていたのだろうか。知らなくても、祖母なら二度直しただろう、と思った。
ニコが、わたしを見ていた。
目が合った。彼の靴の先が、半歩、前に出かけた。言う気だ、と分かった。主人の後ろから、この広間の真ん中へ。
その前で、王太后様の杖を握る手が、白くなっていた。王太后様は目を閉じておられた。唇が、何かをこらえるように結ばれていた。
*
一言でいい。
「陛下。毎年春に祖母へ百合を届けてくださるのは、なぜですか」
そう訊いて、ニコに証言を頼めば、祖母もわたしも晴れる。違約金も、修道院もなくなる。父は引き出しの証書を燃やせるし、明日の朝、近所の人は祖母の庭を別の目で見るだろう。
そのかわり、祖母が五十一年黙ってきたことが、今夜一晩で終わる。王太后様は、国じゅうの前で嘘をついていた方になる。ニコは、七年守ってきた主人との約束を破る。
言わなければ、家は違約金に沈む。わたしは北の断崖の修道院へ行く。夜通し灯を守って日を数える、あの修道院へ。来年の春、門でランタンを持つ人は、いない。
父の顔が浮かんだ。書記官長の机で、一日じゅう他人の言い分を書き写している人。祖母の噂を、一度も口にしたことのない人。違約金の証書を、鍵のかかる引き出しにしまったとき、父はわたしに「心配しなくていい」と言った。心配しなくていい額ではなかった。
広間の音が遠くなった。蝋燭の芯が、どこかでじりっと鳴った。
祖母なら、どちらを選ぶだろう、と思った。
答えは、知っていた。五十一年、庭にあった。
わたしは、ニコに小さく首を振った。
彼の足が止まった。何か言いたげに唇が開いて、閉じた。組んだ両手に、力が入るのが見えた。
裾を両手でつまんだ。
右足を引く。膝を深く折る。背は伸ばしたまま、頭だけを垂れる。床に沈むような、古い宮廷の礼だ。今の若い人はもう、こんなに深くは膝を折らない。
八つの年から毎朝、祖母の居間でこの礼を稽古してきた。膝が震えると、祖母は黙ってわたしの背に手を当てた。「いつか要る日が来るから」と祖母は言った。宮廷に一度も上がらない人が、なぜそんなことを言うのか分からなかった。何のために要るのか、一度も教えてくれなかった。
「今どき、あの礼を」
年配の誰かが、息をのんだ。
「五十年前の礼だわ」
立ち上がって、胸の百合を外した。祖母が今朝、二度直してくれたピンを抜く。
広間が、しんとした。皆が、それが床に投げられるのを待っている。第三幕のとおりに。
わたしはポーリーヌ様の前まで歩いて、百合を、その手に渡した。
冷たい指だった。わたしより、ずっと震えていた。
「どうか、お幸せに」
祖母の口癖だ。毎年、球根に向かって言っていた言葉。
合図のつもりはなかった。わたしは祖母の孫で、祖母ならきっとこう言う。それだけだった。
広間が戸惑った。台本にない台詞だったからだ。どこかで誰かが、「違うわ」と小さく言った。
ジェローム様が、先に我に返った。
「……それが、君の答えか」
唇の端が上がる。
「では、北の修道院へ」
どこかで拍手が起きた。ぱらぱらと、まばらに。拍手した人も、途中で手を止めた。
ポーリーヌ様が、泣き出した。
百合を持ったまま顔を覆おうとして、扇が手から落ちた。床の上で、扇が開く。
その内側に、細かな字の紙が貼ってあった。印刷された頁だった。『百合の王妃』の台本だ。第三幕の、罪状を読み上げる場面に、鉛筆で線が引いてあった。
*
こつん、と音がした。
杖が、床を突く音だった。
王太后様が、立っておられた。
ニコが、その腕を支えている。王太后様は段を一つずつ下りて、広間の真ん中まで来られた。一段下りるたびに、杖の音が響いた。誰も動かなかった。ジェローム様でさえ。
「その言葉を」
かすれた、けれどよく通る声だった。
「わたくしは五十一年前、この広間で聞きました」
王太后様は、わたしを見ていた。わたしの向こうの、誰かを見ているようにも見えた。
「悪役は、あの方が自分で引き受けた役です。王家の婚約は、王の許しなしには解けません。先の王は、フランソワ様とわたくしの結婚をお許しにならなかった。あの方にも、ほかに想う方がいた。高等法院の、若い書記の方です。だから、あの方が言ったのです。わたくしが悪者になれば、三人とも好きな人と生きられる、と」
杖の先が、かすかに震えていた。
「噴水には、わたくしが自分で入りました。ドレスは、二人で裂きました。あとで繕えるように、縫い目に沿って。毒の杯の中身は、薄荷水です。わたくしが噎せたので、それらしく見えた」
誰かが、小さく声を漏らした。
「あの方は、百合を投げませんでした。胸から外して、わたくしの手に渡して、どうか、お幸せに、と言ったのです。歌劇は、それを呪いに書き替えました。わたくしは、五十一年、それを止めませんでした。言わないで、とあの方に言われたから。言えば、あなたが王妃でいられなくなる、と」
王太后様は、少しだけ目を伏せた。
「それを、言い訳にしてきました」
王太后様は、広間を見回された。年配の客の何人かが、目を伏せた。
「あの方の家は、あの方を勘当しました。オートヴァルの家訓を、皆さんはご存じでしょう。預かったものは、預かったまま返す。あの方は、フランソワ様のお心を、預かったまま、わたくしに返してくれたのです。そのお礼を、わたくしは一度も、人前で言ったことがありません」
王太后様が、わたしの前で足を止めた。
「罪を着るべきだったのは、黙っていたわたくしです。あなたとジェロームの婚約は、あの方から取り上げたものを、少しでも返したくて決めました。それが、同じことの繰り返しに使われるとは」
杖を握る手に、力がこもった。
「……あなたが言わなかったから、わたくしが言うのです」
それから王太后様は、床の扇を、杖の先で示された。
「ジェローム。あなたは台本を読み違えました」
ジェローム様の手が、上着の裾を握った。
「おばあさま、わたしは、ただ——おばあさまの物語と同じように」
「わたくしの物語に、濡れ衣を着せられた者は一人もいません。着たのです。自分で」
静かな声だった。
「婚約の破棄は認めます。ただし、非はあなたにあります。証書の定めどおり、違約金はボーモン家が払いなさい。お父上の借金と一緒に、あなたが返すのですよ」
人垣の奥で、ヴィルヌーヴ伯爵が咳払いをした。
「……娘の縁談は、なかったことに」
ジェローム様は何か言いかけて、やめた。胸を反らす癖が、どこかへ行っていた。
ポーリーヌ様が、百合を差し出してきた。
「お返しします。わたくし、父に言われて、こんな」
「持っていてください」
わたしは言った。
「渡したものですから」
ポーリーヌ様は、百合を胸に抱いて、もう一度泣いた。
王太后様が、ニコに振り返った。仕着せの懐から、布の包みが出てきた。見覚えのある、生成りの麻。
「今年の分を」
王太后様は包みを彼に渡して、少しだけ笑われた。
「これが、あなたの最後のお使いです」
ニコが、広間を横切ってきた。
楽団の前を過ぎ、上座の段の下を過ぎ、ジェローム様の横を、一度も見ずに過ぎた。
靴音が、磨かれた床に一つずつ響く。ランタンの輪の外から、いつも三歩で門まで来た人が、今夜は広間の端から、わたしのところまで歩いてくる。人垣が、黙って道をあけた。
目の前で止まって、包みを差し出した。
「今年の分です」
七回聞いた声だった。
「……お茶は、ありませんけれど」
「構いません」
受け取ると、中で丸いものが転がった。
ニコは、包みから手を離さなかった。
「ここからは、お使いではなく、わたしの用です」
青い仕着せの袖が、少しだけ震えていた。
「ニコラ・ド・サン=タマンと申します。七年、名乗らずにいて、申し訳ありませんでした。……最後の曲を、踊っていただけますか」
楽団の誰かが、止まっていた弓を弦に戻した。
わたしは、包みを片手に抱えたまま、もう片方の手を彼に預けた。
手袋ごしの指は、門の外で茶の杯を包んでいたときと同じくらい、冷えていた。曲が始まると、それが少しずつ温まっていくのが分かった。
広間の人たちは、しばらく誰も踊らなかった。それから、学院長のエロディ様が、ご主人の手を取って輪に入ってこられた。特待生の誰かが続いた。一組、また一組と、止まっていた曲の中へ人が戻ってきた。
ニコラは、ときどきわたしの顔を見た。目が合うと、門の前と同じように、困ったように笑った。
*
夜明けの庭は、土の匂いがした。
祖母は、門の灯りをつけたまま、一晩じゅう居間で待っていたらしい。王家の紋の馬車が門の前に止まっても、祖母は驚かなかった。ショールを肩に掛け直して、庭へ出てきた。父が、戸口で口を開けたまま立っていた。
王太后様は、馬車を降りて、しばらく動かれなかった。
庭には、細い芽が並んでいる。一本ずつ、小さな木の札が立ててあった。一〇九二。一〇九三。一〇九四。祖母の字で、五十本。
王太后様は、札を一つずつ読みながら、ゆっくり歩かれた。杖が、柔らかい土に沈んだ。一一三九の札の前で、少し長く止まった。わたしが初めて植えた年だ。
祖母が、その前に立った。
二人とも、同じくらい背が縮んでいた。
「毎年、届いておりましたよ」
祖母が言った。
「五十一年、言えなくて」
「言わない約束でしたもの」
祖母はそれから、わたしを横目で見た。
「婚約のことは、余計なお世話でしたわ」
王太后様が、声を出して笑われた。笑いながら、目もとを押さえておられた。
「最初の年のは、咲きましたか」
王太后様が訊かれた。
「三年目に」
祖母は、一〇九二の札の前にしゃがんで、土の上の枯れた茎を指でどけた。
「主人が、植える場所を間違えたんですよ。日陰に。あの人は、字を書くほかは何にもできない人でしたから」
王太后様は、その札をしばらく見ておられた。それから、小さな声で、ジャン様はお元気で、と訊きかけて、やめられた。祖母が、三年前に、とだけ言った。
王太后様は、絹の裾のまま、土に膝をつかれた。
祖母は何も言わずに、移植ごてを渡した。
五十一個目の球根が、五十本目の隣に埋められた。祖母が新しい札を差し出すと、王太后様は震える字で年号を書かれた。一一四二。
「お幸せでしたか」
祖母が、一つだけ訊いた。
「ええ」
「なら、よろしいの」
翌週の『シャンテル新報』には、作者の名のない風刺小説が載った。題は『台本どおりの公子』。借金取りに追われる公子が、台詞を読み違えて舞台から落ちる話で、王都じゅうが笑った。ポーリーヌ様からは、押し花にした百合を挟んだ短い手紙が届いた。
その春の終わり、ベランジェ伯爵が、第三幕の最後の台詞を書き直させた。悪役令嬢は、もう百合を投げない。
門の前で、ニコラが帽子を持って立っていた。夜明けの光で見ると、髪は栗色だった。
「来年の春も、参ります」
「何のご用で」
「わたしの用で」
「では、お茶を二杯、用意しておきます」
「一杯は、門の内側で飲ませていただけますか」
七年、彼は一度も、門の内に足を入れなかった。わたしは門の閂に手をかけて、それを外した。
錆びた鉄が、夜明けの庭に高い音を立てた。祖母と王太后様が、そろってこちらを振り向いた。
わたしは、笑った。
人前で笑うのは、十の年から八年ぶりだった。冷笑に見えたかどうかは、知らない。ニコラは、目を細めて、それを見ていた。
庭の奥で、祖母と王太后様が、また並んで五十本の芽と、新しい札を一本、見下ろしている。
わたしは、悪役令嬢の孫だ。五十一年、たった一つの約束を守り通した人の。




