第1回 王脩、母を亡くす
北海郡営陵県に物静かな少年がいた。
「母上、母上・・・。」
涙を流しながら、既に再び起きることのない母親の枕頭で繰り返し呟いている少年がいる。
この少年は、「王脩」といい、まだ七歳である。
母親は体が弱い質で、いつも体調管理には気を付けていた。
軽い風邪をひいたと思ったら、日に日に体調不良は深刻さを増し、そのまま息を引き取った。
この日は、新年を祝う村祭りの日であったが、村祭りが終わるとほぼ時を同じくして、息を引き取った。
王脩の父は「王万」といい、いわゆる「寒門」の士族であり、私塾を開いて生計を立てていた。王万は王脩に言った。
「脩よ、いくら泣いてもお前の母上はもう死んでしまったのだ。生き返ることは無い。」
「はい、わかっております・・・。しかし、この悲しみをすぐにおさめることはできません・・・。」
「お前は、母になついていたからな・・・。」
王万の言葉は冷えた感じで王脩の耳に入ってくる。
子供の王脩からみても、王万夫婦の仲はいい、とは思えなかったからである。
だからといって、王脩は父としての王万を嫌うということは無かった。夫婦とはこういうものだ、と理解をして、父と母の橋渡し役を王脩は自然とつとめていたのだ。
ただ一つ不安があった。
それは、父である王万が自分をどう思っているのか、ということである。少なくとも、これまで「自分は父に愛されている」と感じるようなことはなかった。
数人の家人はいるが、これからは王万と王脩、ふたりの生活になるのである。王脩は、親子であるはずなのに王万と話をしていると「緊張」を覚えるのである。母との会話はただただ楽しいだけであり、緊張などは無縁のものであった。
王万も、王脩が自分と接しているときの緊張には当然、気づいていた。そして、その緊張をほぐしてやる術を王万は持ち合わせておらず、心の中では「申し訳ない」と思っていたのである。
お互いに言えない気持ちを持ち続け、結局、解決策を見出すことが出来ずに、二人での生活が始まり、間もなく一年が経過しようとしていた。
今年は、隣村で村祭りが行われることになっていた。
王脩は、「村祭り」と言う言葉を聞いた時に、母の死を思い出し、涙を流した。
王万は、「なんと女々しきことか」と心の中で思ったが、この話は近隣では美談とされ、なんと隣村の村長は王脩の気持ちを慮り、村祭りを中止することにしたというのである。
これは一大事、と王万は早々に隣村の村長の所を訪ねて言った。
「村長殿。我が愚息のために、村の衆が楽しみにしている祭りを取りやめるなど、過分なお心遣いは不要です。」
「王万殿。何もこれは私が一人で決めたことではない。村の主だった者たちで話し合い、決めたこと。皆、息子さんの孝養の気持ちを尊きものであると讃えています。」
王万は言葉を失った。
王脩の近くにいる自分より、遠くにいる他人の方が王脩の気持ちを理解しているのだ。しかし、これで肩の力が抜けた様な気がした。父親であるからといって、我が子の事を全て理解する、などといったことは出来もしないし、する必要もないのだ。
王万は自邸に戻ると王脩を呼び出して言った。
「脩よ。私はお前の父親として、お前の全てを理解して受け入れたいと思っていたが、どうやらそれは私の驕りであるとわかった。」
「・・・。どういうことでしょうか。おっしゃっていることが難しくて愚息の私には理解できませぬ。」
「そうか。お前はお前の考えと信念に基づいて、自由に生きよ。父の事を気にすることは無い。やりたいようにやればよい、ということだ。」
王万は噛み砕いて話をしたつもりだが、王脩はそれでもすべてを理解した、という感じには見えなかった。実際、まだ八歳の王脩という少年にとっては、難しい話であったが、最後の言葉だけは理解できた。王脩は言う。
「父上、私は学問をしたいと常々思っておりました。父上の講義を末席で聴かせて頂きたいのですがよろしいでしょうか。」
「無論、構わない。しかし、何故、学問をしたいのだ?」
王脩は少し考えてから言った。
「母上は時々、孔子様や孟子様のお話をしてくださいました。たいていの場合は、私が落ち込んでいるときや、やってはいけないことをしたときです。そしていつも、詳しいことは父上に教わりなさい、とおっしゃっていました。」
王万は、妻が王脩にその様なことを言っていたことは全然知らなかった。王脩は学問に打ち込むことで、母の事で気落ちする自分と向き合おうとしているのだろう、と感じた。学問に打ち込む動機は、何でも構わないと王万は思っている。だから、弟子入りを望む者は基本的に受け入れをしてきたのだ。王万は言う。
「私の下で学ぶ以上、私とお前の関係は親子ではなく、師弟となる。身贔屓は一切せずに、他の弟子と同じく扱うが、それに耐えられるか。」
「もちろんでございます。明日よりは、父上、ではなく、先生と呼ばせていただきます。しかし、今日の間だけは父上であり、親子として過ごさせて頂きたく思います。」
「・・・。わかった。そろそろ夕餉の時間であろう。ともに語らおうではないか。」
王脩は、笑顔で頷いた。
こうして、ここから王脩は父親の王万を師として、勉学に励むことになる。数年後には一番若い高弟となり、新しく入ってきた者たちを教導する立場になった。
それと共に、冠礼の儀を行い、字を「淑治」とした。名前である「脩」に呼応しており、高潔で清廉な徳を治める者、といったような意味合いとなる。
そうこうしているうちに、王脩も二十歳を迎えた。
王脩が王万に切り出す。
「先生、お願いがございます。」
「ほう、聞こう。」
「以前から考えていたのですが、より自らの学問を高めるために、南陽への遊学のご許可を頂けませんでしょうか。」
「南陽か・・・。何故、南陽を選んだのか聞かせてくれ。」
「はい。土地柄として学問が盛んであり、名士の方々も多く訪れると聞いています。これからのことを考えると、自分の視野を広げるためにも、学問を突き詰めることに加えて、多くの人との交流も図りたい、と考えております。」
「そうか・・・。我が家は士族であるが、いわゆる寒門の身分である。私はそれを受け入れてここまで生きてきた。お前は、自ら名士になりたい、という大望を持っているのか?」
「名士には二通りあると聞いています。まずは、もともと家格が高く、生まれながらにして名士として遇される者。そしてもう一つが、名士に人物として認められて名士となる者。私は、後者を目指したいと考えています。」
「何故、名士を目指すのだ?」
「名士になることで、より多くの道が広がると考えています。私は、自分の学問を政に活かしたい、と思っております。」
「政に関心があるのか。これは初耳だ。」
「はい。誰にも言ったことは無く、今回初めて口に致しました。」
「政にも色々とある。名士にならなくとも、官途に就くことは出来る。」
「はい。しかし、やはり名士とは区別され、その先行きには限界があると思っています。」
「そうか、わかった。淑治よ、己が目指す道を進むとよい。これからは、師弟ではなく、父と子の関係に戻ろう。」
「父上、ありがとうございます。この淑治、必ずや父上に認めて頂けるよう、努力いたします。」
「淑治、期待しているぞ。今宵は、酒でも酌み交わそう。」
「ありがとうございます。」
こうして、王脩は遊学のために南陽に旅立ったのである。




