第6話 寺院の夜
第6話 寺院の夜
日が傾き、寺院の石壁の影が長く伸びるころ、サクはようやく自分の部屋へ戻った。
扉を閉めると、外の気配がひとつ遠のく。
その静けさに少しだけ息をついてから、肩の荷を下ろした。
杖を立てかけ、背嚢を下ろし、上半身に巻いていたロープを外し、腰の小物と外套も順に外していく。ひとつ外すたびに、今まで黙っていた疲れがじわじわと身体の表に出てくる。森の奥まで入り、人を担いで戻り、そのあと町で報告やら何やらに付き合わされた。今になって足も肩も重いと言い出すのは、むしろ当然やった。
部屋着に着替え、どすんとベッドへ腰を落とす。
「はぁ……しんど」
思わず漏れた声は、自分で思っていたよりも弱かった。
「森奥へ一往復半か。よう動いたな……」
ここまでは気ぃ張っとったぶん、何とか身体もついてきた。
けど、こうして帰ってきてしまえば、あとはもう駄目や。脚も背中も、遅れてきた疲れを律儀に訴えてくる。
それでも、装備を放ったまま寝るのは気持ちが悪い。
「……とりあえず、やることやらな」
立ち上がって、ひとつひとつ手に取り、確かめながら片づけていく。濡れたものは分け、刃物はざっと拭い、小袋の口を締め直す。細かい手入れは明日でええ。けど、ここで雑にすると、あとで余計に面倒になる。
その手を動かしているうち、ふいに腹が鳴った。
「そういや、朝からろくに食ってへんな……」
携帯食の包みが頭をよぎる。干し肉と、固い保存食。腹に入ればそれでいい類のもんや。
「……いややな」
今日はあれを食う気になれん。
腹の方が、携帯食を断固拒否していた。
サクは片づけをそこそこで切り上げると、部屋を出た。
廊下はひんやりとしていたが、厨房のある方からは煮炊きの匂いが流れてくる。豆と根菜の甘い匂いに、腹の虫がますます騒がしくなった。
「ただいまです。今帰りました」
声をかけて中をのぞくと、厨房ではシアとカンネ、それに若いシスターと年長の娘が夕食の支度をしていた。鍋の湯気が立ちのぼり、包丁の小さな音が混じる。
カンネが振り向く。
「おかえり。よう帰ってきたね。今夜どうなることかと思ったけど、無事でよかったよ。あんたの分もちゃんとある」
シアも静かに「おかえり」とうなずいた。
そのひとことに、ようやく帰ってきたのだという実感が遅れて胸に落ちた。
「助かるわ。腹減って、目ぇ回りそうやねん」
そう言うと、カンネが卓の隅を顎でしゃくる。
「出がけにあんたがしてた試作の肉料理、とりあえずこっちで形にしといたよ。エンゾさんにも味見を手伝ってもろうてね。まあまあの線までは行ったんちゃうかと思う」
卓の端に、小皿に分けられた肉が置かれている。
サクは少し眉を上げた。
「もうみんな試したん?」
「あたしは食べたけど、みんなはまだね」
カンネがそう答え、シアは小さく首を振る。
すると年長の娘が、露骨に顔をしかめて言った。
「だってそれ、トカゲのお肉なんでしょ」
カンネは肩をすくめる。
「エンゾさんから聞いたよ。あたしは別に、なんてことないけどね」
「あいつ、言うてしもたんか」
サクは苦笑した。
「みんなが口にしてから明かそ思うてたのに。ほんま、口の軽いやっちゃで」
そう言いながら、小皿からひとつ摘まんで口へ放る。
甘辛く寄せた味つけに、香草の匂い。食べやすくはなっている。悪くない。
ただ、食べながら別のことも頭をよぎった。
出がけ、自分は子どもにも少しなら食べさせてええと言うた。けれど、それはきちんと確かめてからの話でもある。
「……なぁ、カンネさん。これ、子どもらには食べさせたんか」
「いや。みんな“トカゲ”って聞いた時点で警戒しとるよ」
「それやったらええわ」
サクはうなずく。
「先に大人に食べてもろた方がええ。明日ギルドに持ってって、反応見てくる。人によって、合う合わんもあるやろし」
酒場に出すなら、もう少し香辛料を利かせてもええかもしれへん。
そんなことを考えていると、カンネが鍋の取っ手に布を巻きながら言った。
「ほら、考えるんは後にしな。あんたも手伝って。この鍋、食堂まで運んどくれ」
「ん、わかった」
サクはそう返して鍋へ手を伸ばした。
布越しの熱が掌に伝わる。
森の冷たさも、町での面倒ごとも、まだ身体のどこかには残っている。
それでも、こうして夕餉の鍋を運ぶ手つきの中で、今日がようやく終わりへ向かっていく気がした。
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食堂では、テーブルを拭く子、皿を出す子、コップを並べる子、パンを出す子、子どもたちがそれぞれ自分にできる手伝いをしていた。
サクが食堂に入ると、何人かが真っ先にこちらを見た。
「サク兄、帰ってきた!」
「おかえり!」
「無事やったんだ!」
その声に、ほかの子どもたちもいっせいに振り向く。
それぞれ口々に言いながら、わらわらと集まってこようとした。
「ただいま。でも先にご飯食べよ」
サクはそう言って押しとどめる。
それでも寄ってこようとする子どもたちに、苦笑して言い足した。
「もう腹減って死にそうやねん。あと十秒で死ぬわ」
冗談で押し返されて、子どもたちはきゃっきゃと笑いながらも、また食卓の準備へ戻っていった。
やがて皆が席につき、食堂がひととき静かになる。
シアが先導して食前の祈りを捧げると、その次の瞬間にはまた、にぎやかな夕食が始まった。
子どもたちは今日、森の奥であったことをサクに話してくれるよう、口々にせがんだ。
「食べ終わってからにしてな。腹減ってんねん」
するとシアがやわらかく言った。
「まずは食べさせておやり。サクさんはお疲れなんだよ。お話はそのあとでね」
食事が終わりかけたころ、ここで一番のクソガキが待ってましたとばかりに声を上げた。
「サク兄、冒険者を助けに行ったんやろ。助かったんか? サク兄が助けたんか?」
もう子どもらにまで話が回っとる。
どうせエンゾのやつやろ、とサクは一瞬だけ顔をしかめた。
……あとでヘレナさんに言うて、説教しといてもらお。
けれど、子ども相手にそこで渋い顔ばかりもしていられへん。
サクは咳払いをひとつして、言葉を選んだ。
「おう。せやけどな、その冒険者のおっちゃん、ちゃんと強い人やったで。何匹かは自分で斬り倒しとったし、俺が着いた時には木の上から弓で一匹ずつ仕留めとった」
B級冒険者ともなれば、それなりの面子がある。
子どもの前で、みっともなく助けられた話にするのも違う気がした。
「それでも山犬はようけおってな。十匹くらいはおった。せやから俺も木ぃ登って、ナイフやら石やら投げて数を減らしたんや。それで減ったところで降りて、追い払って帰ってきた」
たちまち子どもたちの目が丸くなる。
「ねえねえ、山犬って強いん?」
「大きいの?」
「怖い?」
「トカゲとどっちが強いん?」
口々に飛んでくる問いに、サクは少し大げさなくらいにうなずいた。
「そら怖いでぇ。なんちゅうても、ようけで襲ってきよるからな」
言いながら、両手を広げてみせる。
「毛ぇはばさばさで、牙ぁこない剥いて、爪もな、こんなんで地面ひっかきよるんや。夜の森で見たら、まあ、泣くで」
わざとらしく声を低めると、年少の子らがそろって首をすくめた。
「食べられちゃうの……?」
その怯えた声に、今度は例のクソガキがすぐさま身を乗り出す。
「でも木に登ったらええんやろ!」
すると、年長の娘が間髪入れずに言い返した。
「あんたなんか、木に登る途中で食べられちゃうよ!」
食堂にどっと笑いが広がる。
クソガキは「そんなことない!」とむくれたが、年少の子らは半分本気で信じたらしく、ますます不安そうな顔になった。
そこでシアが、手を軽く打って場を収める。
「はいはい、もうそのへんにしておきなさい。そろそろ寝る時間ですよ」
やわらかな声だったが、子どもたちはきちんと従う声だった。
「サクさんもお疲れなんだから、今夜はもう休ませてあげましょうね」
そのひとことで、子どもたちは名残惜しそうにしながらも、椅子を引いて立ち上がった。
「つづき、また明日な!」
「山犬の話、もっと聞きたい!」
「おやすみ、サク兄!」
口々にそんなことを言いながら、子どもたちは部屋を出ていく。
やがて姿がなくなり、声も廊下の向こうへ遠ざかっていった。
にぎやかだった食堂に、ようやく静けさが戻る。
その静けさの中で、
「サクさん、ちょっといいかしら……」
と、声がした。
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シアはテーブルの向こうに腰を下ろし、サクにも席を勧めた。
けれど、その目はすぐにはこちらを見なかった。
昨日のことやろか、とサクは思った。
胸の奥が少しだけ重くなる。
サクも席につく。
しばらく間を置いてから、シアはようやく口を開いた。
「昨日ね、あんな言い方をしたこと、後悔しているの」
静かな声だった。
「子どもたちが遊ぶ時に声を上げるのも、はしゃぐのも、本当はとても自然なことなんだもの」
そこで一度、シアは言葉を切った。
「だからねぇ、あなたは何も悪くないの。あんなことを言ってしまって、ごめんなさいね」
サクは黙って聞いていた。
「できるなら、これまでと同じように、あの子たちの相手をしてやってほしいの」
その言葉に続けるように、シアは少しだけ表情をやわらげた。
「ここにいる子たちは、親を亡くした子か、捨てられた子ばかりでしょう。みんな何かしら傷を抱えていてね。前までは、いつもどこか怯えて、まわりの顔色をうかがうようなところがあったの」
シアの目が、誰もいなくなった食堂をゆっくり見渡した。
「それが、あなたが来てくれてから、笑うようになって、騒ぐようになって、自分を出してくれるようになったわ」
そこでようやく、シアはまっすぐサクを見た。
「食材を持ってきてくれることも、もちろんありがたいの。けれど、それ以上に感謝しているのよ。あの子たちにとって、あなたがここへ来てくれたこと、そのこと自体にね」
真摯に詫びていることも、感謝していることも、よくわかった。
それだけに、サクの中にはかえって違和感が残った。
なぜ、昨日あんな言葉を口にしたのか。
それを言わせる何かが、まだ別にある気がした。
「……いや、礼なんかいりません。俺はやりたいようにやっとるだけですねん」
そう答えてから、少しだけ間を置く。
「けど……何か事情があるんとちゃいますか。よかったら、聞かせてもらえますか」
そこまで踏み込んでいいものか、一瞬だけ迷いはあった。
けれど、このまま聞かずにおって、あとで気づけんかったと後悔する気もしたのだ。
シアは視線をわずかに横へ落とした。
ためらっているようでもあり、言葉を選んでいるようでもあった。
やがて、意を決したように口を開く。
「サクさん。あなたには、知っておいてもらった方がいいかもしれないわ」
シアは少し言葉を探すように間を置いてから、静かに続けた。
「あのね……セリーネ、怯えるのよ。
とくに、男の人の大きな声にね」
サクは黙って先を待った。
「昨日ね、あなたたちがヤキュウ? 三角ベース? って遊びをしていた時にね、講堂の隅でうずくまって、耳をふさいで震えていたの」
その光景を思い出したのか、シアは小さく息をついた。
「それを見てしまってね。だから、あんなことを言ってしまったの」
サクは何も言わなかった。
シアが続きを話せるよう、そのまま待つ。
「セリーネはね、ちょっと事情があって、ここへ来た子なの」
そこでまた少し間があった。
「もとは、ある貴族さまの娘なの。
ただ、お妾さんの子でね。母親が亡くなってから、その貴族さまの家に引き取られたの」
シアの声は静かだったが、そのぶん言葉の中身が重かった。
「ああいう立場の子が、家の中でどう扱われるかは……まあ、想像のつく通りよ。守られることは少ないし、弱い相手ほど皺寄せを受けるものだから」
サクは顔をしかめたが、口は挟まなかった。
「初めて会った時は、もっとひどかったの。最近はだいぶましになったけれど、まだ男の人は怖いみたい」
シアはそこでようやくサクを見た。
「男の人の大きな声を聞くとね、身体が固まったみたいになってしまうのよ」
シアは少し間をおいて続ける。
「でもね、あの子、子どもにはやさしいの。言葉は少ないけれど、一つ一つ丁寧に仕事もしてくれるわ。少しずつ、人と関わろうともしているのよ」
サクはふと、扉の方へ視線を向けた。
子どもたちの寝室は、たしかあちらだ。おそらく、セリーネもそこにいるのだろう。
「そぉやったんか……」
初めてここを訪ねた日に扉を開けてくれたのは、たしか彼女だった。
それ以来、まともに言葉を交わした記憶はない。
……嫌われとるんちゃうかな、とも思っとったが。
「……わかりました。どないしてええか分かれへんけど、俺にできることがあったら言うてください」
シアは小さく首を振り、やわらかく笑った。
「いいえ。あの子のことは、こちらで見ていくわ。あなたはこれまで通りでいてくれたら、それでいいの」
その言葉で、今夜の話はそこで終わった。
昨日の出来事で胸につかえていたものは、理由がわかって軽くなるどころか、かえってもっと深く、重く沈んだような気がした。
……今回は色々あったな。ありすぎや……。
自室へ戻ってベッドに入っても、すぐには眠れなかった。
料理の試作をしたこと。B級冒険者を助けに行ったこと。セリーネのこと。ひとつひとつは別の出来事のはずなのに、頭の中では妙に絡まって、うまくほどけない。
身体の方は休みたがっているのに、頭だけが妙に冴えていた。
「そういえば、あいつどうしてるかな……」
不意に、ずいぶん昔のことを思い出した。
野球に夢中だった頃。高校に入ってすぐ、同学年にやたら目立つピッチャーがいた。
べつだん親しいというほどでもなかったが、ピッチャーとキャッチャーという間柄もあって、関わりはそれなりに多かった。
そいつは、ある出来事をきっかけに投げられなくなった。
そのまま元に戻ることなく、野球をやめてしまった。
「結局、俺は何もできんかったなぁ……」
世界も時間も違う。もう何年も前のことだ。
それでも、なんとも言えない感情だけが、形を変えずに残っている。
「あいつ、下の名前……なんやったっけ」
思い出そうとして、思い出せなかった。
そのままいつの間にか、サクは眠りに落ちていた。




