第1話 王都からの来訪者
第1話 王都からの来訪者
王都を発つ馬車は、早朝の霧の中を静かに進んでいた。
「まったく……どうして私が」
薬師は小さくため息をつく。
膝の上には革張りの薬箱。王太后専属の印章が押されている。
向かいに座る女騎士は背筋を伸ばし、窓の外を睨んでいた。
「これは王太后様の御身に関わることです。軽々しく言うべきではありません」
薬師は眉を上げる。
「分かっているわ。でも王都で手に入らない薬を、辺境に探しに行くなんて……流通が止まってる理由くらい調べるべきでしょう」
女騎士は静かに答える。
「王都の薬問屋は『入荷不能』の一点張りでした。ならば現地に行くしかありません」
その薬は、王太后の慢性の症状を抑えるためのものだった。
代替はある。だが効果が弱い。
「……山間の辺境町、だったわね」
薬師は地図を開く。
「流通が止まっているのか、買い占められているのか、それとも――」
「何かが隠されているか」
女騎士が低く言った。
馬車は王都の石畳を抜け、やがて土の街道へと入る。
王宮の華やかさとは無縁の世界が広がり始めた。
薬師はもう一度ため息をつく。
「私は研究室にいればいいのに……」
女騎士は拳を握る。
「王太后様のためなら、どこへでも参ります」
王都の理性と忠誠は、こうして辺境へ向かっていた。
===================================
辺境の町は、王都とは空気が違った。
土埃、荷車の軋み、獣脂の匂い。
女騎士は眉をひそめるが、薬師は淡々と周囲を観察する。
「まずは情報収集よ。薬草の産地と流通経路。それと護衛の確保」
二人は冒険者ギルドの扉を押し開けた。
中は朝にもかかわらず賑わっている。
視線が一斉に向けられた。王宮仕立ての外套と騎士の紋章は、この町では明らかに異質だ。
受付に立つのはヘレナだった。
無駄のない動きで書類を整えながら、視線だけを上げる。
「ご用件は?」
薬師が一歩前に出る。
「薬草探索の依頼を出したいの。王都で入手不能になった薬の原料よ。山間部に自生している可能性がある」
ヘレナの表情は変わらない。
「危険区域になります。通常の採取者では対応できません」
女騎士が口を挟む。
「腕の立つ者を紹介してほしい。費用は問題ない」
ヘレナは一瞬だけ視線を細めた。
「……“森に入れる者”は限られています」
「では、その者を」
「現在、別件の処理中です。少しお待ちください」
それだけ言って、ヘレナは書類に視線を戻した。
薬師は小声で言う。
「“限られている”って何人いるの?」
女騎士も声を落とす。
「分からない。だが町の様子からして、優秀な者は多くないはずだ」
「待っている間に、他に雇われたら困るんだけど」
焦りがにじむ。
王太后の薬は、もう残りが少ない。
「その者の名前を教えてもらえないの?」
薬師が再び問いかける。
ヘレナは顔を上げる。
「今は申し上げられません」
「なぜ?」
「交渉中だからです」
それ以上の説明はない。
王都から来た二人は、初めてこの町の“距離”を感じた。
金や身分がすぐには通用しない場所。
女騎士は拳を握る。
「……待ちましょう。だが時間はない」
薬師はため息をつく。
「ええ。問題は、その“森に入れる者”が本当に腕が立つかどうかね」
二人はまだ、その男の名を知らない。
「……三日程度あとになります」
ヘレナの一言に、薬師は眉をひそめた。
「三日?」
「その者は定期的に町に戻ります。次は三日くらいです」
「今どこに?」
「森です」
それ以上は言わない、という空気だった。
女騎士は歯を食いしばる。
「三日も待てません。寺院に滞在していると聞きましたが」
ヘレナは一瞬だけ視線を上げる。
「戻れば、です。今は不在です。ただ、戻る際は寺院に立ち寄ることが多い」
薬師は小さく息を吐く。
「……分かったわ。三日後、寺院に行きましょう」
==================================
三日後。
二人は寺院の門をくぐった。
2人はシアという老齢のシスターに出迎えられた。
「ギルドから伺っています。王都からのご来訪の方ですね。お待ちしておりました」
静かなはずの中庭から、聞き慣れない声が響く。
「ちゃうちゃう! 一塁に走んねん。そっちは反対や」
乾いた音がした。
――パァン。
女騎士が身構える。
だが飛んできたのは矢ではなく、小さな布巻きの玉だった。
中庭では、青年が子どもたちに何かを教えていた。
一本の棒を握り、足を開き、構える。
「来い!」
子どもが玉を投げる。
青年は棒でそれを打ち返した。
高く弧を描いた玉に、子どもたちが歓声を上げる。
薬師が目を瞬かせる。
「……何をしているの?」
「遊びや」
青年は振り向き、棒を肩に担いだ。
髪は後ろでまとめられ、髭は整えられている。
「棒と玉を使う。投げて、打って、走る。体力もつくし、反射も鍛えられる」
子どもが叫ぶ。
「次はおれだ!」
青年は笑う。
「順番や。ケンカすんな」
女騎士は小声で言う。
「……あれが?」
「彼が、例の“森に入れるもの”?」
シアは微笑む。
「ええ。サクさんです」
ちょうどその名を呼ぶように、子どもが叫んだ。
「サク兄、すげえ!」
青年――サクは、ゆっくりと二人の方へ視線を向けた。
中庭に立っていた男は、どう見ても精鋭には見えなかった。
少し伸びた無精ひげ。
長い髪を雑に一本にまとめただけ。
袖はまくり上げ、土で汚れている。
「しっかりボールみて振らんかい! 目ぇつぶっとたら当たらんぞー」
語尾が間延びしている。
なまりも強い。
子どもが投げた布玉は、棒に当たらず地面に落ちた。
「惜しい惜しい。もう一回や」
のんびり笑う。
王都の女騎士は眉をひそめた。
「……あれが?」
薬師も黙って観察する。
構えは適当。立ち姿もどこか緩い。
そのときサクが振り向いた。
「……あん? 誰や」
視線は鋭くない。
ただ、眠たそうに細い。
シアが声をかける。
「サクさん。王都からのお客様です」
「王都ぉ?」
少しだけ首をかしげる。
「へぇ……えらい遠くから来たなぁ」
それだけ。
女騎士が一歩前に出る。
「我々は王太后様の――」
「王様の知り合いか?」
かぶせるように聞く。
「……王太后様だ」
「ふぅん」
興味があるのかないのか分からない返事。
子どもが袖を引く。
「サク兄、次だって」
「あー、わりぃわりぃ。今そっちの番な」
完全に優先順位が子ども>王都。
女騎士のこめかみに血管が浮く。
「我々は急いでいる!」
「急いでんのか」
間。
「でも今は遊びの時間や」
悪びれもせず、そう言った。
薬師は小さく息を吐く。
(……これは外れかもしれない)
ヘレナが言っていた“森に入れるもの”。
もっとこう、歴戦の鋭さや緊張感を想像していた。
目の前にいるのは――
ただの、のんびりした辺境の若者だ。
それでも。
子どもが思い切り投げた玉を、
サクはほとんど体を動かさず、軽く棒を出しただけで打ち返した。
音は乾いて、速い。
だが本人は欠伸をしている。
「ほれ、走れー」
本当に、できる感じがしない。
「んで?」
王都の二人を見た。
相変わらず、のんびりした目つき。
薬師が一歩前に出る。
「山間部に自生する薬草を探しているの。王都で入手不能になった原料よ」
「薬草ぉ?」
サクは首をかしげる。
「どんなやつや?」
薬師は革袋から乾燥標本を取り出す。
細い葉と、淡い紫の花弁。
サクはそれを受け取り、ひっくり返し、匂いをかぐ。
「あー……これか」
一瞬で分かった、という顔でもない。
ただ、思い出したように言う。
「山の北斜面にあるな。似たような草が湿った岩場の近くによう生えとる」
女騎士が目を見開く。
「ほんとうか?」
「わからへんけど似たような草なら毎年生えとるし」
肩をすくめる。
薬師が食い下がる。
「群生地の規模は? 採取時期は? 」
「今ならちょうどいい時期かな。似とるのはあるけど、」
あまりにも普通の口調。
女騎士は腕を組む。
「危険は?」
「熊は出るで。」
さらりと言う。
「あと崖。あと霧。道はあらへん」
薬師が眉をひそめる。
「案内できるの?」
サクは少し首をかしげて――
「薬草? 山なら案内したるけど?」
まるで薪拾いにでも行くかのような温度。
女騎士は明らかに不満そうだ。
「報酬は王宮規格だ。失敗は許されない」
「失敗?」
サクは少し考えた。
「採れへんかったら、採れへんだけの話やろ?」
その言い方に、騎士の眉がぴくりと動く。
薬師はじっとサクを見る。
軽い。
だが嘘はついていない。
「……三日以内に戻れる?」
「天気次第やな」
「最短で」
「ほんなら朝出りゃ、明後日の夜には戻れっかもな」
根拠を説明しない。
自慢もしない。
ただ、当たり前のように言う。
薬師は決断した。
「分かった。あなたを雇うわ」
女騎士が反論しかけるが、薬師は制した。
「山を知っているのはこの人よ」
サクは頭をかく。
「雇うとか大層やなぁ……まぁ、案内料はもらうけど」
そして子どもたちに振り向く。
「明日ちっと山入るわ。続きは戻ってからな」
「えー!」
「ちゃんと素振りしとけよ」
笑う。
王都の二人は、その背中を見る。
どうにも頼りなく見える。
それでも――
他に選択肢はない。
=======================================
寺院を出たあと。
女騎士が当然のように聞く。
「宿場はあるのか」
サクは一瞬きょとんとした顔をした。
「……あるわけないやろ。森のなかやで」
間。
「街道ちゃうねん」
当たり前やろ、という顔。
女騎士のこめかみにぴくりと血管が浮く。
薬師が割って入る。
「では野営ね」
「せやな。二晩は外や」
軽く言う。
「毛布、防寒具、水袋。食料は二日分。雨具もいる。夜、冷えるで」
女騎士が言い返す。
「我々は王宮付きだ。装備は――」
サクが振り向く。
「山は肩書き見てくれへんで」
声は静か。
「濡れたら冷える。冷えたら動き鈍る。鈍ったら落ちる。落ちたら終わりや」
説明は短い。
薬師はうなずいた。
「分かった。準備する」
「靴の底、硬いほうがええ。滑るで」
それだけ言うと、サクはギルドの扉を押した。
中はいつもの喧騒。
受付に立つのはヘレナ。
「山間北斜面、薬草採取。三日想定や」
ヘレナは書類を受け取りながら視線を上げる。
「単独ですか」
「いや、依頼主二人連れや」
「……危険区域です」
女騎士が口を挟む。
「承知の上だ」
ヘレナはしばらく考え、書類を置いた。
「遭難時の救援は困難です」
「分かっとる」
「この季節、霧と崩落が増えています。単独対応は推奨できません」
サクは頭をかく。
「増やせって?」
ヘレナはうなずく。
「護衛を一名追加。できれば中堅を。
それと見習いを一名同行させてください」
女騎士の眉が跳ね上がる。
「見習い?」
「森の経験を積ませたいのです。この町の将来のためにも」
薬師は冷静に聞く。
「足手まといにはならない?」
ヘレナはきっぱり言う。
「選びます」
サクは少し考えたあと、肩をすくめた。
「まぁ人数おったほうが荷物も分けられるしな」
軽い。
だが反対はしない。
「ただな」
サクが一言付け加える。
「俺の言うこと聞けるやつやで。森入ったら王都もギルドも関係ない」
静かに言う。
空気が一瞬だけ締まった。
ヘレナはうなずく。
「了解しました。適任を手配します」
女騎士はまだ不満そうだ。
「本当に必要なのか?」
サクはのんびり答える。
「必要かどうかは分からん。でもな」
少しだけ視線が鋭くなる。
「森は“分からんこと”のほうが多い」
それだけ言って、依頼書に印を押した。
またすぐ、気の抜けた顔に戻る。
「ほな明日、日の出前や。遅れんといてな」
====================
出発前夜 ― 宿の一室
町で一番まともな宿とはいえ、王都の客間とは比べ物にならない。
小さな机。
簡素な寝台。
壁は薄く、外の物音が聞こえる。
女騎士は窓辺に立ち、腕を組んでいた。
「納得がいかない」
薬師は荷物を整えながら答える。
「何が?」
「案内役だ。あれが本当に適任だと?」
「森を知っている」
「軽すぎる。敬意もない」
薬師は少し笑った。
「あなたは敬意が欲しいの?」
女騎士は振り返る。
「違う。任務に対する覚悟が見えない」
沈黙。
薬師は手を止める。
「……覚悟が見える人間は、たいてい自分を見せたがるものよ」
女騎士は眉をひそめる。
「では、あれは何だと」
「分からないわ」
正直に言う。
「でも、嘘はついていない。分からないことは分からないと言う。危険も隠さない」
女騎士は窓の外を見る。
遠くで酔客の笑い声がする。
「王太后様の容体は日ごとに悪化していく」
声がわずかに低くなる。
「王都の薬庫は空に近い。流通は止まり、代替も効かない。
……私が守ると誓ったのだ」
拳を握る。
薬師は静かに椅子に座った。
「私は命じられただけよ。探せ、と」
「だがあなたしか調合できない」
「材料がなければ、どうにもならない」
二人の間に、焦りが落ちる。
女騎士がぽつりと言う。
「もし、あれが役に立たなかったら」
薬師はすぐ答えない。
やがて小さく息を吐く。
「その時は、あなたが守るのでしょう?」
女騎士は振り向く。
薬師は続ける。
「私は薬を作る。あなたは守る。
あの男は森を知っている。
それぞれの仕事をするだけよ」
少し間を置いて、付け加える。
「……それに」
「何だ」
「子どもに向ける目は、悪くなかった」
女騎士は黙る。
あののんびりした男。
無精ひげに、長髪を束ねただけの姿。
「山は肩書き見てくれへんで」
その言葉が、頭に残っている。
やがて女騎士は窓を閉めた。
「夜明け前に出るのだな」
「ええ」
「遅れるわけにはいかない」
薬師は寝台に腰を下ろす。
「彼は遅れたら、きっと本当に置いていくわよ」
その言葉に、女騎士はわずかに苦笑した。
「……やりかねん」
灯りが落ちる。
それぞれの焦りを抱えたまま、
夜は静かに更けていった。
===============================================
未明 ― ギルド前
空はまだ群青色。
東の端が、わずかに白み始めている。
石畳は夜露で濡れ、足音がやけに響く。
ギルドの前には、すでに数人の影があった。
女騎士と薬師は、きちんと整えた装備で立っている。
防寒具、水袋、革袋。王宮製の質の良さは隠せない。
その向かいに、中堅の冒険者。
三十前後、実直そうな男だ。鎖帷子の上に外套。盾を背負っている。
その隣に、見習い。
まだ若い。緊張と興奮が混じった顔で、荷を背負い直している。
そして――
「……早いなぁ」
あくび混じりの声。
サクが、のそのそと現れた。
長髪をひとつに束ね、無精ひげのまま。
背には使い込まれた背嚢。腰には山刀。
派手さはない。
女騎士が眉をひそめる。
「遅刻ではないな」
「まだ日の出前やろ」
サクは空を見上げる。
「ええ時間や」
中堅の冒険者が一歩前に出る。
「今回、護衛を任されました。よろしくお願いします」
きちんと頭を下げる。
サクは軽く手を上げる。
「堅いなぁ。森入ったら俺の言うこと聞いてくれたらそれでええで」
中堅はうなずく。
「承知しています」
見習いが勢いよく言う。
「自分、勉強させてもらいます!」
サクはちらっと見る。
「ほなまず、黙って歩くとこからやな」
「は、はい!」
そのとき、ギルドの扉が静かに開いた。
ヘレナだった。
未明だというのに、きちんと制服を整えている。
「全員揃っていますね」
静かな声。
女騎士がうなずく。
「出発する」
ヘレナは一人一人を見る。
最後にサクへ。
「帰還予定は三日後。戻らない場合、捜索は出せません」
空気がわずかに張る。
見習いがごくりと唾を飲む。
サクは肩をすくめる。
「出さんでええよ。戻るし」
軽い。
ヘレナは目を細める。
「……期待しています」
「期待せんでええって」
そう言いながらも、視線は一瞬だけ真面目になる。
女騎士が口を開く。
「出立する」
サクが手を上げる。
「ちょい待ち」
全員を見る。
「森入ったら、縦一列。
俺が先頭。次が盾持ち。
真ん中に薬師さんと見習い。
最後尾、騎士さんな」
女騎士が眉を上げる。
「私が最後尾?」
「後ろ気ぃ配れるやろ。腕あるんやろ?」
挑発ではない。
合理。
一瞬の沈黙。
女騎士は答える。
「……分かった」
ヘレナが小さく息を吐いた。
「どうか、町の未来を」
サクは背を向けたまま手を振る。
「大げさやなぁ」
「ほな、出る前に確認や」
女騎士が眉をひそめる。
「何の確認だ」
「装備と体調」
当たり前のように言う。
「山は途中で直されへん」
まず中堅の冒険者を見る。
「盾、重すぎへんか」
「問題ありません」
「今日だけやないで。登り続くで」
中堅は一瞬考え、肩紐を締め直す。
「……調整します」
次に見習い。
「水、どれだけ持っとる」
「一日分です!」
「足らん。半日で喉乾く。足しとき」
見習いは慌てて水袋を確認する。
薬師に視線を向ける。
「薬瓶、割れんよう布巻いとる?」
「もちろん」
「ほなええ」
女騎士へ。
「手袋」
「している」
「替えは」
一瞬、間。
「……一組ある」
「ええな」
それだけ。
そして最後に全員を見渡す。
「寝不足のやつおるか」
誰も答えない。
「朝飯、食うたか」
見習いが小さく手を挙げる。
「少しだけ」
「今のうちに口入れとき。森入ったら止まらん」
サクは自分の腰袋から干し肉を出し、見習いに放る。
「噛んどき」
軽い。
だが手際は無駄がない。
女騎士が静かに言う。
「ずいぶん細かいな」
サクは首をかしげる。
「普通やで」
少し間を置いて、
「森で倒れたら、運ぶの大変やし」
現実的すぎる理由。
ヘレナが一歩前に出る。
「体調不良があれば、今なら引き返せます」
誰も動かない。
サクは背嚢を背負う。
「ほな行こか」
空を見上げる。
「霧、昼から出るかもな。午前中に距離稼ぐで」
もう判断は始まっている。
女騎士が剣の位置を確かめる。
薬師が外套を締める。
中堅が盾を担ぐ。
見習いが深呼吸する。
サクが森の方へ歩き出す。
「森に入ったら縦一列。音立てん」
未明の静けさを割らぬまま、一行は森へ入った。
ヘレナはその背を見送りながら、静かに祈る。
==============================================
町の喧騒はまだ眠っている。
森だけが目を覚ましている。
森の入口
一歩、踏み入れた瞬間。
町の匂いが消えた。
湿った土の匂い。
落ち葉の層。
冷たい空気。
光はまだ低い。
木々の間から細く差し込むだけ。
「……」
誰もしゃべらない。
サクが前を歩く。
足の置き場が迷いない。
落ち葉の上でも、ほとんど音がしない。
中堅が続く。
盾がかすかに鳴る。
女騎士は最後尾。
視線は後方と上。
枝の揺れ、影の動き、全てを拾おうとする。
見習いの呼吸だけが少し荒い。
森は静かだ。
だが、静かすぎる。
鳥の声がない。
薬師が小声で言う。
「朝なのに、鳴かないのね」
サクは振り返らない。
「冷えとるからな」
それだけ。
しばらく進む。
斜面が始まる。
土が柔らかい。
サクが手を上げる。
全員、止まる。
しゃがみ込む。
指で地面をなぞる。
「……昨日のや」
小声。
中堅が目を凝らす。
「何ですか」
「鹿」
ほっとした空気が、ほんの少し流れる。
だがサクは立ち上がらない。
周囲を見る。
鼻をわずかに動かす。
「……上、風吹いとる」
誰も意味が分からない。
サクはゆっくり立つ。
「急ぐで」
説明はない。
一行はまた歩き出す。
やがて森は深くなる。
光がさらに減る。
足元の根が増える。
見習いがつまずきかけるが、声は出さない。
女騎士は気づいているが、何も言わない。
ただ進む。
ただ登る。
汗が出始める。
それでも寒い。
しばらくして。
サクが小さくつぶやく。
「静かすぎるな」
その言葉に、空気が一段下がる。
次の瞬間――
遠くで、枝が折れる音。
乾いた、短い音。
全員の視線が同じ方向へ向く。
森は、また静かになる。
何も見えない。
何も動かない。
ただ、いる。
何かが。
サクが低く言う。
「止まれ」
呼吸の音だけが残る。
乾いた枝の音。
その直後。
斜面の奥から、影が飛び出した。
鹿。
若い雄だ。角はまだ小さい。
だが様子がおかしい。
目を剥き、泡を飛ばし、一直線に駆け抜ける。
こちらを見ていない。
ただ、逃げている。
中堅が反射的に盾を構える。
女騎士は剣の柄に手をかける。
だが鹿は一行の脇をかすめ、斜面を横切り、そのまま谷へ消えた。
静寂。
葉が揺れる音だけが残る。
見習いが息をのむ。
「……何から?」
誰も答えない。
サクは鹿の消えた方向を見ない。
逆だ。
鹿が“来た”方向を見ている。
目が細くなる。
「匂い、せえへんな」
小さくつぶやく。
薬師が問う。
「肉食獣ではない?」
「熊やったら匂い残る」
中堅が低く言う。
「狼は」
「群れなら気配が散る」
間。
森は、静まり返ったまま。
風が上から下へ流れている。
サクは斜面を見上げる。
「……おかしいな」
女騎士が低く問う。
「何が」
「鹿、下から逃げてへん」
全員が理解するまで一拍。
「上からや」
上。
一瞬、全員の視線が木々の梢へ向く。
何もいない。
だが、何かが“通った”空気だけがある。
見習いの喉が鳴る。
「人……ですか」
サクは首をかしげる。
「分からん」
正直に言う。
そしてすぐに判断する。
「予定変える」
女騎士が即座に反応する。
「目的地は北斜面だ」
「このまま登ったら、上から見られる」
淡々。
「尾根いったん取る」
中堅がうなずく。
「視界を確保する、と」
「せや」
女騎士は一瞬だけ考え、そして言う。
「従う」
初めて、即断だった。
サクは小さく手を振る。
「音立てん。間隔詰めろ」
隊形がわずかに変わる。
森は相変わらず静かだ。
だが今は、ただの森ではない。
何かが動いた森だ。
そしてそれは、まだ姿を見せていない。
サクが最後に小さく言う。
「目ぇ、上な」
一行は尾根へ向け、角度を変えて登り始めた。
======================
尾根
斜面を登りきった瞬間、空気が変わる。
森が途切れ、視界がひらける。
東の空が赤く染まり、太陽が顔を出し始めていた。
光が尾根を舐める。
霧が薄く流れ、谷が見える。
「……」
見習いが息をのむ。
サクが立ち止まり、無言で顎をしゃくる。
「あれ」
全員がその方向を見る。
谷の向こう、岩場の上。
鹿の体が転がっている。
さきほどの若い雄だ。
まだ動いている。
脚が痙攣し、土を蹴る。
その瞬間――
影が落ちた。
巨大な翼。
音はほとんどない。
一気に降下し、鋭い爪が鹿の頭部をつかむ。
骨が軋む鈍い音。
大鷲。
翼を広げれば人の背丈ほど。
鹿の体が引きずられ、地面を離れる。
谷の風を掴み、力強く上昇する。
鹿の脚が空を蹴る。
やがて動かなくなる。
朝日に縁取られ、羽が金色に光る。
静寂。
ただ、羽ばたきの余韻だけが残る。
見習いがかすれた声を出す。
「……あんなの、いるんですね」
中堅が小さく息を吐く。
「山だな」
女騎士は無言。
剣の柄から手を離す。
薬師が低く言う。
「鹿は……助からないわね」
サクは腕を組む。
「山や」
それだけ。
少し間を置いて、
「人やなかった」
誰にともなく。
緊張が、ゆっくり解ける。
だが同時に、理解も落ちる。
ここは王都ではない。
強いものが、上から奪う。
女騎士が問う。
「我々は、あれの獲物になることもあるか」
サクはちらりと見る。
「子供やったらな」
間。
「せやから固まって動く」
合理。
中堅がうなずく。
見習いは無意識に隊列へ近づく。
太陽が完全に昇る。
尾根の上に、はっきりとした光が満ちる。
サクが歩き出す。
「行こか。朝のうちに距離稼ぐで」
声はいつも通り、のんびり。
だがさきほどより、全員の歩調が揃っている。
森はまだ深い。
だが今、一行は“森の掟”をひとつ見た。
====================
昼前 ― 尾根の窪地
尾根を外れ、風を避けられる窪地に入る。
岩と倒木があり、周囲は見通せる。
サクが手を上げる。
「ここで少し休む」
中堅が周囲を確認。
女騎士は背後と上を見張る。
見習いはほっと息を吐く。
「火、たくで。」
サクが聞く。
薬師がうなずく。
手慣れた動きだった。
落ち葉を払い、湿った土を露出させる。
小枝を選ぶ。乾いたものだけ。
火打石を打つ。
火は小さく、静かに育つ。
やがて細い湯気が立つ。
鉄の小鍋に水を入れ、吊るす。
見習いが感心した声を漏らす。
「早い……」
サクは肩をすくめる。
「毎日やっとるし」
薬師が袋から乾燥させた葉を出す。
「これは?」
サクが覗く。
「胃を温める茶。緊張に効くわ」
「ほな今ぴったりやな」
女騎士が小さく咳払いをするが、否定はしない。
湯が沸く。
葉を入れると、ほのかな香りが広がる。
森の匂いとは違う、やわらかな匂い。
見習いの肩が少し落ちる。
中堅が盾を横に置き、腰を下ろす。
女騎士は立ったままだ。
サクが見る。
「座ったらええ」
「見張りだ」
「俺が見とる。」
間。
女騎士は数秒考え、そして腰を下ろす。
湯気が朝の光に揺れる。
薬師が順に椀へ注ぐ。
女騎士が一口。
わずかに目を細める。
「……悪くない」
見習いは両手で包み、ふうと息を吹く。
「さっきの鷲……すごかったですね」
中堅がうなずく。
「山の主だな」
サクは地面に小枝で線を引いている。
「腹減っとったんやろ」
それだけ。
薬師が静かに問う。
「あなたは怖くないの?」
サクは首をかしげる。
「腹減るんは一緒や」
間。
「人も獣も」
女騎士がちらりと見る。
価値観の違い。
王宮では語られない言葉。
見習いがぽつりと言う。
「でも、あんな上から来られたら……」
サクは空を見上げる。
「せやから、上も見る」
当たり前のように。
茶を飲み干し、立ち上がる。
「休憩、あと五分」
声は穏やか。
だが時間管理は正確だ。
火は小さく消され、灰は土で覆われる。
痕跡はほとんど残らない。
女騎士がそれを見る。
「徹底しているな」
「次来たとき困らんようにや」
自然を荒らさない。
森と戦わない。
共存。
一行は再び荷を背負う。
太陽は高くなり始めている。
森は明るい。
だが、奥はまだ深い。
===================
火を消し、土を均したあと。
薬師が膝をつき、袋から一枚の布包みを取り出す。
「これが目標よ」
中から乾燥した草を出す。
淡い灰緑色。
細い葉が三本、放射状に伸びている。
見習いが身を乗り出す。
「普通の草に見えます」
「だから難しいの」
薬師は穏やかに言う。
「名は“月縁草”。湿った岩場、半日陰に生える。群生はしない」
サクが聞く。
「匂いは?」
「潰すと、少し甘い。乾くと消える」
中堅が腕を組む。
「見分けは?」
薬師は地面に小枝で描く。
三枚葉。
中心がわずかに白い。
「葉の付け根に細い銀筋が一本。光が当たると分かる」
女騎士が眉を寄せる。
「それだけか」
「それだけ」
静かに言う。
「だから人手がいる」
サクが立ったまま周囲を見る。
「岩場は北斜面やな」
「ええ。水が滲む場所」
サクは太陽の位置を確認する。
「午後からは光入りすぎる。今のうちや」
女騎士が即座に判断する。
「探索は横一列か」
サクが首を振る。
「広げすぎたらあかん。声届く距離で扇形」
中堅がうなずく。
見習いが緊張した顔で言う。
「もし間違えて別の草を――」
薬師は微笑む。
「採る前に私を呼ぶこと。必ず」
サクが付け足す。
「勝手に谷へ降りるな」
間。
「岩、滑る」
簡潔。
女騎士が全員を見る。
「任務は採取。戦闘は回避優先」
王宮の言葉。
サクが小さく言う。
「山と戦う気はないしな」
風が吹く。
木々が鳴る。
先ほどまで休憩の空気だった場所が、再び“任務の場”に変わる。
薬師が布に草を包み直す。
「もう一つ」
全員が顔を上げる。
「この草、周囲の草が少し枯れるの」
見習いが目を丸くする。
「え?」
「根が強いの。水を吸う」
サクが目を細める。
「ほな、周り見たほうが早いな」
薬師はうなずく。
「ええ。違和感を探すの」
違和感。
森の中で、それは目立つ。
サクが歩き出す。
「行こか。違和感探しや」
一行は北斜面へ向けて進む。
光は強くなってきている。
岩場が近づく。
====================
岩場の湿り気が増してくる。
滴る水音。
苔むした石。
足元が少し滑る。
そのとき。
遠くで――
ざわ、と森が揺れた。
一頭ではない。
複数。
サクが立ち止まる。
全員も止まる。
次の瞬間。
斜面の下方を、鹿の群れが横切った。
十……いや、もっといる。
成獣、若鹿、混じっている。
走っている。
さっきのような一直線の逃走ではない。
群れごと、移動している。
だが速い。
明らかに速い。
見習いが息を呑む。
「多くないですか……?」
中堅が低く言う。
「この時期に、あんな密度で動くか?」
薬師は首を振る。
「群れは分かれるはず……」
鹿は斜面を渡り、森の奥へ消える。
地面が微かに震える。
やがて静寂。
だが森はさきほどより落ち着かない。
遠くで枝が鳴る。
小鳥が一斉に飛び立つ。
女騎士がサクを見る。
「理由は」
短い問い。
サクは答えない。
目だけが鹿の来た方向を追う。
風向きを確かめる。
鼻をわずかに動かす。
「……さっきより、上や」
「上?」
「鹿は下から上へ逃げへん」
間。
「何かが、山を押しとる」
その言葉が重く落ちる。
見習いが喉を鳴らす。
「何かって……鷲?」
サクは首を振る。
「あれは一羽や」
女騎士が周囲を見る。
「狼の大群か」
薬師が小さくつぶやく。
「でも匂いが薄い……」
中堅の声は冷静だ。
「撤退も選択肢だ」
全員がサクを見る。
山を読むのは彼だ。
サクは少し考える。
岩場までは、もう遠くない。
目的地は目前。
鹿の動きは、まだこちらに向いていない。
「……急ぐ」
「いや、様子を見る。正体がわからんうちは下手に動かん方がええ。」
しばらくして森は静寂を取り戻した。
「いくで....」
==============================================
北斜面 ― 岩場手前
「止まれ」
サクの声は低く、短い。
全員が即座に凍る。
風が止まったような静寂。
そのとき。
木の幹の隙間から、何かが覗いた。
細長い頭部。
鱗。
陽を反射して鈍く光る。
赤い舌が、ちろりと出る。
ひゅ、と空気を舐める。
見習いの喉が鳴る。
「……トカゲ?」
大きい。
犬ほどある。
だが体つきは異様に締まっている。
目が、こちらを測っている。
女騎士がゆっくり剣を抜く。
音を立てない。
その瞬間。
トカゲの頭が、ぴたりと全員の中央――
サクへ向く。
一瞬の静止。
次の瞬間。
地面が弾けた。
突進。
速い。
地を這う矢。
枯葉が吹き飛び、一直線に迫る。
「右!」
サクが叫ぶ。
全員が散る。
中堅が盾を構えた瞬間、衝撃。
金属が悲鳴を上げる。
盾ごと後退。
見習いが尻餅をつく。
女騎士の剣が閃く。
斬撃。
だが浅い。
鱗が弾く。
硬い。
トカゲは即座に方向転換する。
速すぎる。
尾が唸り、地面を叩く。
土が舞う。
薬師が息を呑む。
「普通じゃない……!」
サクは動かない。
目だけが追う。
「目ぇや」
短く言う。
「目ぇ狙え!」
女騎士が理解する。
低く構え、次の突進を待つ。
トカゲの舌が再び空気を裂く。
ひゅる、と鳴る。
今度は見習いへ向く。
恐怖で固まる。
その瞬間。
サクが踏み込む。
石を投げつけ、土を蹴り上げる。
砂が舞い、トカゲの視界を遮る。
突進の軌道がわずかに逸れる。
女騎士の剣が、横から走る。
今度は狙い澄ました一閃。
目。
甲高い音。
血飛沫。
トカゲが暴れる。
尾が岩を弾き飛ばす
中堅が体当たりでひっくり返す。
腹を見せたトカゲに間髪いれず、サクが山刀を叩き込んだ。
数秒。
短いが濃密な戦闘。
やがて。
トカゲは地面に横たわる。
脚が痙攣し、止まる。
静寂。
荒い息。
見習いの手が震えている。
「……速すぎる」
中堅が盾を見る。
へこんでいる。
「ただのトカゲじゃないな」
薬師が屈み、鱗を観察する。
「体温が高い……異様に」
サクは周囲を見る。
森は静かではない。
遠くで、また枝が折れる。
一匹ではない。
女騎士が低く言う。
「群れか」
サクが答える。
「トカゲは群れん。ただ同じ獲物をおっとるだけや」
間。
森の奥が、ゆっくりと揺れる。
サクの声が低く落ちる。
「……上や」
さきほどと同じ言葉。
遠くの重い音は、消える。
森はざわめいているが、先ほどの“圧”はない。
枝の揺れ。
落ち葉を踏む軽い音。
斜面の上から、さらに二匹。
同じトカゲ。
だがこちらへは来ない。
死骸を一瞬見る。
赤い舌をちろりと出す。
そして――
反転。
上へ、走る。
短い問い。
サクはトカゲの死骸を見下ろしている。
答えない。
しばらくして、しゃがむ。
鱗に触れる。
土を嗅ぐ。
斜面の上を見上げる。
「……前はおらんかった」
ぽつり。
見習いが聞き返す。
「前?」
間。
サクは立ち上がる。
視線は森の奥。
「去年、この尾根の向こうに“主”がおった」
空気が変わる。
中堅が低く問う。
「何だ」
「大きい熊や」
女騎士がわずかに目を細める。
サクは続ける。
「群れは散らし、狼は寄せつけん。鹿も、こいつらも、数は保たれとった」
薬師が理解する。
「頂点がいた」
サクはうなずかない。
ただ言う。
「王様やった」
静かな言葉。
「……俺が狩った」
見習いの目が見開かれる。
中堅が息を止める。
女騎士は表情を変えない。
「依頼か」
「村に出てきおった」
短い説明。
「討伐して、終わりやと思った」
風が鳴る。
森が、わずかにざわつく。
薬師が低く言う。
「終わらなかったのね」
サクは死んだトカゲを足で転がす。
「主がおらんなると、空く」
間。
「空いた場所は、奪い合いや」
鹿が増えた。
それを追うものも増えた。
均衡が崩れた。
女騎士が冷静にまとめる。
「この異常は、お前のせいだと?」
責める声ではない。
事実確認。
サクは肩をすくめる。
「半分はな」
見習いが戸惑う。
「でも……村は助かったんですよね」
「せや」
即答。
「後悔はしてへん」
間。
「けど、山は覚えとる」
重い言葉。
薬師が周囲を見る。
「だから数が増えた……」
中堅が言う。
「鹿が逃げるのも道理だ」
女騎士が決断する。
「任務を優先する。だが長居は危険」
サクがうなずく。
「急ぐ」
その声に、先ほどの迷いはない。
これは“罰”ではない。
これは“結果”だ。
彼はそれを知っている。
森は敵意を持たない。
ただ、均衡を失っただけだ。
斜面の上から、また一匹のトカゲが顔を出す。
こちらを見ない。
上を警戒している。
鹿は逃げた。
トカゲは増えた。
=====================
夕刻 ― 岩場手前
光が傾く。
斜面の影が長く伸びる。
岩場は、もう目視できる距離。
だがサクが足を止める。
「ここまでや」
女騎士が即座に反発する。
「目的地は目前だ」
「日が落ちる」
「まだ動ける」
サクは首を振る。
「動けると、帰れるはちゃう」
短い沈黙。
森は夕方の顔になっている。
昼の音が消え、夜の気配が滲む。
薬師が周囲を見る。
足場は悪い。
湿り気が増している。
中堅も言う。
「夜の岩場は危険だ」
女騎士は唇を引き結ぶ。
「任務は急を要する」
サクが静かに返す。
「死んだら終わりや」
目は揺れない。
「今日はここで寝る」
言い切る。
数秒のにらみ合い。
「……野営準備」
短く命じる。
野営地
小さな平地。
背後に岩。
前方はやや開けている。
サクが手際よく指示を出す。
「水は二人で」
「見張りは三交代」
見習いが薪を集める。
中堅が火床を整える。
薬師が周囲の草を確認する。
女騎士はまだ不満を残している。
そのとき。
サクが腰の袋から、細い金属線を取り出す。
「それは何だ」
女騎士が問う。
「線や」
当たり前のように言う。
サクは周囲の木の幹、低い位置を選び、慎重に張っていく。
地面から膝ほどの高さ。
細い。
夜目ではほぼ見えない。
女騎士が眉をひそめる。
「結界のつもりか」
「そんな立派なもんやない」
淡々と作業を続ける。
ところどころにトゲみないなものを結わえ付ける。
「走ってくるもんに刺さるだけや」
冷たい実用。
「音も出る」
小さな鈴も付ける。
森の中に、静かな罠が完成していく。
薬師が小さく言う。
「切れる?」
「切れる」
サクの声は静かだ。
「速ければな」
それ以上は説明しない。
女騎士は腕を組む。
「卑怯だな」
サクが笑う。
「山で正々堂々はアホや」
火が灯る。
夜が降りる。
森は暗くなる。
遠くで、何かが走る音。
鹿か、トカゲか。
鈴は鳴らない。
夜は長い。
翌朝
薄明かり。
冷たい空気。
最初に気づいたのは見習いだった。
「……あ」
野営地の外。
張られた線の一つが、赤く濡れている。
その先。
裂けた胴。
トカゲ。
走り抜けようとして、線に腹を裂かれた。
内臓が露出している。
夜のうちに絶命している。
女騎士が息を止める。
中堅が低く言う。
「速かったんだな」
サクは近づき、静かに線を外す。
「走るもんは止まらん」
鹿も。
トカゲも。
均衡を失った森は、止まらない。
薬師が森を見る。
昨夜より静かだ。
少なくとも、この周囲は。
サクが線を巻き取る。
「効くやろ」
女騎士は何も言わない。
ただ、サクを見る目がわずかに変わる。
理屈ではなく、生存の技。
それを理解し始めている。
サクが岩場の方向を指す。
「朝のうちや。行こか」
朝日が差し込む。
湿った岩が光る。
目的地は、もうすぐだ。
=================
岩場 ― 朝
湿った岩。
滲む水。
北斜面、半日陰。
条件は揃っている。
薬師が一歩前に出る。
「ここ……」
岩の割れ目に視線を落とす。
だが。
そこにあるはずの灰緑はない。
代わりに――
ちぎれた葉。
踏み荒らされた土。
浅い蹄の跡。
見習いがしゃがむ。
「これ……」
薬師が膝をつく。
指で土を払う。
根元が残っている。
だが葉はすべて食われている。
噛みちぎられた断面。
まだ新しい。
薬師の声が震える。
「……鹿」
女騎士が周囲を見る。
蹄の跡が密集している。
群れが滞在した形跡。
中堅が低く言う。
「逃げながら食ったのか」
サクは黙って岩場全体を見渡す。
岩の割れ目すべて。
同じ。
月縁草は、ほぼ全滅。
薬師の肩が落ちる。
「そんな……」
見習いが戸惑う。
「でも、鹿は普通、これを好んで食べるんですか?」
薬師は首を振る。
「いいえ……薬効が強すぎて、避けるはず」
間。
「でも、数が増えれば……」
食う。
選別は弱まる。
逃走の最中ならなおさら。
女騎士が拳を握る。
「無駄足か」
短い、硬い声。
薬師はうつむいたまま。
「これが最後の望みだったのに……」
静寂。
水滴の音だけが響く。
サクが一つの岩に近づく。
屈む。
何も言わない。
女騎士が振り向く。
「何かあるのか」
サクは答えない。
岩の影を覗き込む。
そこは鹿の蹄が入りにくい隙間。
細い裂け目。
湿気が強い。
光がほとんど入らない。
指を差し入れる。
ゆっくり、引き抜く。
灰緑。
三枚葉。
中心がわずかに白い。
葉の付け根に――銀筋。
薬師が息を止める。
「……!」
サクはそれを差し出す。
「残っとる」
一本。
小さい。
だが確かに月縁草。
薬師の目に涙が浮かぶ。
「根は……?」
「生きとる」
サクは岩の奥を指す。
「全部は食えん。鹿は急いどった」
群れは逃げていた。
立ち止まって掘り尽くす余裕はない。
女騎士が静かに言う。
「どれだけ残っている」
サクは周囲を見回す。
「探せば、数本は」
希望は細い。
「全然、足りない。」
灰色の岩。
踏み荒らされた土。
鹿の蹄跡。
月縁草は、ほとんどなかった。
薬師は膝をついたまま動かない。
指先に、ちぎれた葉の欠片。
女騎士は立ち尽くす。
拳を握ったまま。
「……終わりか」
低い声。
風が岩を撫でる。
誰も返さない。
任務失敗。
王宮へ戻れば、報告。
時間も命も削って、空手。
見習いが言葉を探すが、出ない。
そのとき。
サクが、岩場の縁に立つ。
尾根の向こうを見る。
静かに。
「山、越えるか」
女騎士が振り向く。
「何だと」
「向こう側に村がある」
薬師が顔を上げる。
「村……?」
「小さいとこや。ほとんど外と関わらん」
間。
「薬師のばあさんがおる」
薬師の目に、わずかな光。
「月縁草を……?」
「分けてくれるかもしれん」
“かもしれん”。
確証はない。
女騎士が鋭く問う。
「なぜここにないものが、向こうにある」
サクは肩をすくめる。
「主の縄張りは、こっち側やった」
一拍。
「向こうは別の流れや」
生態の境界。
尾根が、分ける。
薬師が立ち上がる。
「距離は」
「今日中は無理や」
女騎士がさらに問う。
「道はあるのか」
サクは岩の向こうを顎で示す。
「あらへん」
短い。
「ただ、俺がいつも使ことるルートや。先に崖がある」
切り立った壁。
高さ五十メートル以上。
足場は少ない。
ロープなしでは危険。
見習いが息を呑む。
「登るんですか……?」
サクは淡々と。
「一人なら担いでいける」
視線が女騎士へ向く。
「二人は無理や」
中堅が顔をしかめる。
「つまり?」
サクははっきり言う。
「行けるんは一人だけや」
沈黙。
風が強くなる。
薬師の手が震える。
「私が行くべきです」
即答。
女騎士が遮る。
「危険すぎる」
「でも薬の見極めは私しかできません」
正しい。
しかし女騎士は食い下がる。
「あなただけの同行は認められない」
サクに向かい
「私も鍛えている。お前が一人背負って登れる崖くらい登って見せる。」
サクはしばらく女騎士をみつめ、ため息をつく。
「素人ができる訳ない..........」
それでも食い下がる。
「他は撤退だというが、帰りはどうするのだ。お前なしに切り抜けられるのか?」
「彼女は護身の術を知らんのだ。それと薬草を手にするための義務は放棄したくない」
女騎士は握りしめた拳を少しふるわせてサクをにらみつけた。
サクは彼女の目をしばらく見て、つぶやいた。
「はぁ、しゃーない。一往復するかぁ。」
つづけて、「村から辺境の町までの道は、俺の道や」
指で尾根の向こうを示す。
「目印もある。こっからそのルートに合流したら難易度は落ちる」
中堅が問う。
「本当か」
中堅と見習いに向かい言う。
「あぁ、だから、お2人は撤退してギルドに“探索延長”を伝えてくれ」
女騎士が震える声で言う。
「本当か。連れて行ってくれるのか。」
「あんた、ゆうてもきかんやろ。」
「ただ道は厳しいで。泣き言ゆうてもきかんで」
中堅は迷わない。
「分かった」
見習いが唇を噛む。
「本当に三人で……」
女騎士が言い切る。
「探索を継続する」
薬師も小さくうなずく。
決定。
一行は一度、サクの“いつもの道”まで進みだした。
踏み慣れた獣道。
木に刻まれた小さな印。
白石が三つ、並べられている。
中堅がそれを見る。
「確かに……目印だ」
サクがうなずく。
「ここから先は安全度が違う」
視線を二手に分ける。
「そっちは町へ戻る道や。ギルドに“探索延長”を伝えてくれ」
中堅は一言。
「分かった」
中堅がサクの肩を叩く。
「戻らなければ、捜索願いを出す」
「いらん」
サクは短く笑う。
「戻る」
それで十分だった。
二人は撤退を開始する。
森に消える背を、誰も振り返らない。
===================
登攀 ― 一度目
しばらく一行は道なき道をサクの山刀が切り開く後を進んでいった。
その先、聳え立つ山。
そしてその前で一泊し、また山に向けて出発した。
切り立った壁。
真下から見上げると、空が細い。
風が巻く。
サクは黙って荷を下ろす。
枝とロープで、即席のもっこすを作る。
簡易の背負い枠。
女騎士がそれを見つめる。
「私が先に行く」
迷いはない。
「怖くないのか」
サクが淡々と問う。
「怖くない」
即答。
だが声が硬い。
サクは女騎士を枠に固定する。
胴と腿を縛る。
動けないほどに。
「きつい」
「落ちたら死ぬ」
それ以上の会話はない。
登攀 ― 一度目
岩に手をかける。
重い。
鎧を外しても、鍛えた体は軽くない。
一歩。
足場を探る。
二歩。
風が強くなる。
女騎士の呼吸が荒くなる。
「下、見んな」
サクが言う。
「見ていない」
だが見てしまう。
高度。
足元が遠い。
森が縮む。
女騎士の体が震え始める。
「止まるな」
自分に言い聞かせるように。
だが途中、強い横風。
体がわずかに振られる。
女騎士の喉から押し殺した声。
「……っ」
指が岩に食い込む。
サクは止まらない。
呼吸だけが荒い。
半ばを越えた頃。
女騎士の体が、急に硬直する。
次の瞬間。
温かいものが背に広がる。
ゆっくりと、腰のあたりまで流れた。
沈黙。
女騎士は声を出さない。
歯を食いしばったまま。
だが恐怖は限界を越えていた。
サクは何も言わない。
ただ登る。
やがて、手が縁を掴む。
引き上げる。
頂上。
女騎士を下ろす。
彼女は立てない。唇をかみしめている。
視線が合う。
何も言わない。
言わせない。
ただ、視線だけで「見なかった」ことを共有する。
そしてまだ半分だ。
「まだ4回の表が終わったところや、気合入れ直すで。」
サクは口に出さずに背筋を伸ばすのであった。
==============================================
登攀 ― 二度目
サクはすぐに降りる。
腕が重い。
指先が痺れている。
薬師が下で待つ。
青ざめている。
「大丈夫です」
震え声。
サクは何も言わず縛る。
「目ぇ閉じとけ」
薬師は従う。
登る。
さきほどより腕が鈍い。
疲労が乗る。
岩の一部が崩れる。
小石が落ちる。
薬師の体が小さく揺れる。
呼吸が速くなる。
「……っ」
途中で、薬師の返事が止まる。
「おい」
返らない。
顔を見る余裕はない。
だが体の力が抜けている。
失神。
軽くなる。
だが支える力は倍いる。
サクの腕が震える。
一歩。
一歩。
歯を食いしばる。
最後の縁。
腕が限界を超える。
それでも。
引き上げる。
倒れ込む。
薬師を横たえる。
女騎士が這うように近づく。
「……無事か」
「気絶や」
サクは空を見上げ、口に出さずこぼした。
「久しぶりに部活、思い出したわ.........」
しばらく誰も動けない。
崖の上 ― 静寂
薬師が目を覚ます。
女騎士は無言。
ズボンの裾は乾き始めている。
誰も触れない。
誰も言わない。
サクが立ち上がる。
「行くで」
短い。
三人で歩き出す。
尾根の向こう。
森の色が変わる。
風が柔らぐ。
遠くに、煙。
村。
誰も喋らない。
ただ足音だけが続く。
==============================================
村 ― 薬師の小屋
低い煙。
干した草の匂い。
土壁。
歪んだ木の扉。
サクはノックもせずに開ける。
「ばあさん、帰ったぞ。たのみがある」
鍋の湯気が揺れる。
中では、背の曲がった老婆が木杓子で煮込みをかき回している。
白髪を束ねた――
ばあさん。
その横で、若い女が豆をすりこ木で潰している。
静かな動き。
手慣れている。
くせっ毛の少女、レア。
二人とも振り向かない。
「帰った、やと?」
ばあさんが鼻で笑う。
「出てった覚えはないがの」
レアの手が止まる。
視線だけが上がる。
サクの背後を見る。
泥にまみれた鎧の女騎士。
顔色の悪い薬師。
無言。
レアの目が細くなる。
冷たい。
刺すような視線。
「……また拾ってきたの」
低い声。
サクは肩をすくめる。
「拾うてへん」
ばあさんが振り向く。
細い目。
皺だらけの口元がゆがむ。
「ほう?」
女騎士を上から下まで見る。
次に薬師。
「ずいぶん上等なのを連れ込んだのう」
皮肉。
愉快そうでもある。
女騎士が一歩前に出る。
「私は――」
サクが手で制す。
「王宮の依頼や」
ばあさんの眉が、わずかに動く。
「王宮?」
鍋を混ぜる手は止まらない。
「山向こうの月縁草が全滅や」
静かに言う。
空気が変わる。
レアのすりこ木が止まる。
ばあさんの目が、わずかに鋭くなる。
「……主を狩ったな」
言い当てる。
女騎士が息を呑む。
サクは否定しない。
「結果的にな」
ばあさんが小さく舌打ちする。
「馬鹿が」
叱責だが、怒鳴らない。
ただ事実を述べる声。
レアが立ち上がる。
薬師に近づく。
「倒れたの?」
「崖や」
サクが短く言う。
レアの視線がまたサクへ戻る。
冷たい。
「……二人も背負ったの」
「一往復余計にした」
ばあさんが吹き出す。
「阿呆め」
鍋から杓子を抜き、振り向く。
「で?」
真正面からサクを見る。
「わしに何を差し出す」
物々交換の村。
当然の問い。
サクは即答しない。
女騎士が言おうとする。
「王宮が――」
ばあさんが遮る。
「王宮はここまで来ん」
視線はサクから逸れない。
「お前は何を置いていく」
静寂。
レアの目も同じ問いを投げている。
過去。
恩。
借り。
いろいろ混ざる視線。
サクは、ゆっくり言う。
「山の主はおらん」
ばあさんの目が細まる。
「知っとる」
「向こう側もそのうち荒れる」
間。
「俺が整える」
ばあさんが鼻で笑う。
「整うか?」
「やる」
短い。
レアが口を開く。
「また山に入るの?」
「入る」
ばあさんが杓子で鍋を叩く。
乾いた音。
「月縁草はない」
女騎士と薬師が息を呑む。
「ただし、薬はある。」
ばあさんが奥の棚を顎で示す。
奥へ消える。
古びた棚。
乾いた音。
引き出しが引かれる。
戻ってきた手には、小さな包み。
油紙にくるまれ、紐で結ばれている。
それを、薬師の前に突き出す。
「ほれ」
ぶっきらぼう。
薬師は一瞬、意味を理解できない。
おそるおそる受け取る。
両手で。
押し頂くように。
紐をほどく。
中から、丸薬。
鈍い琥珀色。
わずかに銀粉が混じる。
薬師の呼吸が止まる。
匂いを嗅ぐ。
目を閉じる。
もう一度、見る。
光に透かす。
「……そんな」
声がかすれる。
「どうした」
女騎士が問う。
薬師は答えられない。
指が震える。
「“あの薬”が……ここにある」
呆然。
ばあさんが口の端を上げる。
「知っとるのか」
薬師はかすかにうなずく。
「本来なら……」
喉を鳴らす。
「月縁草を乾燥させ、抽出し、沈殿させ、さらに三日……」
視線が丸薬に落ちる。
「最低でも五日はかかる調剤です」
沈黙。
「しかも……成功率は高くない」
丸薬をもう一度嗅ぐ。そして小指でこそげ、舌の上にのせる。
微かな苦み。
奥に甘さ。
「完璧です」
断言。
ばあさんが肩をすくめる。
「当たり前じゃ」
女騎士が薬を覗き込む。
「本物なのか」
薬師が即答する。
「ええ」
そして、ゆっくりと。
「王宮でも、これほどの精度は……」
言葉を失う。
ばあさんが鼻で笑う。
「王宮は手間を増やして有難がる」
鍋をかき回す。
「薬は手順ではない」
ちらりとサクを見る。
「山を知っとるかどうかじゃ」
レアが腕を組む。
冷たい視線のまま。
「在庫は多くないよ」
現実的な声。
ばあさんがうなずく。
「全部はやらん」
薬師がはっと顔を上げる。
「必要量は」
「分かっとる」
ばあさんは指を三本立てる。
「三日分」
女騎士が息を詰める。
「足りるのか」
薬師は計算する。
頭の中で。
症状の進行。
患者の体力。
距離。
「……帰還すれば、持ちます」
あわゆくはあるが、希望はある。
製薬の時間、完成度、条件はむしろ良くなった。
薬師の目に、涙が浮かぶ。
「なぜ……これを」
ばあさんは視線を逸らす。
「少し前な」
ぽつり。
「同じもんを取りに来た阿呆がおった」
沈黙。
サクは何も言わない。
レアの目が、わずかに揺れる。
ばあさんは続けない。
ただ言う。
「持っていけ」
薬師は深く頭を下げる。
床につくほど。
女騎士も、ゆっくり膝を折る。
王宮の騎士が、村の薬師に。
ばあさんは鼻を鳴らす。
「礼はいらん」
視線はサクへ。
「借りは山で返せ」
短い。
重い。
サクはうなずく。
「分かっとる」
レアが最後に言う。
「……無事に帰りなよ」
冷たい声のまま。
だが、その奥は少しだけ違う。
外では、夕暮れ。
山は静かだ。
だが均衡は揺れている。
薬は手に入った。
代償もまた、確かにそこにある。
ばあさんがにやりとする。
「山は一つの顔やない」
サクを見る。
「お前は一面しか見とらん」
皮肉と誇り。
レアが冷たいまま言う。
「......手伝って。食事を用意する。」
誰に向けてか曖昧。
だがサクは動く。
薪を足す。
鍋の火を調整する。
レアの持ってきた食材を切り、鍋に入れる。
女騎士は黙ってそれを見る。
さきほどまで崖を登った男。
今は、当たり前のように火の番をし、料理をする。
沈黙。
ばあさんがぼそりと言う。
「で、あんたら」
二人の女性を見る。
「この阿呆を、どこへ連れていく気じゃ?」
女騎士は、少し考え。
そして答える。
「任務が終わるまでだ」
レアの目が、また細くなる。
「終わったら?」
その問いに、誰もすぐには答えない。
湯気が立ちのぼる。
薬の匂いが満ちる。
山の外と内。
食事はあたりまえのように薬膳が出され、来訪者2人も静かに食をすすめるのであった。
==============================================
湯の谷 ― 月夜
村の裏手を抜けると、地面の匂いが変わる。
湿った硫黄の匂い。
岩の隙間から白い湯気が立ちのぼり、夜気と混ざる。
足元の小石が、ほんのり温かい。
「ここ」
レアが指さす。
岩に囲まれた窪地。
自然の湯溜まりがいくつも連なっている。
高い岩壁が風を遮り、外界の音を遠ざける。
聞こえるのは――
とろ、とろ、と岩肌を伝う湯の音。
遠くで鳴く夜鳥。
そして自分たちの呼吸。
湯面は月を映し、白銀に揺れる。
触れると、思ったよりやわらかい。
とろみのある湯。
指先を沈めると、細かな泡がまとわりつく。
薬師が足を入れる。
「……あ」
声がほどける。
じわり、と冷えが溶けていく。
長い道行きの疲労が、足先からほどけていく感覚。
女騎士も鎧を外す。
金属が岩に触れる硬い音が、静寂に吸い込まれる。
湯に肩まで沈む。
思わず目を閉じる。
戦場でも王宮でもない。
ただ、温かい。
湯は少し白濁している。
月光を受けると、乳白色の光を帯びる。
肌に触れると、細かな砂のような鉱物が指に残る。
レアは慣れた様子で岩に腰かけ、湯を肩にかける。
「この湯ね、冬はもっと白くなる」
さらりと言う。
湯気が風に流れ、三人の輪郭を曖昧にする。
距離も曖昧になる。
湯の匂いは強すぎない。
硫黄の奥に、どこか甘い香り。
山草の匂いが混ざっている。
薬師が手のひらを湯に沈める。
「鉱泉ですね……鉄分と、わずかに硫化……」
指先をこする。
「傷の治りも早いはずです」
女騎士は自分の腕の擦過傷を見る。
湯がしみる。
だが痛みは柔らかい。
岩肌に背を預けると、昼間の緊張がゆっくり抜けていく。
上を見上げれば、切り取られた夜空。
星が近い。
湯気がその光を歪ませる。
まるで、世界が少し溶けているよう。
レアが湯面に手を走らせる。
波紋が広がり、月が揺れる。
「サクもここでよく寝てた」
女騎士が目を開ける。
「寝るのか」
「うん。怒られてたけど」
小さく笑う。
湯は一定の温度ではない。
場所によって、わずかに違う。
源泉に近いところは熱い。
端はぬるい。
三人は自然と、心地よい位置に落ち着いている。
それが少し可笑しい。
沈黙が苦しくない。
湯が言葉の代わりになる。
皮膚の緊張が解けると、心もゆるむ。
夜風が一瞬吹き込み、湯気が流れる。
その瞬間、女騎士は二人の輪郭をはっきり見る。
村の少女。
薬師。
そして自分。
国も立場も違う三人が、同じ湯に浸かっている。
境界線が曖昧になる。
それが、この温泉の力だ。
レアがぽつりと言う。
「いいでしょ」
誇らしげでもなく。
ただ、当たり前のように。
女騎士は短く答える。
「ああ」
その一言は、本心だった。
湯気がまた三人を包む。
女騎士が湯から上がろうとしたとき。
「ねえ」
声は少し高い。
振り向くと、レアはまだ湯に浸かっている。
肩まで沈み、顎だけ出して。
十五歳の少女。
だが目はまっすぐ。
「あなた、強いね」
女騎士はわずかに首を傾ける。
「任務だ」
「うん。でも」
レアは言葉を探す。
「崖で、怖かったでしょ」
女騎士の動きが止まる。
否定しない。
「……ああ」
正直に答える。
レアは少しだけ安心したようにうなずく。
「サクも、最初はああだったよ」
女騎士が見る。
「震えてた」
くすっと笑う。
「でも格好つけるんだ」
湯面を指でつつく。
「誰かが見てると、特に」
女騎士の口元が、わずかに緩む。
レアは続ける。
「山の主を初めて見たときも、震えてた」
薬師がくすりと笑う。
「意外です」
「意外でもなんでもないよ」
レアは湯に沈む。
「あいつは怖いものが多い」
女騎士が静かに問う。
「何を恐れる」
レアは天を見上げる。
湯気の向こう、星。
「失うこと」
短い。
「だからね」
そこで一度、真顔になる。
「無理させないで」
静か。
責める口調ではない。
お願いでもない。
薬師は言う。
「そんなこと、しないわ。」
レアは首を振る。
「違うよ」
少し考えて。
「……ちゃんと、帰らせて」
「王都につれていかないで。」
その一言は、十五歳らしかった。
女騎士はしばらく沈黙する。
やがて言う。
「私は王宮の騎士だ」
「うん」
「国益が優先だ」
「うん」
「だが」
月を見上げる。
「義理を欠く行いはしたくない。」
レアはほっとしたように笑う。
「それなら大丈夫」
立ち上がる。
湯が肩を滑る。
少女の体つき。
まだ幼さが残る。
けれど、目だけは真剣。
「サクはね」
少し照れくさそうに。
「強いけど、普通だから」
女騎士が小さく息を吐く。
「分かっている」
「うそ」
即答。
女騎士が目を見開く。
レアは笑う。
「山で見ると、王様みたいに見えるでしょ」
昼間の感覚を言い当てる。
女騎士は否定できない。
「でもね」
レアは湯から上がる。
「お腹すくし、怪我もするし、泣くし」
タオルで髪を拭きながら。
「ただの人だよ」
静かな釘。
“神格化しないで”。
女騎士はゆっくりうなずく。
「覚えておく」
レアは少しだけ満足そうに笑う。
「あと」
振り返る。
「村のこと、誰にもいわないで」
女騎士は答える。
「任務に不要な情報は書かぬだけだ」
「それでも」
十五歳らしい、まっすぐな懇願。
二人は並んで湯場を後にする。
敵意はない。
ただ立場が違うだけ。
そして――
サクは外で星を見ている。
何も知らない。
だが翌朝、二人の視線が少し変わっていることに気づく。
山の王のように見えた男は、
ただの人間として、
二人の視界に立ち始めている。
==============================================
崖 ― 帰路
帰りの崖は、往路よりも静かだった。
崖の前、女騎士も薬師も、目隠しをしている。
往路の失態を繰り返さないことを固く誓ったのだった。
女騎士は背に揺られながら思う。
岩肌を踏む足取りは確かで、迷いがない。
「重くないか」
低く問う声。
「問題ない」
だが声は少し近い。
背に預ける体温。
往路では感じなかった鼓動。
薬師は途中で小さく笑った。
「まるで密輸品ですね」
「山より重いものはない」
サクは短く答える。
風が吹く。
目隠しの布越しに、光が赤く滲む。
二人は、もう崖を恐れていない。
森 ― 野営
その夜は森で野営。
火が小さく揺れる。
レアは村へ戻り、三人だけの焚き火。
女騎士は言う。
「温泉の件は報告しない」
薬師も頷く。
「薬草の群生も伏せましょう」
サクは薪をくべるだけ。
何も問わない。
火の粉が夜へ消える。
それで十分だった。
ギルド ― 帰還報告
辺境の町のギルド。
石造りの建物。
報告は簡潔に。
危険区域の確認。
大型獣の痕跡。
薬草の採取成功。
崖の詳細も、温泉も、主の影も。
書かれない。
女騎士は淡々と署名する。
薬師は包みを提出する。
サクは壁にもたれ、静かに聞いている。
ここまで。
辺境の物語は、静かに閉じる。
==============================================
後日談
薬師の上司
王都の薬院。
年老いた上司は、提出された薬の包みを開く。
紙の折り目を見た瞬間、手が止まる。
「……これは」
折り方。
紐の結び。
角の処理。
すべてが、ある人物の癖。
かつての師。
今は消息不明の大薬師。
「馬鹿な……」
その名を、声に出すことはなかった。
だが確信する。
山にいる。
誰かが、その系譜を継いでいる。
王宮 ― 王太后の私室
女騎士は正式報告とは別に、王太后へ非公式に拝謁する。
語られるのは戦でも政治でもない。
温泉の話。
白い湯気。
星の近さ。
この世の天国のようだった、と。
そして――
「山の王のような男がいました」
王太后の目が、わずかに細まる。
「王ではないのか」
「王ではありません」
「ですが」
女騎士は一瞬迷い、言う。
「人が集う理由がある」
沈黙。
王太后は久しく覚えのなかった高揚を覚える。
若き日の、旅への憧れ。
政治から離れた風の匂い。
「面白い」
ただ、それだけ。
だが声は明るい。
密談
数日後。
薬師の上司と王太后は偶然を装って会う。
話題は山。
包みの折り。
温泉。
主なき均衡。
そして同時に口にする。
「一度、見たいものだ」
名目は視察。
だが真の目的は――
山。
そして、そこにいる“山の王”。
物語は閉じたようで、
大きな流れへと続いていく。




