第3話 命令で出会った二人
やがて茜子が乗る車を含んだ車列は、軍港のほど近くにある貴賓館の前で止まった。
海軍所有の建物である貴賓館は、装飾的な木組みとクリーム色の壁の対比が美しいうろこ屋根の洋館で、幾何学模様のステンドグラスで彩られた玄関扉は茜子の実家よりもずっと立派に見える。
茜子はこの館で休憩をとってから、戦艦に乗り込むことになっているのだ。
「皇女様は、どうぞこちらに」
運転手とは別の軍人が、茜子を屋内へ誘導する。
「丁重な歓待、感謝する」
天井の高い玄関ホールを見上げつつ、茜子はお辞儀をして館の中へと進んだ。
廊下の床はよく磨かれたヘリンボーンのフローリングで、土足で歩くのが忍びないほど綺麗にしてあった。
(確かここは、帝の行在所としても使われたはずだ)
館のありがたい由緒を思い出しながら、茜子は応接間に入る。
応接間もまた、金箔で模様が型押された壁紙や緻密に織り上げられた絨毯など、目を見張るような豪奢な内装で彩られていた。
「こちらのお茶とお菓子でも召し上がって、しばらくお待ちください」
「ありがとう。ゆっくりと味わって頂こう」
部屋を出ていく軍人にお茶を勧められた茜子は、マナーを守りつつ重厚な革張りのソファに座ってティーカップを手に取った。
白磁のティーカップの中身は香りの高い紅茶で、長時間車に乗ってやや疲れ気味だった茜子はそこで気力を回復する。
またモダンなデザインの電灯の下にはシックな木製のティーテーブルが置いてあって、その天板にはブランデーケーキが盛られた皿が載っていた。
(戦争が始まってから今日まであらゆるものが不足しているが、あるところには少しはあるものだな)
茜子は焼け目と卵色の切断面が食欲をそそるケーキにフォークを刺し、そのしっとりと洋酒のシロップが染み込んだ大人っぽい甘さを頬張る。
皇族と言っても茜子の実家はそこまで裕福ではないので、きちんとした菓子を食べるのは久々のことであった。だからケーキの量がごく少量だったとしても、茜子は甘味に出会えた喜びを噛み締める。
こうして茜子が真剣に茶と菓子に向き合っていると、先ほど入ってきた扉からノックが聞こえた。
反射的に返事をすると、扉が開いて一人の青年が部屋に入ってくる。
「失礼いたします」
よく通る声の挨拶とともに春光の差し込む部屋の一番明るいところに立ったのは、真っ白な詰襟の軍服を着た若い軍人だった。
年齢はおそらく茜子よりも少し上で、背はそれほど高くはないが均整のとれた体格である。日焼けした顔はほんのり少年らしさを残しつつも男らしく眉目秀麗であり、茜子は青年の美男子ぶりに一瞬で心を奪われた。
そして思っていたよりも自分が面食いであることを、茜子はその瞬間に理解した。
今日まで茜子が外見だけで異性を好きにならなかったのは、そうなるだけの器量の人物に出会わなかっただけであるらしかった。
(だって今まで見た誰よりも、彼は綺麗な人に見える)
ブランデーケーキの最後の一欠片を食べようと口を開けたまま、茜子は青年を凝視していた。
思わず言葉を忘れている茜子に対して、青年は恭しく敬礼をして挨拶をする。
「緋桜所属の特殊攻撃飛行隊の熊谷四郎です。皇女様が緋桜に滞在する間のご案内役を担当することになりました。どうぞよろしくお願いします」
礼儀正しいけれども堅苦しいわけではない青年の自己紹介によって、茜子は青年の名前が見た目に反して地味なことを知る。
茜子は自分の名前は大仰すぎると常々思っていたので、仰々しさを半分分けてあげたいとも思った。
「ああ、特殊攻撃飛行隊の……?」
何をどう話せば良いのか考えられないまま、茜子はケーキを刺したフォークを皿に置いて四郎の言葉を繰り返した。
特殊攻撃飛行隊というのが、戦闘機で敵艦に体当たりする決死の作戦を行う部隊であるということは知っていたが、茜子にはまだその部隊名を口にした意図はない。
しかし四郎は、なぜ国のために死ぬことが決まっているはずの人間が案内役なのか茜子が不思議に思っていると判断したらしく、少々恥ずかしげに事情を説明した。
「皇女様が緋桜の花嫁だとしても、お世話をするのはあまりむさ苦しくない男の方が好ましいだろうという話になって、自分が担当することになったんです。不慣れな任務なのでいろいろご迷惑をおかけするかもしれませんが、何でもお申し付けください」
つまり緋桜で一番顔が良いのが四郎だから彼はここにいるのだと、茜子はその点についてはすぐに納得する。
だが理由がわかったからと言って、これからしばらく見知らぬ美形が自分の側にいてくれる状況を即座に飲み込めるわけではなかった。
「なるほど、わかった。私は玖常宮茜子だ」
片言のような不自然な話し方で、茜子は皇族らしく雅な自分の名前を伝える。もともとそう賢くはないと自覚していたが、茜子は自分が普段よりもさらに馬鹿になっているのがよくわかった。
狼狽えている茜子に対して、四郎は適当にやり過ごすような様子は一切見せず、むしろ長いまつ毛に縁取られた目をやわらかに緩めて満面の笑みを見せてくれた。
「初めての戦場ですからご不安なことも多いかと思いますが、大丈夫です。緋桜は最新鋭の戦艦でホテルみたいに居心地が良いですから、皇女様もそこまで不自由しないはずです」
他の軍人たちと同様、四郎もまた誇らしげに、緋桜の素晴らしさについて語った。
緋桜には空調がついていて夏でも涼しくて快適なこと、将校ではない兵隊の食事も少し豪華なこと、そして大きいだけではなく頑丈に不沈艦として作られていること。
敗色濃厚な戦場にいても、四郎は本気で緋桜は最強で負けることはないと信じていた。
(過ごしやすい戦艦らしいのは嬉しいが、主砲が18インチ砲だからどうのって話はよくわからないな)
さまざまな緋桜の良いところを四郎は教えてくれたが、茜子の耳にはその心地の良い声で語られる話の内容は入ってこない。
嫁ぐ相手の話だとしても、戦艦の性能の話はどうでも良いことだった。
代わりに茜子は、夢見るように輝く四郎の黒い瞳をじっと見つめていた。時折目を細めつつ緋桜について語る四郎の表情は戦場にいる人とは思えないほど純粋で、茜子にとっては窓から差し込む光よりも眩しいほどだった。
だから茜子は、澄んだ川の流れを見て心が洗われるように、また夜空の月を見て郷愁を覚えるように、ごく自然に熊谷四郎という男の生存を願った。
(私はこの男を、戦争で死なせたくない)
つい先程までは他人に命懸けで守ってもらう気でいた茜子だが、自分勝手な想いで四郎を犠牲者の候補から外した。
もし四郎が茜子の考える軍人らしい軍人の大人だったのなら、これが死ぬのが仕事の人たちなのだとあまり引っかかることもなく死んでもらっただろう。
しかし四郎はこの先すぐに死んでしまうにはあまりにも若く綺麗で、生き生きとした光を宿した真っ直ぐな瞳を持っていた。
本心をごまかさずに言うと、茜子は四郎を自分のものにしたかった。
だからそこでやっと、茜子は四郎の肩書の意味を考えるに至った。
四郎が決死の作戦を行う部隊にいるということは、つまり死を約束されていると結論付けられてしまうことに、茜子は気づく。
「少し聞きたいのだが、特殊攻撃飛行隊ということは四郎殿は本来の任務での命令があったら死……、いや玉砕されてしまうのか?」
話を遮る機会を見計らい、茜子はなるべく深い意味を感じさせないように自分の認識が正しいのか訊ねた。
おそるおそる選んだ結果の玉砕という言葉には、のどに引っかかるような異物感があった。新聞の見出しやラジオで何度も見て聞いてきた言葉ではあるが、いざ自分で口にしてみるととてつもなく苦い。
そもそも玉砕は主に大敗北の際に使われるものだから、縁起が悪くて不適切だったかもしれないと後悔もする。
そうした茜子のたどたどしい質問にも、四郎は実にあっさりと迷いなく答えてみせた。
「必要があれば、もちろん玉砕します。そのために戦闘機の操縦訓練をして、給料をもらっているわけですから」
穏やかな笑顔を一切崩すことなく、四郎は当たり前のように自分も軍人として死ぬ覚悟があると告げる。
茜子が簡単には言えなかった玉砕という言葉も、四郎の瑞々しいくちびるからはなめらかに何でもないことのように発された。
真っ白な軍服をぴんと伸ばした背筋で着こなす四郎は、凛々しい立ち姿以上に潔すぎる心を持っていた。
その淀みのなさは教育によるものなのか、それとも生来のものなのか。
現在に至るまでの過程はまったくわからないが、四郎が早々と死を受け入れているのは確かである。
「そうか、そういうものか」
部外者として否定も肯定もできない茜子は、俯いて間の抜けた反応を返すしかなかった。
四郎は命令で茜子の前に立ち、命令で死ぬ男である。
そして茜子自身もある種の命令でここにいる皇女なのであり、この戦時下の皇国ではすべてが命令によって決まる。
(だがやはり、私はこの男を死なせたくない)
恋に落ち、時が止まったような気分になりなりながら、茜子は心のなかでもう一度身勝手な願いを繰り返した。
これまでの茜子は自分のことを何一つ決められない立場にいて、とりあえず運任せの気分で生きてきた。
どこにいても死ぬときは死ぬし、生きるときには生きるのだと信じてきたから、戦場に行くことになっても小さくまとめた覚悟しか持っていない。
しかし四郎に出会い、理由のない恋をし始めた今は、与えられた役割や命令というものに抗わなくてはならないと漠然と思った。
今までの茜子の人生に現れた男子たちの死と同じように四郎の死に納得できる気はせず、そうなると自分の命もまた以前よりも捨てられないものになる。
「ではこれから、緋桜滞在中はよろしく頼む」
最後のブランデーケーキの欠片を食べて顔を上げると、茜子は四郎に改めて今後の挨拶を述べた。
武闘神の花嫁としての緋桜での役割を、茜子は元々あまり真面目に考えていなかった。
だから茜子は、緋桜に乗り込む意味を四郎に求めた。
「はい、アケヨルヒメ様のように勇壮な皇女様にお仕えできて光栄です」
茜子の不純な本音を知らないまま、四郎がかしこまって跪く。
生きるか死ぬか。そしてこの恋は実るのか。
この二つの問いが、これから航空戦艦に嫁ぐ茜子が取り組むべき命題になった。




