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第一話

 森の奥深くにある廃洋館。月明かりに照らされて不気味に佇むそこは、異様な雰囲気を醸し出していた。

 裏腹にバルコニーに座る少女の姿は美しい。


 年齢は十代前半を思わせるくらい幼い少女。紅い瞳は、暗闇でもよく分かるほどに光っていた。着ている黒色のゴシックドレスの背中は、大胆なほどに開いている。見える白い肌は、人間とは思えぬ冷たさを孕んでいた。


 彼女は吸血鬼──サフィア。いつからここで暮らしているのかは、彼女ですらもう分からない。孤独の時間には、すでに慣れてしまっていた。

 湯気の立つ紅茶を見つめ、微笑む。香りを楽しんでから、口をつけた。

 

 喉を鳴らす。広がる香ばしさに、自然と口元が緩む。口の端から見えた牙は、鋭く尖っている。


 月光が彼女を優しく包む。その光景は、絵画のように美しい。きっと、今の彼女を見れば、誰もがほっと一息吐くだろう。


 月の明かりを招いたお茶会だ。

 一人なのに彼女の呼吸に合わせて、静かな旋律を奏でそうだ。


 木の葉が擦れる音が、紅茶の香りを揺らした。

 夜の気配が消え、森が息を潜める。異様な静けさが沈みこんだ。


 フクロウらしき鳥影が飛び立ち、彼女の白い肩がビクリと跳ね上がる。

 手に持っていたカップの中の紅茶が揺れる。数滴ほど机に飛んだ。


「な、何ですか……?」


 声は震えていた。先ほどまでの威厳は消えていた。


 バルコニーの縁に、フクロウが止まる。同時に、彼女は大きな声で叫ぶ。

 声の反響は森の奥に吸い込まれて消えていった。


 テーブルの影から顔を出して、大きな目をした猛禽類と目が合う。安堵のため息を吐いて、腰に手を当てる。


「またあなたですか?」


 サフィアの声にフクロウは首を大きくかしげる。


「毎回毎回私を驚かして、そんなに面白いんですか!?」


 フクロウ相手に、両手を上げて本気で怒る彼女。


 そう、彼女は夜の覇者と呼ばれるほどの吸血鬼でありながら、極度の怖がりであった。


──昔は、世界のほうを恐怖に陥れていたはずなのだが。


 先ほどまでの優しく包み込んでいた月光が、どこか彼女を笑っているようだ。


 紅茶を飲み干して、息をつく。いまだにバルコニーの縁で止まってるフクロウをシッシッと右手で追い払った。


 怒ったフクロウが羽を大きく広げる。するとまたサフィアは肺の中で裏返るような大きな叫び声を上げた。


「…………さて」


 取り繕うようにゆっくりと立ち上がり、月明かりを正面に受ける。

 背中から蝙蝠のような羽を生やす。瞬間、周りの空気が張り詰めた。

 その姿は幼い体と不釣り合いな恐ろしさがある。しかし、彼女を見てしまうのは、淡い光を反射する白い肩のおかげだろう。

 その不釣り合いな美しさは、かつて人間を惑わしたサキュバスの元となったともいう。


 春から夏の変わり目は新緑の空気が強くなる。サフィアは大きく息を吸いこんだ。

 

「今日も食料を回収しないとですね」


 よしと、自分を奮い立たせるようにガッツポーズをする。しかし、すぐにそのポーズは萎んでいく。

 

 表情はとても鬱蒼としていた。


「……今日も食料を回収しないとなんですね」


 声色も下がり、同じ言葉を紡ぐ。

 月に照らされてできた影が、心なしか暗く沈んでいた。


 大きく羽を広げた。月明かりを吸い込むような漆黒の色は、夜の女王と呼ぶにふさわしい。

 がその威厳とは裏腹に、サフィアの手はやる気なさげに垂れていた。

 猫背になって肩が下がり、どこからどう見ても覇気がない。


 羽ばたくと周囲に風が巻き起こり、テーブルに掛けていたクロスが大きくはためく。

 森のざわめきも、怪物だと怯えるように大きくなる。


 飛翔する彼女の輪郭を、月が照らす。それは誰の目を奪うほどの存在感だ。

 しかし、ここには誰もいない。漂ってくるのは、深緑の匂いだけ。そのことがサフィアの鼓動を落ち着かせる。


「今日は罠にかかっているのでしょうか?」


 月を背に受け、静かに森の中へ着地した。

 先ほどまでの木々のざわめきが一斉に息を潜めた。まるで、森そのものがサフィアを見守っているように。


 サフィアの近くには、小動物用の罠ケージがあった。その中から微かに血の匂いが漂ってくる。お腹と喉の奥が鳴る。


「……っ、い、今のはなしです!」


 反応してしまったことに赤面して顔を覆う。

 頭を数回ほど振ってから、彼女は思考を正気に戻した。


 吸血鬼の主食はやはり血だ。それを前にすると、どうしても本能が少し出てしまう。そのことに彼女は恥ずかしさを持っていた。

 

 できる限り本能を心の奥に飲み込んだまま、罠の蓋を開ける。

 うさぎがかかっていた。足から血を流し、息も絶え絶えだ。淀んだ瞳がこちらを見つめ、まだ生きたいと言っている。


「……ごめんなさい」


 罪悪感を振り払うように、手を合わせる。

 今日も自分が生きられるのはあなたのおかげと、心の中で感謝する。


 震える白い肩をそっと押さえ、ゆっくり息を整えた。

 二つ目の罠に手を伸ばそうとした──ところで、空気に押し返されるように止まる。


 いつもより血の匂いが薄い。

 その薄さが、胸のざわめきを大きくする。

 葉の擦れる音が微かに鳴り、森が何か警告しているようだ。

 

 罠にはかかった気配がある。だからこそおかしいと、彼女の心は告げていた。

 疑念と不安が気味の悪い匂いとなって渦巻く。月明かりが強くなる。


 大きく鳴った葉擦れが、サフィアの白い肩を跳ねさせた。

 一段と冷たい風が、背中をなぞっていく。

 音のほうにゆっくりと振り向き、確認した。


 まず目に入ったのは、血を垂らすうさぎ。力なくだらんとしている姿は、完全に息絶えている。

 次に、そのウサギを掴む大きな手。筋肉質なそれはサフィアと比べてかなり大きい。


「あ、あの……それ私のウサギ……」


 言葉が喉の奥に引っ込む。ウサギを掴んでいるのが、人間の男だということに気がついて、動きが止まる。

 気のせいか、血の匂いも月明かりも急に薄れた。


 人間がいると、脳内を駆け巡る。羽が大きく広がり、先までピンと伸びる。

 

 その姿は、威嚇で大きく見せようとする小動物そのもの。


「きゃああああああ!」

「うわああああああ!」


 二人の悲鳴が合わさって、歪な旋律が響く。

 

 サフィアは手をわたわたと動かす。宙を漕ぐようにして、飛び上がった。心なしか左右の羽の動きも不揃いだ。フラフラと月光の中を飛び彼女の姿は、夜の王の威厳はどこにもなかった。

 涙目になっている彼女は、むしろ見た目年齢相応の幼さが漂ってくる。


 血への渇きはいつの間にかすっ飛んでいた。

 逃げ帰るようにバルコニーから屋敷に戻り、カーテンと窓を閉めるのも忘れてドタバタと走る。


 森の冷気が彼女を追いかけて尾を引いた。

 寝室に逃げ込むと、置かれた棺桶の中に閉じこもる。


 暗闇と狭さが震える彼女を優しく包み込む。「もうやだ!」と泣きながら、目を固く閉じる。

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