第8話 王都の壁、拍を数える
黎明の王都は石畳が冷たく、鐘の音が低く長い。
私とカイ、荷車一台。上には薄板、釘、紐、拍石の小箱、うらばなしの束、封蝋台、空瓶、砂時計。
――“壁の種”。
広場に着くと、夜番が欠伸を噛み潰し、パン屋が最初の生地を叩いている。空気は粉と灰の匂い。
すでに板が二枚、立っていた。昨日の“公開謝罪”と“配合公開”だ。紙は上質、字は堅い。けれど鳴りはない。
「ここに、もう一枚」
私は柱と柱の間に紐を張り、薄板を立てた。
釘は四本。ミーナの言葉を思い出す――“壁は冷えると音が濁る”。
息を吹きかけ、角を温めてから、最初の一打。
木槌の音が石造りの広場に澄んで広がる。パン屋の手が止まり、夜番の背が伸びる。
「王都標準“適合鑑定”草案、掲示」
ライサ教授の若い使いが紙束を差し出す。角は保護してある。現場の手だ。
私は紙を板に重ね、透明板で覆い、四隅に“鳴り”の印を刻む。
「王都の言葉で書く。――けど、鳴りは辺境式で」
カイが短く笑った。
広場の光が増えて、人の輪がにじむ。噂は風より早い。
◆
最初の一言は、ヴォルク侯爵の家令だった。
顔色は悪いが、背筋は伸びている。
「侯爵家より通達。“安眠香”販売停止、“納戸瓶”没収、被害記録の壁を各地区に設置。――発言は以上」
私は軽く頭を下げ、板の端に白石を一つ置いた。
「謝罪と公開、受領。次は“再審”の段取りです」
ざわめきが濃くなる。
そこで私は砂時計を持ち上げ、白い砂を落とし始めた。
「十から逆に。――十、九、八……」
広場にいる者の呼吸がゆっくり合いはじめる。
拍が揃うと、言葉は短くても長く届く。
「順番は、“患者→方法→記録→金”。再審も、この順番で。
一、患者=被害の列挙。部屋単位、日付と症状。
二、方法=“香”の配合と投与様式、誰が決めたか。
三、記録=供給網、納品、封蝋の鳴り。
四、金=価格変動、負担、補償。
逆流すると、死にます。王都も例外ではない」
群衆の中で、誰かがゆっくりと頷く音がした。
私は“うらばなし”を束で配る。
〈香は投薬。揮発は再投与。夜の安眠は朝の倦怠〉
〈封は鳴る。濁りは嘘〉
〈拍は吐く。祈りは拍で数える〉
文字は短く、字は太く、迷路は作らない。
◆
第一の妨害は、想像より礼儀正しかった。
上等な外套の男が三人、役所の印を胸に歩み出る。
「辺境の薬師に、王都の標準など決めさせられぬ。――追放処分は生きている」
「生きている処分は、再審で“読み直す”」
私は淡々と返し、封蝋台の火を小さく上げる。
「あなた方の“許可”は、喉の乾きに効きますか」
男たちは眉間に皺を寄せた。
「許可は秩序だ」
「秩序は拍。――数えられない秩序は、ただの看板」
私は空瓶を持ち上げ、鳴りを聞かせる。
澄んだ音。
「“香なし”の証明。広場では香を焚かない。頭が鈍るから」
人々の口角がわずかに上がる。
役人の一人が苛立って封蝋の印を突き出した。
「王都式の印はここにある」
「鳴らします?」
私が印の上を指で弾くと、濁った音が短く跳ねた。
広場が笑い、男の耳たぶが赤くなる。
――“鳴り”は言葉より速い。
◆
第二の妨害は、雑だ。
人垣の後ろで、火花が一瞬散った。
板の足元に火打ち石。紙束へ手が伸びる。
カイが踏み込み、手首をひねって男を地面に落とす。
「燃やすなら、心臓じゃなく端から」と低く言って、火打ち石を取り上げた。
私は落ちた紙束を拾い、上から透明板を載せ、四隅を増し締めする。
「壁は二重。紙は燃える。板は鳴る。二つでだいたい勝つ」
群衆の圧が、犯人を押し出すように離れる。
女の声が上がる。「燃やすな」
拍が固まり、火は居場所を失った。
◆
セルジュが人垣を抜け、板の脇に立った。
顔には眠気と、何かを決めた薄い硬さ。
「――再審に同意する。王都広場の壁に、父上の名で」
彼は手袋を外し、自分で拍石を一つ、“再審”の欄に置いた。
石の音が大きく澄み、広場の空気が一歩動く。
役人たちの肩が一斉に強張り、しかし押し返せない。拍は数だ。数は強い。
そこへ、遅れてライサ教授。
灰色の瞳は朝の粉塵を読み、靴の踵は音を立てない。
「順番は守られたようだね」
「守りました。――王都は“手順の街”だから」
教授は微笑してから、標準草案の第一項を指で叩いた。
「“適合鑑定:個体差に合わせ、投与量・投与様式・投与速度を動的に定める”」
「動的=揺れてもよい、の意」
私は群衆へ向けて言葉を足す。
「人も制度も、揺れます。揺れたら、拍でつなぐ。――それが薬」
◆
正午、私は広場の端に簡易の調合台を出した。
“公開調合”。
王都の水と、辺境から運んだ灰針と、生姜と塩。
鍋が鳴り、湯気が旗になる。
最初の椀は、祈りの場の掃除をしている若い書記へ。
彼は一口飲み、目を瞬いた。
「頭の中の“綿”が減る……」
「綿は香の残留。拍を数えながら飲むと、抜けが早い」
彼は椀を抱えたまま、標準草案に何かを書き足した。
「“現場飲用試験”の欄、空いてたので」
良い現場だ。王都にも、まだ生きている場所がある。
粥の鍋の脇で、私は“価格”の札を立てた。
〈本日の拍値:白石三/銅貨二/労働一刻=大石一〉
〈被害家庭は白石優先〉
役人の一人が鼻を鳴らす。「慈善だな」
「投資です。拍に。――慈善は短い。拍は長い」
彼は言葉を失い、椀を受け取り、二口目で少し笑った。
甘さは控えめにしてある。謝罪の日は、砂糖が少ないほうが効く。
◆
午後、壁の前に一人の老婆が立った。
祈りの場で倒れたという。
指は小枝みたいに細いが、目は澄んでいる。
「字は読めないけど、音はわかる。――鳴らして」
私は板の四隅を指で弾き、封蝋の端を鳴らした。
澄んだ音が重なって、広場の騒がしさの奥に細い道を通す。
「いい音だねえ。うちの孫に、その音、持たせたい」
「孫の拍を数える札、渡します」
私は“拍札”を二枚手渡した。
老婆は胸に当てて、「効く」と短く言い、白石を一つ置いた。
――拍は、最良の装飾だ。
◆
夕方近く、広場の端から脂の匂い。
商会の男が三人、肩で風を切って歩いてくる。
タミはすでに板の前にいる。硬い靴、硬い目。
「“灰針配合粥素”の卸を停止せよ、との通達」男たちの声は派手で、言葉は薄い。
タミは首を傾げ、板を指さす。
「“通達”は紙。紙は燃える。――壁は鳴る」
私は横に“供給網”の図を広げた。
畑→乾燥→粉砕→調合→封蝋→在庫→出荷。
図の左下に、細い線を一本引く。
〈もし停止するなら、理由を記す欄〉
欄は空白のまま、広場に晒される。
男たちの顔が強張り、やがて一人が小さく舌打ちして引き下がった。
タミは短く息を吐き、私にだけ聞こえる声で言う。
「“空欄で晒す”は、よく効く」
「副作用は、恥」
「恥は、必要な薬」
◆
日が傾き、鐘がもう一度鳴る。
私は最後の一枚、“但し書き”を壁の足元に差し込んだ。
《但し書き:本日の“公開”は終わり。明日より“再審”の初回審理。順番は患者→方法→記録→金。香の販売は暫定停止。被害基金は白石と合流。》
字を太く、線を細く。
風が一度だけ強く吹き、透明板の面を撫でていった。
鳴りは濁らない。
セルジュが近づき、低く言う。
「父上は、明日ここに来る。怒る。……が、多分、座る」
「座れば、拍が合う」
「君は、王都の“先生”になれる」
「先生はライサ教授。私は、壁の薬師」
教授が肩越しに笑った。
「先生は壁の向こうでいい。ここは、現場の“拍”が先生だ」
遠くでパン屋が、焼き上がりの鐘を小さく鳴らした。
王都の空気が、かすかに甘い。砂糖ではなく、焼けた小麦の甘さ。
甘さは短期の鎮静。今日ぐらいは、少しだけ許す。
私は砂時計を裏返した。
落ちる砂は、辺境と同じ速度。
――薬は体に。処方は世界に。
壁は、明日も鳴る。
本日の処方メモ(3行)
・“許可”は喉の乾きに効かない。拍で数え、鳴りで確かめる。
・空欄を晒すのは薬。理由を書かせる枠が、嘘を減らす。
・王都は手順の街。順番(患者→方法→記録→金)で進めば、だいたい勝つ。