第7話 遠隔処方、王都の夜の手
私は“遠隔処方”の板を机の中央に据え、薄い墨で大きく四本の線を引いた。
――呼吸/水/熱源/嘘。
人の夜を壊すものは、だいたいこの四つのどれかに触れている。
「セルジュ、君は今夜、私の“手”になる。道具は三つ渡す。砂時計、拍札、処方札」
「……わかった。指示は、壁のように書いてくれ」
「壁よりも太い字で」
ミーナが走って砂時計を二つ持ってくる。片方の砂は白、もう片方は生姜色。
「白は呼吸、生姜は湯の時間」
「賢い」
私は彼女の頭を軽く撫で、処方札の束を作った。厚い紙に一枚ずつ、短く、はっきり、迷いが入る隙間を潰す文。
カイは背負子に荷を積み、革紐を締める。
「運ぶのは得意だ。城門の夜番は俺が説く。“王都式”より“現場式”のほうが早いと」
「助かる。門を通ったら、王都の風を嗅いで。香の残り香が強ければ、屋内で焚いている」
セルジュは手を拭き、深呼吸を一つしてから、私の机の前に立ち直った。
「父上は、怒鳴るかもしれない」
「怒鳴らせて。怒りの熱を外に出せば、体の熱は下がることがある」
「君は、怒鳴られ慣れている」
「“許可”をもらわないで仕事をすると、よく怒鳴られるからね」
◆
処方札の一番上には、呼吸の札。
〈呼吸〉
・窓を北側一寸開ける。南は閉める。
・砂時計(白)一回転のあいだ、“十から逆に”を父上と一緒に数える。声は低く。
・祈りは続けてよい。ただし、拍を数える祈りに(拍=吐く)。
・夜番は交代で。二人以上が同時に祈りで声を張らないこと。
次に“水”。
〈水〉
・寝る前に“夜水”を一杯。硬水を煮沸し、石灰沈殿後に粗布で濾す。灰針一滴。
・夜中に起きたときは“舌下”で一口(飲み込まず、舌の下に含ませてから飲む)。
・葡萄酒の温めは禁止。糖は熱を長引かせる。
“熱源”。
〈熱源〉
・寝具の天蓋とカーテンの“香の染め”を外す。夜は体温が熱源になる=香が再揮発する。
・湯たんぽは足元一つ。腰より上に置かない。
・炭火は寝室から出す。見張りの席は廊下。風の道を作る。
そして“嘘”。
この札だけは、字をさらに太くした。
〈嘘〉
・“祈りの香”は押収。瓶の封蝋を弾いて音を聞く。濁る封は入れ替えの跡。
・台所と納戸の瓶をランダムに抜き取り、鳴りを検査。濁ったものは別室へ。
・“症状が増えたと記録されていない部屋”を見回る。記録のない平穏は、たいてい嘘。
札の束を革紐で一括りにすると、私は最後に“拍札”をつけ加えた。
〈拍札〉
・患者の手首に触れるのが難しい時は、砂時計と呼吸の音を同期させる。
・“ざわざわ”が“すうすう”になるまで。
・うまくいったら、壁に白石を一つ。君の字で。
セルジュは札の裏まで確かめ、深く頭を下げた。
「君は、王都より王都らしい手順で、王都を動かす」
「王都は“手順の街”。手順で救われるなら、手順で殴る」
「殴る……か」
「柔らかい手で、だけどね」
◆
夜の峡谷を、二つの灯が下った。
カイの背に揺れるランタンと、セルジュの胸に抱えた札の束。
私は扉を閉め、壁を撫でる。鏡のように冷たい木の板に、今日の文字が薄く浮いた。
――遠隔処方は、壁が二つ必要だ。
こちらの壁と、向こうの壁。
片方は木、片方は人。
ミーナは机の端に膝を抱えて座り、砂時計を両手で包んでいる。
「リゼ、寝ない?」
「壁が眠ってくれたら、私も」
「じゃあ、壁に毛布かける」
彼女は本当に板の上に薄い布を広げ、笑って私を見る。
緊張が少しほどける。
「……いいアイデア。壁も寒いと、音が濁るから」
◆
真夜中、早馬。
鞍袋から取り出した紙には、乱れたが強い文字。セルジュだ。
〈第一報〉
呼吸:砂時計に合わせて数えた。父上は怒鳴ったのち、数をまちがえ、そのあと笑った。拍が整った。
水:夜水(舌下)を二口。汗が増えた。
熱源:天蓋から甘い匂い。外した。布の裏が黄色く染まっていた。
嘘:納戸の瓶、二つ鳴りが濁る。封蝋新しく、銘が古い。別室へ。
途中、家令が“祈りの香”を持ち込もうとした。止めた。家令は泣いた。“責任が怖い”と言った。
現在、呼吸は浅から深へ。胸の動き、良。
私は紙を壁に貼り、ミーナに読ませる。
「“責任が怖い”は、嘘じゃない」
「うん。恐れ。減らす」
「家令に、“恐れを薄める香”を。父上じゃなくて、家令に」
返答の札を二行で書き、早馬の尻に結わえつける。
壁は夜に鳴り、遠くの壁と薄い音で会話をした。
二度目の早馬は明け方前。
〈第二報〉
父上、汗とともに熱やや下降。夜半に再び上昇。
納戸から、濁る瓶がさらに一つ。
厨房の“夜酒”の鍋に、甘い匂い。
祈りの場の敷物から、微細な粉。
白い砂時計、二回転済。
どうする?
私は鉛筆を噛み、紙の匂いを嗅ぎ、台所へ走った。
硬水を煮沸し、灰針一滴。生姜をわずかに増やし、蜂蜜は使わない。
戻って壁に“原因候補”を書き出す。
――甘い匂い=香の残留/粉=香材の粉/夜酒=糖分+香材。
「ミーナ、粉の絵を描いて」
ミーナは粉を想像で三種描いた。大きめの花粉の粉、香材を砕いた粉、灰。
「敷物の模様は?」
私はセルジュの文の端の汚れを指で擦り、匂いを嗅ぐ。甘い、少し苦い。
「……“安眠”の名で売られている香の粉。夜に強い。朝に残る。敷物に叩き込むと、寝具が香の倉庫になる」
返答の札は、太字で。
〈返札〉
・敷物、天蓋、カーテンを外に。叩かない。粉を吸い込まないよう、濡れ布で包む。
・厨房の夜酒、廃棄。代わりに“夜水”。
・祈りの部屋は北窓のみ開け、香材の粉をほうきではなく湿布で回収。
・家令に“香の被害”の壁を作らせる。名前は書かず、部屋単位で症状を書く。
・父上の胸の上に薄布。布越しに拍を触れる。砂時計、もう一度。
早馬が去る。
私は背中に寒気を覚え、香の瓶をひとつ開けて、匂いを確かめる。
――夜の“安眠”は、昼に“倦怠”を残す。
それを祈りの名で売るのは、罪だ。
怒りが喉まで上がる。
生姜色の砂をひっくり返し、湯をひと口飲んで、それを押し下げた。怒りは手に。手は道具。
◆
空が白むころ、三度目の早馬。紙は短い。
〈第三報〉
父上、汗とともに熱さらに下降。呼吸深く、拍整。
敷物・天蓋・カーテン、撤去。夜酒、廃棄。
家令の壁、半ば。泣きながら書いている。
私の手は、今、温かい。
ありがとう。
追伸:朝になったら、君を王都の壁の前に立たせたい。
私は椅子に腰を落とし、額を板に押し当てた。
――遠隔処方、奏効。
壁が一枚、遠い場所で立った音がする。
ミーナが白石を二つ、セルジュの札に置いた。
「二つ?」
「“ありがとう”と、“手が温かい”」
「いい配分」
カイとセルジュの足音が同時に戻ってきたのは、太陽が峡谷の縁を越えた頃だった。
カイは肩で息をし、ランタンを外に放り、いつもの短い言葉。
「運んだ」
セルジュは泥だらけのマントを脱ぎ捨て、私の前に立つと、深く頭を下げた。
「助かった。父上は朝に眠り、昼に目覚め、私に罵声を浴びせ、そして笑った。“息が入る”と言った。……君の札は、王都で壁になった」
「家令の壁は?」
「泣きながら書いたが、字は力強かった。人は泣きながらでも、いい字を書く時がある」
セルジュは砂時計を机に戻し、砂の落ちる音をしばらく聞いた。
「私は、昔は君の字を“地味”だと思っていた。今は美しいと思う。美しさは、効くときに現れる」
「それで――」私は息を整える。「王都の壁に、次を書こう。『配合は公開』『供給網の透明化』『“安眠香”の一時停止』『被害基金の白石合流』『追放処分の再審』」
「父上には、どれが一番苦い」
「“再審”」
「だろうな。……苦い薬ほど、効く」
「舌の端で味わわせてから、飲ませる。砂糖は少なめ」
◆
昼下がり、私は薬房の表に小さな荷をまとめた。
――“王都行き:壁の種”。
薄板、釘、紐、拍石の小箱、うらばなしの写し、封蝋、香の“なし”を証明する空瓶、そして一番上に、汚れた砂時計。
ライサ教授から届いた標準草案も、角を保護して束ねた。
「明日の明けで出る。王都は嫌いじゃない。好きでもない。でも、壁が必要」
カイが頷く。
「護衛は?」
「あなた」
「了解」
ミーナは自分の小さな木匙を外して、荷の上に乗せた。
「置いてきてもいい。王都の壁に」
「預かる。帰ってきたら、また掛けよう」
夕方、ヴォルク侯領から最後の早馬。
公開謝罪、王都広場の壁に再掲。
“安眠香”の販売停止。
納戸の瓶、三つ没収。
再審の“審”の字に、父上が噛みついた。だが飲み込んだ。
私は明日、広場で“拍”を数える。
君の来訪を、王都の風が待っている。
私は紙を貼り、壁の前に立った。
――復讐は処方に。
是正は壁に。
王都の風に、生姜をひとかけ落としてやる。甘さは少しでいい。
◆
夜は静かで、針の風がやさしかった。
私は封蝋台の火を落とし、今日の“但し書き”を最後に一行。
《但し書き:遠隔処方は壁が二つ必要。片方は木、片方は人。人の壁は、泣いても書ける。泣きながら書いた字は、よく効く。》
砂時計をひっくり返す。
落ちる砂は、王都の夜と同じ速度。
私は目を閉じ、頭の中で明日の手順を並べた。
患者→方法→記録→金。
壁→数→拍→物語。
この順番で行けば、だいたい勝てる。だいたいでいい。
だいたいが積もると、世界は変わる。
本日の処方メモ(3行)
・夜の“安眠香”は朝の“倦怠”を残す。香も投薬。揮発=再投与。
・遠隔処方=壁×2(木と人)。札は短く、字は太く、迷いは潰す。
・泣きながらでも書ける壁が強い。涙は溶媒、字は有効成分。