第4話 検分隊は壁からどうぞ
王都の旗が、峡谷の風にぎこちなく揺れた。
色は鮮やか、布は厚い、拍はバラバラ。最前列の隊士は胸を張り、後列の書記は帳面を抱え、真ん中には――見覚えのある横顔。
灰色の瞳。まっすぐな顎。
ライサ教授だ。
王立薬学院の“異物”。私の元師。検分隊の列から半歩だけ外れて歩き、風の向きと石の鳴りを先に見る癖もそのまま。
「久しぶりだね、リゼ」
「ようこそ、辺境の薬房へ。壁から、どうぞ」
教授は口元だけで笑い、肩越しに隊長へ視線を流した。
隊長は甲冑の音を立て、宣言した。
「王都検分隊である! 追放処分中の者による医療行為の実態調査、および不正薬流通の有無を検める!」
「はい。壁に“有”も“無”も書いてあります」
私は板を指し示す。封蝋の色、配合、投与量、料金、免除、拍石の移動――全部。“面倒くささ”で殴る、正攻法。
のっけから隊士の一人が鼻で笑った。
「子どもの落書きだな。こんなもの、証拠になるか」
「子どもの落書きで助かった命の数は、そこにある石の数。石は嘘をつかない」
「石が――」
「鳴るから」
私は拍石の箱を少し傾け、木棚に落とす。小さく澄んだ音が鳴り、集まった村人の背筋が、同時に伸びた。
「検分の順番を決めよう」
ライサ教授が一歩前へ出る。隊長は咳払いをし、あくまで主導の顔を崩さない。
「順番? まずは薬瓶と施設の押収――」
「順番は“患者→方法→記録→金”です」
私は食い気味に言った。
「体が先。方法は体に従う。記録は方法に従う。金は最後に従う。順番を壊すと、死ぬ」
隊長の眉がぴくりと動き、後列の書記のペン先が一瞬止まる。
教授が小さく頷いた。彼も知っている。順番は薬だ。
◆
患者は、来てくれた。
昨夜助けた鉱夫の兄弟、朝の粥を食べた羊飼い、赤子を抱いた若い母親――みんな“見せる”覚悟で並ぶ。
「鎮痛の“ずらし”を受けた者?」
手が上がる。私は処置順に名前を呼び、拍を取る。
「十から逆に。十、九、八……」
拍が揃う。書記が慌てて指を折り始め、隊長の顎が下がる。
「はい、次は止血の併用群。縫合の痕、見せられる人は?」
見せる。
醜さを隠さないと、美しさも居場所をなくす。
検分隊の中から、若い薬師が一人、前へ。
「“恐れを薄める香”って、何ですか。王都の薬典に該当がない」
「だから使う。恐れは増える。増えるものは減らす。香は“投薬”の一種。吸収面は肺、投与速度は匂いの強さで調整」
私は配合表と小瓶を手渡した。決して秘伝にはしない。効果は透明な環境で最大化する。
薬師は匂いを一嗅ぎして、目を瞬いた。
「……落ち着く」
「落ち着くと、情報が入る」
ライサ教授が、壁の“祈りの香”の項を指さす。
「君が書いた“儀礼用香の過量で呼吸抑制”の仮説、これ、今日の夕刻に実地で検証しよう」
「実地?」
「王都で配られている香を持ってきた。君の“灰針一滴”と合わせた対照実験だ。――隊長、検分の手順に“比較試験”を入れましょう」
教授の言い方は静かだったが、“王都の言葉”になっていた。隊長は仕方なく頷く。
◆
方法の検分は、台所から始まった。
薬房の心臓――乾燥庫だ。
私は扉を開き、昨夜の油の染みと、砂と水の桶を指し示す。
「ここを燃やされそうになりました。未遂。犯人は商会の手先。記録はここに。匂いはまだ残っています」
若い薬師が匂いを嗅ぎ、頷く。
「――確かに新品の油」
隊長の横で、別の隊士が不快そうに顔をしかめた。
「告発か?」
「告発じゃない。記録。訴状は後で。今日は“検分”」
壁に沿って、粉砕台、調合台、封蝋台。
私は封蝋の温度計を示し、温度域ごとの封の気密を見る木片を見せる。
「封の鳴りを聞いてください。濁る封は、嘘」
隊士たちが半信半疑で木片を弾き、澄んだ音に目をしばたたかせる。
ライサ教授だけが“うん”と喉の奥で声を出した。
「良い音だ。王都ではもう聞こえない音だ」
◆
記録の検分は、想像より長くなった。
支払い、免除、拍石の移動。
“白石基金”。
村長のダイルが前へ出て、拍石の説明をした。
「人の借りと貸しは、腹の中に入れておくと腐る。石に出せば乾く。乾けば、長持ちする」
隊士たちは笑わなかった。むしろ、目の色が変わった。“制度”の匂いは、権力の鼻に届きやすい。
隊長はわざとらしく咳払いし、最後の“金”に触れた。
「粥の一杯一枚。免除の基準は?」
「腹が空いていること。……あと、働けるようになる見込み」
「見込み?」
「薬師は賭けもやる。効いたら戻る。利子つきで」
壁の“最初の黒字”の欄に、拍石の移動が記されている。
隊長はそこだけ早足で目を滑らせた。金は最後だ。最後は、見る者の心が疲れていなければ効く。
◆
夕刻、峡谷の風が柔らかくなる時間。
比較試験の場を、私は屋外に設けた。風向きの読みやすい場所。
“祈りの香”と、私の“香”。
隊長は腕を組み、隊士は距離を測り、村人は少し離れた場所に集まる。
ライサ教授が淡々と段取りを読み上げた。
「被験者は健常成人四名。二名ずつに香を吸わせ、拍、呼吸、反応時間を測る。王都式の祈りの香は現在流行の配合。辺境式の香は、リゼの配合。灰針一滴との併用効果も観察」
言葉は冷たい。けれど、その冷たさは“命を守るための冷たさ”だ。
私は香の封を切り、火を入れる。
王都の香は甘く、重い。私の香は薄く、軽い。
最初の数分、被験者の顔はどちらも緩んだ。
だが、十分を過ぎたころ――王都の香を吸った側の一人が、眉間に皺を寄せ、胸に手を当てた。
「胸が……重い」
私はすぐに拍を取り、ライサ教授が合図する。
「“灰針一滴”を投与」
私は水にほんの一滴垂らし、舌下に落とす。
拍が戻る。呼吸が持ち上がる。
隊長の顎が、二度、揺れた。
「……過量で呼吸抑制。“儀礼用香”が原因の可能性。灰針による軽度の拮抗作用、認める」
書記のペン先が走る。
村人のざわめきが風に混じる。
私は“但し書き”を取り出した。
「王都の香を止める気なら、交換条件を提示します。――“記録の公開”」
隊長が顔をしかめる。
「公開?」
「誰が配合を決めたのか。供給網はどこか。価格の変動。被害の発生件数。全部、壁に貼る」
「それは、王都の権威を――」
「守るために必要です。闇で守る権威は、弱い」
ここで、“ざまぁ”を叫ぶのは簡単だ。
でも、処方は社会に。私は“是正”を差し出す。
◆
検分隊が引き上げ支度を始めるころ、一台の見慣れた馬車が土煙を上げて現れた。
商会の女、タミだ。
彼女は私に合図してから、隊長の前に進み出る。
「商会代表、タミ。万能回復水の販売を中止する。代替として“灰針配合粥素”の販売契約を提案。条件は壁に掲示済み。ついては――王都の“儀礼用香”の配合ならびに納品記録の一部を、明日、壁に貼り出す」
隊長の目つきが険しくなる。
「勝手なことを」
「勝手は市場の呼吸。止めると、倒れる」
タミは一歩も引かない。
ライサ教授が、そこで静かに言葉を挟んだ。
「――やりたまえ。壁は、王都の光になりうる」
隊長は歯を軋らせ、結局は渋い顔で頷いた。
権威は、時々“現場の理屈”に負ける。
◆
検分隊が去ったあと、夜はすぐに濃くなった。
村は静かだが、沈黙の奥に熱がある。
私は薬房の扉に鍵をかけ、机に頬杖をつく。
――疲れた。
“透明”は効くが、体力を食う。副作用は手間と疲労。
戸口が軽く叩かれた。
開けると、ライサ教授が一人で立っていた。
「これを置いていく」
古い革のノート。角が擦り切れ、紙は厚い。
「君の“適合鑑定”の初期メモ。君が学院に残していった断片と、私の補遺。――王都では、この方法は“地味”すぎて評価されなかった。派手な魔術の影で、静かに効く理屈は、いつも遅れて理解される」
私はノートの表紙を撫で、目を閉じる。
「先生。私、時々怖い。私がやっているのは復讐なのか、是正なのか。線が揺れる」
「線は揺れていい。揺れた線を“拍”でつなぐ。それが、君のやり方だろう」
教授の手は、昔より少し骨ばっていた。
「――君が壁に貼る数字は、王都にも効く。だが、君自身にも効く。自分の“疲労”も記録に入れなさい。薬師は、自分を診ない」
「はい。努力します」
教授は帽子を取り、ほんの一瞬、私を抱きしめた。
「辺境には風がある。王都には壁がある。風と壁で、街は呼吸する」
彼が去った後、心臓の奥に、薄い灯りが残った。
◆
深夜。
香の小瓶に火を入れず、ただ蓋を開けて、匂いだけ嗅ぐ。
恐れは薄まり、代わりに“怒り”が少し顔を出す。
怒りは熱。熱は、道具だ。
私は“但し書き”の束を新しく書き足した。
《但し書き:王都の“儀礼用香”の配合公開に協力すること。被害家庭への補償基金を白石基金に統合すること。商会および学院は、今後の配合変更を壁で告知すること。サインが揃うまで、救援依頼の優先度は落とします》
優先度は薬だ。効いてほしい所に、効かせるための濃度調整。
ふと、外で小さな音。
私は身じろぎし、扉を開ける。
そこに立っていたのは――昨日“万能回復水”を売っていた行商人だった。
帽子を胸に抱え、頭を下げる。
「謝りに来た。あんたの壁は、俺にも効いた。……仕入れ先の台帳、ここに写した。役に立つかわからんが」
差し出された紙は震えていたが、字は思いのほか丁寧だった。
「役に立ちます。ありがとう。あなたの拍、白石を一つ」
「い、いや、そんな……」
「受け取って。“謝る”は、拍」
彼は泣きそうな顔で、小さく頷いた。
◆
朝に近い時間、私は壁の“予告欄”に新しい一行を書いた。
〈明日、王都より“公開謝罪”と“配合公開”の掲示が届く見込み。粥は無料。拍は白石優先〉
村の空気が読める。今日の峡谷は、朝の匂いがやさしい。
カイが背伸びをして厨房に入ってくる。
「よく眠れたか」
「壁に寝かせた。私は少しだけ」
「なら、粥に“甘いもの”を少々。甘さは短期の鎮静」
「いいね。……それと、今日から“SS番外:壁のうらばなし”を貼る。数字が苦手な人にも届くように」
「物語で配る薬、か」
「うん。物語は、怖れに効く」
私は鍋に火を入れ、灰針草の渋みをほんの少し抜いた。
湯気は旗。
旗は、風の方向を見せるためにある。
――今日の風は、こちらを向いている。
本日の処方メモ(3行)
・順番=「患者→方法→記録→金」。逆流は不整脈。
・“比較試験”は冷たいが、命にあったかい。仮説は壁へ。
・但し書きは処方の刃。過剰投与に注意。効かせたい所にだけ効かせる。