第3話 信用は数字で、心は拍で
朝の粥が三鍋めに差しかかったころ、私は壁の記録板の下に、小さな棚を増設した。
――“信用通帳”を置くための棚だ。
通帳といっても紙ではない。掌に収まる木札に、名と印と“拍”の線を刻む。支払いが足りない人は、粥の杯や労働時間が増えるたびに線が伸びる。払いすぎた人は、誰かの拍に線を分けることができる。
「お金がなくても、拍はある。働く拍、支える拍、治る拍。拍は、村の心臓」
村長のダイルが、眉の下で目を細めた。
「帳面を壁に晒すなんて、喧嘩の種だぞ」
「隠すと、もっと喧嘩になります。数字が先、感情は後。順番を決めるのが薬師」
「順番……か。……お前の順番は、胃にやさしい」
褒められたのだと思う。多分。
ミーナが木札を一枚ずつ並べ、石の箱から“拍石”を取り出した。
一杯につき小石一つ。労働一刻で大石ひとつ。赦しの拍は白、助け合いは灰、借りは黒。
壁の前に人が集まる。数字が冷たいほど、人の声は温かくなる。
「じゃあ、今日の粥はあの家へ」「うちは昨日手伝ってもらったから白石を一つ」
石が鳴る。良い音だ。
◆
昼下がり、私は“水”の往診に回った。
峡谷の水は硬い。煮沸と沈殿だけでなく、井戸の位置と風の筋で味が変わる。私は村の地図に、水の硬度と味の記号を描き入れていく。
「この家は石灰分が強いから、灰針草は一滴。鍋は鉄じゃなくて土鍋。塩は減らす。代わりに香を吸う」
「香で腹が満ちるのかい」と老婆。
「腹じゃなくて拍が満ちる。拍が満ちると、食べ物が“味方”になる」
老婆は「わかったような、わからんような」と笑って、木匙を一本、壁のフックに掛けた。
木匙の列が、少しずつ増える。働いた印。助けた印。生きた印。
◆
薬房に戻ると、戸口に見慣れない女が立っていた。細い指、鋭い目、硬い靴。
「――王都の商会の者だ」
昨日の脂ぎった使いとは違う。頭の回る現場の女だ。
「万能回復水の件、聞きました。……まず、謝罪するわ。私たちはあなたを見誤ってた」
「謝罪は甘く、賠償は辛く」
女は微かに笑った。
「辛いのは得意。その前に確認。あなたの“記録”は本物?」
「壁に。触って確かめて」
女は板を撫で、拍石を一つ摘み、音を聞いた。
「……濁りがない。本物だ。なら、取引をしたい。万能回復水の販売はやめる。代わりに、あなたの“灰針配合粥の素”を仕入れて村々で売る。収益の七割をあなたに」
「五割。残りの二割は“白石基金”。払えない家の拍石に回す」
「強いわね、辺境の薬師」
「弱い場所が、強い方法を持つだけ」
女は頷き、契約書のひな形を取り出した。私はその紙の“上質さ”に苦笑する。追放判決と同じ、涙を弾く紙。
「紙はよく燃えるから、二重にしましょう。紙の契約と、壁の契約」
私は板に新しい欄を増やし、〈商会との粥素供給契約〉と記して条件を並べる。
女はそれを見て、わずかに肩を落とした。
「透明は、商会の天敵よ」
「でも、売れる。売れるなら味方」
女は帰り際に言った。
「名前はタミ。私は王都の“歯車”。あなたのような異物が増えると、歯車の噛み合わせが良くなることもある」
「異物同士、歯を欠かさないように」
私たちは笑って、堅い靴音とやわらかい拍を交換した。
◆
夕刻、外から賑やかな声。子どもたちが、木の板を抱えて走ってくる。大人に混じって、ミーナも息を弾ませていた。
「手紙! 王都から!」
差出人は、辺境に嫁いだ姉に会いに来ていた親戚――ではなく、その姉自身だった。村から王都へ戻ったとき、王都で“説明のつかない回復”を見たと言う。
王都では、病に効かない“祈りの香”が流行ってる。匂いは良いけれど、頭が痛くなる。あれを焚いた家で倒れる人が多い。
あなたのところの“灰針一滴”の話を、向こうの薬師にしたら笑われた。でも、次の日に一人助かった。笑った薬師の顔は、ちょっと青かった。
私は手紙を読み、ミーナに地図を持ってこさせる。王都の香の流行。香材の供給元。風向き、室内の換気。
「“儀礼用香”の配合、誰かがいじってる。鎮静が過ぎれば、呼吸を落とす」
私は壁の“予告欄”に一行、書き足す。
〈近日、王都に“説明のつかない回復”が増える。説明できる準備を〉
夜、カイが薪を割りながら言った。
「王都の検分隊、本当に来るのか」
「来る。来たほうが、楽」
「楽?」
「闇で戦うより、明るい場所で数字を並べるほうが早い。――それに、検分隊が来れば、村も自分の“拍”を自覚する。見られると、人は姿勢を正すから」
「人間、光に弱い」
「薬瓶もね。だから封蝋を濃くする」
私は棚の封蝋を一つずつ確かめ、瓶の口を耳に当てた。
――鳴りが良い。嘘のない音。
◆
夜更け、軽い足音。戸口がそっと開いて、少年が顔を出した。昨日助けた鉱夫の弟だ。
「兄ちゃん、起き上がって歩いた! 母ちゃん、泣いた!」
「よかった。じゃあ、この白石を一つ、あなたの家の拍に」
少年は白石を両手で持って、慎重に棚へ運んだ。
「ねぇ薬師さん。王都の人は、また怒る?」
「怒る人もいるし、困る人もいる。……でも、助かる人が増えると、怒りは居場所をなくす」
「怒りにも、居場所があるんだ」
「ある。怒りは熱。熱は行き場がないと、体を壊す。ちゃんと吐き出す」
少年が帰ったあと、私は壁の余白に小さく書いた。
《副作用:王都の“香”に効く可能性あり》
――薬は体に。処方は世界に。
今夜の風は、少しだけ甘い。誰かが“祈り”を焚いた匂い。甘さは危険の合図にもなる。
◆
翌朝、峡谷の入口で角笛が鳴った。
王都の旗。検分隊。
私は白衣の紐を結びなおし、壁の板を手で磨く。ミーナが背筋を伸ばして立ち、カイが肩を回す。村長のダイルが、拍石の箱を持ち上げる。
「準備は?」
「いつでも」
私は扉を開け、笑った。
「ようこそ。辺境の薬房へ。――壁から、どうぞ」
検分隊の先頭が、わずかにたじろいだ。
彼らは闇から来た。私たちは光で待つ。
数字は、いつでも味方を選ばない。
本日の処方メモ(3行)
・“信用通帳”は金より早く効く。副作用は手間だが、効果は長い。
・祈りの香=鎮静の薬。過量で呼吸が落ちる。香も“量”の学問。
・紙の契約は燃える。壁の契約は鳴る。両方使うと、だいたい勝つ。