第2話 穴だらけの診療所、朝の一杯
崩落の夜が明け、峡谷に光が差した瞬間、私はふと思った。
――この土地は朝の匂いが濃い。乾いた石、煮立つ水、獣の体温。どれも薬になる。
巡検隊は夜明け前に引き上げた。隊長は帰り際、私のフラスコを半分だけ飲んでから返した。
「毒にも薬にもならない水だ」
「効きました?」
「喉には、だいぶ」
それで十分。王都式の“許可”は、喉の感想で大抵ひっくり返る。
搬送に協力した傭兵のカイは、そのまま薬房の椅子に座り込んで舟のように眠った。私は診療台を拭き、瓶の数を数え、夜の処置の記録を書き起こす。封蝋の色、投与量、拍の変化。数字は冷たいが、嘘をつかない。私の味方だ。
戸口の隙間から、柔らかな視線。
「入っていいよ」
そっと現れたのは、昨日赤子を連れてきた若い母親――ではなく、彼女の連れていた上の子だった。髪は焦げ茶、目は澄んだ灰色。どこか計算高い目をしている。
「お母さん、寝るのが上手くなった。ありがとう、薬師のお姉さん」
「よかった。お名前は?」
「ミーナ。字は書ける。数もできる」
自己紹介が妙に合理的だった。
「じゃあ、お願い。瓶の数、色ごとに数えてくれる? 黄色十、青六、白四……」
「数える。数えるの、好き」
ミーナは嬉しそうに指を折り始め、私は記録の書き方を簡単に教えた。
「字も綺麗。うちで働く?」
「働く。働いて、木匙をもらう」
この子は報酬の意味をもう知っている。よくできた土地だ。
◆
朝、私は屋台を出した。看板には大きく一行――〈薬膳粥 一杯一枚〉。
鍋には硬水で炊いた粥。灰針草の渋みをほんの少し抜き、胃を温める根菜を刻む。朝の風は針のように細くて冷たい。湯気は旗だ。村人は湯気に寄る。
「薬師が粥?」
「薬は飲むだけじゃない。噛む薬も、吸う薬もある」
わかる人から並ぶ。最初に来たのは坑道帰りの鉱夫、次に羊飼い、次に子ども。私の粥は「効く」か「効かない」かだけだ。宣伝は湯気がやる。
カイが起きてきて、黙って鍋を担いだ。
「運ぶのは得意だ」
「見ればわかる」
「料金回収は下手だ」
「見ればもっとわかる。じゃあ、私は数える」
私が描いたチョークの線に、ミーナが石を置いていく。粥一杯につき石一つ。石が十を超えたとき、私は小さく息を吐いた。――最初の黒字。
そのとき、市場通りの端で大声が響いた。
「“万能回復水”! 一杯で万病に効く!」
声の主は、王都帰りを名乗る行商人だ。腰に派手な瓶、口にはもっと派手な嘘。
村人の肩が、期待と不安で揺れるのが見えた。
私は鍋の火を弱め、行商人の前に立つ。
「試飲、いい?」
「レディに試飲とは光栄――」
私は一口飲み、眉を上げた。
「ただの硬水ね。石灰が溶けてる。胃が弱い人にはきつい。赤子には毒」
「な、何を根拠に!」
「冷え方、舌の重さ、喉の引っかかり。それに――ここ、灰針峡谷の水は石をかじる味がする」
私はミーナを呼ぶ。「記録帳」
ミーナはぴんと背筋を伸ばして詠唱みたいに言った。
「昨日、赤子の熱。硬水を煮沸、石灰沈殿、粗布濾過、灰針草低温抽出一滴。投与後、拍安定、発汗、小便増。朝の粥で体温平準」
村人たちが顔を見合わせる。行商人の顔色が、万能じゃない速度で青くなった。
「王都の許可は――」
「王都の許可は、あなたの喉の乾きには効かない。効くのは方法」
私は行商人の瓶の底を指で弾いた。低く濁った音。
「その水は重い。胃袋に落ちて、石になる」
村の女たちの眉が一斉にひそまる。
「赤子に飲ませた?」
「まだ……」
「飲ませないで」
それ以上の説明は、いらなかった。行商人は悔しそうに肩を震わせ、荷をたたみ始める。
「お、おのれ……王都式の権威を……」
「権威は煮ても焼いても柔らかくならない。腹に入るのは、足で集めた方法だけ」
市場の空気が、私の鍋に向き直る。ざわめきは湯気に溶ける。
――これが“小ざまぁ”。派手ではないが、胃袋に効く。
◆
昼前、薬房の前に馬車が揺れた。王都からの、薄墨色の封蝋。
差出人は、王立薬学院の異端教授――ライサ。私の元師で、唯一の理解者。封は堅いが、文はいつでも乾いている。
リゼへ
王都で君の処方が噂になっている。説明のつかない回復例。説明のつく失政。
君の“適合鑑定”の記述を再検討したい。私も王都では異物だ。こちらにも異物が増えている。
近く、商会と学院が共同で“検分隊”を出す。君の薬房の記録を要求する名目だろう。
記録を曖昧にせず、逆に透明にして迎えてほしい。彼らは闇でしか戦えない。
私は手紙を読み返し、ミーナに見せた。
「字、読める?」
「だいたい。……“透明”ってなに?」
「隠せないこと。見ようと思ったら、誰でも見えること。――記録を、誰でも読めるように整える」
私は棚から板を下ろし、薬房の壁に掛けた。〈処方記録〉と書いて、昨日の夜からの内容を清書していく。封蝋の色、瓶の出入り、粥の杯数、支払い方法。
村人が集まってきた。数字は冷たいが、安心を生む。
「これ、全部見せちゃうの?」
「うん。見られて困ることは、最初からしない。……王都のやり方と逆だけど」
カイが腕を組んで、指で板を叩いた。
「叩くと、いい音がする」
「空洞がないからね。嘘は音が濁る」
「じゃあ、お前の店は鳴りがいい」
「ありがとう。あなたの足音も、だいぶいい」
その午後、王都の検分隊――ではなく、商会の使いが先に来た。脂ぎった男で、香油の匂いが強い。
「うちの“万能回復水”を貶めたとか。謝罪と賠償を」
私は壁の記録板を指す。
「ここに全部。あなたの“水”が胃石を増やす根拠も。計測値が必要なら、明日、サンプルを持って来て。弱酸で反応させる」
「難しい話をして煙に巻くつもりか」
「煙は香として有用。巻きません」
男は歯ぎしりをし、板を見上げる。数字は彼の味方をしない。
「……訴えるからな」
「訴状の形式も壁に貼る? 透明にしよう」
男は逃げるように帰っていった。外で待っていた村人たちが、静かに拍手する。
「いい音だね」とカイ。
「拍手は心拍の群れ。群れの健康は、薬師の栄養」
◆
夕方、乾燥庫の屋根を直していると、鋭い匂いが鼻を刺した。
油。
木材の隙間に、ついさっき染み込ませたような生臭い油の匂い。乾燥庫は、薬房の心臓だ。ここが燃えれば、供給網は一瞬で止まる。
私は指先で染みをたどり、手の甲で風を読む。風下、溝の端、火種に最適な溜まり。
――誰かが、燃やす気だ。
私は静かに桶を二つ並べ、片方に砂、片方に水を満たした。
「カイ」
「いる」
「夜、見張り。交代で」
「うむ。こういう仕事は得意だ」
カイは笑わないけれど、声の温度が少し上がる。
「ミーナ」
「いる」
「記録。乾燥庫の周りに油の匂い。時刻。風向き。書ける?」
「書ける。匂い、覚えた」
ミーナは真剣に鼻をひくつかせ、板に文字を刻む。数字と匂いの記録。――これが“証拠”という薬だ。
夜は長い。風の針が衣を刺す。私は鍋で香を温め、恐れを薄める煙を薄く流す。
月が雲をかじったころ、乾燥庫の影がゆらりと動いた。
私はカイの腕をつつく。
影は猫ではない。匂いは猫より重い。大人の男一人。手に火打ち石。
「火は、薬にもなる」私は囁く。「でも今夜は、毒」
男が火花を落とす寸前、カイが飛びかかる。
鈍い音。男の肩が土を叩き、口から息が漏れる。
「何のつもり?」
「わ、私は……」
男の手は油臭い。袖口に商会の小さな刺繍。
私は男の手首に自分の指を当て、拍を数えた。速い。恐れ。
「“恐れを薄める香”を少し。落ち着いたら、話そう。あなたのためにも、商会のためにも、透明に」
男は頷いた。恐れは増える薬だから、まず減らす。減ったところに、話が入る。
◆
夜明け前、男は震える声で言った。
「命令されたんだ。“辺境の薬師”を燃やせって。王都が来る前に、記録を灰にしろって」
「命令は薬じゃない。飲みにくいものは吐き出していい」
私はミーナに目配せし、記録板の“夜の項”に線を引いた。
〈乾燥庫への放火未遂。犯人:商会手先。理由:記録破壊。対応:未遂で防止。〉
ミーナは小さく、誇らしげに石を一つ、板の棚に載せた。
「これも、“効いた”の印」
「そう。透明はよく効く」
朝、私は男に言った。
「帰って、上司に伝えて。薬房の記録は、灰にしても残る。人の拍に書いたから。……それと、王都の検分隊に言って。私は逃げない。歓迎する。壁を磨いて、数字を増やして待つ」
男はうなだれて帰っていった。
カイが肩を回す。
「よく動いた。腹が減った」
「じゃあ、朝の粥。今日は生姜を増やす。恐れは冷えるから」
「なるほど。恐れも量で性格が変わる」
「うん。増やすと毒。減らすと道が見える」
鍋が軽く鳴った。いい音。嘘のない音。
私は空を見上げる。星は薄く、朝は濃い。
――処方箋の余白がまた一枚、埋まった。
本日の処方メモ(3行)
・“透明”は万能薬ではないが、嘘にはよく効く。副作用は手間。
・供給網=畑→乾燥→粉砕→調合→封蝋→記録。心臓は乾燥庫。
・恐れは冷やす。生姜と拍で温めると、話が入る。