第1話 処方箋には“ざまぁ”を一滴だけ
追放判決の紙は、やけに上質だった。
厚く、乾いて、涙でも滲まない。都合よくできた紙だ。
「伯爵令嬢リゼ・アルトリア。王都より無期限追放。理由――毒薬調合の嫌疑、並びに王族侮辱」
読み上げた役人の喉はからからで、私が差し出した水を警戒して飲まない。毒にも薬にもならない女、としか呼べない想像力に、少しだけ同情した。毒は量で薬になり、薬も量で毒になる。人間の悪意だって同じだ。
馬車に乗せられる直前、元婚約者のセルジュが囁く。
「忠告だ、リゼ。辺境で薬は売れない。お前に残るのは干した草だけだ」
「なら安心ね。干草は、焦った馬を落ち着かせるから」
私は笑い、王都を後にした。
◆
灰針峡谷は、地図だと細い切り傷みたいな形をしている。
風は針のように細く強く、井戸の水は石をかじったみたいに硬い。借りられたのは穴だらけの廃屋。屋根に穴、壁に穴、床に穴。けれど穴は呼吸口だ。余計な熱や匂いを吐き出してくれる。
私は一枚の古い処方箋を壁に貼る。王都の薬学院で最初に書いた、へたくそな処方箋。字は震え、配合は平凡。でも、これを越え続けるための“物差し”が欲しかった。
最初の患者は、若い母親に抱かれた赤子だった。
「熱が下がらなくて……」
私は脈を取り、瞼の裏を見て、井戸水の硬度を測る。石灰を沈め、粗布で濾し、灰針草の煎じ液をほんの一滴だけ足す。
「薬は?」と母親が聞く。
「これは薬じゃない。薬の土台」
土台が曲がれば、名薬も倒れる。赤子が眠り、母親は泣きそうに笑った。礼に置かれたのは硬貨一枚と磨かれた木匙一本。私は木匙を壁にかける。ここで働いた証拠が欲しかった。
その夜、風の音に紛れて荒い足音。
扉を開けると、背の高い傭兵が立っていた。
「搬送だ。落石で三名。……お前、薬師か」
「名乗るほどには」
外套の襟には古い血の匂い。けれど目はまっすぐだった。
「代金は?」
「効いたら、働いた分をください。効かなかったら、私の負け」
「命の現場で賭けるのか」
「効く処方は、利子をつけて戻るから」
私は封蝋瓶を十本、布袋に詰めた。“痛みをずらす”調合が二、止血が三、気付けが一、残りは“恐れを薄める香”。
「名前は?」と彼。
「リゼ。あなたは?」
「カイ。運ぶのは得意だ。……走れるか、薬師」
「走るのも、そこそこ」
◆
峡谷の夜は、星の処方箋がよく見える。
落石現場に着くと、石の間で若い鉱夫が呻いていた。太腿の外側、裂創。出血は速いが脈は保てる。私は止血と痛みの“ずらし”を同時に投与し、呼吸の拍を合わせる。
「見ろよ、あの青い瓶。王都の学院のやり口だ」
野次のような囁きが耳に刺さる。
私は平然とラベルを見せた。
「辺境式よ。王都式はもっと飾りが多いから」
嘘でも本当でもない。ここは王都じゃない。効くか、効かないかだ。
私は患者の指に自分の指を添えて、声を落とした。
「怖いのは、痛みじゃなくて想像。想像は増える。だから減らす薬を入れたわ。数を一緒に減らそう。十から逆に」
「じゅ、十……きゅう……」
脈が落ち着き、肩のこわばりがほどける。血の勢いが弱まり、私は縫合の準備をしながらカイに目配せした。
「次の患者は?」
「奥。脚じゃなく胸だ。……呼吸が浅い」
奥で倒れていたのは、顔色の悪い青年。胸郭の小さな変形、浅い呼吸、指先の冷え。
私は躊躇なく香の封を切り、微量だけ吸わせる。
「気道の痙攣。恐怖由来も混じってる。香りで拍を取り戻す」
「香りで?」とカイ。
「薬は飲むだけじゃない。吸う、触る、聞く、見る。人間全体に投与する」
青年の眼が焦点を結ぶ。私は合図するように指を一本立てた。
「おかえり。吸って、吐いて。吸って――吐いて。いい子」
処置が終わるころ、風が向きを変えた。峡谷の上から、複数の松明の光。
嫌な、王都式の光り方。
「……王都の巡検隊だ。誰が呼んだ?」とカイが歯噛みする。
松明の先頭が叫んだ。
「そこにいる薬師! お前は王都から追放処分を受けたリゼ・アルトリアだな!」
最初に届くのが罵声なのは、王都らしい。
「違うわ。ここにいるのは――辺境の薬師」
私はゆっくり立ち上がり、処方箋の束を掲げた。
「必要なものを、必要なだけ。王都の許可は不要。患者の許可は、もうもらった」
巡検隊の一人が鼻で笑う。
「追放令嬢の“薬”など、信用できるか」
「なら、飲んでみる?」
私は水のフラスコを差し出す。
「毒にも薬にもならない女の水よ。あなたの喉の乾きには、たぶん効く」
笑いが消える。巡検隊の視線が、水と私と患者の間で揺れた。
その時――峡谷の上で、岩が鳴った。
乾いた夜に、湿った音。崩れる前の、いやな音だ。
「伏せて!」
叫びながら私は香の小瓶を割り、青い煙を風上へ。恐れを薄める、臨時の結界。
頭上で岩が裂け、石の雨が夜を叩いた。
――星空に、処方箋の余白が一枚、増える音がした。
◆
崩落がおさまると、巡検隊も村人も誰も喋らなかった。
最初に立ったのは、カイだ。
「続きは明日でいいか、王都の人間。今は、こいつらの拍を守るのが先だ」
私は頷き、患者の額から土を払う。巡検隊の隊長が、わずかに顎を引いた。
「……処置の続行を許可する。責任は私が取る」
その“許可”は、ここではもう不要だったけれど。
私は処方箋に、一行だけ書き足す。
《副作用:腐敗した権力に効く可能性あり》
――追放令嬢の薬は、体に。処方は、世界に。
辺境の夜風が、瓶の口で小さく鳴った。
本日の処方メモ(3行)
・薬は「量」で性格が変わる。善も悪も同じ。
・“恐れ”は増える薬。だからまず減らす。呼吸は最強の解毒。
・水は最初の薬。土地の水に合わせて、人も処方する。