氷の騎士団長様がフォーチュンクッキーを食べたとき、精霊様は囁きました――『素敵な出会いに恵まれるかも』って、それ、もしかして私のことですか!?
:::[ あなたの作るものに、小さな奇跡が宿るかも。 ]:::
カラン、と澄んだドアベルの音が、焼きたてのバターと砂糖の香りに溶けていく。
「いらっしゃいませ!」
オーブンから出したばかりの黄金色のクッキーを天板に並べていると、聞き慣れた声がカウンターの向こうから聞こえた。
「やあ、リリ。今日もいい匂いだね。入り組んだ裏路地だと言うのに、通りの角を曲がった瞬間から匂いを頼りに、迷わずここに辿り着けるよ」
その声に顔を上げると、私の口元も自然に綻んでしまう。そこに立っていたのは、氷虎騎士団の騎士、トトさんだった。
人好きのする笑みを浮かべ、カウンターの定位置にひらりと腰を下ろす。艶のある黒髪と、銀縁の眼鏡の奥で楽しそうに細められた紫色の瞳。
彼のように高位の精霊様に愛されたであろう騎士様が、王都の裏路地にあるこんな小さなお店に毎日通ってくれるなんて。開店当初は夢にも思わなかったな。
「トトさん、こんにちは。今日は自信作があるんです。新作の『木苺のムース』、召し上がってみませんか?」
「お、いいね! リリの自信作なら、食べないわけにはいかないな。ぜひ貰おうかな」
私の店、『パティスリー・リリ』。
前世である日本の記憶を持つ私が、この世界で生を受けて十六年、ずっと夢見てきた自分だけのお城だ。
商家を営む両親から支度金を借り、この小さな店を開いてから早三ヶ月。
兄や姉が十人もいる大家族の末っ子でのんびり育った私にとって、毎日が目まぐるしくも充実した、輝くような日々だった。
ガラスの器に、淡いピンク色のムースをそっと盛り付ける。その上にミントの葉をちょこんと乗せると、完璧だ。
「はい、お待たせしました」
「わあ、綺麗だ……。食べるのがもったいないくらいだね」
目を輝かせたトトさんは、スプーンで一口、ゆっくりと味わうようにムースを口に運んだ。そして、紫色の瞳をきゅっと細める。
「……うん、美味しい! リリの作るお菓子は本当に最高だ。甘いだけじゃなくて、この木苺のきゅんとする酸っぱさが、たまらないね」
「ふふ、よかった。お口に合ったみたいで」
彼の「美味しい」の一言が、私の胸に温かい光を灯す。
この世界は、剣と魔法、そして"精霊様"によって成り立っている。
人々は生まれたとき、精霊様から一つだけ"加護"を授かり、その力と共に生きていく。
水の精霊様の加護を持つ人は水を自在に操り、風の精霊様の加護を持つ人は空を翔ける。
より強力で、高位の精霊様の加護を持つ者ほど社会的に尊ばれ、人々の上に立つ。
そして――、何の加護も持たずに生まれてくる者もいる。
そんな者は、精霊様に見放された忌むべき存在として、社会から酷い迫害を受ける。
私には、精霊様の加護がない。
六歳になったとき、深刻な表情で両親から説明された。
てっきり、私は自分が転生者だから、精霊様の加護がないのだと思ったが、そうではないらしい。
生まれてすぐ、末の娘には加護がないことを知り、両親は周囲にその事実を隠して、大切に育ててくれた。
優しい兄や姉たちも、必死でその事実を隠し、私を守り、育ててくれた。
だから、私はこうして平穏に暮らしていられる。
この世界では、人は精霊から授かる加護の力で奇跡のような魔法を使う。火を熾し、水を操り、枯れた花さえ咲かせてみせる。
魔法が使えない私にとって、この手で粉と卵と砂糖を混ぜ合わせ、宝石みたいなスイーツに生まれ変わらせる“お菓子作り”がすべて。
これだけが、加護のない私がこの世界で胸を張れる、たった一つの誇り。
「それにしても、リリは本当に働き者だね。こんなに美味しいお菓子を毎日一人で……尊敬するよ」
「好きでやってることですから。それに、トトさんみたいに『美味しい』って言ってくれる人がいるから、頑張れるんです」
素直な気持ちが、つい口からこぼれた。
トトさんは少しだけ驚いたように目を丸くして、それからふわりと、悪戯っぽく微笑む。
「そっか。……じゃあ、俺は世界で一番リリのお菓子を食べる男、ってことでいいかな?」
「ふふ、大歓迎です。未来の世界一さん?」
軽口を叩き合って笑う。トトさんと話していると、自分が"加護なし"だってこと、一瞬忘れられるから不思議だ。
「そうだ、リリ。いつもの、お願いできる?」
「はい、もちろんです。"フォーチュンクッキー"ですね」
カウンターの下から柳のバスケットを取り出す。
これが、私の店の看板商品。私の自慢の一品だ。
「どれにしようかな……よし、これだ」
トトさんが一つ、クッキーを手に取り、口にくわえ、ぱきん、と小気味良い音を立ててクッキーが二つに割れる。
その瞬間、彼の耳元でだけ、私にしか作れない小さな奇跡が囁く。
『探し求めた人に会えるかも』
それは、加護のない私のクッキーが起こす、ささやかな奇跡。食べた人にだけ、ほんの少し幸せな未来を告げる精霊様の声が届くのだ。
といっても、どれも大それたものじゃない。
『今日は赤いものを持ってるといいことがあるかも』とか『なくし物が見つかるよ』とか。
本当に些細で、ささやかな、おみくじみたいな一言。しかも、ハズレ無し。少しだけ幸せになれるような、良いことばかり。
ただし、精霊の声が聞こえるのは一日一回だけ。あとはいくつ食べても声はもう聞こえない。
「へぇ、探し求めた人か。誰だろうな」
トトさんがそう呟きながら、残り半分のクッキーを口に運んだが、逆光の影になり、彼の笑みが、一瞬だけ消えたように見えた。
楽しげだったはずの紫色の瞳の奥に、ぞっとするほど冷たい、血のような色が宿った気がした。まるで燃え盛る怒りのような何かが。
「……トトさん?」
「ん? ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事をしてた」
次の瞬間には、彼はもういつもの人当たりの良い笑顔に戻っていた。気のせい……?
気のせいだと思いたいのに、彼の瞳の奥に宿った暗い光が、私の心にちいさな棘みたいに引っかかっていた。
「ありがとう、リリ。今日も一日、頑張れそうだ」
「は、はい。トトさんも、お仕事頑張ってください」
会計を済ませた彼がひらりと手を振って出ていくと、カラン、と寂しげな音がして、店内にはまた静寂が戻る。
一人になると、さっきの冷たい瞳が思い出されて、胸がざわつく。
そして、もう一つの不安が頭をもたげる。
このフォーチュンクッキーの奇跡は、いつまで続くんだろう。
もしこの力がなくなって、私がただの"加護なし"だと知られたら……トトさんみたいなすごい人が、もう来てくれるはずない。
「ううん、ダメダメ!」
ぶんぶんと頭を振って、嫌な考えを追い出す。今、私にできるのは、美味しいお菓子を作ることだけ。
トトさんが「美味しい」って、また笑顔になってくれるように。一つ一つ、心を込めて。
強く、そう心に誓って、私は新しい生地をこねるために、小麦粉の袋を抱えた。
窓から差し込む午後の陽光が、舞い上がった白い粉をキラキラと照らしている。
それはまるで精霊の祝福のようで、泣きたいほど、綺麗だった。
:::[ 甘い香りが、素敵な縁を運んでくるかも。 ]:::
穏やかな午後の厨房は、私のお気に入りの城だ。
生地を捏ねるリズミカルな音、クリームを泡立てる甘い香り、窓から差し込む陽光に照らされて舞う小麦粉の粒子。
この静かな時間こそが、私の幸せのすべてだった。
カラン、と澄んだドアベルの音が、その聖域を破った。
「いらっしゃいませ!」
厨房から顔を覗かせると、そこに立っていたのは笑顔のトトさん。でも、彼は一人じゃなかった。
彼の後ろからすっと現れた長身の男性に、私は思わず息を呑む。
その瞬間、店の温かいバターと砂糖の香りが、まるで真冬の空気に塗り替えられたかのように、ぴり、と肌を刺すような緊張が走った。
純白の騎士服は、寸分の隙もなく磨き上げられている。
陽光を弾く白銀の髪は、まるで月の光を紡いで作られたかのよう。
そして、彫刻家が精魂込めて作り上げたような完璧な顔立ち。
特に、私に向けられた冷たい青い瞳は、凍てついた湖面のようで、人間味を感じさせなかった。
「やあ、リリ。今日はちょっと、お客さんを連れてきたんだ」
私の緊張を察したのか、トトさんがいつもより明るい声で言う。
「こちらは、氷虎騎士団の騎士団長、アルビリアス・フォン・シルノート様だ。……俺はアルって呼んでるけど」
氷虎騎士団の、騎士団長……。
おとぎ話の登場人物が目の前に現れたような衝撃に、私は慌ててカウンターを回り込んで出て、スカートの裾をつまみ、ぎこちなくお辞儀をした。
「よ、ようこそお越しくださいました! 店主のリリと申します!」
絞り出した声は情けないほど上ずっていたけれど、アルビリアス様は私を一瞥したきり、値踏みするように店の隅々を見回している。
居心地の悪さに、背中にじっとりと汗が滲んだ。
「アル、ここが俺の言ってた店だよ。リリの作るフォーチュンクッキーは絶品なんだ。試してみてほしいな」
トトさんに促され、アルビリアス様は音もなくカウンターの椅子に腰掛ける。その優雅な所作だけで、ただの木の椅子が玉座に見えた。
「フォーチュンクッキー、だと?」
初めて発せられた彼の声は、見た目と同じように、低く、温度のない響きだった。
「ああ! 食べると精霊様がちょっとした幸運を囁いてくれるんだ。リリ、彼のために、出してあげてくれないか?」
私は頷きながら、いつものようにカウンターの下から柳のバスケットを取り出す。
「くだらん」
吐き捨てるような一言に、思わず差し出そうとしたバスケットを持つ手が止まる。
私の心臓がどきりと痛む。
トトさんが「まあまあ」と腕を伸ばして、バスケットからクッキーを一つ取り、彼に差し出す。
アルビリアス様はしばらく無言でそれを見つめ、やがて白く長い指でつまみ上げた。
ぱきん、と乾いた音が店内に響く。
『素敵な出会いに恵まれるかも』
その瞬間だった。氷の彫像のようだった彼の青い瞳が、信じられないものを見たかのように、わずかに見開かれた。
彼の周りの空気が、びりりと震えるのが肌でわかる。
「……なんだ、これは」
絞り出すような呟き。その視線は、割れたクッキーのかけらに釘付けだ。
「菓子ごときに、精霊様が宿るなどあり得ない。……何かのまやかしか?」
――菓子、ごとき?
その一言が、私の胸に鋭い棘のように突き刺さる。
「まやかしなんかじゃありません。私の自慢のクッキーです」
思わず、声が出ていた。自分でも驚くほど、はっきりとした声が。
アルビリアス様の冷たい視線が、初めて真っ直ぐに私を射抜く。
「聖なる精霊様の御業を、菓子などという下賤な娯楽に堕とすとは。平民の浅ましさの象徴だな」
――下賤な、娯楽?
カッと頭に血がのぼるのがわかった。
「下賤ではありません! 私のお菓子を食べた方は、みんな笑顔になってくださいます。人の心を少しでも温かくするのが、どうして浅ましいことなんです!?」
カウンターの下で握りしめた拳が、悔しさと怒りで震える。私の夢。私の誇り。それを、出会って数分のこの男は、土足で踏みにじろうとしている。
「アル、お前、言いすぎだ! リリに謝れ!」
トトさんの叫びも、もう耳に入らない。
アルビリアス様は私の言葉に眉一つ動かさず、ただ射抜くような視線で私を見下ろした。
「君は、自分が何を作っているのか理解しているのか? これは秩序を乱す、許されないものだ」
「許されないって、どうして……!」
私の問いを遮るように、彼は絶対的な命令を口にした。
「この菓子を作るのは、今すぐやめろ」
「え……?」
「君が作っているのは、精霊様を貶める悪戯だ。なまじ本当に声が聞こえるだけに、質が悪い。よって、氷虎騎士団の名において、このクッキーの製造を禁じる」
その瞬間、頭の中で何かがぷつりと切れる音がした。
怒りを通り越して、目の前が真っ白になる。
「……お断り、します」
「何?」
「ここは、私のお店です。私の誇りです。……あなたに、私の作るお菓子をやめさせる権利なんて、ありません!」
アルビリアス様は、初めて心底意外だというように、少しだけ目を見開いた。
けれど、それも一瞬。すぐに興味を失ったようにふいと立ち上がると、無感情な瞳で私を一瞥した。
「そうか。しかるべき処置を検討する。行くぞ、トト。話は済んだ」
「済んでない! おい、待てよアル!」
トトさんの制止も聞かず、彼は背を向けて店を出ていく。
カラン、と無情な音がして嵐が去った後には、気まずそうな顔のトトさんと、私だけが取り残された。
「リリ、本当にごめん! あいつ、ああいう奴なんだ。悪気は……いや、あるな、今の。とにかく、俺からもう一回言っておくから!」
トトさんの言葉も、今の私には届かない。
テーブルの上に残された、アルビリアス様が割ったフォーチュンクッキーのかけらが、ひどく惨めに見えた。
これが、氷の騎士団長、アルビリアス・フォン・シルノート様との出会い。
私の大切なものを、いとも容易く否定した人。
最悪で、最低の、出会いだった。
:::[ その最悪の出会いが、二人の運命の扉を開くかも。 ]:::
あれから数日、私の中では小さな嵐が続いていた。
氷の騎士団長、アルビリアス様。あの氷の瞳と非情な命令が、何度も頭の中で繰り返される。
悔しくて、腹が立って、私は意地になってフォーチュンクッキーを焼き続けた。
「あの傲慢な騎士様に言われたからって、やめるもんですか!」
厨房で一人、小麦粉を叩きつけるように捏ねながら毒づく。私のお菓子は人を笑顔にする、優しい奇跡のはずだ。常連さんたちの「クッキーのおかげで良いことがあったよ」という報告だけが、私の支えだった。
その日も最後のお客さんを見送り、店の看板を『CLOSE』に裏返した頃には、外はすっかり夜の闇に包まれていた。片付けをしていた、その時。
カラン、と乾いた音を立てて、閉めたはずのドアが開いた。
「すみません、もう閉店で……」
言いかけて、言葉を失う。
そこに立っていたのは、濃紺のドレスを纏った、妖艶な笑みを浮かべる美しい女性だった。
こんな裏路地の店にはあまりに不釣り合いなその人は、蜜のように甘い声で言った。
「あなたが、このお店の? リリ、というのね」
蜜のように甘く、それでいて脳に直接響くような声だった。
「……何か、御用でしょうか」
恐怖とは違う、もっと本能的な警戒心が、私の声を震わせた。カウンターの縁を強く握りしめる。
「ええ、あなたに会いに来たの。私はメリル。あやしい者じゃないわ。あなたの作る"クッキー"に興味があってね」
「……」
女性――メリルと名乗った彼女は微笑む。
「噂は聞いているわ。食べた者に精霊が囁くのでしょう? 加護をもたないあなたに与えられた、特別なチカラ、ね」
「!」
私が加護を持たないことは周囲には隠している。
そして、特別な加護を授かったものにしか、見ただけでは加護を持つかどうかなどわからない、と両親から聞いている。
だから、バレたことは無い。なのに、どうしてこの女性は――。まさか特別な加護を?
「安心して。私もそうだから、なんとなくわかるのよ」
「……え?」
「私も、加護をもたない。あなたや私だけじゃないわ。世間で知られている以上に、加護を授からない人たちは、たくさんいるのよ」
「あなたも……?」
「ええ。だから、私はね、精霊からも世間からも見捨てられた人たちを集めて、小さな村を作ったの。みんなで力を合わせて、身を寄せ合って暮らしている」
「加護を授からなかった人たちの村……」
「そんな私たちにとって、あなたの力は希望そのものなのよ」
「希望?ごめんなさい、何を言ってるのかわからなくて……」
「だってね、私たちは精霊に見捨てられた存在だって迫害されてる。けれど、あなたのクッキーを食べれば、私たちにも、精霊の声を聞かせてくれるのよ。それは、私たちは決して精霊に見捨てられたわけじゃないと、思わせてくれたの」
加護を持たないものは精霊様から見捨てられた、と言われている。
私は、両親や兄や姉たちが守ってくれてたから、そういう風に考えたことは無かった。
けど、迫害を受けた人たちにとっては、精霊様から見捨てられたからこんな辛い目に遭っている、そう思わずにはいられないだろう。
私のクッキーを食べたことで、私と同じく加護をもたない不安を抱えてる人たちの救いになってるとしたら、ちょっと嬉しい。
「どうか、私たちの里に来て、その力を貸してはくれないかしら? あなたなら、私たちを救ってくれる。そう、伝説にある”聖女”の再来なんじゃないかって思ってるの」
彼女の言葉は、不思議な説得力を持っていた。
私の心の最も柔らかな部分、加護がないことへの孤独感や疎外感を的確に撫で、理解者であると錯覚させる。
普通なら、警戒心よりも先に、同情と共感が湧き上がっただろう。
だが、なぜだろう。彼女の甘い言葉は、私の心の表面を滑っていくだけで、少しも響かなかった。
「お断りします。クッキーがご入り用でしたら、他のお客様と同じように、お店に買いに来てください」
私の毅然とした拒絶に、メリルは心底つまらなそうに肩をすくめた。
「……驚いた。私の力が、あなたには効かないのね。いいわ、やり方を変えるまでよ」
表情を消した彼女が合図すると、息を潜めていた大柄な男二人が店に踏み込んできた。その瞳は虚ろで、まるで人形のようだ。
「この子を連れていくわ」
「や、やめて……!」
逃げ場のない店内で、私は壁際に追い詰められる。汚い手が伸び、私の腕を乱暴に掴んだ。
もがいた拍子に棚に肩をぶつけ、陶器の小物入れがガチャン!とけたたましい音を立てて砕け散る。腕に、じくりと熱い痛みが走った。
そのまま、二人の男に引きずられるようにして、店から出る。
ここは裏路地だ。どれほど叫ぼうと、助けに来てくれる人なんていない。そんなことは私が良く知ってる。
このまま、いったいどこに連れていかれるというのか。
誰か、助けて――!
心で叫んだ、その瞬間だった。
「――リリから、手を離せ」
声がした方を一斉に見る。
そこに立っていたのは、いつもの笑顔を完全に消し去った、昏いの表情のトトさんだった。眼鏡の奥の紫色の瞳が、殺意に近い光で男たちを射抜いている。
「な、なんだてめぇは……!」
トトさんは男たちの恫喝など意にも介さず、風のように素早く踏み込んだ。
その勢いのままメリルと名乗った女性の横をすり抜け、男へと迫る。男がトトさんを迎え討とうと構えた。
しかし、次の瞬間にはもう、男の一人が、くの字に折れ曲がって地面に顔から叩きつけられた。
え? いま、いったい何がおこったの?
もう一人も、何が起きたか理解する前に、脚から力が抜けて地面に崩れ落ちる。
かろうじて、トトさんの手刀をゆっくり下ろすのを見て、その手刀が的確に男の意識を奪ったのかもしれないと思った。
私の目にはトトさんが何をしたのか、わからない。
剣を抜くどころか、構えさえ見せなかった。あまりにも、あっけない幕切れだった。
男たちを一瞬で無力化したトトさんの視線は、しかし、ただ一点、メリルだけに注がれていた。
私を背に庇いながら、その瞳に宿るのは、深く、冷たい憎悪の色。
「お前には聞きたいことがあるが、それ以上に……」
彼の纏う空気が、尋常ではないほどに冷え込んでいく。
普段の彼からは想像もつかない、殺気と呼ぶべきものが、裏路地を吹き抜けていく。
「まずは殺す。殺して死ななければ、聞こう」
「あら、怖い。私はただ、この子を私たちの里に招待しようとしただけなのに」
だがメリルは怯むことなく、妖艶に微笑む。その態度がさらにトトさんを刺激し、その手が、ゆっくりと剣の柄にかかる。
「トトさん、やめて!」
「そこまでだ、トト!」
私が叫ぶのと、もう一つの声が裏路地に響いたのは、ほぼ同時だった。
息を切らしたアルビリアス様が、険しい表情で走ってくる。
彼は惨状――怯える私、倒れる男たち、そして首謀者であるメリ、その先で剣の柄に手を乗せ、今にも抜きそうなトトさんーーを一瞬で視界に捉える。
アルビリアス様が手をかざすと、メリルは咄嗟に身構えるが、その警戒に反して、トトさんの前に突然に氷の壁が迫り上がって来た。
てっきり、アルビリアス様はメリルを氷魔法で攻撃するのかと思ったが、トトさんを止める事を優先したらしい。
「邪魔をするな、アル! そいつは……!」
「落ち着け!」
アル様の厳しい声に、トトさんは苦々しく顔を歪め、柄から手を離す。
その隙にメリルは「また来るわ、リリ」と囁きを残し、陽炎のように姿を消した。
アルビリアス様の関心は、逃げたメリルにはないようだった。まっすぐに、私だけを見つめて、近づいてくる。
私は思わず身を固くした。また、怒られる。そう思った。
「――大丈夫か?」
頭上から降ってきたのは、予想していた厳しい叱責ではなく、私の身を案じる、不器用で、けれど優しい声だった。
「腕に怪我をしている。これで押さえておけ。すぐに治癒師が来る」
白く輝くような布を腕の傷にあてられ、そっと私の手を取り、布の上から押えるように指示する。
「すまない。君に危険が及ぶと判断し、トトに魔法で見守るように命じていたのだが……。間に合って、本当によかった」
とくん。
私の心臓が、大きく音を立てた。
見守る? あの日、私のお菓子を否定してたのに……。もう作るなと命じていたのに?
どうして、私なんかを守ろうと……。
もしかして、この人……。 心配、してくれてたの……?
怒りでも、反発でもない。今まで感じたことのない温かい感情が、胸の奥で静かに産声を上げる。
私が呆然と彼を見つめていると、アルビリアス様は私の視線に気づき、はっとしたように表情を硬くした。そして、気まずそうに顔をそむける。
何も言わずに自分の上着を脱いで、震える私の肩に、そっと掛けてくれた。
ふわり、と身体を包んだ上質な布地から、彼のものだろう、冬の夜のような澄んだ冷たい香りがした。
「トト、すぐに治癒師を。それと、王宮に報告を」
「了解」
背後で、トトさんが短く答える。その表情には先ほどまでの恐ろしい怒りは感じなかった。
私は、肩にかかった上着の温かさと、彼の予期せぬ行動に完全に思考を奪われて、ただ立ち尽くす。
最悪で、大嫌いな人だと、そう思っていたはずなのに。
私の心に生まれたこの小さな波紋は、一体、何なのだろう。
答えは、まだ見つかりそうになかった。
:::[ いまは見つからない気持ちも、いつか芽吹くときは来るかも。 ]:::
あの日から、私の温かい店には、氷の彫像が一体増えることになった。
「本日も、護衛任務を遂行する」
低い声でそれだけ告げると、アルビリアス様--アル様はカウンターの端に腰を下ろし、分厚い書類に視線を落とす。
そして、持ち込んだ分厚い書類を開き、まるでそこにいることを忘れてしまったかのように、静かな時間を過ごし始める。
ときおり、騎士団の若い騎士らしき人がやってきては書類を受け取り、代わりの書類を置いていく。
先日のこともあり、護衛が必要だと言われれば、私は断るわけにもいかない。
けれど、この国の英雄とも呼ばれる騎士団長様が、こんな小さな菓子店の店番のようなことをしている光景は、どう考えても異様だった。
最初は、息が詰まりそうだった。
私がカウンターの向こうで生地をこねる音も、お客さんと交わす楽しげな会話も、彼の周りだけにある見えない壁に吸い込まれて消えてしまうような気がした。
常連さんたちも、威圧感さえ漂わせるアル様の存在にどこか緊張していて、店の中には常に気まずい空気が流れていた。
その空気を破壊したのは、やはりというべきか、トトさんだった。
カランコロン、と軽やかな音を立てて店のドアが開き、ひょっこりと顔を覗かせたのはトトさん。店の中の重い空気をものともせず、やれやれと肩をすくめてみせる。
「やあ、リリ。やっぱりこうなってるか。俺が護衛につくって言ったんだが、アルが自分がやると言って聞かなくてな。どうだ、営業妨害になってるだろ?」
アル様にわざと聞こえるような声で、彼は悪戯っぽく笑った。書類から視線を上げていなかったアル様が、ぴくりと眉を動かす。
トトさんが何気なく言った一言に私の胸が高鳴る。アル様が自ら率先して私の護衛に……?
「トト、私は静かに見守っているだけだ。邪魔には――」
「ええ、すこし」
アル様の言葉を遮って、私がくすりと笑いながらそう言うと、彼の表情がほんの少しだけ、気まずそうに揺らいだ。
その変化がなんだかおかしくて、私の心も少しだけ軽くなる。
「だろ? でも、安心してくれ。鉄壁に見えるあいつにも弱点がある。こっそり教えてやるよ」
トトさんが私に顔を寄せ、声を潜めて囁く。その時だった。
「トト、任務に戻れ」
地を這うような、低く、有無を言わせぬ声が響いた。騎士団長としての、紛れもない命令。
トトさんは大げさに手を上げ、厳かに言った。
「団長様のご命令とあっては、やむを得ない。任務に戻ります」
しかしそう言った後に。
「じゃあな、リリ。弱点の話はまた今度!」
私にだけ聞こえるように言い残し、嵐のように去っていった。
トトさんのおかげで、少しお店の中の雰囲気が柔らかくなった気がした。
気になってた事がある。
自分の事は捨て置け、と言われてたので、何も出せずにいたが、アル様のために、お茶を出したいとずっと思ってたのだ。
一日中、水の一滴も口にせず書類を見つめているアル様の姿に、私は申し訳ない気持ちになっていた。
トトさんのおかげで、話すきっかけもある。
意を決して、ことりと音を立てないように、湯気の立つ紅茶を彼の前に置く。
「……あの、護衛も大変でしょうから。よろしければ、どうぞ」
アル様は顔を上げ、驚いたように私を見た。その青い瞳が、何を考えているのか読めなくて、私は慌てて視線を逸らす。
断られたらどうしよう。また、「くだらん」と一蹴されたら……。
けれど、彼は何も言わなかった。ただ、無言でカップに手を伸ばし、一口、紅茶を口に含んだ。
今だ!と思った私はこれまでの鬱憤を晴らすように、思い切って言ってみた。
「弱点ってなんですか?」
「ブッ!?」
前置きなく聞いてみたら、アル様は紅茶を少し吹き出した。
ジロリと私を睨んでから、懐から取り出した輝くような白さの布で口元を拭う。
「トトの言う事は真に受けるな。私に弱点など--」
「嫌いな食べ物はありますか?」
「……」
「あ、弱点とかじゃなくて、お茶請けのお菓子を用意したいんですけど」
「……ない」
「良かった。じゃ、チーズケーキにしますね。これ、自信作なんですよ。なかなか美味しいチーズに出会えなかった時、トトさんに紹介してもらったんです。農場の人から直にチーズを分けてもらって、ようやく満足な味に仕上がったんです。他にもトトさんは色んな人と--」
「トトは!」
アル様が、私のお喋りを遮るように強く声を出したのでびっくりした。
「――トトは、本当に不思議な男だ。気が付けば、トトは様々な人の懐に入っている」
「あー。わかります!このお店をオープンしたときに来てくださって。最初は騎士様だからドキドキしてましたけど、五分もしないうちに、なんだが長く通ってくれてる常連さんと話してるみたいになっていました」
「そして、私を何も恐れずに叱れる者など、他に居ない」
「え? トトさんに叱られるんですか?」
「ああ。……この間は、すまなかった」
突然、アル様が小さく頭を下げて謝罪するので、私はキョトンとしてしまった。
アル様が謝ったと言う驚愕よりも、なお、何に謝られているのか身に覚えがない困惑が勝った。
「あ、あの、なんのことだか……」
「君には君の、菓子職人としての矜持がある、そう、トトに諭された。それを踏み躙るような物言いをしたこと、騎士として恥じ入る。……すまない」
「あ……」
「あの菓子が持つ力は、私の理解を超えるものだった。精霊様の声を聞くなど、僥倖、あるいは奇跡……そして、脅威だ。それを前に、冷静さを欠いた。私の未熟さに他ならない」
「……」
「騎士が自らの剣を信じるように、君は君の菓子を信じている。その純粋な想いを、私は……。トトに言われた。信じるべきものを見誤る者に、騎士を名乗る資格はない。その通りだと思う」
「アル様……」
「故に、これは贖罪だ。この身に懸けて、キミとその菓子が悪しき者たちの手に渡ることは決してないと誓おう。だから、安心してほしい」
「……はい。謝罪は受け取ります。この国の英雄様に守っていただけるのなら、何にも勝る安心です」
「くれぐれも邪魔しないように、静かにしているから、気にせずに仕事をしてくれ」
そう言って、アル様は再び書類に視線を落とした。
(さっき少し邪魔って言ったのを気にされてるのね)
私はクスッと笑いそうになる。なんだか心なしか、アル様が怒られた子供が身体を縮ませてるみたいに見えた。
最初に感じていたような、息が詰まりそうな雰囲気は無く、温かく包まれているかのような、安心を感じていた。
それが、始まりだった。
次の日からは、私が紅茶を出すのが日課になった。
時々、試作して少しだけ形が崩れてしまったマドレーヌやフィナンシェを、「味見をお願いします」なんて言い訳をしながら一緒に出すこともあった。
アル様は相変わらず、感謝の言葉も、味の感想も口にしない。
けれど、私が出したものは、いつも静かに、最後まで綺麗に平らげてくれた。その事実が、私には何よりの答えのように思えた。
少しずつ、彼との間に会話が生まれるようになった。
きっかけは、いつも店に来てはアル様をからかっていくトトさんだったり、私が思い切って投げかけた、天気の話だったり。
「アル様は、どうしてそんなにいつも、難しい顔をされているんですか?」
ある雨の日、客足が途絶えた午後に、私はずっと気になっていたことを尋てみた。
アル様は私の唐突な質問に少し目を見開いた後、窓の外を流れる雨粒に視線を移した。
「……私の加護は、氷の精霊王様のものだ」
ぽつり、と彼が呟いた。それは、この国の誰もが知る事実。国王陛下に次ぐと言われるほど、強大で、稀有な加護。
「強すぎる力は、制御が難しい。常に意識を張り詰めていなければ、私の意思とは関係なく、周囲のものを凍らせてしまう」
その声は、淡々としていたけれど、どこか遠い目をしていて、まるで幼い子供が迷子になった時のような、途方もない寂しさを滲ませていた。
「子供の頃、感情が昂るたびに、部屋の窓も、庭の花も、すべて凍らせてしまった。誰もが私を恐れ、遠巻きにした。……触れることさえ、怖がられた」
アル様の言葉に、私は息を呑んだ。
強すぎる力。それは、人々から尊ばれる、栄光の証だと思っていた。
けれど、アル様にとっては、自分と世界を隔てる、冷たい氷の壁そのものだったのだ。
いつも眉間に寄せられた深い皺は、難しいことを考えているからじゃなかった。
それは、力を必死で抑え込もうとする、彼の長年の苦闘の痕だったのだ。
だから、彼の周りはいつも冬のように静かなんだ。
彼は、誰かを傷つけないように、自分自身を氷の鎧で固めて、たった一人で戦い続けてきたんだ。
その孤独は、私が抱える「加護がない」という孤独とは全く違う。
けれど、どうしようもなく一人ぼっちで、世界から切り離されているような感覚は、痛いほどわかる気がした。
胸が、きゅうっと締め付けられる。
この人の、力になりたい。
その時、私の心の中に芽生えたのは、憐れみや同情ではなかった。
もっと温かくて、もっと切実な、庇護欲にも似た感情。
この人の張り詰めた心を、ほんの少しでも、私が解きほぐしてあげられたなら。
その日から、私は厨房で試作を繰り返した。
新しいクッキー。彼のためだけの、特別なクッキー。
心を穏やかにし、安らぎを与えると言われるカモミール。
緊張を和らげるラベンダー。優しい香りのハーブを丁寧にすり潰し、たっぷりのバターを使った生地に練り込んでいく。
どうか、彼の心が少しでも休まりますように。
そんな、祈りにも似た願いを込めて、私はオーブンへ天板を滑り込ませた。
静かに書類を読んでいたアル様の前に、私はいつもの紅茶と、完成したばかりのハーブクッキーを置いた。
「あの……新作です。安眠効果のあるハーブを入れてみたので……少しでも、気持ちが休まれば、と」
言い訳がましく聞こえたかもしれない。けれど、私の精一杯の気持ちだった。
アル様は私の言葉に驚いたように顔を上げ、クッキーと私の顔を交互に見た。その青い瞳が、戸惑うように揺れている。
「……私のために、か?」
「お、お客様のためです! 新商品の!」
慌てて取り繕う私を見て、彼は何も言わずに、そっとクッキーを手に取った。ためらうように、ゆっくりと口元へ運ぶ。
サク、と軽い音がした。
その瞬間を、私はきっと一生忘れない。
一口、クッキーを咀嚼したアル様の表情から、すうっと険が消えていく。常に張り詰められていた緊張の糸が、ふ、と緩むのがわかった。
そして――ほんの一瞬だけ。
彼の口元に、穏やかで、安らいだような、柔らかな微笑みが浮かんだのだ。
それはすぐに消えてしまったけれど、私は確かに見た。彼を覆う分厚い氷の鎧に、ほんの小さなひびが入った瞬間を。
その事実が、たまらなく嬉しくて、愛おしくて、泣きそうになる。
「……温かい、味がする」
不意に彼が呟いた。
顔を上げたアル様は、いつもと同じ無表情のはずなのに、その青い瞳がほんの少しだけ、優しく潤んでいるように見えた。
私の心に舞い降りた温かな想いが、確かな形を持って、深く、深く根を下ろす。
それは、間違いなく、恋の種。
この、冷たくて、不器用で、誰よりも孤独な騎士様への、どうしようもないくらい温かい恋心の、始まりだった。
:::[ あなたの優しさが、誰かの特別な場所になるかも。 ]:::
アル様が、私の店を護衛するという、奇跡のような名目で訪れるようになってから、ただ過ぎていくだけだった灰色の私の毎日は、まるで魔法にかけられたようにきらきらと鮮やかに色づき始めた。
朝、まだ誰もいない静かな店内で、カウンターの隅にある彼の定位置を丁寧に磨く。その滑らかな木肌を、まるで聖なる祭壇に触れるかのようにそっと指でなぞりながら、今日のお茶は何にしようか、昨日試作したレモンピールのパウンドケーキを味見してもらおうかと考えるだけで、胸の奥にぽっと温かな光が灯る。この光は、私の一日を優しく照らしてくれる、誰にも内緒のとっておきのお守りだった。
やがて彼がやって来て、いつもの席に腰を下ろす。それだけで、ただのお菓子屋だったこの空間が、世界で一番特別な場所になるのだ。
私が心を込めて淹れた紅茶を飲む彼の喉が、小さくこくりと動く音。その微かな音を聞くたびに、私が淹れたものが彼の身体の一部になっていくような気がして、耳まで熱くなる。
分厚い公務の書類をめくる、白く美しい指先。その指が、国を守るための冷たい剣を握るのだと思うと、目の前にある穏やかな光景との差に眩暈がしそうになる。
ふと何かに思いを馳せるように、窓の外を見つめる、彫刻のように整った横顔。普段は『氷の騎士団長』として決して人に見せないであろう、その無防備な表情を独り占めできるこの役得は、きっと神様がくれたご褒美に違いない。
その一つ一つが、私の心を鷲掴みにして離さない。彼の呼吸に合わせて店の空気までもが優しく震えるようで、視界に映る彼のすべてが愛おしくて、甘く幸せなため息が知らずに漏れた。
どうしようもなく、抗いようもなく、私はこの国の英雄たる『氷の騎士団長』様に恋をしてしまったのだ。
その日も、午後の柔らかな陽光が店内に穏やかな縞模様を描く中で、私は焼き菓子を並べるふりをしながら、その実、全身の神経を彼に集中させていた。彼の姿を、その存在のすべてを、この目に、この胸に焼き付けたくて。
バターと砂糖の甘い香りに満ちた、優しくて、愛おしくて、夢のような時間。どうか、どうかこのまま時間が止まってしまえばいいのに。ゆっくりと傾いていく陽の光が、彼を連れ去ってしまう夕暮れ時を連れてくるのがもどかしくて、胸がきゅっと痛んだ。
誰かにお願いできるのなら、この幸せな一瞬をガラスの小瓶に閉じ込めて、永遠に眺めていられますように、と。そんな叶わぬ祈りを、私は心の中で何度も何度も繰り返していた。
カラン、カランッ!
そのささやかな平和を乱したのは、今まで聞いたこともないほどけたたましく、無遠慮なドアベルの音だった。
ばさりと音を立てそうなほど豪奢なシルクのドレスをまとった貴族令嬢たちが三人、バターの甘い香りを掻き消すほど強い香水の匂いを振りまきながら、私の小さな店にずかずかと踏み込んできた。
「まあ、アルビリアス様! このような庶民の店でお会いできるなんて奇遇ですわ!」
「ちょうどアルビリアス様が最近お好きだと噂のクッキーを、わたくしたちもいただきに参りましたのよ」
彼女たちは私のことなど、まるでそこに存在しない透明な壁か何かのように通り過ぎ、アル様の周りを甲高い声で取り囲んだ。アル様は心底迷惑そうに眉根を寄せ、書類から顔も上げずに冷たく言い放つ。
「……公務中だ。私語は慎んでもらいたい」
「まあ、つれないお方。……ねえ、そこのモノ」
急に話を振られ、びくりと心臓が跳ねて肩が震えた。「モノ」という、名前もない、意思もない記号のような呼ばれ方に、胸の奥がきりりと痛む。まるで冷たい針を突き立てられたかのようだった。
「その、アルビリアス様が召し上がっているお菓子、わたくしたちにもそこにありますもの、全部いただけますこと?」
侮蔑と好奇がないまぜになったような視線は、あくまでアル様に注がれたままで、私を見ようともしない。艶やかな絹のドレス、陽光を弾き返す高価な宝石、そして何より、生まれながらにして与えられた者の持つ、揺るぎない自信に満ちた笑顔――。
住む世界が、違いすぎる。
アル様の隣に並んで立つに相応しいのは、どう考えたって、こんな私なんかじゃなかった。
消えてなくなりたいほどの惨めさを必死に心の奥底へ押し殺し、私は練習してきた中で一番上手な笑顔を顔に貼り付けて、お菓子を豪奢な化粧箱へと詰めていく。
嵐のように彼女たちが去った後、店内には香水の残り香と、気まずい沈黙だけが重く落ちた。彼の顔が見られない。何か話さなければと思うのに、喉がからからに乾いて声が出なかった。
その息の詰まるような沈黙を破ったのは、ひょっこりと気の抜けるような軽やかさで顔を出したトトさんだった。
「やあ、二人とも。……って、なんだかすごい空気だねぇ」
彼は持ち前の鋭さで何かを察したように、わざと明るい声でアル様に告げる。
「アル、悪いが陛下がお呼びだ。緊急の用件らしい。護衛は俺が代わるから、すぐに向かってくれ」
「……分かった」
アル様は静かに立ち上がると、店を出る前に一度だけ、躊躇うように私のことを見た。
その蒼氷の瞳には、何か言いたげな、戸惑うような色が揺らめいていた気がした。私を、案じてくれているのだろうか。そんな淡い期待が胸をよぎる。けれど彼は結局、引き結んだ唇を開くことなく、静かに店を出ていった。
一人になったトトさんは、アル様が座っていた席に腰を下ろすと、心配そうに私の顔をじっと覗き込んできた。
「……ここに来るとき、さっきのきらびやかな令嬢たちとすれ違ったからね。リリがそんな顔をしてる理由は、だいたいわかるよ」
その優しい声が、逆に私の心の周りに築いていた壁を脆く崩していく。俯いたまま、どうしても顔を上げられない。
「アルはああ見えて人気者でね。若くして騎士団長を務める、稀代の英雄様さ。誰も寄せ付けない孤高の美しさが、お嬢様方にはたまらなく魅力的に映るらしい」
「……そう、ですね。皆様の、憧れの、お方ですから」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、情けなく震えていた。
その様子に、トトさんはいつもの飄々とした笑顔をすっと消し、真剣な眼差しでまっすぐに私の目を見つめた。
「あいつらが見てるのは『氷の騎士団長』っていう地位と、国を守る強大な加護だけさ。アルビリアスという一人の人間を見ている者はほとんどいない。――キミは、どっちだ?」
「わ、わたしは、もちろん、アル様ご自身を――!」
「だからアルも、ここに来るんだ」
トトさんは私の言葉を遮って、諭すように穏やかに続けた。
「あいつは強すぎる加護のせいで、ずっと心を閉ざしてきた。感情が昂ると、周りのものすべてを凍らせてしまうからね。……でも、キミといると不思議と加護が穏やかになって、気を抜いても大丈夫なんだ、そう言ってた。ここは、あいつが唯一、重い鎧を脱いで心の底から安らげる場所なんだよ」
それは、心から嬉しい言葉だった。あの人の、唯一の安らぎの場所になれている。その事実が、甘い蜜のように私の心を潤していく。
なのに――。
嬉しいはずなのに、先ほど見た光景がまぶたの裏に焼き付いて離れない。アル様の隣で微笑んでいた、美しい令嬢たちの姿が。住む世界の違う、輝かしい人々の姿が。その光景が、心の奥をギリギリと締め付ける。
「嬉しいのに、辛いのかい?」
優しい問いかけが、心の奥に必死で押し込めていたダムを、一気に決壊させた。
「……っ、う……ひっく……」
堰を切ったように、瞳から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出す。一度流れ出してしまえば、もう止められない。視界が滲んで、トトさんの心配そうな顔が歪んで見えた。
「だっ……て……! しかたない、じゃないですか……っ!」
しゃくりあげながら、私は心の内に溜め込んでいた黒い感情のすべてを吐き出していた。
「アル様は、私のお店に毎日来てくれるけど、それはただの護衛で……! あの人たちみたいに、綺麗でもないし、高貴な身分もない……私なんて、路地裏で暮らす、ただのお菓子屋の店主で……っ!」
――そして、何より。精霊の加護をもたない私は、決して、偉大な氷の精霊王の加護をもつアル様とは釣り合わない。
それは言葉にならない悲鳴。嗚咽と共に、私は初めて自分の醜い感情をはっきりと自覚した。
アル様が安らげる場所が、この店だけであってほしい。彼の隣に立つのが、あの令嬢たちではなく、自分であってほしい、と願ってしまう。
――ああ、そっか。私、嫉妬、してるんだ。
その恋がどれほど絶望的で、叶うはずのない無謀な願いなのかを悟り、私はカウンターに突っ伏して、子供のように声を上げて泣き崩れた。
トトさんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、困ったように自分の黒髪をがりがりと掻きながら、私の涙が枯れるまで、静かに、ずっとそばにいてくれた。
彼のそのどうしようもない優しさが、今は余計に、私の叶わぬ恋の苦しさを際立たせていることにも気づかないまま、私は泣き続けた。
:::[ その恋の喜びは、痛みを伴うものかも。 ]:::
トトさんの前で泣き崩れてから、私の心は鉛のように重かった。恋を自覚したいま、護衛として店にいる彼の存在は、嬉しいはずなのに胸を締め付ける。
そんなある日、アル様がいつもより早い時間に、一人で店を訪れた。
その表情は、今まで見たこともないほど硬く、冷たい。精巧な氷の人形のように、一切の感情を消し去っていた。
「王家より、君に通達がある」
抑揚のない声。彼は命令書を読み上げるかのように、続けて言った。
「君が作る『フォーチュンクッキー』は、これより王家の厳重な管理下に置く。これは王命だ。本日以降、当該菓子の製造を一切禁ずる」
現実感がなかった。血の気が引き、膝が震える。
「もし命令を破れば、店舗は営業停止。身柄は拘束され、最悪の場合、国家への反逆罪と見なされ処刑もありうる」
「な……なんで、ですか……? 私、何か悪いことを……」
「君の力が悪事に利用されようとしている。先日君を襲った者たちは、国家転覆を目論む危険な組織の一端だ。これ以上、君を危険に晒せない。……命令は以上だ」
彼はそう言って、話を打ち切ろうとする。あまりに他人行儀な態度に、私の心に火がついた。
「待ってください! アル様ご自身は、どう思っているんですか!? 私のお菓子が、本当に危険なだけのものだって、あなたもそう思っているんですか!」
任務じゃない、彼の言葉が聞きたかった。
けれど、彼は氷の瞳をわずかに伏せ、感情を殺した声で答えた。
「私の感情は、この任務に関係ない。個人の感傷は、任務の遂行を妨げるだけの不要なものだ」
ばっさり、と切り捨てられた。
ああ、そうか。この人にとって、私との時間はすべて“任務”で、私に見せる表情も、全部“不要なもの”だったんだ。
希望が、音を立てて崩れていく。
その私を完全に打ちのめすように、彼は追い打ちをかけた。
「……君のことは調査させてもらった。精霊の加護が、ないそうだな」
―――ああ。世界から、色が消えた。
ずっと隠してきた秘密。それを、こんなにもあっさりと、何の温度もない声で。
彼の言葉は、私を地の底へと突き落とす。
「加護を持たぬ者が、精霊様の力を菓子へ閉じ込めている。……他者からすれば、それはひどく歪で、異質だ。……忌避感を覚える者も、少なくないだろう」
その言葉の裏に『だが俺は違う』という声が続かなかったことが、何よりも雄弁な答えだった。
あなたが、私を、忌むべきものだと感じているんですね。
もう、何も言えなかった。アル様は「監視は別の者に任せる」と言い残し、私に冷たく背を向け、一度も振り返ることなく店を出ていった。
私は護衛される者から、監視すべき者になった。
一人残された店内で、私はその場にへたり込んだまま、声を殺して泣いた。拒絶された悲しみと、秘密を暴かれた絶望で、心がこなごなに砕け散っていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
カラン、と静かにドアが開き、血相を変えたトトさんが駆け込んできた。
彼は私の姿を見るなり、苦しげに顔を歪め、何も言わずに隣にしゃがみこんだ。
「……アルのやつ、本当にあのまま伝えやがったのか……! あのバカ……!」
優しい声に、堰を切ったように涙がまた溢れ出す。
「トトさん、実は私には精霊様の加護が--」
「リリ。俺は、君に精霊様の加護がないこと、最初から知ってたよ。だが誰にも伝えてない。もちろん国にも、そしてアルにさえも」
驚いて顔を上げる私に、トトさんは真剣な瞳で頷いた。
「俺はね、他人の加護がなんとなく分かっちまうんだ。でも、そんなこと全く関係なかった。俺は、お菓子を作っている時の、太陽みたいな笑顔の君に……リリ、君自身に惹かれたんだ」
彼の言葉が、凍てついた心に染み渡る。トトさんは私の手を取り、ぐっと力を込めた。
「ただの友達のつもりでそばにいたんじゃない。ずっと言えなかったけど……君がアルを見つめるたび、胸が張り裂けそうだった。あいつが君を傷つけるのを見るのは、もう我慢できない!」
その紫色の瞳には、いつもの軽やかさとは違う、真摯で、燃えるような熱が宿っていた。
「アルを見てる、君のその気持ちを、俺は知ってる。あいつが不器用なだけの、本当は優しい奴だってことも、俺が一番分かってる。でも、それでも言わせてくれ。あいつは君を幸せにできない! 自分の矜持のために、自らの心さえ凍らせる男だ!」
彼は私の涙を、熱の籠もった指先で乱暴に拭う。
「俺なら、君をそんな顔にさせない! 君の笑顔も、お菓子も、その震える心も、全部俺が抱きしめてやる! 俺はリリが好きなんだ!」
それは、あまりにも情熱的で、力強い告白だった。
アル様の氷の拒絶で砕け散った心に、トトさんの炎のような想いが流れ込んでくる。
(加護のない私を、ありのまま受け入れてくれるのは、トトさんなんじゃ……?)
アル様への断ち切れない想いと、目の前で差し伸べられた情熱的な手との間で、私の心は激しく引き裂かれる。
「……少し、考えさせて、ください」
今の私の、精一杯だった。
その答えに、トトさんは一瞬だけ悲しそうに瞳を伏せたが、すぐに力なく微笑むと、私の手を強く、強く握りしめてくれた。
:::[ 信じる心が、試される時が来るかも。 ]:::
アル様に拒絶され、トトさんに告白されたあの日から、私の心は嵐の中の小舟のように、どこにも行き先を見つけられずに激しく揺れ動いていた。
店を開ける気力も湧かず、かといって家にいても落ち着かない。意味もなく店に来ては、カウンターに突っ伏してただ呆然と過ごす日々。その心の隙を突かれたのは、今思えば必然だったのかもしれない。
その日も、夕暮れの鐘が物悲しく響く中、私は重い足取りで店のドアを開けた。ひんやりとした夜の空気が肌を撫でる。いつも通り人通りの様子もない裏路地に、すこし違和感を感じたけど、気のせいだと思い、鍵を閉めようと振り返った、その瞬間。
背後から音もなく伸びてきた大きな手に、硬い布ごとぐっと口を塞がれる。
「ん……むぐっ!」
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まった。
咄嗟に身をよじって抵抗するが、屈強な腕が体に回され、びくともしない。
誰、どうして、何が。
パニックに陥る頭の中で、嗅いだことのない甘い香りが鼻腔を突き抜けた。
それは花でも果物でもない、脳が痺れるような、抗いがたい香り。
急速に思考が混濁し、手足から力が抜けていく。
ああ、だめだ。意識が――。
ぐにゃりと視界が歪み、遠ざかっていく意識の片隅で、誰かに軽々と抱え上げられる感覚と、馬車の車輪が石畳を転がる硬い音を聞いた気がした。
◇ ◇ ◇
深い、深い眠りの底から引き上げられるように、私の意識はゆっくりと浮上した。
どれくらいの時間、そうしていたのだろう。
夢と現実の狭間で、私はずっと何かに揺られているような感覚の中にいた。
遠くで聞こえる誰かの話し声、馬のいななき、そして土の匂い。断片的な記憶が、霧の中の景色のように曖昧に浮かんでは消える。
最初に届いたのは、子供たちのはしゃぐ明るい声だった。ここは、どこだろう。私の店からは、こんな声は聞こえなかったはず。
次に、鼻腔をくすぐる素朴な生活の匂い。スープを煮込む匂い、干した洗濯物の匂い、そして微かな家畜の匂い。慣れ親しんだバターや砂糖の甘い香りとは全く違う、けれど不思議と不快ではないその匂いに、私は自分が全く知らない場所にいるのだと悟った。
重たい鉛を引き上げるようにして、ゆっくりとまぶたを開く。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の白い天井ではなく、古びた木の梁がむき出しになった、薄暗い天井だった。
がばりと半身を起こすと、そこは粗末だが清潔に整えられたベッドの上だった。身体に痛みや拘束された跡はない。窓の外からは、先ほどから聞こえていた子供たちの声が、よりはっきりと耳に届いた。
「目が覚めたようだな」
静かな声と共に、ぎぃ、と軋む音を立ててドアが開く。入ってきたのは、顔に大きな傷跡を持つ小柄な男だった。厳しい見た目に反して、その瞳には深い疲労と、何かを切に願うような真摯な色が浮かんでいた。
「ここは、加護なき者たちが身を寄せ合う隠れ里だ。メリル様から話は聞いている」
「……どうして、私を?」
かろうじて絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。
「君を傷つけたいわけではない。ただ、我々には君が……。希望が、必要なんだ」
男に導かれて外に出て、私は息を呑んだ。
集落は、深い谷の底に、まるで世界から隠れるようにして存在していた。
陽の光が届きにくいのか、全体的に薄暗く、湿った土の匂いが立ち込めている。家々は廃材や歪んだ木材を寄せ集めて作られており、どれも不揃いで今にも崩れそうだったが、そこには確かに人々の生活の営みが息づいていた。
痩せた土地を懸命に耕したのだろう、山の斜面には小さな段々畑が作られ、老婆が腰を曲げながら芋の蔓を直している。
家の軒先では、つぎはぎだらけの服を繕う母親のそばで、幼い子供が山羊の毛を櫛で梳かしていた。数羽の鶏が土をついばみ、薪を背負った少年たちが、私という見慣れぬ存在に気づいて、警戒するように足を止める。
ここにいる誰もが、大人も子供も、常に何かをしていた。
水汲み、畑仕事、家畜の世話。
その顔には長年の苦労が深く刻まれ、衣服は汚れ、痩せている人がほとんどだ。
けれど、その瞳の奥には、ただ虐げられてきた者の弱々しさだけではない、どんな状況でも生き抜こうとする強い光が宿っていた。
彼らは、私を値踏みするように、そして何かを恐れるように、遠巻きにじっと見つめている。
「加護のない我々は、日照りが続いても雨乞い一つできず、病にかかっても治癒魔法は使えない。ただ蔑まれ、石を投げつけられ、息を潜めるように生きてきた」
目の前の光景を見つめながら聞く男の声は、静かな怒りと深い哀しみに満ちていた。
「だが、仲間の一人が君の店のクッキーを食べた。そして、生まれて初めて……精霊様の存在を感じた、その声を聞いたと、泣きながら帰ってきたんだ」
その言葉に、息を呑む。
「君の菓子は、我々のような“見捨てられた者”が、再び世界と繋がる唯一の希望だ。どうか、我々の聖女になってほしい。君の力を、我々のために使ってくれ」
膝をつき、深く頭を下げる男。その姿に、私の心は激しく揺さぶられる。同じ痛みを抱える人々が、私の作るお菓子に救いを求めている。
けれど、私は気づいてしまった。
彼らが求めるのは、私の力を「彼らのためだけ」に使うこと。
それは、アル様が告げた「王家の管理下に置く」という言葉と、どこが違うというのだろう。
王家か、この集落か。場所が違うだけで、結局は私を籠の中の鳥にして、その力を独占しようとしている。
私の意志は、私の気持ちは、どこにあるの?
私は、静かに首を振った。
「……聖女には、なれません」
私の答えに、男が驚いて顔を上げる。
「私の力は、誰か一人のものでも、一つの組織のものでもありません。私が、私の意志で、届けたい人に届けるためのものです。あなた方の力になりたいとは思います。でも、それは誰かに強いられてやるものではないはずです」
同情は、確かにある。けれど、彼らの籠の鳥になることは、私自身が許さなかった。
◇ ◇ ◇
その頃、氷虎騎士団長執務室では、己の無力さに歯噛みしていた。
リリが誘拐された。監視につけた騎士同士の連絡不備により、交代がうまくいかず、その隙を突かれた形だ。
すぐにでもリリを助けるべく動きたかったが、陛下が待ったをかけた。
事は、リリだけの問題ではなく、国家転覆を計画する大きな組織の一端であることがわかっている。
メリルと名乗った女はその組織の幹部であり、今のところ唯一の組織に通じる細い糸のようなもの。
安易に引いて、切ってしまうようなことがあっては、再び組織を追い詰める手掛かりが無くなってしまう。
騎士団長の立場だけが、私の手足を縛り付けていた。
感情が、鎖につながれた猛獣のように、必死に引き千切ろうしている。
「アル。随分と悩んでるみたいじゃないか」
扉が開き、トトが軽薄な笑みを浮かべて入ってくる。いつもは親しみを感じるその態度も、今は腹立たしい。
闇属性の加護を授かったトトが、魔法によって、しっかり見守ってさえいれば、こんなことにはならなかったはずなのだ。
怒鳴りつけたい気持ちを、必死になって抑え込んだ。私にとっては、それほどトトという存在は大きかった。
「……」
「悪い知らせと、もっと悪い知らせがある。どっちから聞きたい?」
「……ふざけている場合か」
「じゃあ、もっと悪い方からだ。俺、リリに告白したんだ」
執務机の上にあるすべてを手で薙ぎ払った。ガシャン! と音を立て、インク瓶が床に落ちて砕けたようだが、気にもならない。
「……なにを言ってる? このような事態に、なにをふざけたことを――」
声が掠れる。トトは肩をすくめた。
「もちろん本気さ。お前にこっぴどく振られて傷ついてる女を慰めて丸め込むほど、簡単なことはないだろ? 最高のタイミングだったよ」
その言葉に、頭の中で何かが切れた。椅子を蹴り倒し、トトの胸ぐらを掴み上げる。
「ふざけるなと言ってる!リリを、攫われたのはお前が――」
「俺は、リリに好きだと告げた。彼女もまんざらでもないようだったな。つまり俺の女だ。だから俺はすぐにでも、助けに行くよ」
「彼女をそんな風に言うな! お前は、彼女をもてあそぶつもりか! そもそも、お前には愛した女が――」
「ああ。俺が愛するのはただ一人。他のすべての女は、花瓶に生けた花と同じくらいにしか思えない。だが、なんでそんなに怒るんだ? お前には関係ないはずだろ?」
トトの挑発的な瞳に、言葉を失う。そうだ、関係ない。自分が彼女を突き放したのだ。
(それなのに、この胸を焼くような痛みは、なんだというのだ……)
掴んでいた手を離すと、トトはふっと真剣な表情になった。
「なあ、アル。お前は知らないだろう? この国で加護を持たずに生きるっていうのが、どういうことか。いつ裏切られるか、いつ全てを奪われるか。そんな終わりのない恐怖の中、息を殺して生きるんだ。お前の非情な一言はな、彼女をその絶望の淵に、もう一度叩き落としたんだよ」
愕然とした。守ろうとして、誰よりも深く彼女を傷つけたのだと、今更ながらに思い知らされる。
「……私は……」
「お前のせいで、リリはもうこの国で菓子を焼くことはできない。お前が陛下に進言して、菓子を焼くことを禁じてしまった。お前は彼女を守ろうとしたんだろうが、真逆だよ。お前はリリから自由という羽を捥ぎ、加護を持たないという鎖につなぎ、国家の庇護と言う名の昏い檻に閉じ込めたのさ」
床に手をつき、激しく喘いだ。息ができない。
分厚い騎士の鎧の下の心臓を、罪悪感という名の氷の手に握り潰されているかのようだった。
守ろうとした?笑わせるな。私がしたことは、ただの自己満足であり、傲慢な支配欲の発露に過ぎなかった。
脳裏に焼き付いて離れないのは、リリの顔だった。
ハーブクッキーを差し出してくれた時の、はにかむような笑顔。私の孤独を溶かしてくれた、あの「温かい味」。
そして、王命を告げた時の、絶望に凍りついた顔。信じていたものに裏切られた、あの瞳。
『作ることを禁ずる』
『加護がないそうだな』
自分の声が、呪いのように頭の中で反響する。
強すぎる加護を持つ私が、加護のない彼女に言ったのだ。お前は欠けた存在だと、そう宣告したも同然だった。
彼女がどれほどの恐怖と孤独の中でその秘密を抱えて生きてきたか、考えようともせずに。
自らの剣で、守るべき唯一の心を、ためらいもなく刺し貫いたのだ。
「……まだ終わってないぜ、アル」
頭上から、静かなトトの声が降ってくる。軽薄さの消えた、友としての声だった。
「お前がそうやって蹲っている間にも、リリは震えているかもしれないんだぞ。お前が絶望させたあの暗闇の中で、たった一人で」
その言葉が、心をさらに抉る。
そうだ、彼女を暗闇に突き落とした。そして今、彼女はその暗闇で、得体の知れない者たちに囲まれている。
「……私には、彼女を助ける資格など……ない」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「私が彼女から全てを奪ったんだ。夢も、誇りも、ささやかな日常さえも……。そんな男が、どの面を下げて彼女の前に立てるというのだ」
「そうやって逃げるのか」
トトの声に、温度はなかった。
「資格がない? 面目がない? そんなものは、リリの命の前で何の価値がある。お前のくだらない矜持と罪悪感は、震えている彼女の温もりになるのか? 彼女を守る盾になるのか?」
「……っ」
「ならないだろ。そんなものは、ただの自己憐憫だ。お前が本当に彼女を想っているなら、今すべきことは一つしかないはずだ。……そして、悪い知らせの方だ」
「これ以上、悪い知らせなど――」
「陛下は、加護なき者たちの集落を国家反逆の徒と断定された。明朝、騎士団による殲滅命令が下る。……もちろん、リリも、区別なく、な」
殲滅。
その二文字が、思考を停止させた。罪悪感に溺れていた意識が、氷水を浴びせられたように覚醒する。
リリが、殺される? 明日の朝には、もうこの世にいない? 私のせいで? 私がもたらした最悪の結果として?
「―――ふざけるな」
床についた指が、石の床に爪を立てる。ギリ、と嫌な音がした。
罪悪感は消えない。この身を焼く痛みは、一生涯、私を苛み続けるだろう。だが、今は。
今、この瞬間に、すべきことは、己の罪を嘆くことではない。
ゆっくりと顔を上げた。
その蒼氷の瞳から、迷いは消えていた。そこにあるのは、燃え盛るような、ただ一つの決意。
「その勅命、私はまだ拝命していない」
騎士団長としてではなく、一人の男として、彼に言った。
「ああ、まだだ。間抜けな騎士は、団長様にこのことを伝え忘れているようだな」
「……ならば、まだ時間はあるな」
立ち上がったその姿に、もはや鎖に繋がれた猛獣の面影はなかった。
ただ、愛する女を救うためだけに、己の全てを懸ける覚悟を決めた男が、そこに立っていた。
それを見て、トトはようやく、ほんの少しだけ口の端を吊り上げた。
「ああ。さっさと行こうぜ、相棒」
:::[ あなたの選択が、閉ざされた扉をこじ開けるかも。 ]:::
その日の夕食は、広場の中央で焚かれた大きな焚き火を囲んで行われた。
配られたのは、野菜の切れ端が少し入った塩味の薄いスープと、黒く硬いパン。
痩せた畑を思えば、これだけでも彼らにとっては何日分もの命を繋ぐ糧なのだろう。
私の膝に、こつん、と小さな温もりが乗せられる。
見ると、昼間私に懐いてくれた幼い兄妹が、それぞれのパンを半分にちぎり、「せいじょさま、これたべて!」と屈託のない笑顔で差し出していた。
そのあまりに純粋な好意が、ずしりと重い枷のように私の心を締め付ける。私は聖女なんかじゃない。
「ありがとう。でも、お姉ちゃんはお腹がいっぱいだから。二人がお食べ」
できるだけ優しい声でパンを返すと、二人はがっかりしたようにしょげてしまう。その頭を撫でながら、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
「どう? ひどい有様でしょう?」
不意に、背後からメリルの声がした。そして、自然と隣に腰を下ろす。彼女に挨拶する者たちもいて、彼女がこの村にとって大切な存在で、慕われているのがわかる。
彼女の問いに、私は言葉を詰まらせた。どう、と聞かれても、答えようがない。
粗末な家、乏しい食料、そして何より、この世界から"加護がない"という理由だけで見捨てられ、それでも希望に縋って生きるしかない人々。
その現実が、私の心を激しく揺さぶる。
私は、どれほど恵まれていたのだろう。同じ秘密を抱えながらも、私には私を守り、隠し、育ててくれた両親がいた。
けれど、この村の人々には、そんな温かい腕はなかったのかもしれない。
彼らが味わってきたであろう絶望と孤独を思うと、同情や憐憫を超えた、深い悲しみが込み上げてくる。
この世界の理そのものが、どこか大きく歪んでしまっているのだ。
私の沈黙を、メリさんは肯定と受け取ったようだった。
「ね。わかったでしょう。みんな、あなたの力が必要なの。あなたが――」
その時だった。
パチパチと爆ぜていた焚き火の音が、不意に勢いを失う。夏の終わりの夜には不釣り合いな、肌を刺すような冷気が、闇の向こうから流れ込んできた。
村の入り口、その揺らめく闇の奥から、一人の男が姿を現した。月光を背負い、静かに佇むその姿は、まるで冬の悪霊そのもので。
「アル、様……」
私の唇から、掠れた声が漏れた。
彼は、村人たちの恐怖も、メリルの険しい視線も意に介さず、ただまっすぐに、私だけを見つめていた。その蒼氷の瞳に、焦りのような色が滲んでいる。
「リリ、迎えに来た」
その声は氷のように静かだったが、私の名を呼ぶ響きには、確かな熱が宿っていた。
「素直に彼女を渡せば、この村のことは見逃す。明日の朝には騎士団が殲滅作戦を実行する。今すぐ逃げろ」
だが、その言葉は村人たちの恐怖を別の感情へ変えてしまった。
「させるものか!」「聖女様は我々の希望だ!」
村人たちは鍬や棍棒を手に、私を守るように幾重にも取り囲んで人間の壁を作る。彼らにとって、アル様は希望を奪いに来た圧制者そのものだった。
「聖女様は、俺たちが守る!」
悲壮な決意を浮かべた村人たちを前に、アル様の眉間に深い皺が刻まれる。彼は、戦うことを躊躇っていた。
非戦闘員である村人たちを、ましてや怯えて泣き出した子供たちを、彼の強大すぎる氷の魔法で傷つけることなど、できるはずがなかった。
その躊躇いが、メリルが待ち望んだ隙だった。
「――甘いわね、氷の騎士団長様」
嘲る声と共に、メリルの手から深紅の炎の鞭が生まれ、アル様へと振り下ろされる。
キンッ!と甲高い音を立て、アル様は剣でそれを弾いた。しかし、村人たちを庇いながらの戦いは、圧倒的に不利だった。
「どうしたのかしら? その程度? この村ごと私たちを凍らせてみせなさいよ!」
メリルの哄笑が響き、変幻自在の炎がアル様を襲う。その光景が村人たちの恐怖を狂信へ変え、手に持った鍬や棍棒を振り上げてきた。
「聖女様を渡すな!」「俺たちで、聖女様を守るんだ!」
メリルの優勢を目の当たりにした村人たちが、アル様を取り囲み、手に持った鍬や棍棒を振り上げてきたのだ。
絶望的だった。
彼は決して村人に傷を負わせないよう、細心の注意を払いながらその全てを捌き続けている。彼の顔に、焦りの色が浮かぶ。
私のせいだ。私がここにいるから、アル様が追い詰められていく。
「やめて!」
私は、狂乱の渦の中心へと駆け出していた。そして、アル様と村人たちの間に、両手を広げて立ちはだかる。
「もう、戦わないで!」
私の悲痛な叫びに、その場の全ての動きが止まる。アル様が、何かを言おうと唇を開いた、その瞬間だった。
誰の、何が原因だったのか、誰にも分からなかった。
熱に浮かされた村人の誰かが振り下ろした刃か、アル様が弾いた武器の切っ先か、あるいはメリさんが放った鞭の余波だったのか。
ただ、閃光のような鋭い痛みが、私の肩を貫いた。
「……あっ」
熱い。自分の体から、どくどくと熱が流れ出していく。白いワンピースが、見る間に赤く染まっていく。
膝から力が抜け、視界が歪む。遠ざかる意識の中、私は見てしまった。
これまで一度も崩れたことのなかったアル様の表情が、凍てついたガラスのように砕け散り、蒼氷の瞳が絶望と恐怖に見開かれるのを。
彼の名を呼ぼうとした唇からは、何の音も生まれなかった。
◇
「――リリッ!!」
世界が、彼の悲痛な絶叫に揺れた。
その声に、熱に浮かされていた村人たちの狂気も一気に冷めていく。
人々は武器を取り落とし、血を流して倒れる私に駆け寄ろうとするが、アル様が放つ凄まじい怒りと悲しみの気に、誰も近づけない。
(ああ、私……死んじゃうのかな……)
その様子を、なぜか私は身体から離れた意識だけの存在として見つめていた。
私の傷はあまりに深く、氷の精霊王様の加護を持つ彼には、傷を癒す術はない。
ここは、加護なき者たちの集落。治癒魔法を使える者などいるはずもない。絶対的な絶望が、その場を支配した。
そんな狂騒の中、ただ一人、冷静な声が響いた。
「――君、ちょっとこっちへおいで」
トトさんの声? いつの間に……。彼は懐からクッキーを取り出し、怯える小さな女の子の手に乗せた。私の、フォーチュンクッキー……。
「怖がらないで。このお姉ちゃんを助けるために、これを食べてみて」
女の子は、戸惑いながらも、じっと傷ついた私を見つめている。
トトさんが「さあ、手遅れになる前に」と女の子を促すと、こくりと頷いてクッキーを口に運んだ。
サク、と小さな音がして。
その子の瞳が、驚きと喜びに、きらきらと見開かれた。
『傷ついた人が、治るかも』
きっと、精霊様がそう囁いたのだろう。女の子は、傷つき倒れた私を見つめると、ありったけの声で叫んだ。
「せいれいさん! おねがい! せいじょさまが傷ついてるの! 治してあげて!」
子供の、純粋で、無垢な願い。
その言葉が引き金となり、奇跡が起きた。
どこからともなく、目に見えないほど小さな、無数の光の精霊様たちが現れ、きらきらと舞い始めたのだ。
その光は、まるで温かい春の雪のように私の身体に降り注ぎ、燃えるようだった痛みを、優しい光で溶かしていく。
女の子は、生まれて初めて見る精霊様たちの乱舞に、呆然と見上げていた。
「……きれい……これがせいれいさまなの?」
◇
傷が完全に癒え、意識が身体へと戻ったとき。
最初に感じたのは、私をきつく、それでいて壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめる、彼の腕の力だった。
ゆっくりと目を開けると、すぐそこに、安堵と後悔に揺れる蒼氷の瞳があった。
「リリ、すまなかった……」
その声は、震えていた。
「君を支配するつもりなどなかった。君だけを、守りたい一心だった。だが、それがキミを深く傷つけた」
彼は苦しげに言葉を続ける。
「私が、キミの心をどれだけ抉ったか……トトに叱られ、ようやく理解した。……キミには不快に聞こえるかもしれないが、私は……この忌々しい加護を捨てたいと願ったことさえある。強すぎる加護ゆえに、私は常に孤独だった。大切な人さえ、この手で凍らせてしまうのではないかと、ずっと怯えて生きてきた」
彼の告白に、私は息を呑んだ。
「加護のないキミが、自由に見えた。……羨ましかったんだ。あの日の言葉は、そんな私の醜い嫉妬だ。決して、君を傷つけるつもりではなかった。本当に、すまない」
アル様は、私の手をそっと取った。その手は、わずかに震えている。
「キミの力は、本当に素晴らしい。加護を持つ者にも、持たない者にも、分け隔てなく希望を与える。食べた人の幸せだけを願う君の優しさに触れて……私は、キミが、何よりも大切な存在だと知ったんだ」
その青い瞳は、真摯な愛の色で、まっすぐに私を見つめていた。
「キミがいない世界に、意味などない。だから、お願いだ。……私を許せないだろうが、それでも伏せて願う。私が、キミを好きでいることを、許してくれるだろうか? 私の一方的な想いでいいんだ。私は一生を賭してキミを守りたい」
それは、あまりにも謙虚で、誠実な、愛の告白だった。
私の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは、悲しみではなく、どうしようもないほどの愛おしさから生まれた涙だった。
「……私も」
私は、涙でぐしゃぐしゃのまま、人生で一番の笑顔で、彼に答えた。
「私も、アル様のことが、大好きです」
その言葉が、答えだった。
アル様は、まるで宝物のように、私の身体を優しく、しかし力強く抱きしめた。彼の腕の中で、私はもう寒くなかった。
それを見ていた村人たちから、温かい拍手が沸き起こる。もう、ここに敵意はなかった。
いつの間にか姿を消したメリル。そして、私とアル様を結んでくれたトトさんの姿も、もうそこにはなかった。
:::[ 甘いお菓子と共に、幸せな未来が待っているかも。 ]:::
あの嵐のような出来事から、季節は一度巡った。
王家への報告、村人たちの処遇、メリルの行方、そして何も言わずに姿を消したトトさん……。
山積していた問題は、アル様と私の家族の助けもあって、一つ一つ解決へと向かっていった。
加護をもたない人たちの村は、王家の庇護のもと新しい自治区として認められた。
彼らが国家転覆を狙う組織とは何の関係もないことが確認できたため、とのことだったが、多くの事は教えてもらえなかった。
それでもいい。生きていられるのなら。自治区として、王家は補助を約束してくれたので、少し生活が良くなった。
私のクッキーは"精霊様の御菓子"として王家からも公認された。私の店は、相変わらず王都の裏路地で、甘い香りを振りまいている。
そして、カウンターの特等席を見つめ、私は今日も彼がその席に座るのを待っている。
「いらっしゃいませ!」
ドアベルの音に、私は満面の笑みで振り返る。
「やあ、リリ。今日もいい匂いだ。幸せの香りを辿ったら、やはり君の店に着いたよ」
以前の張り詰めた雰囲気はもうない。穏やかな笑みを浮かべ、銀縁の眼鏡の奥の蒼氷の瞳が、優しく細められている。
「アル様、こんにちは。今日は新作の『ベリーとピスタチオのタルト』がありますよ」
「いいね。では、それをいただこう」
彼の言葉に、胸が甘く高鳴る。
以前は「くだらん」と一蹴したお菓子を、今では楽しみに待っていてくれる。
公には「騎士団長と御用達の店主」。
けれど、お客さんがいないときに限り、誰もいないこの店で、私たちは恋人として穏やかな時間を育んできた。
「はい、お待たせしました」
色鮮やかなタルトを彼の前に置くと、すぐに一掬いして、口に運ぶ。そうして、アル様は目を輝かせた。
「……うん、美味しい。君の作るお菓子は、いつだって太陽の味がする」
一口食べるたびに、彼の表情が柔らかくなっていく。その様子を見るのが、私にとって何よりの幸せだった。
窓から差し込む陽光が、彼の白銀の髪をキラキラと照らしている。それはまるで、精霊様の祝福のようだった。
「リリ、これ……」
不意に、彼が書類の束の中から一枚の紙を取り出した。一輪の可憐な花が描かれた、手書きのイラスト。
「これは……『白百合』?」
「ああ。君が前に、新しいお菓子のヒントにしたいと言っていた花だ。君が喜んでくれるかと、少しばかり時間をかけた」
私が何気なく口にした言葉を、彼は覚えていてくれた。その事実だけで、胸の奥が温かい光で満たされる。
強くて、不器用で、誰よりも孤独だった騎士様は、今、私の前でこんなにも優しい顔を見せてくれている。
「リリ」
彼が、私の名を呼んだ。その声は、かつての氷ではなく、蜜のように甘く私の心を包み込む。
彼はそっと席を立ち、私の前に来ると、片膝をついた。
「君がいない世界に、もう意味はない。私の隣で、私の家族になってほしい。……リリ、私と、結婚してくれないか」
蒼氷の瞳が、真摯な愛の色で、まっすぐに私を見つめている。
私は、彼の言葉に、ただ頷くことしかできなかった。
「……はい、喜んで」
瞳からこぼれ落ちたのは、どうしようもないほどの愛おしさから生まれた涙だった。
アル様は、そっと私の手を取り、その指先に優しくキスを落とす。
私たちの未来は、まだ始まったばかり。
けれど、きっとこの先も、甘くて、温かくて、たくさんの笑顔に満ちた日々が続いていくだろう。
私の隣には、こんなにも愛おしい、たった一人の騎士様がいてくれるのだから。
加護なんてなくたって、私は、私のやり方で人を幸せにしてみせる。
強く、そう心に誓って、私は彼の手を握り返した。
◇
「親友を迎えに行ってくるよ」
「……帰ってきてくれますよね?」
不安げな私に、彼は微笑んで、額にそっとキスを落とした。
私はお守り代わりに、フォーチュンクッキーを包んだラッピング袋を手渡した。
「ああ、もちろんだ」
...おしまい...