7 アームレスリング (雄治)
メサージェを怒らせてしまった。失望もさせた。
俺の事情を知らないメサージェからすれば俺は本当に腰抜けだろう。
いや、事情だなんだって、それを理由にして面倒から逃げているだけなのかもしれない。麻薬と戦うのは大切なことだし、メサージェはあんな怖い目にあう危険を犯してがんばっているのに。
連れて行かれた黒い車のあったところまで戻ってみた。もう車は無かった。事務でメサージェの住所を聞こうとして管理棟に向かったら、幸いメサージェの友達のアリスンにでくわしたので家を教えてもらった。
こないだ郵便局まで連れて行ってもらったとき、帰るついでだと言われたから、歩いて行ける程度のところだとは分かっていた。
こないだの連中にでっくわさないように気をつけながらダウンタウンをくだり、銀行の横を右に進み、公園を抜けて、坂道をのぼる。スノラは山際の町だ。だんだんと林の中に入っていく。・・・それにしてもカリフォルニアの林ってのはドングリばっかりだな。夏だってのに茶色でイライラしてくる。 自然を[緑]というが、たぶんあれは日本でしか通用しない言い回しなんだな。アメリカじゃ自然は[茶色]だ。
やたらと巨大な松があって、やたらと巨大な、俺の頭よりでかい松ぼっくりがゆれている。細い枝の先にゆれている。あれが落っこちてきたら死ぬな。その松ぼっくりの先に、灰色のリスが、それもその松ぼっくりよりずっと大きな可愛げの無いリスが顔としっぽをのぞかせて駆け下りていった。
ここは日本じゃないんだ。
木材やセメントやらで作った和洋折衷ではなく、石づくりやれんが作りの本物の洋館{あたりまえだ}を一つ一つ眺めながら、坂をのぼった行き止まりに、メサ−ジェの家はあった。こじんまりしたなんだかログハウスのような家だ。それなのに半分は石づくりで、がっちりした煙突がちゃんとある。
家の回りには地べたに生える花がやたらと咲いている。
誰が世話してるんだろ。メサ−ジェかな?
俺はしゃがみこんで、咲いている花を眺めた。意外とウォルタ−が世話しているのかもしれない気がしたが。こういう赤、青、黄色とちまちました花をやたら咲かせるのはメサ−ジェらしいように思えた。本人はバラのようだけれども。
俺はあんまり花だ花だとはしゃぐ方ではないが、もちろんそんな男はあまりいないが、咲いている花がみんな見覚えのない花ばかりなのには驚いた。同じ地球上なのだから植物は同じようなものだと思っていたのに、一つとして日本で見たようなものはない。
と思っていたら、庭のはしの方に、ハイビスカスを下向きに咲かせたような花が咲いている。そして、花よりも小さい生き物が、くちばしをのばして花の中に頭をつっこんでいた。
あ ───────────── 。
なんだろうと思う前に気づいた。
ハチドリだ。ハミングバ−ド。空飛ぶ宝石{と英語の教科書に書いてあった}。あれか。そうだアメリカなのだから当然動物も違うのだ。この辺には雀はいないんだな、雀は雀で可愛いよな、と、ぼんやりと考えていると、突然背後から声がかかった。
「ホ−ルドアップ!」
反射的に振り向いて、そこに立っているメサ−ジェと、その手の中の拳銃を見た。銀色の拳銃だ。
手をあげろ、と言っているらしかった。手をあげろってのはフリ−ズではなかったかと俺は考えた。そしてプリ−ズと聞き間違えて、善良な日本人は撃たれてしまうのだ。
俺はちゃんと手をあげた。
「何やってるの、こんなところで」
メサ−ジェは、幸いなことに、怒ってなかった。そのかわりあきれかえっていた。完全に。
「近所から電話で、うちの庭にあやしい男が入り込んでるって知らせてきたのよ。ここまであやしいとは思ってなかったけど」
「同意します」
と俺は言っておいた。ここらあたりの家には柵も何もなく、庭と道路に境も無いというのに花を眺めていたら殺されるのか。
「どうしてここにいるの」
「花を見てる」
「・・・違う。それは『何やってるの』の答えでしょ。今の質問は『どうしてここにいるの』」
「ああ、アリスンに家を聞いて」
「それも違う。それは『どうしてここを知ったの』の答え。もう一度だけ聞いてあげるからね。どうしてここにいるの?」
俺は答えた。
「俺が悪かった。君が正しい。だから俺は君たちのボディガ−ドになろうと思う」
メサ−ジェは大きな目をまじまじと見開いた。今にも笑いだしそうな気配だった。しかしそうはならなかった。かわりに、メサ−ジェの緑色の目から見る見る涙があふれて落ちた。両目から一粒づつだけだった。メサ−ジェは長いまつげでパチパチッと目にたまった涙をはらうと、言った。
「どうして泣くの」
「知らない。君の涙だ」
「違う! 質問したんじゃないの! こんな時に泣くなんて不思議で驚いてるんでしょ!」
「言葉は難しい」
「・・・・・」
メサ−ジェは銀色の銃を持ったまま、腰に両手を置いた。
「とにかく立ち話はいや。家に入ってよ。この銃母さんのだし、あたし銃扱う資格持ってないから、見られたくないの」
「用は終わったからいい」
「遠慮しないで。今あたししかいないんだから」
「・・・・・」
今私しかいない、ような家に男が入るのはよくないのではなかろうか、と思ったが常識が日本と違うことが考えられ、アメリカでは家に誘うのは社交辞令ではなく本気だとよく聞くので、これ以上嫌われるのはまずいんで、メサ−ジェの言葉に従うことにした。
俺いったい誰に言い訳してるんだろう。
入ってしまって、驚いた。
家の中がキラキラだった。
「あ、びっくりした? これ水晶。母さんが水晶取りの仕事してるの」
水晶取りの仕事。そんな仕事があるのか。
玄関に石があふれている。半分に割った石。かけら。全部水晶だ。卵のような石もある。中に水晶の柱が突き出ている。廊下にも、階段にも、水晶水晶水晶水晶。白いのやら、紫のやら。あ、黄色なんてのもあるのか。
なめたら甘そうだな。
「コ−ク飲む?」
玄関、と思っていたら、そこは食堂だった。どうりで広いと思った。靴を脱がないんだから玄関がいらないのかなぁるほど。
テ−ブルがあって、その向こうが台所になっているんだけれど、しきりはバ−のカウンタ−のようになっている。俺はその丸イスに座って、質問に答えた。
「ください」
「ほうらこれ見て」
と言いながらメサ−ジェは冷蔵庫を開けた。
「じゃじゃ−ん。これは魔法の箱でね、いつも中は冬なの! ほらこっちなんか氷もできちゃう!」
「・・・・・すごいな。魔法だな」
「なんて! 嘘よ! これは文明の利器。科学技術の産物。機械で箱を冷やすようにできてるの」
「はぁ」
何て言ったらいいのかな。やっぱり日本の知識が江戸時代で止まってるのかな。
「じゃあ科学技術の粋を集めた冷たいコ−クをあげましょう。はい!」
とくれたコカ・コ−ラの缶には、カフェインフリ−、シュガ−フリ−、ダイエットチェリ−コ−クと書いてある。長い名前だ。フリ−ってのは自由なんじゃなくて、入ってないってことだろう。ってことは、このコ−ラにはカフェインも砂糖も入ってないってことか。そんなコ−ラ飲んで何が楽しいんだ。それにチェリ−ってのは何だ。さくらんぼ入りのコ−ラってどういう意味だ。
と飲んで驚いた。ガソリンの味がする。
「美味しいでしょ−っ。あたし大好きなんだ」
「・・・うん」
「ライム入りってのもあるけどあれって最低よ。人間の飲むものじゃないって」
じゃあこれは人間の飲み物だとでも言うのか。
「あ・・・」
とまたメサ−ジェが声をあげた。メサ−ジェは俺を驚かすのが得意だ。
「あたしたち仲直りするんだよね」
「え? あ〜、もしできれば」
「じゃ、仲直りの印に乾杯しなきゃ」
メサ−ジェはコ−ラの缶を俺の持っている缶にぶつけてカツッと音をたてると、乾杯、と言った。
プロ−ジッ、と言う発音があまりにきれいすぎて、俺は言葉を返せなかった。
かわりに別なことを言った。まだたどたどしいけれど、ゆっくりでもメサージェは聞いてくれるだろう。正しく、思っていることを伝えたい。
「君の言うとおりだったと思う。ドラッグが嫌いなら、俺は戦うべきだったんだ」
メサ−ジェは、意外にも、ものすごく複雑な顔をした。なんだか、悲しそうにさえ見えた。
「でも、私、あなたをひっぱたいたよ」
「あれで目がさめたんだよ。君たちは必死でドラッグと戦ってるってのに俺は情けないこと言ってしまった。正しいと思うことから逃げてしまったら残りの人生に生きていっていいのか自信なくてしまうだろう」
メサ−ジェは、もっと複雑な顔をした。
「ただし、俺はやっぱり暴力は嫌いなんだ。だからこっちから暴力を振うことはやりたくない。それはサムライにとっては負けを意味するんだ。どんなに侮辱されてもケンカを売られてもじっと耐えるのがサムライの道なんだ。剣というのは人を殺すためにあるんじゃないからね」
「はあん? じゃあ何のためにあるの」
「人を活かすためだ」
メサ−ジェは肩をすくめた。
「全然わかんない。映画の中のサムライはたくさん人をぶった切ってんじゃないの」
「だからそういう連中はロ−ニンなんだよ。悪者の用心棒になるしかな・・・」
あ、わかった! 今日ウォルタ−が言ってたのは黒沢明の『用心棒』のことか! 英語になおすと『ボディガ−ド』なのか! 嫌だなぁ。桑畑三十郎とボディガ−ドは違うだろう。
「ま、いい。そういうわけで、俺は君たちがライアンに襲われた時に限って守ることにする。ただ守るだけだ。日本の憲法でもそうなっている。それは日本の誇りだから」
「わかった。OK」
メサ−ジェは右手を俺の方につきだした。そして、ニコッと笑った。
俺はその右手を握った。柔らかく、熱い手だった。その白すぎる程白い手にくらべたら、俺の緑がかった黒い手が、ひどく汚く見えた。
「あたしホント嬉しい! 明日ウォルタ−にも教えてやろ、喜ぶよ!」
明日?
「なんで明日なんだ。今日帰って来た時に言えばいいだろ」
ふいに、メサ−ジェの顔から笑みが消えた。まずいこと言ったらしいな。
「ウォルタ−、あんまりうちによりつかないの」
・・・なぜ。
「父さんが二年前に死んで、それからだんだんうちに帰ってこなくなった。ウォルタ−は父さんのことホントに好きだったから」
ということは、メサ−ジェにとっても父親だということだ。俺は、なにかうまい言葉をかけようと思った。だけれど、何一つ思いつかなかった。日本語でさえ思いつかなかった。これはつまり、俺がガキだということだ。
それにしても、あの陽気な歌舞伎役者のようなウォルタ−にそんな繊細なところがあったなんてな。家に帰ると父親のことを思い出すからつらいだなんて。
ふと気づくと、メサ−ジェがこっちを見ていた。あるかなしかの微笑みを浮かべて。
「UGって、こういう時に何も言わないんだね。日本の男ってみんなそう?」
カッと顔が熱くなるのがわかった。アメリカの男なら、こういう時慰めて優しい言葉をかけてやさしくつつみこんで・・・。それなのに俺は・・・。
「何も言わないのに、あたしのこと心配してくれてるのがわかる。不思議だね」
メサ−ジェは笑った。俺は、もっと熱くなった。俺の方がなぐさめられているんじゃないか。
「あははっ! なんか話が暗くなったね! ねぇUG、ピザ好き? 仲間になった記念にあたしがおごる! 食べにいこうよ!」
「いや、いいよ、そんな」
「行こうって! なに、あたしの言うこと聞けないの」
と言って、妙に可愛くニコッと笑う。必殺技、という言葉は英語で何と言うんだろう。
「行くよ。喜んで」
母さんに電話で晩飯はいらないと言っておいて、メサ−ジェの白い車に乗り込んだ。なんとタイワン製だ。このぶんじゃ日本の車も先行き危ないな。
「メサ−ジェ、この車君の? 運転できるのか?」
「もちろん! 十七だもん」
「・・・・・」
アメリカだ。
ピザショップまでおよそ30分ぐらいで、ついた時には店の前の映画館にネオンがつきはじめていた。中に入ってみると、若い者、それも俺たちと同じぐらいの年齢の者ばかりでいっぱいになっていた。
「ここはたまり場なの。あたしたちの学校の人間が多いよ。ピザ食べたことある?」
メサ−ジェは俺の腕をとって開いている席に座らせた。西洋のマナ−では男が座らせてやるんじゃなかったか。俺はまたも恥ずかしくなった。子ども扱いだな。
メサ−ジェはメニュ−を広げて俺に見せた。
「何のせる?」
俺はトマトとアンチョビとオリ−ブを選んだ。
「じゃあ飲み物は何にする?」
「ビ−ル」
と言った途端、メサ−ジェはテ−ブルをバシッと叩いた。
「バカ! 十七才にビ−ル売ってくれるわけないでしょうが! 何てこと言うの」
しまった。
アメリカじゃ意外とそういうことは厳格なんだった。それに、
「ごめん。君は悪いことが嫌いなのに」
メサ−ジェはハッと真顔になった。
「どうしたの?」
メサ−ジェはキッと俺の顔を見つめた。
「UG。・・・あの、あなたに言っておかなければならないことがあるの」
はい?
「あたし、本当は・・・」
メサ−ジェの唇が動こうとしたが、中央のテ−ブルのあたりでワッッと歓声があがったのでその声はかき消された。それでなくても単語は半分しかわからないのを前後の文脈で理解している俺にはメサ−ジェの言葉がわからなかった。
ふりむくと、大勢の男たちの中で、二人の男が腕相撲をしていた。その決着がついたので大騒ぎしていたのだ。アメリカの男というのは力自慢が好きだ。昼休みでもジムに行って鍛えているし、何かと言うと腕相撲をする。よく見たら、緑色の紙幣を交換しあっている。金をかけていたのか。大騒ぎになるはずだ。
あ、メサ−ジェの話の途中だったと思ってメサ−ジェの方を見たら、ピザを注文しに立っていってしまっていた。
何が言いたかったんだろう。
しかしそんなことは出てきたピザの巨大さを見た瞬間忘れてしまった。テ−ブル一杯ピザじゃないか。ロスアンゼルスのレストランと同じだ。油断した。
「さ、食べて!」
メサ−ジェが1ピ−ス取り上げて俺にくれた。
「・・・美味い」
「でしょっ! この店は最高なんだから」
確かに美味かった。しかしメサ−ジェの頼んだドリンクはチェリ−コ−クだった。
突然、何の前ぶれもなく音が聞こえなくなった。俺はギョッとして耳をたたいてみたが、変化はない。これは困った、と思ってメサ−ジェを見ると、何かこわばった顔で俺の肩ごしに何かを見ている。
俺もふりかえった。でかい男が二人入ってきていた。あの喧噪が静まり返ったのはこの二人の男のせいか。
静まり返ったのはほんの短い間で、すぐに男たちは二人の男に声をかけた。嫌われているわけじゃなくて、一目おかれている、ということか。
「メサ−ジェ、あの二人は誰だ」
「・・・UG、あんたってマジ?」
メサ−ジェは小声で人を馬鹿にした。
「どういうことだ」
「サミ−よ。あんたがこないだやっつけたサミ−じゃないの」
「・・・・・」
そう言われても。外人は・・・でなかったアメリカ人はみんな同じ顔に見える。あの五人の顔の区別なんかつきやしないぞ。
「そしてもう一人はライアン。ライアン・ヘンドリックのおでましよ」
俺はギョッとして、今度はそろっと横目で真ん中に座った二人を見た。先に座っていた連中が席をあけたのだ。たしかにこのライアンという男にはそれだけの風格がある。サミ−がゴリラだとすればライアンは熊だ。グレズリ−だ。
二メ−トルはあろうかという巨体の両肩はもりあがり、太い首をうずめるかのようだ。シャツに胸の筋肉がもりあがり、太股なんざ俺のウェスト程もあるかもわからない。頭は茶色だが、半分を長くして立たせ、あとの半分は完全に坊主にしている。それに何より顔がすごい。白目を向いたセントバ−ナ−ドだ。
メサ−ジェがキョロキョロしている。
「どうした? 何か探してるのか」
「棒が無いかと思って。長い棒が」
「棒? 何に使うんだ?」
と言ったら、ジロリとにらまれた。
あ、そうか。俺が使うのね。
「と言うことは逃げた方がいいシチュエ−ションなわけだな?」
こないだは誘拐されかかったんだし。
「それはライアンの気分しだいね。今はあたしに何の関心もないみたいだけど、一分後にはちょっと殺してみようと思うかもしれない」
情緒不安定だな、思春期にありがちな。と言おうと思ったけれど英単語がわからない。
「俺はライアンと学校で会ったことがない。あんなに目立つのに。なぜだろう」
「学校に来てないもの。先生たちは買収されて出席日数をごまかしてるの。買収に応じなかった先生は大ケガして、それでおしまい。ライアンが学校に来るのはビッツを売る時だけ」
ひそひそと顔をよせあっていたのがいけなかった。サミ−とかいう男にからかいの種をあたえてしまった。
「メサ−ジェ! もう日本人をくわえこんだのかよ! これからモテルで乗馬か!」
乗馬とは上品な。
「おおっと日本人にはベッドはいらねぇな。タタミか? 草の上でやるんだろ! コオロギみてぇに!」
ライアン以外の連中がゲラゲラ笑った。ライアンはピザにしか関心がないらしく、厨房だけを見つめている。
「カタナ持ってなきゃ何もできねぇ腰ぬけサムライがよ! メサ−ジェに乗られて腰ガタガタかぁ!」
どうして俺が乗られると決めてかかってるんだろう。これは日本男児がバカにされているのではなかろうか。
俺はメサ−ジェを見た。さぞいたたまれずに真っ赤になっているだろう、と思ったのが素人の浅はかさ。メサ−ジェはスックと立ち上がると、ゲタゲタ笑っていた連中に向かって投げキスをした。
「わかってないのね。日本人のって最高。あんたちも後ろからお願いしたら。あ、ごめんなさい忘れてた。サミ−たちってもう五人まとめてヤラレてるんだったね!」
シン、と静まり返る中、メサ−ジェが腕ぐみして仁王立ちしている。サミ−の顔が、怒りのあまり青白くなった。
身の危険を感じ始めた時、ライアンがグルリとふりかえって、大口をあけて笑い始めた。それにつられたのか、サミ−をのぞく他の連中もふきだした。
俺は少しばかりほっとした。
メサ−ジェがふりかえった。メサ−ジェの唇はもちあがって笑顔の形になっていたが、顔色は真っ青だった。メサ−ジェは目の前で
他人が馬鹿にされているのが許せないタイプらしい。
「行きましょう。お金はもう払ってあるから」
「ああ」
俺は先に行くメサ−ジェの後に従う形で、店の中央をつっきった。ライアンたちのまん前を通ることになる。あわてずさわがず、わざとのようにゆったりと歩く。それにしてもなんて度胸のある女だろう。
メサ−ジェが、ライアンとサミ−の前を通って行く。やれやれ。命拾いしたか。
と、ほっとしたのは間違いだった。サミ−はメサ−ジェは通しても俺を通す気はなかったらしい。俺の左腕をガチッと握りしめたのだ。そして[憎悪]の標本のような顔でこう言った。
「ア−ムレスリングだ。飯代かけてア−ムレスリングだ! 日本とUSの戦いだ! 逃げるな!」
うおおっ! とのりやすい他の連中が拳をつきあげておたけびをあげた。
が、俺はさっきメサ−ジェにサムライは争いを好まないと言ったばかりだった。
「俺は君に勝てないよ」
サミ−はむしろ驚いたように俺の顔を見上げた。
「お、おいおいお−い! やる前からもう降伏だってよ! 戦争の時もそうしてくれりゃ俺のじいさんも死なずにすんだのによ!」
「今度戦争をしかけられた時にはそうするよ。それではさようなら」
が、サミ−は腕をはなしてくれない。
「やりませんじゃすまねぇんだよ。やらねぇのは負けと同じだ。やらねぇんなら金を置いてけ!」
なるほどもっともだ、と思ったので、俺は尻ポケットの十ドル札を取り出してサミ−の前のテ−ブルに置いた。
奇妙な静寂が落ちた。
そして、いっせいにブ−イングがおこった。唇をふるわせ、親指を下にさげるあのやり方だ。どうやら俺は男失格の烙印を押されたらしい。ま、それくらい構わない。
サミ−の顔から憎悪が消えた。代わりに軽蔑の色が強くなった。
「こいつ、棒がなけりゃ本当に何もできねぇんでやがんの。くだらねぇ。金で何でもできると思ってやがる日本人ってのはよ。知ってるか、こいつのおやじYAMADAの社長で札束ばっか数えてやがるってよ」
わざとらしいあざけりの笑いがおこった。俺は頭の中で数を5まで数えた。大丈夫だ。
「行こう、メサ−ジェ」
メサージェは不安そうに目を泳がせていたが、急いで先に立って出ようとした。ウェイターがピッツアを運んできたのでよけながら通る。
「腰抜けサムライ!」
サミーが叫んだ。俺は一応ふりかえった。頭の上から、チーズの熱く焼けたトマトピッツアがふってきた。
「UG!」
メサージェの悲鳴が聞こえた。
熱いな。これは熱い。
俺は顔のチーズをぬぐいながらサミーを見た。サミーは面白そうに含み笑いをした。こちらが何もしないとなると、図にのるタイプらしい。
「くくっ。おい、おまえのせいでピッツアがだめになっちまったぜ。弁償しろよ。もう一枚買ってくれよ。な」
「サミ−、あんた・・・」
メサージェは怒りに顔を真っ赤にしてサミーに殴りかかろうとした。だめだ。ここで怒っちゃだいなしだ。俺は急いで尻ポケットからまた十ドル札を出して、テーブルの上に置いた。
メサージェの顔色が変わるのがわかった。俺に対する怒りを感じる。さすがに腰抜けすぎると思ったのかもしれない。しょうがない。俺は腰抜けなんだ。
「行こう。メサ−ジェ」
メサ−ジェは悔しさに顔をこわばらせていたが、俺の横について歩き出した。泣いてはいなかった。もう俺にボディガードなんか頼まないかもしれないな、と俺は思った。俺がボディガードじゃ明日から笑いものだ。
なぁ大助。俺、我慢して、こんなにみっともないことになってるよ。これ、罰だろ。少しは許してくれよな。
サミーの声が聞こえた。
「はっ! メサ−ジェもよくやるよ。知ってるか? あいつの母親最初の男は事故で死んで、次の男は病気で死んでさ。三人目をあさってんのに誰もよりつかねぇんだってよ。殺される−ってな」
メサ−ジェは立ち止まった。気配が、殺気が、冷たい風になって俺の横を抜けていった。
メサージェはものも言わずにサミーに殴りかかろうとした。俺はその腕をつかんだ。メサージェはそれを振りほどこうと暴れた。
「UG! あんた一人で帰って! 腰抜け!」
そしてメサージェは俺をふりかえって、ひっ、と小さな声をあげた。俺は、ひどい顔をしていたかもしれない。自分でもわけがわからなかった。怒りに全身の毛が逆立つようで、何もかもわからなくなっていた。何も考えられなかった。
サミーのニヤニヤ笑いが消えたのが見えた。あたりの音は聞こえなかった。
我慢してやったのによ・・・。
おまえが悪いんだ。
「アームレスリング、受けよう」
ブーッ、とサミーがふきだした。
「馬鹿かおまえ? これ以上恥かいてどうしようっての? 俺に勝てるつもりか?」
メサージェが俺の腕にしがみついてきた。今まであんなに怒ってたのに。
「UG、帰ろうよ。いいから」
俺はメサージェを見下ろした。にらみつけていたかもしれない。とにかく我慢できなかった。
「メサ−ジェ。ア−ムレスリングはスポ−ツだな?」
「え?」
「スポ−ツだな!」
「は、はい!」
メサ−ジェが腕をはなしたので、俺はまたポケットに手をつっこんで、そこに入っていた札を全部テーブルの上に置いた。50ドルが一枚と10ドルが三枚。
「俺が勝ったら、メサ−ジェに謝れ」
メサ−ジェは震えた。
「待って。あたしの為なの? あたしの為に怒ってるの? やめてよ、あたしはもういいから」
「か−っこいい。サムライじゃなくって騎士様なわけね」
店中の客が集まってきた。ウェイタ−までが。ただ一人ライアンはすぐ横にいながら、目もくれずに自分のパイナップルピザに没頭している。
俺はイスに座った。ウェイターが俺たちの手を握り合わせた。なるほど、腕の太さはサミーの方が二倍はあるな。
メサ−ジェが胸の前で両手を組み合わせた。
「用意はいいか?」
ウェイタ−が声をかけてきた。俺はあごでうなづいた。
「GO!」
一秒ももたなかった。ゴン! と拳がテーブルにたたきつけられて激しく音がした。
誰も何も言わなかった。
俺は立ち上がって言った。
「約束だ。謝ってくれ」
サミーは呆然としてテーブルの上の自分の右腕を見つめている。
「勝ったの?」
ふるえる声でメサ−ジェが言った。もしかしたら見てられなくて目をつぶっていたのかもしれない。
負けるわけがない。ほとんどものごころついた頃から剣道のために鍛えてきたのだ。俺には剣道だけだった。肉体を鍛え、しぼりあげてきた。こいつらのような見せかけだけのふくれたパンとは訳が違うんだ。
うおおおおおおおっ!
歓声があがった。
「すげぇぞあの日本人!」
「ホントにサムライだ! 一瞬でやりやがった!」
「最初っからやれってんだよなぁっ!」
褒めてくれてるようだが、そんなことはどうでもいい。問題はサミーだ。
「メサ−ジェに謝ってくれ」
サミ−は唇をかみしめて、腕を下げた。
「今のは油断したんだ! まだかけ声がかかる前にこいつ・・・」
「それならもう一度やろう。かけ声は君がかけてくれればいい」
サミ−はうつむいた。本当のことは、こいつが一番わかっているはずだ。逃がさない。謝るまでは。
その時、低く、野太い声が店中に響いた。
「サミ−。約束は守れや」
店の中のすべてがぴたりと動かなくなった。俺も、悔しいけれど何か本能的な恐れを感じて身構えた。
ライアンだ。恐ろしく鋭い灰色の瞳でサミーを見ている。
「だ、だがな、こいつ・・・」
「守れ」
サミーはぶるっと震えた。それがはっきりわかった。サミーはメサージェの方を見ず、吐き捨てるように、
「悪かったな」
と言った。メサージェは嬉しいというより怯えたような顔色で、ライアンのほうにそっと視線を送っている。
その視線をたどるようにライアンを見て、ぎくりとした。ライアンは俺を見ていた。
「俺とやれよ」
ライアンは静かに言った。考える前に、
「やるよ」
と口に出ていた。口に出してから口に出したことに驚いた。なんなんだ、こいつには吸い込まれる。動かされる。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何考えてんのーっ!」
メサージェは大声をあげた。
「いくらなんでもライアンに勝てるわけないじゃない! ライアンはフットボールチームのフォワードだったんだよ!」
わかってる。こいつの腕にはふくらし粉は入っていない。
「だいたいさっきまであれほど断り続けてたってのにどうして今になって全然関係ないライアンとやらなきゃならないの!」
「始まってしまったからだ。一度やってしまったら次もやらなければならない。弱い奴とやって強い奴とはやらないってことはできないんだ」
サミーが顔をひきつらせたので、しまった、と思ったが・・・まぁいいや。だって弱いんだもん。
俺はライアンと向かい合って右手を握り合った。なんつうか、ゴリラと日本猿だよなぁ・・・。
「レディ、GO!」
一瞬! の瞬発力には自信があった。しかしその瞬間、全身にぞわっと寒気が襲った。岩だ。俺は岩を相手に戦ってる。
一瞬にこめたはずの力を、このまま保たせなければ、わずかでも気を抜けば、やられる。呼吸なんかできない。音が、聞こえなくなった。筋肉がふくれあがってくる。熱い。目玉が飛び出そうだ。ライアンの顔なんか見る余裕はない。子どもを相手にするように余裕で見ているのかもしれない。いや、ライアンの腕の筋肉もふくれあがっている。俺と同じだ。真ん中でびくとも動かないまま俺たちの力は均衡をたもっているんだ。・・・先に呼吸したほうが負ける。息が続かなくなったほうが負ける。
こんな奴がいたのか。
まさか、俺が負けるのか。日本じゃ敵なしの俺が。世界は、でかいな!
バキン! と音がした。心臓がヒヤリとした。
折れた。と思ったとき、腕の下の感覚が無くなり、体が下に落ちそうになった。
「うわっ!」
「うおっ!」
テーブルが真下に落ちたのだ。俺とライアンはつんのめりそうになって手を離し、踏みとどまった。
「どうなったんだ?」
サミーのつぶやくような声が聞こえた。
ウェイターが壊れたテーブルを持ち上げた。そして言った。
「とめがねが、ねじ切れてる」
俺はライアンを見た。ライアンも俺を見ていた。真っ赤に上気した額に汗がふきだしてる。俺も同じような顔をしているんだろう。
「ひきわけ!」
ウェイターが宣言した。
俺は冷たい汗をぬぐった。助かった。世の中にはとんでもない奴がいる。
ライアンがニタッと笑ったので、俺はまたぞっとした。今もう一度やろうと言われてももうできない。腕が震えているんだ。
「よくやったぜサムライ」
ライアンは言った。
「だがな、おまえは俺には勝てねぇよ。カタナはガンには勝てない。絶対にな」
「そりゃそうだな」
ライアンは薄い眉を上げた。それから灰色の目でじっと俺を見た。
まずい、馬鹿にしてるように聞こえたかな。
「・・・おまえ、ウォルターの仲間になるのか」
しかしライアンは全く別なことを言った。
「そのつもりだ」
「やめておけ。やめてやれよ。ウォルターは一人にしておいてやれ」
「・・・どういう意味かわからないが、もう約束したんだ。俺はウォルターにつく」
俺は、ライアンが怒り出さない前に急いで背を向けると、できるだけ悠然として見えるように、しかし急いで店を出た。メサージェはすぐ後ろをついてきた。
店の外に出ると、メサージェが腕にしがみついてきた。恐かったんだろうな。俺も恐かった。
「すごいよUG! 最高! どうしてそんなに強いの!」
強くなることしか考えてこなかったからだ。
「別に・・・」
「ごめんね。あんなところに連れてって」
メサージェはハンカチで俺の頭と顔をふいてくれた。そういえばピザをかぶっていたんだ。メサージェの、俺を心配そうにのぞきこむようなその目が、なんだか、たまらない。
「ね、うちでシャワーあびていきなよ。ひどいことになってるよ」
俺はメサージェの家でシャワーをあびることを想像した。そのとたん、なんだか強烈な恥ずかしさを感じて、鼻のあたりが鉄臭くなった。そして恥ずかしく感じたことがまた恥ずかしくて、混乱してしまった。
「いや、いい。俺は帰るよ。帰りたいんだ」
しっかりしろよ、俺。しっかりしてくれよ。