3 最初の洗礼 (雄治)
校長室に入ってきた女は白人だった。金髪のふわふわした髪をポニーテールにしてて、やたらと胸がでかい。いや、もしかしたらこの国じゃ普通なのかもしれないが、日本の制服と違ってTシャツだからやたらめだつ。
まぁ他人の胸だからでかいのは勝手なんだが、その胸でいきなり俺に抱きついてきたのはまいった。俺の胸で乳房がはねかえりやがった。
このメサージェ・イーデンとかいう女が俺のチューターだといわれたが、チューターってのがよく分からない。伴忠太・・・それは「巨人の星」。「ガンバの冒険」にもチュウ太ってのがいたなぁ・・・って、なんでこんな古いネタ知ってんだ俺は。
ああ・・・言葉が通じねぇからどうも一人つっこみしちまう。
校長室の隣の部屋に連れていかれて、授業の時間割を作れと言われた。なんとこの学校じゃ時間割は自分で作るらしい。まるで大学並だ。
やることが何かわかれば話は早い。男はこんなことで悩んだりしないものだ。生物学、タイプライタ−、体育、アメリカ史、美術、数学ということにさっさと決めた。毎日同じ授業を受けて、半年ごとに入れ替えるのだそうだ。科目が少ないような気もするが、一年で十二科目になるから、日本の学校と同じぐらいなもんかもしれない。アメリカ史やら数学やらとってもつまらんと思うが、必修科目だというのでしかたがない。
さっさと決めた、と思っていたが、時間割を事務に申し込んだら一時間目の終わりのブザ−が鳴った。チュ−タ−・メサ−ジェは疲れたような青い顔をしている。
白人てのは顔色悪く見えるのかな。
「さっそく生物を受けろ」
とこのでか胸女が言うので、ペンとノ−トを持って女について部屋を出た。ペンの頭に鉛筆みたいに消しゴムがついているから不思議だと思っていたら、ちゃんとインクがケシゴムで消えるんだ。
なるほどアメリカはすごいな。日本でこれが売り出されないのはなんでだろう。
てなことを考えながら、中庭に出て、驚いた。いや、正直に言おう。恥ずかしながら、叫び声をあげていたと思う。
「どうしたの!」
とメサ−ジェが大きな目を見開いたんで、この女の目は青いんじゃなくて緑色だと気がついた。
しかし、どうしたのか、と聞くからには、この中庭の状況に何の異常も感じないらしい。俺は、中庭にたむろする連中を指さしかかった手をおろした。
「ああ!」
メサ−ジェはポンと手をたたいた。
「あれにびっくりしたのね。大丈夫。あれはキスって言って、恋人たちの愛の儀式なの。変なものじゃないのよ、舌をこう、からめて、唾液を吸いあって・・・」
メサ−ジェが両手の指で解説してくれたんで、よけいに気持ち悪くなってきた。考えてみればキスってのは薄気味悪いもんだ。第一不衛生だ。
「キスは日本人もする。しかし学校ではしないのだ。中庭中キスだらけではないか」
「あら、日本じゃキスは禁止されてるの? いい? エイズはね、キスじゃうつらないのよ」
そんな事知ってるわい! と抗議しようとしたが、別な女がやってきてでかい声をあげたので、できなくなった。
「メサ−ジェ! なんだったの? 大丈夫だった? その子だれ?」
「子じゃないよ。同じ年だって」
「え−っ! 嘘っ!」
細かいところは違うかもしれないが、新しい女とメサ−ジェは俺をそっちのけにしてそんなことを言った。キッズ呼ばわりされたのは初めてだ。日本じゃたいてい年より上に見られたってのに。
しかし無理はないかな。この新しい茶色の髪の女は、俺より10センチばかり背が高いし、化粧もべったりでとても同じ年とは思えない。アメリカ人てのは肉ばっかり食ってて早く老けてしまうのかもしれないな。気の毒なことだ。
しかしこの化粧べったり巨大女に比べると金髪でか胸とは言えメサージェは化粧気もなくて、まぁまぁ同年輩に見えるのがいいところだ。
「この人、日本から来た留学生。UGっていうの」
「ふうん。会えて嬉しいわ」
でかい女は俺の方に手をさしだした。とたんに、メサ−ジェがその手をはたいた。女はでかい目をむいたから目がこぼれそうになった。
「何すんの!」
「だめよ! この子女性をすごく怖がるんだから、うっかり手なんか触ったら悲鳴をあげるわよ」
それは誤解だ。
と言いたかったんだが、また別な奴がやってきて邪魔をした。ま、誤解という英単語を知らんからどうせどうしようもないのだが。
ああもう、まともにしゃべれないってのは不便だ。自分が赤ん坊になったような気がする。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
「ハイ! メサ−ジェ! アリスン! 久しぶりだね」
やってきたのは巨大な男だった。思わず後ずさりしたくなるほどのでかい男だ。なるほどこれがアメリカの十七歳なら俺が子どもに見えるはずだ。俺は175センチだが、こいつは190以上あるだろう。
「はい、テッド。久しぶりね。元気だった?」
「ああ、ありがとう、元気だよ。君たちは?」
「元気元気。ありがとう」
アメリカはやたらと挨拶が長くてなかなか本題に入らない。
英語の授業で、一番最初に、ハウア−ユ−、アイムファインサンキュ−、アンドユ−? ってのを習うが、こんなもん絶対に普段使うはずがないと思っていた。
とんでもない。絶対にこの手順をふまないと次の段階に入れないんだ。俺には恥ずかしくってやってらんねぇよ。
テッドという男は俺の方に興味津々の目を向けた。
「こいつ何? 中国人?」
「日本人。私がチュ−タ−をすることになってね」
「へええ。英語わかんのか?」
「ゆっくり言えば聞く方はわかるみたいよ。しゃべらないけどね」
「はああん? しっかしやせっぽちだねこいつ。なにこれ、女より細いぜ」
「・・・・・」
反論できない。こいつ何食ってこんなにでかくなりやがったんだか、背がでかいだけじゃなくて、腕や足の太さなんか俺の四倍はあるだろう。大人と子どもどころか、巨人と小人だね。
「わからないよ。もしかして空手なんかやるのかもよ。日本人だし」
アリスンが俺を見下ろして言った。困った。空手ができる日本人なんかそういるもんか。俺は両手をふって、できない、のジェスチャ−をして見せた。アリスンはがっかりした顔をしたし、テッドはあからさまに馬鹿にした顔になった。
「はあん、じゃあジュ−ド−は?」
「NO」
テッドは肩をすくめた。すごい、アメリカ人って本当に肩をすくめるんだ。
「おおい、こいつ本当に日本人なんだろうな。名前なんての?」
メサ−ジェに聞いたが、見世物のようで不愉快なので、自分で答えることにした。
「俺の名前は、雄治・島谷」
そのとたん、テッドの顔色が変わった。悪い方に。
「シマタニ? おまえまさか、エイジ・シマタニの息子か? YAMADA工場の?」
あ、まじい。
家の前に立ててある看板を思えば、そうだと言った後の展開はだいたい予想できた。しかし嘘は言えない。
「そうだ」
そのとたん、テッドは爆発したような顔をして、中庭中に響き渡る声で吠えた。
「おおい! エイジ・シマタニの息子がここにいるぞ! 俺たちの学校に来てやがるぞ!」
そういうわけで、俺は、この学校にはYAMADA社員のご子息がやたらと多いということに気づかされることになった。
あっちからこっちから、憎悪のおたけびをあげて、男やら女やらが次々に集まってくる。投げ入れられたバナナに群がるゴリラのようだ。
しょうがない。親がクビになるかもしれないってんだし。よっぽど父さんの悪い噂が広まってんだろうな。
俺のまわりはでっかい顔ばかりになって、でかい目と高い鼻と裂けた口でつばをとばして何か言ってる。
何か汚い言葉らしいことを一言叫んでベロを出す奴もいる。何やら論理的に非難してきているらしい奴もいる。どっちにしたって言葉がわからない。分かったって錯綜してて聞こえない。一人ずつゆっくり言ってくれないか、なんて言ったらリンチくらいそうだ。
「死にやがれ!」
ああ、これは分かった。
「地獄に行け!」
うん、これもなんとか。
「日本に帰れ!」
定番だな。
「てめぇの母親と寝ろ!」
うちの母さんいい女だけどガキを相手にしちゃくれないな。
・・・・さて。
そろそろ腹がたってきた。父さんは業績不振の会社と工場を復活させるためにカリフォルニアまでやってきたんだ。業績不振は父さんのせいじゃないってのに。
会社と工場がつぶれたら働いているみんなが路頭に迷うってのがわからないのか。それを防ごうっていうのが父さんじゃないか!
この馬鹿やろうどもが!
だけど俺は黙っていた。
英語が話せないからじゃない(それもあるが)。ここで俺が何か言い返したりしたら、この町での父さんの立場がもっと悪くなってしまう。俺たち家族は注目されてるんだ。これ以上父さんに迷惑かけたくない。
父さんは会社でこんなめにあってるんだろうか。母さんはスーパーで販売拒否されたりしてないだろうか。俺が、父さんのためにできることが、父さんの悪口を言われても黙っていることだけだなんて!
情けない。
どんどん広がってくる騒ぎ。俺には何一つできない。くそ。
どうしたらいいんだ!
その時、耳もとでひときわ甲高いどなり声がした。
「黙んなさいよあんたたち!」
あんた、たち? たちって何だ。
俺は思わず声の主を見た。メサ−ジェだった。メサ−ジェは緑色の瞳が藍色に見える程怒ってテッドたちをにらみつけていた。
「こんな細っこい子を大勢で責めて、恥ずかしいと思わないの!」
「メサ−ジェ、メサ−ジェ、メサ−ジェ」
テッドが悲しげに首をふった。
「誤解しないでくれ。こいつは悪人の息子なんだよ。メサ−ジェ、悪人に味方するつもりじゃないだろう」
「馬鹿言ってるんじゃないわよ! エイジ・シマタニがどれほどの極悪人か知らないけどね、それとUGとどういう関係があんの。父親に何もできないからか弱いその息子をいたぶってうっぷんはらそうっての? ちょっとケツの穴小さいんじゃない?
覚えておいて! メサージェ・イーデンはこのUGのチューターよ。こいつに何か言いたい時にはこの私を通してちょうだい。
・・・誰か、文句のある人いる?」
これほど大勢が集まった中庭が静まり返った。
顔を見合わせている連中もいる。少し小さくなったように見える。
授業開始のブザーが鳴った。ゾロゾロとみなこちらに背を向けて去ってゆく。
小さくならなかったテッドだけがメサージェをにらみつけた。
「メサ−ジェ、やっぱり噂は本当なんだな。悪人は、悪人の味方をするってことだ。」
テッドはわざとらしく悲しげに首をふって、そしてドカッと俺の肩にぶつかって、中庭を横切っていった。
俺はメサ−ジェを見た。メサ−ジェは俺の方を見ず、テッドの去っていった方をまだにらみつけている。俺は、そのメサ−ジェのひざが、がくがくと震えているのを見た。
その震える膝を見たとき、俺は気づいた。
このメサ−ジェ・イ−デンという女は、俺が今までに出会った中で、最高に美しい女だ。
「メサ−ジェ・・・」
アリスンが両手をまわしてメサ−ジェをギュッと抱きしめた。
「私は、あんたを愛してるからね」
俺は、さっきメサージェに抱きつかれた時つきとばしてしまったことを心の底から後悔した。時間を戻せれば俺も思い切り抱き返すのに。
ああ・・・。できやしない。
今、アリスンと同じことをすればいいだけなのに、俺にはできない。
だから、アリスンが授業に走っていった後、これだけ言った。
「ありがとう。心から感謝します。あなたの為なら俺はなんでもするでしょう」
メサ−ジェはちょっと笑った。
「気にすることないよ。授業に行こう。私たち遅刻だよ。スミス先生、すっごく怖いんだから」
メサ−ジェはかけだした。俺も続いた。テッドの言っていた、メサ−ジェが悪人だという意味は、とうとう聞くことはできなかった。