朝の幽霊
そろそろ高く昇って来た真夏の太陽が、あちらこちらに未だしつこくへばり付いている夜のかけらを、さあ一掃しようと腕まくりをし、やおら手慣れた仕方で攻撃を開始した。その光を次第々々に強くして行き、地表のありとあらゆるものをじりじりと炙り始めたのだ。木陰のひんやりとした湿った空気、物陰から物陰へと密かに渡り歩いていた涼しやかなそよ風、灌木の裏側にのんびりと群れを成していた水滴、などが真先に犠牲になった。池の表面で踊っていた水蒸気、小石の下にうずくまっていた湿り気、蝙蝠が残して行った空気の幾重もの細い流れ、等々が後に続く。夜のかけら達もごそごそと小さな抵抗はしているものの、物事には順序というものがある。朝がやって来たら夜は消えねばならないのだ。夕暮れ時には両者の立場が逆転するだろう。しかし今、この時、世界を支配するのは太陽、夜はその居場所を持たない。こんなことはずっと大昔から、何回も繰り返し行なわれてきたことなのであって、たまには違った具合に、という訳にはいかない。そうして、勿論今日この時にも同じことが繰り返されたわけだ。あたりの空気に立ち込めていた薄い靄が綺麗に取り払われてしまう頃には、太陽の勝利は確定した。雀のさえずりはその勝利を祝福するかのよう、―――朝である。
ところで、ここはごく当たり前の田園地帯、農地の整理がはかどっていないらしく、不規則な形や大きさの水田がごちゃごちゃとひしめき合っている。所々こんもりとした大きめの畦に一本ずつ松が生えていたり、水田と水田の曲線的な境目に細い用水がくねくねと流れていたり、木組みにトタンをかぶせただけの年季の入ったよれよれの小屋が一つ、ちょこんと建っていたり、もうすでに仕事を始めているらしい人影がちらほらと見かけられたり、鳥よけのための目玉をかたどった大きな風船や、同じく鳥よけ用の巨大な蜘蛛の巣の様な網や、昔ながらの案山子などがそれぞれ自分の義務を果たすため、浮かんでいたり揺れていたり立っていたりと、やはりどこにでもある田園風景だ。稲も青々と波打って、今年も豊作が期待できよう。
こんなのどかな場所に、しかし真夏の太陽は容赦なくぎらぎらと照りつける。湿度もぐんぐん上がってきた。蒸し暑い。風もなく、雲もなく、当然のことながら雨も降らず、にもかかわらず変に湿気を含んだ空気がべとべとと体にまとわりついてくる。朝からこれでは今日一日が思いやられる、と誰もが感じることだろう。どこからか聞こえてくる、気の早いアブラゼミの鳴き声が、この蒸し暑さをいやが上にも増加させているかのようだ。
おまけに、この辺りに広がる水田は満々と水をたたえているものだから、その田んぼ特有の臭いがむっとたちこめて人の頭をくらくらさせてしまう程だし、その田んぼの畦やら用水の土手やらにびっしりと生えている雑草共の草いきれが、これまた目が回りそうな程むんむんとしている。こんな過酷な真夏の空間と化しているここ、この片田舎に私鉄の支線――しかも単線――が延びていて、決まった時間に二両編成の赤い電車がごとごとと走っている、とこのことを言うのを忘れていた。一番大事なことなのに、ついうっかりしていたらしい。これもみな、この不快極まる真夏の暑さのせいだ。
さて、午前八時、いつもの様に赤い電車がやって来た。
この電車なんだが、はっきり言っておんぼろだ。わずか二両編成、しかも単線の上を頼り無げに走っている。加えて、この夏のさなかにほとんどの窓を半開にしているところからも分かる通り、冷房設備さえない。(全開にしていないのは何故か、それではあまりにあからさま過ぎる、という訳か?)また制動機の利きも悪いから、各駅ごとの停車も非常に騒々しい。勿論、激しい縦揺れ付き。走っている最中は、と言えば、これまた横揺れが激しい。場所によっては、明らかに線路自体が傾いてしまっている。乗客にとってはさぞかし気持ちが悪かろう。車体の赤の塗装は所々剥げているし、車窓のガラスはゆがんでしまっている。やはりどう見てもおんぼろだ。
ではこの電車の内部は、と言うと、中もやっぱり薄汚い。天井は、元は白かったはずなのだが茶色くすすけてしまっている。昔の建物のプラスター塗りの天井の様に、ほら、西洋の古い建物の天井なんかによくある、あれだ、あんな風に汚れてしまっている。ただこの電車の天井の場合、そのような、所謂年月を経た風格、といったものはない。ただ古いだけ。少し下へ行って、壁、これも天井と似たり寄ったりだろう。ひび割れてめくれ上がったペンキ、何がくっ付いているんだか分からない黒いしみ、セロテープのかけら、引っかき傷、などなど。明らかに『きれい』ではない。もっと下の方へ行って、床、これは更にひどい。板張りなんだが、汚れで真黒になってしまっていて、そこここにすき間ができていて腐っているのではあるまいか、と思われるほど、噛み捨てられたガムがへばり付いていたり、乾いた泥の粒が擦りつけられていたり、寄り集まったほこりが隅っこの方で頑張っていたり、と少なからずむさ苦しい。―――与太ったようなハンモック型の荷置き棚、電車の振動に合わせて激しく揺れ動く吊り輪、三十度を超えた目盛りを指し示している温度計、頭の上でひとを馬鹿にしたような調子で首を振っている扇風機、締まりが悪くなってがたがたと音を立てている窓枠など、などなど。
(ここで、念のために一つ言っておかなければならないだろう。実は、この話は今から四十年程前に起こったことなのだ。これまで散々悪口を並べてきたが、現在はしっかり改善されているらしいので、ご安心を。しかし逆に言えば、半世紀弱くらい前となると、実際こんなものだったのである。)
このようなおんぼろ電車なんだが、朝夕の通勤・通学時間帯には大層混んでいる。と言うのもこの支線、日本国を代表するような大きな会社の本社がある町へと続いているのだ。その会社は自動車を沢山作っている。そうして、それがよく売れる。日本中、いや世界中でこの会社の作った自動車が、所狭しと走り回っている。世界中の多くの人々が、この会社の、ローマ字で書かれた名前を知っているだろう。大したものだ。世界中の多くの人々が、この会社の自動車によって随分と助かっているだろう。実に大したものだ。にもかかわらず、こんな大した会社の、しかも本社のある町に向かって、こんな古ぼけた、貧相な電車しか走っていないとは、いかにも不釣り合いだ、似つかわしくない。もっと立派な電車が走っていてもいいはずなのに、おかしなことだ。おかしなことなのだが、現実はこの通りなのである。まあ、仕方がない。
とは言うものの、この電車に押し込められている人達にとっては、仕方がない、ではとても済まされないことだろう。町の会社や工場や役所に行くために、大学や高校に行くために、デパートや商店街に行くために、そうしてそこで働いたり勉強したりするために、乗客達は否応なく、このモーターと車輪の付いた鉄の箱の中に乗り込まざるを得ないのだ。無論、彼らは皆いい顔はしていない。ここだけの話なのだが、働いたり勉強したりすることは、実のところあまり愉快なことではないのだ。そうして、これも本当は内緒なんだが、結局は皆、多かれ少なかれ仕方なく、嫌々ながらしていることなのだ。ついでにもう一つ付け加えておこう。今日は実は、月曜日なのだよ。そう、当然昨日は日曜日、皆きっとのんびり、楽しくできたはずだ。ところが、今日という日は働かなければならない日、勉強に行かねばならない日、ああ、また憂鬱な一週間の始まる日―――、そういう日だったのである。
だから今日の乗客達の顔付きは、いつにもまして険しかった。ただでさえ厳しい夏の暑さ、それも蒸し暑いときている。その上、まことにおんぼろな電車、しかも騒音と激しい振動付き、更には冷房なし、扇風機だけ、とどめはほとんど満員状態―――そして先程も言った通り、今日は月曜日なのだ。で、乗客達の顔付きはやはり大変に険しかった。色々な険しい顔、顔、顔を葡萄の房のごとく車窓いっぱいにぶら下げながら、二両編成の電車はのんびりと、ごとごとと走って行く。乗客一人々々の不機嫌を腹一杯に詰め込んで、おんぼろ電車は常と変わらずがたがたと走って行く。この赤い電車にとっては、月曜日も日曜日も関係ない。ただちょっと運行時間帯が違っているのみ、それ以外は何も変わらない。しかし、この変哲の無さが、この世の不幸を一身に背負っているような気分にある人間にとっては、おそろしくやり切れない。乗客達の様々な不満は、更に増大して行く。会社員は会社員の、店員は店員の、工員は工員の、公務員は公務員の、教師は教師の、学生は学生の、また若者は若者の、中年は中年の、更には、女は女の、男は男の、結局最後にはそれぞれ各人の、それぞれの個人の―――まことに多種多様な不満が、どんどんと増幅して行く。その成長しつつある不満は、そうして次第に怒りや憎しみへと変わって行く。どうして自分ばかり、どうしてこんな風に、どうしてもっと違う風にではなく、どうしてこう思う様にならない、―――それはあいつらがいけないんだ、あの太陽が、あの湿った大気が、あの水田からの水蒸気が、このぼろ電車が、この月曜日という、今日、この日が、この混雑が、このぎゅうぎゅう詰めの、この人混みの、そう、こいつらがいけないんだ、この自分の周りにいる、こいつらが、――――。
と、いささか物騒な表現になってしまったが、とにかく電車内部の雰囲気はまことにとげとげしかった。満員なんだから、多少体がぶつかり合ったりもしようが、それが気に入らない。大概誰しも鞄やバッグを持っているから、それが引っかかってしまったりする、それが気に入らない。そしてたとえ何らかの接触がないにしても、やたらと蒸し暑いこの電車の中で大勢の人間に取り囲まれ、その積み重ねられた巨大な体温のかたまりがじりじりと迫って来る、それが気に入らない。果ては、自分の視界に自分にとって好ましくない他人の顔が入り込んで来たりする、それがどうにも気に入らない。だから各人はその身を守るために、孤立し、他人の存在を忘れようとし、自分自身の内部へと沈潜して行く。或る人々は、目をつぶり立ったままうたた寝をしようとし、或る人々は、用意してきた文庫本に没頭しようとし、或る人々は、窓の外を眺めながら車外の景色のみを意識の中へ流し込もうとしている。また或る人々は、頭部にウォークマンを装着し、大音量で音楽を鳴らし、自分自身はその音に没入しようとしているが、外部にはチャカチャカチャカと小さいながらも悪意に満ちた騒音を漏らし続ける。更に或る人々は、――彼らが一番問題なのだが――様々な仕方で、自分は自由であると外部に喧伝する、自由人であることを演技する、自分が自由であると思い込もうとし(それが本当かどうか分からないが)、その表現を露出する、つまりは傍若無人を演ずる、ということ、そう、所謂『学生』達だ。これについては多言を要すまい。―――結局、乗客達の一人々々が多かれ少なかれ他人から不快感を受け、また同様に彼ら一人々々が多かれ少なかれ他人に不快感を生じさせるという訳だ。電車内部の小さな空間で不平不満が、まるでハリネズミがどんどん巨大化して行くかのように、増殖していった。人々の心の風景、という面から見れば、まことにここは殺伐とした荒野なのである。
このような乗客達のおぞましい凶暴な内面とは裏腹に、彼らを乗せた赤い電車はやはりのんびりと、のどかな田園風景をごとごとと走っていた。この電車の運転士及び車掌も、心穏やかに自分の義務を遂行していた。暑いことは暑い、確かに、しかし電車の走りは快調だ。彼らには電車の気持ちがよく分かる。世間からは、おんぼろだと言われているこの電車だが、彼らにとっては本当に素敵なマシーンなのだ。そりゃあ、本線をかっ飛ばしている特急列車に比べたら随分と劣るかもしれないが、それは比較の対象を間違えている、フェアじゃない、こいつは、これで完結した立派な電車なんだ、乗客達を安全に、そして時刻表通りに正確に、また出来る限り快適に、――まあ、ここは大いに悩ましいところではあるが――目的地に送り届けている。誰にも文句なんぞ言わせない。
その意気や良し。この誇りは正当なものだ。田舎の支線を堂々と走る二両編成の赤い電車、己の義務を果たし誇り高く運行し続ける旧式電車、そして様々な悪条件の中、最善を尽くし職務を遂行する運転士と車掌、―――当たり前の光景というものは、幾多の義務感、幾多の経験、幾多の努力によってようやく保たれるものなのである。このことはどれ程強調しても、し過ぎることはない。
だがしかし、しかしなのである。別段こうした立派な努力というものを茶化すつもりなど毛頭ないのだが、しかし事実というものは如何ともし難い、どうしようもない運命によってこの当たり前の風景が破られてしまうこともある。こればかりは、どんな努力もどんな経験をもってしても、無力だ、重ねて言うが、如何ともし難い。今日、この支線において起こったことは、正にこれに当てはまる。そして、また、それは突然に起こった。突然に、そう、その時運転士の顔は瞬時に真青になり、反射的に制動機を目一杯可動させた。当然電車は、ガガガとも、ギギギとも、形容し難い音を立てて止まろうとする。後ろの車両で、何も知らない車掌は、いきなり壁に叩きつけられ、それでも両腕で体重を支え事無きを得たが、この突発事態の中、その原因を把握できようはずもなく、顔面蒼白になった。列車内の乗客達は立っている者も座っている者も、皆一斉に前方方向に恐ろしい勢いで引っ張られることになり、或る人達は、吊革、柱状の鉄棒、壁、椅子の手摺、隣の誰か、などにしがみつき、これも事無きを得た。しかし生憎と、差し出した手に何も触れず空しく宙をつかみ、そのまま一回転、二回転と程度に差こそあれ、転んでしまった不運な連中も何人かはいたのである。乗客達は全員、暫くの間何が起こったのか理解できず、そろいもそろってただ目をまんまるにして口をぽっかりと開けたままだった。運転士の方も、全ての操作を無意識のうちにやり遂げると、それから彼も乗客達と同様に、ただ彼の場合は安堵とともにではあるが、しかしやはり同じ様に茫然としてしまった。かろうじて停車した電車の、ほんの手前の線路上に、一人の人間らしき人影が横たわっていたのである。
* * * * * * * *
かの尊敬すべき運転士は、無線機を通した車掌の声でふと我に返った。一体何が起こったのか、自分はいつもと同じ様に電車を走らせていた、安全、正確に、常と何ら変わりなく、全ては順調だった、しかしいきなり視界に飛び込んできたのだ、あれが、そして力任せに急ブレーキをかけた。この感触はこれまで一度も経験したことがないものだった。今でもその感覚が指先、腕、肩、腰、そして心臓にたっぷりと残っている。非常に不愉快なものだ、それにこの急ブレーキによって、乗客達はどうだったろう、怪我人など出なかっただろうか、しかし、それもこれもみんなあれのせいだ、そう、あれが、―――と目をやると、やはりいる。白い人影らしいもの、線路の上に横たわっているように見える、乗客達も心配だが、先ずはこの人影だ、どこの馬鹿者がこんなことをしているんだ。
ずっと呼びかけている車掌の声を聞き流しながら、彼はちらりと後ろの方を見やった。悲鳴も聞こえないし騒ぎも起きていない様子。大した速度も出ていなかったので、大きな事故はなかったようだ。少し安心して、マイクに向かって車掌に二言三言適当に返答し、それから運転室のドアを開けると、手摺にぶら下がりながら外へ下り立った。保線区の仕事をしたことがないので、新鮮な感じがした。これまでは、その上で電車を走らせていただけの線路の硬い鉄の踏み心地は、意外にも柔和だった。見慣れているはずの景色も、視線がいつもよりずっと下の方へ下がったためか、随分と大きく迫力があるように見えた。彼はちょっとばかり眩暈の様なものを感じながら、あれの方へ歩を進めた。あれは間違いなくいた。距離は五メートルと離れていない。彼はそれを見下ろし、つくづくとながめ、そして嘆息した。
何だ、こりゃ?
これが彼の正直な感想だった。それは確かに人間の様に見える。いや、或る奇妙なところを除けばまったく人間そのものだった。それも、どこにでもいそうなありふれた中年男だ。体形はいささか太り気味、服装はこの季節としてはごく普通、半袖ワイシャツにズボン、靴下をはいて革靴をはき、ネクタイもしている、これはだらしなく緩められているが、そういえばワイシャツの一番上のボタンもはずされている、頭は少し禿げかかっており、丸っこい顔に丸い鼻、ごくごく普通のおじさんに見える、そしてこのおじさんが、不届きにも線路の片方を枕にし、堂々と仰向けに、大の字になって寝ているのだ、その厚めの胸を上下に大きく動かしながら、大きないびきをかきながら、―――というように、見える。
そう、どう見ても、酔っ払って事もあろうに線路上で寝入ってしまい、大いびきをかいている不埒な中年男としか見えないのだが、しかしどういう訳かこのおじさん、頭の先からつま先まで、どこもかしこも真白なのだ。てかてかしているはずの頭の地肌も、少ない毛髪も眉も、腕の皮膚もワイシャツ(これはこれでよいのか?)も、ネクタイもズボンもベルトも靴下も革靴も、黒でもなく肌色でもなく紺でもない、赤でも黄でも灰色でも茶でもない、何から何まで白なのだ。しかも心なしか、少々透けて見える。その顔の部分、胸の部分、腕、腹、脚、どこをとってもやはり何だか透けている。体の下の線路や枕木、砂利までも、薄ぼんやりと透けて見えている。―――おかしい、その上さっきも言ったように、見た目はいびきをかいて眠っているように見えるのだが、しかしこの人間の様なものからは、何の音も聞こえてこない。全く静かなのだ。視覚と聴覚との関係が奇妙にずれて気味が悪い。まあ百歩譲って、いびきはかいていないとしてみよう、しかし寝息、息遣いくらいはあっていいはずだ。ところがそれすら聞こえて来ない、全くの静寂、他の全ての音までもが吸い込まれて行ってしまうような静寂―――。
これは何だろう? 運転士は考えた。この人は何者だ? ではない。ここにある、これ、これは一体何だろう? この問いが、彼のまことに正直な疑問だった。しかしそれに対する答えはなかなか見つからない。一つ、あるにはあるが、あんまりおかしい、そう、科学的ではないし、第一今は朝だ、夜じゃない、丑三つ時では勿論ない、おまけにここは墓場でも森の中でもないし、柳の木だってありゃしない、茫然と突っ立ったまま彼は独り言を言った、下らない、幽霊のはずがない。
そこへ、やはりドアを開けて電車を下りた車掌が息せき切ってやって来た。そして見たのだ、この事実を。運転士はまだいい、いくら不意打ちとは言えこれまでの出来事を自分の目で見、それに対する反応を自分自身で行なってきたのであるから。しかし彼は違う、いきなり急ブレーキで叩きのめされ、打ちのめされ、挙句の果てに言わば無理やり電車の外に放り出されたに等しく、そして今理不尽にもこのような状況を唐突に突き付けられたのであるから。彼もまた、青ざめて立ち尽くしてしまっている運転士の隣で、同様にみしみしと凍りつき、喉と口だけが微かに動く、
何だこりゃ。
二人は顔を見合わせ、すぐにまた同時にこの奇妙なものに視線を戻した。
彼らとこの奇妙なものの周りでは、強烈な真夏の朝が逆巻いていた。先にも言ったように、ここでは既に朝が夜を完全に制圧してしまっている。夜の闇、不明瞭さ、曖昧さ、不透明さ等々は全て排除されてしまっている。朝の光、明瞭性、判明性、分別性などで満ち溢れている。周囲の風景も、その輪郭がぐいぐいと押し引かれ、色彩がその線と線との間にべたべたと流し込まれ、太陽のぎらぎらした光で炙られ蒸され、固められている、溶けて流れてごちゃごちゃしてしまうことのないように、ぼんやりとしたところなど何処にもないのである。―――そう、今現在のこの場所を除いては。
こうして、運転士と車掌はひたすら突っ立っているしか仕様がなかったのだが、置いてけぼりにされた電車の乗客達はそうはいかない。一時の衝撃から立ち直ると、ざわざわと反応し始めた。自分たちを襲ったこの理不尽な出来事に対して、抗議の声が上がり始めたのだ。「何だ何だ、どうしたんだ。」「こんなところで急に止まりやがって。」「説明がないぞ、説明が。」「一体どうなってるんだ。」「客をなんだと思ってる。」「金を払ってるんだぞ。」「責任者出てこい。」等々、まあ、実に陳腐な言葉が続く。どうせ言葉にするなら、もう少し気の利いたことを言えばいいのに、と思われるのだが、しかしあまりきついことも言うまい。なにしろこれら、根は善良な乗客達は、様々な艱難に耐え、辛苦を乗り越えてきたのだから。蒸し暑さ、満員電車、扇風機の熱風、絶え間ない騒音、振動、そして今日は月曜日、―――いや、止そう、こんなことはこれまでしつこい程繰り返してきたことなのだ。だからやはり大目に見てやらねば。多少野卑な、至極平凡な言葉しか出せなくとも、行動はまだ落ち着いているのだから。それにほら、あの、ちょっと口に出すのが憚られる様な単語のみを連発し、無様で野蛮なダンスを披露しているあの連中、そう、所謂『学生』達よりはどれ程ましか知れないのだから。
どんなに騒ごうが、しかし事態は改善されない(当たり前だ)。怒号は更に高まり、乗客達のいらいらは怒りへと変わり、その叫び声は呪いの様な響きを帯びてきた。これまで個々ばらばらだった人々の意識が、次第に統一されてきた。だが、これは危険な兆候だ。そのまとまりは、怒りの対象へと絞られて行く。これまで人々は、それぞれに巻貝の様に各人の内へと閉じこもり、他者を排除しようとしてきた。自分自身の内部へと逃げ込んでいた。ところがここにきて、個々人の自我が恐る恐るにではあるが、外部へぬるぬると這い出してきたのである。一旦顔をのぞかせてみると、これはまたどうしたことだ、周囲には見知ったような顔々々が並んでいる。そう、皆腹の底では怒りに満ちてはいるものの、しかし自分の外へと出て行くことはやはり不安だ、どぎまぎしている、そんな顔々々が並んでいるのだ。なんだ、皆同じじゃないか、皆自分と同じなんじゃないか、そうだったんだ、と納得する。そうだ、そうだ、自分と同じように皆怒ってるんだ、よし怒ろう、皆で一緒に怒ろうじゃないか、皆で怒れば―――今までびくびくし、おどおどし、他人が嫌で、他人が怖くて、他人からあれほど逃げたがっていた、ほら、一つ一つの自意識が怒りの対象へ向けて一致団結し、まとまって行進しようとしている。そうなのだ、乗客達は今まさにパニックを起こそうとしていた。そして例の『学生』達は、そう、通常の空間においては異分子であった彼らはどうしているか、と言うと、―――残念ながら、このパニックに便乗し、溶け込んで、あまつさえ煽っている、彼らはこのような状況においては、決して異分子とはなりえないのだ、情けないことに。
誰にも止められない、防ぎようのないパニックは、次の瞬間いきなり大きく膨張した。激しい怒号が飛び交い、過激な身振り手振りがそれに伴う、足を踏み鳴らす音、壁を叩く音、振り上げられた拳が空を切る音、そして列車の車体が揺れる音、―――ばん、と窓が一つ大きな音を立てて全開された、一人の屈強な男が、その体に比べると少々狭すぎると思われる窓枠から、その図体にしては妙に素早い動きで外へ飛び降り、すぐに現場へと走り出した。するとまた、ばん、ばん、と別の窓が開け放たれ、今度は一人の男と一人の女が同様に続く、そこへ間髪を入れず、ばん、ばん、ばん、ばん、ばん、おまけに非常開閉ボタンが押されたのだろう、ドアまでも手動式にされ車両全てのドアが全開になっている、―――あっという間に赤い列車の車体から、人間があふれ出始めた。こんな光景は見たことがない。赤い車体から多くの人間どもが、急流の様に流れ出して来るのだ。しかも皆が皆、目を血走らせ怒りで顔を真赤にし、湯気でも立てそうなほど頭を(この地方の言い回しによれば)ちんちんにして、もう少し遠くからこの様子をながめたら、赤い列車から赤い波が流れ出しているように見えたのではなかろうか。それ程までにこの群衆は、どこから見ても赤、赤、赤、だったのだ。しかしこの赤い波も、目的地へと殺到しその場面に出くわした途端、その色を一斉に青く変えて行くことになる。例の場所に着くや否や、一人々々の目は大きく見開かれ、表情は当惑からか青ざめ、皮膚には鳥肌が立つことになった。人々はそのまま現場の周りに輪を作って、何も言わず身動きも出来ず、目は一点を見つめたまま青々と凍りついていった。人々は見たのだ、この奇妙なものを。
何だこりゃ、
やはりこれが彼らの正直な感想だった。乗客達全員の感想だった。列車内にいた全ての乗客達がここに集まっている。様々な職業の、様々な年代の、様々な地域の他人の集まりが、ここに輪を作っていた。勿論、あの『学生』達も仲間に加わっている。口をあんぐりと開けて、阿呆の様に、しかし実に素直そうな面持ちで、他の人々と同じ様に突っ立っていた。
この変なもの、は、誰の目にも、第一発見者たる運転士や車掌にとってと同様に、理解し難いものとして映った。しかし同時に、この変なものは、この今の、朝の太陽と同じ様に明らかに、疑いなく、彼らの頭の中に幼い頃優しく刷り込まれた一つのイメージと、驚く程ぴったり合致しているのであった。これは、まさしくあれだ、と誰しも心に思った。これは、あれ以外の何物でもない、しかしそんなはずはない、馬鹿な、自分は何を考えているんだ、下らない、幽霊だって?
人々は混乱しつつ考えていた。これについて合理的な説明をしようと、一生懸命に頭を回転させていた。しかし、所謂まっとうな説明というものは、自分が今幻覚だか幻影だかを見ている、というようなことしかなさそうなのだ。はっきり言って、それしかない。それ以外に、この眼前の、酔いつぶれて線路上で眠り込んでいる白い半透明の下品な中年男、のようなものが何であるのか、ということを説明できるわけがない。確かにそうするしかないんだが、だとすると自分のまわりのこの連中の反応はどうなんだろう、どう見ても自分と同じものを見ているとしか思えない、その視線、目付き、表情、どれをとってもこの白い半透明の酔払いらしきものを見ている、としか思えないのだ。とすると、ここにいる全員が揃いも揃って何らかの幻を見ている、ということになるのだろうか、それが事実ということなのだろうか、下らない、これもやっぱりあり得ない。
人々は、ただただ沈黙した。ただしあの、―――またしても、あの『学生』達を除いては。彼らは人目をはばからず大きな声で喋っていたのだ、今この場所における最大の禁忌を、しゃあしゃあと。「おい、こりゃ幽霊だ。」「そうそう、どう見たって幽霊だ。」「俺初めて見たよ。」「こんなもんだったのかね。」「しかしまあ、なんと言うか、下品な。」「俺達みたいだな。」「それを言うなよ。」等々、実に興奮している。
他の乗客達は、この無邪気なお喋りを聞きながら、何故だか次第に落ち着いてきた。そうなんだ、これは幽霊なんだ、緊張感もなにもないが、紛れもなく、ここにいる全員が確かに見、そのように判断している正真正銘の幽霊なんだ、出来の悪いアニメの様ではあるが、恐怖映画のパロディーの様ではあるが、しかし間違いない―――これは幽霊だ、それにしてもこんな朝早くから―――。
とその時、当の幽霊がぴくりと動いた。その場の全員ははっとした、学生達もぎょっとした。幽霊は顔面の各部分、腕や手、指、脚なんぞをもぞもぞと動かし始め、そうしておもむろに大きく―――あくびをした。まことにのんびりと、寝転がったまま大きく背伸びをしながら。当然、腕や脚をいっぱいに伸ばしたものだから、線路下に敷き詰めてある石が二つ三つからからと音を立てて転がりそうに思われたが、やはりかちりとも音はせず、いささかも動かなかった。そしてやはり、幽霊の口からは何の音も聞こえて来なかった。目に見えるだけの大あくびである。
幽霊は目を覚ました。とてもよく分かる仕方で。モノクロ映画の一場面のように、その色彩の無い輪郭だけの顔の、それまで閉じていた目の部分がぱちりと開いたのだ。開いて二三秒間はそのままだった。しかし次の瞬間、その目は慌てたように、大きくなって左右上下にくるくると動き回り、顔全体に驚愕の表情を浮かべ、がばりと上半身を起こした。人々は思わずたじろいだ。幽霊は、今度は首を左右に振り、きょろきょろと見回した。そうして赤面した、―――いや、赤面したように見えた。おかしな話だがそのように見えたのだ。幽霊を取り巻いている運転士、車掌や乗客達全員に、そう見えたのだ。勿論、実際には色なんぞ何色だろうと着いていない。それは誰しも分かっていることなのに、それなのに誰の目にもこの幽霊が赤面したように見えたのだ。
幽霊は、はじかれたようにぴょこんと立ち上がった。それから、いかにもばつの悪そうな表情を浮かべ、続いて情けなさそうに照れ笑いを浮かべた。幽霊は頭をかきながら周囲の人々にひょこひょことお辞儀をし、照れ隠しのように愛想笑いを振りまきながら、突然、ただ一か所だけ開いていた人垣の切れ間に向かって突進し、中年男としては信じられないような速度で走り抜けて行った。全てがあっという間の出来事だった。
人々は呆気にとられて、逃げ去って行く幽霊の方をながめていた。幽霊は水田の畦の上をよたよたと走っていたが、一度、何故だか無様にこけて、すぐに四つん這いに体を起こし、それからそっとこちらの方を振り返ったが、人々の視線が自分に集中していることを認めると、もう一度頭をかきながら愛想笑いでごまかし、立ち上がってもう一度走り始めた。走って行って、走り続けて、それからすぅーと消えて行った。まだ、視界から消え去る、といった距離でもなかったのだが、霧の中へでも溶け込んで行くようにきれいにフェイドアウトして行った。
人々は暫く、呆然とそちらの方をながめていた。そして、それぞれ身近な人同士顔を見合わせた。その時この集まりの一角から、くっくっくっという苦しげな笑い声が響いてきた。例の学生達だ。彼らは互いに片手を相手の肩に置き、もう片方の手を自分自身の腹に当てて、いかにも愉快そうに笑っていた。涙を流さんばかりに笑いこけていた。その笑い声を聞きながら、互いに顔を見合わせていた他の人々の口元にも、ふと微笑みがこぼれた、そうして周囲に笑いがさざめいた ―――。
* * * * * * * *
真夏の朝の太陽は、もうかなり高くなっていた。水田はぎらぎらと煮えくり返り、畦の草むらは熱せられてざわざわと息をはずませる。大気は粘りつくようにぐらぐらと還流し、小さな空き地に建っている掘っ立て小屋は焼け焦げて縮こまる。そんな風景の中、あの二両編成の赤い電車はいつの間にか再び走行を開始していた。相変わらず、古ぼけた単線の上をのんびりとゆっくりと、多少左右に揺れながら、窓を全開にしたまま、常と変わらずごとごとと走っていた―――。
いや、いつもと違うところがある。いつもより時間が遅れているのだ。そしてもう一つ、車窓からのぞいている乗客達の顔付きが、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。上機嫌、といった風ではなかったが、とにかくそれは不機嫌そうではなかった。それぞれ皆、物静かな表情を浮かべていた。のみならず、時折ふと微笑みなど浮かべてみたりするのだった。特に、あの学生達なんぞはやたらと明るく騒いでいた。大きく口を開けて笑いながら、身振り手振りを交えながら、楽しげに。
事件は終わったのだ、とにもかくにも。運行時刻に狂いは生じるだろう、これは仕方のないことだ。少しばかり遅刻する人が出るかもしれない、これも仕方のないことだ。運転士と車掌は駅で大目玉をくらうかもしれない、やはりこれも仕方のないことだろう。まあ、いずれにしても過ぎたことは済んでしまったことなのだから。
さあ、今日は月曜日だ。