表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/10

幕間2 些細な変化

ヨハン視点です。


 好きなものに夢中な彼女の顔を、もう一度見たい。それだけの理由だった。


「なあ、結婚生活はどうよ」


 仕事をしていると、パトリックが聞いてきた。チラリと見る。彼は資料を読んでいた。視線を戻し、俺も仕事の手を止めることなく答える。


「いいと思う」

「淡白だなぁ」

「ほかに言いようがない」

「いやいや、もっとあるだろう。デートに行ったとか、毎日おはようのキスをするとか、夜の彼女は積極的だとかさぁ」

「下世話だ」

「お前には負けるよ、色男」


 パトリックが資料をしまって、俺の肩に自分の肘を乗せる。コイツのこういうデリカシーのなさが、女に好かれない原因だろう。

 だが、俺はコイツの遠慮のないところが好ましいと思っている。だから、長い間友人なんてものをしているし、仕事のパートナーとして最も信頼している。


「実際どうなのよ。上手くいってんのか」


 飄々としているが、彼が心の底から心配していることが窺える。自分の幼なじみ達が、きちんと暮らせているのか気になっていたのだろう。こんな奴だが、彼は別に薄情な人間ではないのだ。



「多分」

「多分じゃ分かんねぇよ」

「うるさい、俺だって分からない」

 

 急に縮まった距離に、俺は戸惑っている。

 俺の知っているエミリアと、どんどんかけ離れていく彼女についていけていない自分がいる。

 俺は、ずっと整理を付けられずにいた疑問を、パトリックに聞くことにした。エミリアとも幼馴染である彼なら、何か答えをくれると思ったのだ。


「パトリック、エミリアは演劇が好きだったろうか?」

「劇? あー、嫌いじゃなかったと思うぜ。小さい頃、何度か見に行ったし」

「行ったのか」

「お前は覚えてないと思うぜ。誘っても興味なさそうだったから、二人で行ったんだよ。まあ、エミリアも珍しく楽しそうだったよ」

「そうか」


 なら、彼女が昔、役者に憧れていたというのは嘘ではないのか。

 あの彼女が役者を夢見ていたというのは、俄かには信じられなかった。だが、楽しそうにしていたというのなら、本当なのだろう。



「なんだ、デートで行ったのか」

「ああ、先日」

「なんかあったのか」

「いや、そうではないんだが、俺の知る彼女はもっと――」


 そこで言葉が途切れる。この先の言葉は、本人にも他人にも言うべき言葉ではない。


(俺の知る彼女はもっと、生きづらそうだった)


 人との交流が上手くいかず、かといって家柄に引き寄せられる人間が後を絶たず。そんな彼女の姿を見て、俺はとても生き辛さを感じていた。だから、俺は彼女の婚約に否を唱えなかった。


 あの日、エミリアと出掛けたのは、ほんの出来心だった。だが、その帰りで彼女にまた行こうと誘ったのは、明確な俺の意思だった。

 無防備に笑う彼女の姿が珍しかったから。

 また見たいと思ったから。

 たったそれだけの理由で、次の約束を取り付けてしまった。俺は一体、何をしたいのだろう。



(穢したくない)


 俺は、彼女を穢したくないから、距離を取っていたのに……。


 黙り込む俺にどう思ったのか。パトリックは「ふーん」と言いながら、俺の肩から肘を退き、代わりに背中を叩いた。


「ま、結婚すりゃ相手の知らないとこばっか出てくるだろ。気長にやれよ」

「…そうだな」


 俺は相当参っているように見えたのだろうか。珍しい励ましに、久しぶりに肩の力が抜けた。自分の机を見る。進捗は順調。

 少し息抜きをしよう。俺は席を立った。


「どっか行くのか」

「休憩だ」

「浮気はほどほどになぁ」


 背中に掛る声に適当に手を振る。


(最近はしていないんだがな)


 まあ、訂正することでもないだろう。俺は馴染みある、俺だけの休憩所へと歩いていった。




 浮気はいけないことだと、皆は言う。俺も同感だ。けれど、俺は止められない。この飢えが消えない限り、俺はこの行為を止めない。それはエミリアには満たせないものだ。


「げっ」

「嫌なら来なければいいだろう」

「私だって好きで来るわけじゃない」


 いつもの休憩所で休んでいると、最近知り合った女が来た。ここが俺の場所と知っているのに、何度も来ては俺を見て顔を顰める。よく分からない女だ。


「あー、君は」

「セリーヌです」

「セリーヌは友達がいないのか」

「悪い?」

「いや、可哀想だな」


 セリーヌはこちらを睨むと、隣に座ってきた。


(なんで毎回隣にくるんだ?)


 これは、嫌よ嫌よも好きの内という奴だろうか。面倒くさい女だ。



「なぜか皆、わたしのこと避けてくるのよ。どこにいてもジロジロ見られるし、だからここしか休める場所がないの」


 気丈に振舞うセリーヌの瞳の奥には、悲しみが宿っていた。ただの新人いびりか、それとも彼女がどこかの男を引っかけたのか。

 俺としては彼女がいるお陰で、女が来る頻度が減ったので良いけれど。最近は、女と遊ぶ気がめっきり減っていた。その点は感謝しているので、褒美として慰めてみることにした。


「俺は、君といると退屈しないけどな」

「え?」

「君が相手だと口説き文句を考える必要がなくていい」

「……サイッテー」


 そこまで軽蔑しなくても良いだろう。人がせっかく慰めてやったのに。


(エミリアは、こんな俺を知ったらどう思うだろう)


 彼女のことだから、とっくに知っていそうだ。でなければ、浮気性の夫を持とうと思わないだろう。

 それでも、セリーヌのように真っ向から歯向かってきたことはなかった。きっと彼女は、こんな俺を直に見ても何も言わないのだろう。



(今日は早く帰ろうか)


 無性にそう思った。自分の中で、何かが変わり始めている。

 この緩やかな変化に抗う術を、俺は持っていない。

 休憩時間はまだあった。

 しかし、俺は立ち上がり、仕事部屋に戻ることにした。背中に視線を感じる。俺は振り向いた。


「またな」


 これから友人になるであろう彼女に、俺は次の約束をした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ