幕間2 些細な変化
ヨハン視点です。
好きなものに夢中な彼女の顔を、もう一度見たい。それだけの理由だった。
「なあ、結婚生活はどうよ」
仕事をしていると、パトリックが聞いてきた。チラリと見る。彼は資料を読んでいた。視線を戻し、俺も仕事の手を止めることなく答える。
「いいと思う」
「淡白だなぁ」
「ほかに言いようがない」
「いやいや、もっとあるだろう。デートに行ったとか、毎日おはようのキスをするとか、夜の彼女は積極的だとかさぁ」
「下世話だ」
「お前には負けるよ、色男」
パトリックが資料をしまって、俺の肩に自分の肘を乗せる。コイツのこういうデリカシーのなさが、女に好かれない原因だろう。
だが、俺はコイツの遠慮のないところが好ましいと思っている。だから、長い間友人なんてものをしているし、仕事のパートナーとして最も信頼している。
「実際どうなのよ。上手くいってんのか」
飄々としているが、彼が心の底から心配していることが窺える。自分の幼なじみ達が、きちんと暮らせているのか気になっていたのだろう。こんな奴だが、彼は別に薄情な人間ではないのだ。
「多分」
「多分じゃ分かんねぇよ」
「うるさい、俺だって分からない」
急に縮まった距離に、俺は戸惑っている。
俺の知っているエミリアと、どんどんかけ離れていく彼女についていけていない自分がいる。
俺は、ずっと整理を付けられずにいた疑問を、パトリックに聞くことにした。エミリアとも幼馴染である彼なら、何か答えをくれると思ったのだ。
「パトリック、エミリアは演劇が好きだったろうか?」
「劇? あー、嫌いじゃなかったと思うぜ。小さい頃、何度か見に行ったし」
「行ったのか」
「お前は覚えてないと思うぜ。誘っても興味なさそうだったから、二人で行ったんだよ。まあ、エミリアも珍しく楽しそうだったよ」
「そうか」
なら、彼女が昔、役者に憧れていたというのは嘘ではないのか。
あの彼女が役者を夢見ていたというのは、俄かには信じられなかった。だが、楽しそうにしていたというのなら、本当なのだろう。
「なんだ、デートで行ったのか」
「ああ、先日」
「なんかあったのか」
「いや、そうではないんだが、俺の知る彼女はもっと――」
そこで言葉が途切れる。この先の言葉は、本人にも他人にも言うべき言葉ではない。
(俺の知る彼女はもっと、生きづらそうだった)
人との交流が上手くいかず、かといって家柄に引き寄せられる人間が後を絶たず。そんな彼女の姿を見て、俺はとても生き辛さを感じていた。だから、俺は彼女の婚約に否を唱えなかった。
あの日、エミリアと出掛けたのは、ほんの出来心だった。だが、その帰りで彼女にまた行こうと誘ったのは、明確な俺の意思だった。
無防備に笑う彼女の姿が珍しかったから。
また見たいと思ったから。
たったそれだけの理由で、次の約束を取り付けてしまった。俺は一体、何をしたいのだろう。
(穢したくない)
俺は、彼女を穢したくないから、距離を取っていたのに……。
黙り込む俺にどう思ったのか。パトリックは「ふーん」と言いながら、俺の肩から肘を退き、代わりに背中を叩いた。
「ま、結婚すりゃ相手の知らないとこばっか出てくるだろ。気長にやれよ」
「…そうだな」
俺は相当参っているように見えたのだろうか。珍しい励ましに、久しぶりに肩の力が抜けた。自分の机を見る。進捗は順調。
少し息抜きをしよう。俺は席を立った。
「どっか行くのか」
「休憩だ」
「浮気はほどほどになぁ」
背中に掛る声に適当に手を振る。
(最近はしていないんだがな)
まあ、訂正することでもないだろう。俺は馴染みある、俺だけの休憩所へと歩いていった。
浮気はいけないことだと、皆は言う。俺も同感だ。けれど、俺は止められない。この飢えが消えない限り、俺はこの行為を止めない。それはエミリアには満たせないものだ。
「げっ」
「嫌なら来なければいいだろう」
「私だって好きで来るわけじゃない」
いつもの休憩所で休んでいると、最近知り合った女が来た。ここが俺の場所と知っているのに、何度も来ては俺を見て顔を顰める。よく分からない女だ。
「あー、君は」
「セリーヌです」
「セリーヌは友達がいないのか」
「悪い?」
「いや、可哀想だな」
セリーヌはこちらを睨むと、隣に座ってきた。
(なんで毎回隣にくるんだ?)
これは、嫌よ嫌よも好きの内という奴だろうか。面倒くさい女だ。
「なぜか皆、わたしのこと避けてくるのよ。どこにいてもジロジロ見られるし、だからここしか休める場所がないの」
気丈に振舞うセリーヌの瞳の奥には、悲しみが宿っていた。ただの新人いびりか、それとも彼女がどこかの男を引っかけたのか。
俺としては彼女がいるお陰で、女が来る頻度が減ったので良いけれど。最近は、女と遊ぶ気がめっきり減っていた。その点は感謝しているので、褒美として慰めてみることにした。
「俺は、君といると退屈しないけどな」
「え?」
「君が相手だと口説き文句を考える必要がなくていい」
「……サイッテー」
そこまで軽蔑しなくても良いだろう。人がせっかく慰めてやったのに。
(エミリアは、こんな俺を知ったらどう思うだろう)
彼女のことだから、とっくに知っていそうだ。でなければ、浮気性の夫を持とうと思わないだろう。
それでも、セリーヌのように真っ向から歯向かってきたことはなかった。きっと彼女は、こんな俺を直に見ても何も言わないのだろう。
(今日は早く帰ろうか)
無性にそう思った。自分の中で、何かが変わり始めている。
この緩やかな変化に抗う術を、俺は持っていない。
休憩時間はまだあった。
しかし、俺は立ち上がり、仕事部屋に戻ることにした。背中に視線を感じる。俺は振り向いた。
「またな」
これから友人になるであろう彼女に、俺は次の約束をした。