舞台が関わると駄目になる女
私の一日は規則正しい。
「お嬢様、おはようございます」
朝は必ずライラに起こしてもらい、支度をしてもらう。どのドレスが良いのか分からないので、服装や髪型はすべて彼女任せだ。ほかにもメイドはいるのだが、彼女は私にもくつろげる時間が必要だろうと、可能な限り一人で来てくれる。
「今日も図書館に行っていいかな」
「招待状の選別が終わってからね」
「えー、アレ難しいよー」
「選別するのは私でしょ。貴女は有力者の名前と顔を覚えるの」
「はーい」
この一か月で仲良くなった彼女と、おしゃべりしながら身支度を済ませる。話の内容は、今日の予定だったり、空を飛んでいる鳥の名前は何なのかだったり、雲の形がマカロンに似ているといったくだらないことだ。
身支度が整ったら、鏡の前でチェックする。そして、控えめに笑って鏡越しに映るライラに確認する。
「出来てますか?」
「今日も見事な棒読みです」
次は、朝食を食べる前に玄関に向かう。そこにはすでに、出かける準備をしているヨハンがいた。
「おはよう、ございます、ヨハン様」
「おはよう、エミリア」
「お帰りは何時、ごろになられます、か?」
「今日は早く帰れると思う」
「分かりました。いってらっしゃいませ」
「いってくる」
ヨハンが家を出ていく。
事務的な会話を終えて、私はやっと朝食にありつける。あとは夜まで、面倒くさいお嬢様方の集まりに参加したり、お勉強したり、図書館に行って本を借りたりする。
夜は、いつ劇団に復帰できても良いように体力作り。演劇は短くて三十分、長くて三時間も上演するので意外と体力がいるのだ。だから、体力作りは欠かせない。発声練習もしたいけれど、今の所いい場所は見つけられていない。
そして、ヨハンが帰ってきたところで、また事務的な会話を交わして就寝。
この生活を始めて一か月が経った。一か月も経つのに、私の生活は変わり映えしない。
だが、そのおかげで私が偽物だと怪しまれた様子もない。
ヨハンは女と遊ぶくせに、なぜかエミリアとは寝ない。夫婦なのだから好きにすればいいのに。いや、私からすれば寝ない方が嬉しいのだけど。彼とエミリアは幼馴染と聞いており、彼の態度から仲は悪くないようだ。けれど、夫婦として接せない何かがヨハンの中にあるのだろう。
正直この生活が退屈すぎて、ヨハンとちょっと仲良くなろうかなと思い、一度だけ距離を縮めようとしたことがある。結婚してから二週間後のことだ。
「ヨハン様、休日、い、一緒に過ごされませんか?」
「すまない、しばらく休みが取れないんだ。機会があればいずれ」
結果は見事に撃沈。これでも役者の端くれ。彼が嘘をついていることは一目で見抜けた。私は演技はからっきしだが、洞察力には自信があるのだ。
彼は嘘を吐くとき、口角が少し下がる癖がある。ほんの少しなので、ほとんどの者が騙されるだろう。
それから、行きたくもないお茶会でどこぞのご令嬢が、遠回しにヨハンと遊んだことをほのめかしていた。どんな反応をすれば良いのか分からず黙っていたら、あっちは私が傷ついたと思ってとても嬉しそうだった。
これを機に、私は彼と仲良くすることを完全に諦めた。どうせ彼とは別れる身。無理に仲良くする必要もない。私は潔く、この退屈な日々を無心に過ごすのだ。
「お嬢様、旦那様がお帰りになられました」
「今、行きます」
さて、今日最後の会話を済ませますか。
玄関に向かうと、今日も今日とて香水の匂いをプンプンさせているヨハンがいた。
「おかえり、なさいませ」
「ああ、変わりないか」
「は、」
はいの、い、が出てこなかった。私の視線は、執事の持つコートから落ちた紙に釘付けだった。
「エミリア?」
訝し気な声が掛けられる。紙を拾った執事は、どうぞ、と言って私に渡してくれた。私は、紙に書かれている文字に間違いがないか確認する。それが何であるか分かった途端、私はヨハンに詰め寄っていた。
「行ったんですか!?」
「は?」
「リトルフェアリーの劇! 見に行ったんですか!?」
横長の紙には、劇のタイトルとリトルフェアリーの文字が印字されていた。
リトルフェアリーのチケットは、発売当日に即完売というくらい競争率の高い。
その超ウルトラレアのチケットをヨハンが持っていた。
私はエミリアを演じることを忘れていた。ヨハンが、私に怖気づいたように頷く。
「あ、ああ、先程な」
「どんな劇だった? 冒険活劇? ラブロマンス? それともリトルフェアリーお得意のサスペンスホラー?」
「恋愛、だったかな」
「それなら、ルーナ&ディーンペアの舞台ね。あの二人は、純愛や偏愛、片思いから狂愛まで何でもこなせるって有名だもの」
「そう、なのか?」
「面白かったですか?」
「まあ興味深くはあったよ」
「いいなー」
羨ましい。
リトルフェアリーの劇は、一般にも公開されているが、私は一度も見に行けた試しがない。しかし、彼みたいな貴族なら、チケット手に入れる機会はいくらでもあるのだろう。
どこかの女と身に行ったのだろう。デートでリトルフェアリーの恋愛劇を選ぶとは、贅沢なことだ。
素晴らしい劇に、隣には王子様みたいな男。
どの女性もイチコロだろう。
それにしても、浮気相手にそんな良い舞台を見せるなら、妻である私にも見せてくれても良いのではないだろうか。
私は不貞腐れていた。
ふいにライラと目が合う。彼女は顔を青ざめ、怖い顔をしていた。そこで私はようやく、自分の立場を思い出した。
「あ、ご、ごめんなさい」
「いや、気になるなら今度の休みにでも見に行くか?」
「ぜひ行きます!」
「違う劇団のになってしまうが」
「構いません!」
ヨハンは気分を害した様子はなく、私を劇場に連れて行ってくれると言ってくれた。願ってもない提案に、私は即答した。顔が綻ぶのを抑えられない。なにやらヨハンが驚いた顔をしているが、そんなことより私は劇が楽しみすぎてしょうがなかった。
今日は良い気分で寝られそうだ。
「では、ヨハン様、おやすみなさい」
「…おやすみ」
私はルンルンと、その場でスキップするのを抑えながら部屋に戻っていく。
この日から、私の中で彼への思いが変わっていくなど、この時は知る由もなかった。そして、この後ライラにしこたま怒られることも、頭の中が演劇一色の私は気づかなかった。