異世界のピンポンダッシュ
「何だかんだ言って心配なんだね、山藤君が」
冬の澄んだ空の下で、沙羅はスコップ片手に微笑んでみせた。もさっとしたグレーのダウンジャケット姿が、雪の積もった瓦屋根の街並みの向こうに見える白い山脈にくっきりと映えている。
見るからに、身体の芯まで冷えてくる光景だった。
「本題に入れ、寒いんだから」
俺は結論を急かしたが、沙羅は隣の家の雪かきまで始める。朝から留守にしているのか、雪は積もり放題に積もっていた。
「女の子の家に上がり込もうなんて、図々しいなあ」
背中を向けたまま、嫌味たっぷりに言うのはさっきの仕返しだろうか。別にそんなつもりではなかったが、訪ねてきた相手を寒いところに放り出したままにしておくのは血も涙もない所業と言わざるを得なかった。
「お前が勿体つけるから」
どうやって山藤……シャントのもとへテヒブを連れてきたのか、さっさと説明してほしかった。聞いたら帰るつもりだった。
俺がイライラと腕時計を見ているのに気付いたのか、隣の家の玄関先から一通り雪を除け終わった沙羅は、道路を平べったく凍りつかせている雪をシャベルの先で砕きながら長い説明を始めた。
「彼ばっかりマークしていてもね」
俺が山藤の心配をしているうちに、沙羅は女たちの会話をマークしていた。
《今日もテヒブさんの手伝いでよかったねえ》
《広い畑だけど手間賃がいいから》
《ああ、またリューナのとこへ、テヒブさん》
《あのガキの方に用があるんじゃないの?》
《リューナの面倒よく見てたから、昔から》
《身寄りのない子だからねえ》
《妾にしようとしてたんでないの?》
《ああ、なんかあのガキに愛想いいよ、テヒブさん》
《そりゃ、ヴォクスを追っ払ったから》
《あいつに襲われてから引き取ろうとしたんだってねえ》
《ああ、村長に断られたんだって、テヒブさん》
《一人暮らしで信用できないんでないの? 預けると》
《それはないよ、村長はリューナを邪魔っ気にしてたから》
《ああ、でも、守んないと、村長だから》
《テヒブさんに勝たれたら村長も面子が潰れるねえ》
器用に4人かそこらの声色を真似てみせた沙羅は、いつの間にか俺の目の前まで迫っていた。
芝居っ気たっぷりの声から、急に元の高飛車な物言いに戻る。
「駄目じゃない、リューナから目を離したら」
雨の中で男たちに襲われた一件を言っているのだが、そんなことを言われても、俺はそこまで手が回らなかった。別行動を取られたら、どっちかひとりしかカバーできない。
そもそも、これは異世界の山藤……シャント・コウををどう助けるかというゲームだったはずだ。
「だってシャントが」
「言い訳しないで」
俺の弁解を途中で遮った沙羅は、結構、本気で怒っていた。その気持ちは、リューナと同性なら仕方がないとも思えた。
ため息が、冷たく澄んだ空気の中で白く凍る。
「男たちもいないのに私が気付かなかったらどうなってたか」
それにも反論できなかった。俺は気付かず、むしろシャントのほうが自分で土砂降りの中へ駆け出したのだ。
……待てよ?
……何で、シャントをマークしてない沙羅が気づいたんだ?
その疑問は敢えて口にせず、俺はいかにも済まなそうな顔をして聞いてみた。
「で、どうしたんだ?」
沙羅はあっさり、語るに落ちた。
「あいつら、真っ先に帰ってきそうじゃない?」
「そりゃ、まあ」
確かに筋肉隆々だったが、そこらのヤンキーみたいにだらしない顔つきからも、不機嫌剥き出しの乱暴な振る舞いからも、自発的に働く連中には見えなかった。
「あんな雨の中でリューナもいないってなったら、女のカンでね」
「ヤバいって思ったわけだ」
俺から言葉を継いでやると、沙羅は得意気に姉さんかぶりを取って頭を振った。
遠くの山も近くの街並みも雪で真っ白な風景の中に、汗に濡れた長い髪が乱れる。
「そう。モブ女ひとり、雨の中に走らせたの」
すかさず、俺はツッコんだ。
「お前もだろ」
リューナを危険にさらしてしまったのを、どうこう言われる筋合いはない。だが、今度は沙羅がどこかで聞いた言い訳をした。
「私たちがフォローするのは山藤君であって」
この議論、たぶん堂々巡りに終わる。
そろそろブーツの爪先が冷え切って、感覚がなくなってきた。いい加減に帰りたくなったが、いったん沙羅が始めた話を途中で捨てていくのも惜しい気がした。
次のバスがいつ来るか、腕時計を気にしながらも聞いてみた。
「どうやって連れてきたんだよ」
無知で呑み込みの悪い子どもを諭すように、沙羅は美しい眉をちょっとひそめてみせた。
「キーマンは一応マークしとかなくっちゃ」
「キーマン?」
KEYMAN……事件のカギを握る人物という意味だろうが、普段は使ったことのない言葉なので一応聞いてみた。
「あのテヒブって人」
リューナの面倒を見ていたというなら、この事件に大きく関わっているんだろう。沙羅は、この人物にどう関わろうとしたのだろうか。
「マークって?」
覚えている限りでは、すぐ画面上から消えてしまったような気がする。だが、返ってきた答えはシンプルだった。
「帰った方角くらい、ちゃんと見といたわ」
だから、家を探し当てることができたのだろう。だが、俺たちは動かしているモブをしゃべらせることはできない。言葉と文字を知らなければ、筆談もできないのだ。どうやって用件を伝えたのだろうか。
「よく来てくれたな」
俺の素朴な疑問に、沙羅は即答した。
「家のドア叩いて逃げた」
悪気も何もない一言に、俺は更にツッコまないではいられなかった。
「ピンポンダッシュじゃねえか!」
その勢いに、そろそろと雪道を行く人々が振り返る。慌てて沙羅の家の方を向いて顔を隠した俺の耳元を、沙羅の温かい息がくすぐった。
「雨の中で走っていく女の背中見たら、何事かと思うでしょ? 男なら」
ちょっと想像してみた。
服に肌が透けるくらいずぶ濡れになって走る沙羅の後ろ姿……確かに。
……はッ!
……俺は何、想像してんだ!
思わずぶるぶると頭を振ったが、沙羅から見ればそれほど寒いのだと映ったことだろう。
とにかく、テヒブとかいう男が追ってくるのは計算に入っていたのだ。あとは、リューナを探して走りまわればいい。
「じゃ、山藤の声が聞こえたのは……」
偶然だ。
雨の日は晴れたときよりも声がよく通るというが、沙羅は最初から、山藤……シャント・コウなどアテにはしていなかったのだ。だが、その絶叫がリューナの発見を早めたのもまた間違いないだろう。
それは沙羅も分かっているのか、俺の頭を撫でてきた。
「よくやった、偉い偉い」
周りの目が気になる。しかも、ここは教室じゃなくて天下の往来だ。凍てつくような冬の風が、遠くの山脈から古い町並みの通りに沿って吹き付けてきたが、俺の頬は熱く燃え上がった。
そんなつもりはなかったが、俺は思わず沙羅の手を払いのけていた。
「敵同士じゃなかったのか、俺たちは」
振った手が触る前に、沙羅は自分の手を引っ込めていた。別に、嫌そうな顔はしていない。むしろ笑ってさえいたが、そこには不思議な不敵さがあった。
「女の危機の前には味方同士よ」
なぜそんな表情を見せるのかは分からなかったが、それが味方同士の間のものだということは何となく感じられた。
「じゃあ、あの女たちも?」
リューナにつらく当たりはするが、妙な連帯感を見せたりもする、よく分からない集団だ。そう感じているのは、沙羅も同様のようだった。
「あんまり期待はしてなかったけど」
同性の割には素っ気ない物言いだった。
そう思うと、俺に見せた可愛いとはいえない笑顔には、共通の敵を持つ同盟者への親愛の情が現れていたのかもしれないという気もした。
聞きたいことは全部聞いたということの他に、もう帰ってもいいかと思わせるだけの満足感があった。
「じゃあな」
俺は軽く手を挙げただけで、沙羅から目をそらして背中を向けた。まだ日は高いが、指先も爪先も冷え切っていた。歩き出すと声だけが追ってきたが、家に上がっていけとは言わなかった。
「やっておくことがあるんじゃない? 今のうちに」
それでよかった。俺と沙羅は、そういう関係なのだから。
スマホを眺めてみると、男たちも女たちも口々に、テヒブに抗議していた。
《よしな! ケダモノにくれてやるようなもんだよ!》
《そうだ、俺たちはリューナを助けようと……》
シャント・コウは呆然と尻餅をついたままだった。山藤には言葉が分からないのだから、仕方がない。だが、これはこいつが自分で解くしかない誤解だ。
俺は、まだたちあがれないでいる泥まみれの男にマーカーを当てて、その指先をタップした。