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芯から冷える空気に震えながら、家までの長い道のりをとぼとぼ歩き始めると、道の先で見慣れた車と人のシルエットが見えてきた。
「……京次」
「来ちゃった」
路上駐車した車にもたれかかっていた京次は、腕に持っていた茶色い紙袋をひょいと掲げる。
「たいやき、食べる?」
せっかく料亭に行ったのに、お茶さえ飲んでこなかったことに今さらながら気づいた。お腹は素直で、鳴って空腹を知らせてくる。
「……食べる」
両手をつき出すと、まだあたたかさの残る紙袋を手渡され、寒いからと背中を押されて車へと乗り込んだ。
膝にたいやきの袋を置いて、がさごそ音を立てて中を覗く。たいやきは仲良く、三匹並んでいた。
「寒かった〜」
手を擦り合わせながら運転席に乗ってきた京次に、たいやきを一匹手渡した。
わたしも一匹、頭からかじる。
さっぱりとしたつぶあんの甘さが身に沁みた。
「でもなんで、たいやき?」
「だって今日、バレンタインデーだろう?」
チョコがだめなこと、覚えてたのか……。
たいやきは好きだっていうことも。
「……わたし、なんにも用意してない」
せめて義理チョコの一つでも用意しておけばよかった。
「期待してなかったからいいよ。どうせ好きな子からはいっつも、もらえないからさぁ」
自分で買ったたいやきを、京次はしっぽから、がぶっと食べた。
「なかなかたいやき売ってるところってないんだな。そのへんをぐるぐる回って、ようやくスーパーの前の屋台で見つけたんだよ。残り三匹しかなかったけどさ」
「……そうなんだ」
「カスタードクリームは食べたことあるけど、白いたいやきとか、クロワッサンたいやきとか?知らない間にたいやきが進化しててさぁ。そっちにも惹かれはしたけど、やっぱり無難なのが一番だよなー」
茶色い生地で、つぶあんが入っていて。
京次なら、変わらないことを否定したりしないんだろう。
たいやきも、たぶん……わたしのことも。
「あのね……」
「うん」
「和解じゃなかった。……お見合いだった」
京次がなにか言いたげにこちらを見たけど、わたしの話が途中だからか、口を挟みはしなかった。
「あの人たち、わたしがなんで家を出たかわかってなかった……。本当、信じられない。なにに怒って悲しんでたか、考えてもくれてなかった。……わたしに、興味なさすぎだって」
やり場のない感情で、自嘲がこぼれる。
わたしはずっと、かわいい千代子ばかり構う両親が嫌いだった。
幼い頃は純粋に、わたしがいけないんだと思ってた。
だから勉強や運動、家の手伝いも率先してやった。
だけど、全部無駄だった。
どれだけがんばっても、両親の心には響かない。
わたしが努力したところで、かわいい千代子しか見ていなかい。
そしてわたしはなにに対しても無気力になった。
それで叱られでもしていたら、まだ違う形で親子として繋がっていたんだろう。
残念ながら、わたしは褒められもしなければ怒られもせず、ただ千代子の引き立て役として生きてきた。
ずっとだ、ずっと――。
「家に帰りたくなくて公園でぼんやりしてたとき、おばあちゃんが言ってくれたの。……うちにおいでって」
見ず知らずのわたしに、下宿をしてるからうちで暮らせばいいと。
夜一人で公園にいたから、心配して言ってくれたんだろう。
手を引かれ、おばあちゃんの下宿へと帰ったあの日から、あそこがわたしの家になった。
血は繋がってなくても、わたしの家族はおばあちゃんだけだ。
血が繋がっていても、あの人たちとは、家族ではなかった。
「……俺も、一緒だな」
「え?」
「うち母子家庭だったから、家に一人でいることが多くてさ。……ばあちゃんが、いつでもうちにおいでって言ってくれたなぁって、今ふと思い出した」
京次は懐かしむように、まぶしそうに目を細めて遠くを見つめる。
「京次はおばあちゃん子だもんね」
「和菓ちゃんもな」
ああ、そっか。わたしもなのか。
おばあちゃん子同士で、同志なのか。
声を立てずに小さく笑って、たいやきを食べようとしたら、いつの間にかなくなっていた。しゃべりながら、無意識に食べていたらしい。おそるべき、空腹。
仕方なく残った一匹を取り出してから、京次の手元を窺った。
わたしよりも先に、とっくに食べ終えていたらしく、手持ちぶさたにハンドルを握っている。
わたしはたいやきをお腹で半分に割って、片方京次へと突き出した。
顔の前でたいやきの目と見つめ合った京次は、ふっと柔らかい笑みをこぼした。
「和菓ちゃんのそういうとこ、好き」
「……あっそ」
わたしはたいやきの頭を押しつけて、照れくささをごまかし顔を背けた。
「……俺のこと、どう思ってる?」
ちょっとだけ、どきっとした。
「へ、変態」
「他には?」
「……髭?」
「それは外見で、俺のチャームポイント。もっと内面的なことだって。あと、背がでかいも却下な」
次にまさしく、でかいと言おうとしていたのが先読みされていた。
というかそれよりも、髭はチャームポイントだったのか……。知らなかった。
内面的かは微妙なところだけど、京次の人間性を表すのはきっと、これだろう。
「よく笑う」
「……そうか?」
「うん。いつも楽しそう」
「好きな子といれるだけで幸せだからかな?」
また調子のいいことを言って。
呆れつつも、嘘だと突っぱねたりはしなかった。
「京次がいてくれて…………よかった」
今日ここに京次がいなかったら、一人で夜道を帰りながら泣いていた。
今日だけじゃない、これまでずっとだ。
誰かがそばにいることが当たり前になると、失うことが怖くなる。
だけどそれ以上に、あのなにも大切なものがない、空虚な状態にはもう二度と戻りたくなかった。
わたしにとって、おばあちゃんの代わりはもちろんいないけど、どうやら京次の代わりもいないらしい。
「あ、ありがと……」
目を逸らして感謝を口にすると、
「素直な和菓ちゃん、かわいい〜。お礼にちゅーして。ほっぺか髭でいいから」
京次が顎をとんとんと指で叩く。
「髭を選択肢に入れるな!」
思わず叫んだ。どう考えてもそこはキスする場所じゃない。
「和菓ちゃんが嫌がりながら髭にキスするのを想像してみたら、思いのほか胸がキュンキュンしたからさぁ〜」
「変態か!いや、変態だった……」
そうだ、こういうやつだ。
わたしの買いかぶりじゃなければ、おどけて相手を怒らせて……たぶん慰めている、と思う。
器用なのか不器用なのかわかりにくい。
さすがに髭は無理だけど……頬くらいなら、しないこともない、かな?
わたしは意を決して京次の肩に手をかけると、目をきゅっと閉じると唇を尖らせた。
距離感がうまく掴めず、探り探りで身を乗り出す。
そしてようやく唇が触れた場所は、予想外にも、やわらかだった。
あれ?なにこれ……。
きょとんとしている間に、下唇がなにかにはむっと食まれた。それから、ちゅっと音がして、わたしはぎょっとして身を引いた。
カッと目を見開くと、にたぁーと悪い笑みを浮かべている京次の顔が眼前にあった。
「ま、まさかっ――!」
逃げ腰でドアに背中をぴたりとつけたわたしを、京次が両手を突いて腕に閉じ込める。
まさかの窓ドン!逃げ場なし!
「ひ、卑怯者!」
「和菓ちゃんが焦らすから、まだかなーって振り向いたら、偶然唇が重なっちゃった。わざとじゃないのに、心外だなぁ?」
「うわぁーん!大事に取っておいたファーストキスがぁぁー!」
本当は相手がいなかっただけだけど!
「え、初めて……?やべぇ。嬉しい」
薄暗い車内でもわかるくらい、京次の緩んだ頬が赤みを帯びた。わたしを見る瞳にみるみる熱が籠もり、どきんっと心臓が暴れた。首筋を京次の吐息が撫でる。熱い。とても。顔が……近い。
「責任取るから、最後までしてもいい?」
「最後まで!?や、やだ、無理!」
全力で拒否すると、京次が仕方ないなぁと笑った。
「じゃあキスだけで我慢する」
「ま、待っ――」
わたしの口から抗議の声がもれないように、手早く塞がれてしまった。
唇をきゅっと結んで抵抗したのに、あっという間に舌が割入ってくる。息が、できない。口腔内をじれじれと愛撫され、全身がぞわりと震えた。お腹の奥からふわふわした感覚が駆け抜けて、このまま心臓が止まってしまいそうだった。
京次なのに、髭なのに、キスが甘い。
たいやきのせい……?
鼻で息をすることを覚えると、労わるように大きな手のひらで頭を撫でられた。突っぱねていた手から力が抜けて、京次の肩から滑り落ちる。
ゆっくりと丹念に探られ、じわじわと思考が溶かされていく。
どちらのかわからない唾液が口の端からこぼれかけて、こくんと喉を鳴らすと、京次が一度唇を離した。
だけど目が合うと、息を整える暇もなく、またすぐに重ねられる。今度はもっと、激しく、強引に。夢中で、絡め合う。
――好き。
呼吸の合間に繰り返しもれたそれは、どちらの囁きだったのかさえわからなくなって……。
意識が途切れてしまうほど、わたしはもたらされるその熱に、身体の芯から浮かされてしまっていた。
チョコじゃないバレンタインを描きたかったのです!




