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ご飯を食べているとき、京次もわたしも口数が減る。だから千代子が言っていたことを、無意識に考え込んでいた。
思えば両親がわたしに会いたいと言うこと自体、これが初めてのことだ。
もしかしたら和解が目的でなく、退っ引きならない事情があってのことだったら?
一見病気にならなさそうな人たちでも、一緒に暮らしたあの頃より確実に年を取っているだろうし、もし、いくばくもない命だとか、宣告されていたら……。
悔しいけど、わたしはきっと、会わなかったことを後悔するんだろう。
「食欲ない?」
京次が向かいで首を傾げる。今は穏やかだけど、どことなく生真面目そうな表情。
ご飯を食べるときだけは、いつもそう。ごついのに箸の持ち方も綺麗。
「あの……」
「どうした?」
なにをどう説明すればいいんだろう?
「……たとえば、喧嘩……というか、絶縁してる人に和解したいって言われたら、京次ならどうする?」
「俺なら会わない」
京次はきっぱりと言い切って、煮物をばくりと頬ばる。
「会わないの?」
「そりゃあ、会わないだろう。絶縁した意味ねぇじゃん」
「……そう、だよね。絶縁の意味、ないよね……」
そうだ。京次が言う通りだ。自分に言い聞かすように、そうだと繰り返す。
だけど本当にそれでいいの?
わたしのためらう気持ちは見え見えなのか、京次がついでだとばかりにつけ加えた。
「でもそれは、本気で一生会わないと決めたときだけだけどな。そうやって思い悩んでる時点で、縁は切ったつもりで完全に途切れてないんじゃないか?」
「切れてない……」
縁だけならよかった。だって途切れたらそこで終わりだから。だけど血という、切っても切れないもので、死ぬまで繋がっていく。
それは初めからどうあがいても、たとえ嫌でも、逃れられないものだ。
「詳しいことは聞かないないけど、仲直りするも、すぱっと切り捨てるのも、和菓ちゃんがしたいようにすればいいんじゃないか?それで傷ついたらさ、俺が朝まで慰めてやるよ」
しばらく経ってから、うん、と小さく頷くと、京次が珍しくからかいじゃない優しげな顔で笑った。
不覚にも、見蕩れてしまったわたしは、慌ててご飯をかき込んでごまかした。
*・*・*
悩みに悩んで、バレンタインデー当日。
ギリギリまで仕事をして、結局迎えに来た千代子の車へと乗ることに決めた。
今日はさすがに、モカを連れていない。
「お姉ちゃん、その服ないわ〜。ファミレス行くんじゃないよ?」
「仕事終わりなんだから仕方ないじゃん」
バレンタインデーに仕事場へおしゃれなワンピースでも出勤しようものなら、毬ちゃんにあらぬ疑いをかけられて尋問責めされてしまう。
一応外出着のニットのワンピースを持参して、仕事終わりにこっそり着替えてきたというのに。パーカーにジーンズで来なかっただけよしとしてもらいたい。
「なんでそんな、ぼやぁーっとした色選ぶかなぁ」
「とりあえず水色に謝れ」
ほぼこんな会話で、ツッコミに疲れてきた頃、大昔に家族で何度か訪れた料亭の前で車が停められた。
「駐車場に車置いてくるから、先中入ってて」
「え……」
両親と三人にされるとか、地獄絵図な光景しか想像できないけど。
かといって千代子に、「一緒に行ってよ」なんて頼むのは、弱みを見せるみたいで嫌だ。
「……わかった」
渋々車から降りると、千代子はわたしの心の葛藤なんかお構いなしにさっさと行ってしまう。
しかし料亭なんて敷居の高い場所に一人で入るのもなかなか勇気がいるな。
仲居さんに、父の名前を出せばいいのか?わからん。
しり込みしながら、小さな日本庭園を目で楽しむ余裕もなく通り抜けた。
おどおど挙動の怪しいわたしに、中居さんは怪訝な表情をすることもなく、父の名前を告げると個室へと静かに案内された。
庭園を一望できる縁側のような廊下を歩き、着実にその部屋へと近づいていく。
だというのに、まだわたしの心は準備が整わない。
まるで処刑台へと向かう囚人のような心境で、踏み出すごとに踵を返してしまいたい衝動に駆られた。
そうやって逃亡のシュミレーションを脳内で重ねる内に、とうとうそこへとたどり着いてしまった。
中居さんが、「お連れさまがいらっしゃいました」と室内へと声をかけてからわたしにどうぞと促す。
逡巡して、それでもきゅっと拳を握りしめて中へと進んだ。
広くはないが窮屈でもない座敷。
そこに、懐かしい父と母の姿を見つけたとき、まず初めに、ああ、少し老けたなと思った。
次いで、変わらないな、とも思った。
父の前か母の前か、どちらに座るか迷ったけど、比較的ましな父の正面へと腰を下ろした。
正座は苦じゃない。背筋が伸びて、彼らと堂々と対峙できる。
父は仕事帰りなのかスーツで、母は落ち着いた色の、上品そうなワンピースを着ていた。
あれは、わたしのとは、一は桁違うだろうな。
しかし。なにから話せばいいんだろう……。
久しぶり?それとも、こんばんは?
わたしの重たい口が開くのを待つことなく、母がまず口にしたのは、いつも通りというか、ぶれない彼女らしい一言だった。
「大人になっても、あんまり変わらないのね」
なにが、と聞かなくてもわかる。顔が、だ。
和解する気があるのか甚だ疑問ではあるが、この程度でいちいち反応したりはしない。わたしが無視して流しても、この人たちは別に気にしないだろうから。
「……久しぶり、だな」
気まずそうな父に、うん、とだけ返事をして、こちらとの会話は終了……。
困ったあげく、わたしは外へと目を向けてすがるように呟いた。
「……千代子、遅いね」
昔は千代子がいなかったらと思うときも多かったけど、今は千代子がいないとこの人たちとの間がもたない。
それに千代子はなんだかんだと店に顔を出してくるから、他人行儀な空気になることもなかった。
わたしとしてはほぼ他人な母が、首を傾げてくすりと笑う。
「なに言ってるの。今日はバレンタインなのよ?チョコちゃんは彼氏とデートに決まってるでしょう?」
「……はぁ?」
最悪。騙された。千代子はただの送迎人だったのか。
じゃあなんでもう一つ席があるんだ。
わたしの隣にある座席に、嫌な予感を覚えた。
「なにそれ。つまり……和解する話じゃ、なかったってこと?」
「和解?あんたチョコちゃんと喧嘩でもしてたの?」
「は……?」
なに?どういうことだ?
「そんなことより、今日はね、いいお話があって持ってきたの。あんたじゃ自分で相手を見つけるなんてことできないでしょう?」
やられた!話を持ってきただけじゃない。たぶんこの場がすでに、お見合い会場だ。
わたしはあっけにとられて呆然自失。相手のプロフィールをつらつら並べられても、右から左へと流れていく。
最低だ。こういう自分勝手な人だって、知っていたのに!
父も乗り気なのか、母に言いくるめられているのか、これから来る相手を褒め伝えてくる。
だったら、たったら――、
「そんないい人だったら、千代子に紹介すればいいじゃん!」
湯水のごとくしゃべり続けていた母がきょとんとして、それからおかしそうに笑った。
「チョコちゃんは自分で選べるから平気よ〜。ねぇ?」
「ああ。それに千代子は年を取っても、しようと思えばいつでも結婚できるしな」
なんだ、それ。
わたしは自分で相手を選ぶ権利もないのか。
若さしか価値がないのか。
「……――ざけんな」
膝の上で拳を握りしめたとき、部屋に父母の褒めそやすお見合い相手が訪れた。
わたしよりも母の方が年が近そうな、前髪がやや後退した男性。確かに眼鏡をかけて勤勉そうに見える。だけどその目の奥からは、融通がきかず陰険そうな印象しかない。
本気で、いい加減にしろよ。
「こんばんは」
「どうぞどうぞ、こちらにかけてください」
父と母がその男にあいさつをする。
彼らがわたしから意識が逸れたことで、怒りに真っ白だった頭が少し働きだした。テーブルの下でスマホを操作するくらいの余裕は持てた。
席がわたしの隣しか空いていなかったから、彼は横に並んで座る。
これはもうお見合いの席順じゃない。一足どころかなにもかもすっ飛ばして、結婚報告状態だ。
「うちの娘の和菓子です。ほら、あいさつしなさい」
「……こんばんは」
「すみません〜。うちの子、人見知りで」
「いいえ。キャンキャンうるさい女性よりはまだかわいげがあります」
「ええ、それだけが取り柄でして」
あはは、と和む父と母。
この人たちは、素のわたしを知らないのだと改めて突きつけられた気がした。
あの家では基本的に、会話もなく過ごしていたから、当然と言えば当然だ。
わたしは大人しいんじゃない。この人たちがわたしに興味がなさすぎて、話しかけて来なかっただけなのに。
震える指先で、わたしはこの茶番をぶち壊すための一手を投じてやることに決めた。
スマホをテーブルの上で隣へとスライドさせ、営業スマイルでにっこりとする。
「この場にはいませんが、わたしの妹の千代子ですぅ。とーってもかわいいでしょう?」
ネットで探せばいくらでも写真が出てくる。まったく便利な時代だ。
案の定というか、期待通りにその写真を食い入るように見入るお見合い相手。その顔がみるみる紅潮していった。
千代子に好意を抱いたのか、それともハズレを引かされたことへの憤りか。
そしてそれに困惑する父と母。
なんでこうなることを想定していなかったのか。
うまくいったとして、顔合わせのときに破談になったら元も子もないじゃないか。
「本気でわたしの相手を探す気があるなら、千代子に目移りしない人を選べよ。……そんな人がいるなら、の話だけど」
まだ写真に見入っていた男性の前から、さっとスマホを取り上げて、わたしは席を立った。
「ま、待ちなさい!――和菓子!」
何年ぶりかに名前を呼ばれて、足が止まる。
眉間に寄った皺をほどいて、わたしは一度だけ振り返った。
「もう二度と会うつもりはないから。――さよなら!」
わたしは長年胸に引っかかっていたものをすっぱりと切り捨てる覚悟でそう告げると、驚くほど無表情のまま、料亭を後にした。