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「お・ね・え・ちゃ・ん」
仕事を終えて店を出たところで、呼び止められた。
無視しようかとも思ったけど、店の前で揉めたくなくて、仕方なく招かれるままその車へと乗り込んだ。
そして彼女へ向き合う。
「お姉ちゃんって呼ばないで。――千代子」
千代子はきょとんとした。
さっきまで店内で見せていたのとは違う、身内に対するときのくだけた表情だ。
できることなら従業員と客の関係性のまま、永遠に他人でいたかった。
「お姉ちゃんをお姉ちゃんって呼んで、なんでだめなの?ちゃんと店では他人のふりしてるじゃん」
あんたにお姉ちゃんって呼ばれるたびに、わたしは卑屈になるんだよ。
どうせ千代子には、こんな気持ちはわからないだろうけど。
「あんた、なんでわざわざここに来るわけ?よそに行ってよ」
「だってモカがここのサロンがいいって言うんだもん。ねー?」
モカはそしらぬ顔をして、わたしの膝へと移ってきた。
一日働いてきたからおいしい匂いでもするのか、あちこちくんくんされる。
残念だけど、今はおやつは持っていない。
「今日はあの錆びたママチャリじゃないんだね。家まで送っていこうか?」
「いいって。用件だけ早く言って」
エンジンをかけようとしていた千代子は、やれやれというようにため息をついた。
「お姉ちゃんさ、たまにはうちに帰っておいでよ」
「はぁ?」
「ママとパパもね、反省してるんだよ?お姉ちゃんにはあんまり構ってあげれなかったー、って」
「……あん、まり?」
そんな生やさしい言葉で片付けるのか、あの人たちは。
反省すれば、許されると思っているんだろうか。
「一回食事しようって。もういい大人なんだから、意地張ってないで会ってあげてよ」
意地張って……?なんなの、わたしが悪いの?
「……あのさ。あんた、わたしが会うと思ってるの?」
「だってお姉ちゃんにとっても一応実の親でしょう?このあたりで和解しようよ。じゃないとお互い前に進めないよ?」
――前に、進む……?
その言葉が胸に引っかかって、拒絶することをためらってしまった。
わたしはずっと、このまま一生立ち止まったままなんだろうか。決別したつもりで、結局固執したままで。
うさんくさいこの提案に乗って話し合ったら、なにかが変わるんだろうか。
「もうすぐバレンタインデーでしょう?お姉ちゃん予定ないんだから、夜空いてるよね?」
「勝手に決めつけるな」
睨むと、千代子は天然の長いまつげを数度瞬かせた。
「予定、あるの?」
信じられない、という驚いた顔。昔からそうだ。千代子はわたしを自分よりも下に見ている。
だってそう育てられたから。仕方ないけど、腹が立つ。
予定があると言ってやりたかったけど、嘘をついて見栄を張っても意味がない。それにバレたとき、惨めになるのはわたし自身だ。
「……というか、予定があってもなくても、まだ行くなんて言ってないし」
「え、来てよ。もう予約してあるって言ってたんだけど?」
自分勝手か!
そういうところが本当にきらいだ。
わたしはモカを突っ返して車を降りると、千代子の声が追いかけてきた。
「絶対来てよ!――パパとママのためにも」
知るか。
バタン、とドアを閉めると、千代子は念押しするようにこちらを一瞥してから、ようやくわたしの前から消えてくれた。
車が小さくなっていくのを眺め、白い息を吐くと、
「もう話は終わったのか?」
突然背後に現れた人の気配に、わたしはびっくりして飛び上がった。
「神出鬼没か!」
声で誰かわかっていたけど、それは驚く。
京次は千代子の去っていった道の先を、じっと見つめている。
そしてわたしの視線に気づくと、こちらを見下ろしてにやけた。
「そんな寂しそうな顔しなくても、俺は和菓子ちゃん一筋でちゅからね〜」
肩を抱かれて強引に助手席へ押し込まれる。もういつものことだ。
「とりあえず、赤ちゃんに謝れ」
「え?赤ちゃん欲しいって?」
「言ってない!」
京次は大笑いしながら車を出した。
「さっきの、和菓ちゃんの身内?」
「え?なんで、わかったの?全然似てないのに」
「ん?遠目だったけど、後ろ姿がちょっと似てた」
後ろ姿なんて、気にしたことなかった。自分で見れるものでもないし。
しかし……後ろ姿しか似てないというのも、複雑だ。
「なんの話だった?同棲中の彼氏紹介しろ、とか?」
「そんな軽い話じゃないし。だいたい京次は『同棲中の彼氏』じゃなくて、『下宿先の家主』」
「ゆくゆくは『愛妻家の旦那』になる予定だから、今の内に紹介しておいてくれてもいいのになぁ。俺はいつでも、あいさつ可だよ?」
この男はどこまでわたしをおちょくる気なんだろう。
それに、だ。
「…………紹介したら、絶対千代子に乗り換える」
わたしの好きな人はみんな千代子に奪われた。
その最たるが、両親だった。
とはいえ一つしか年が離れていないから、かわいがられた記憶なんてものはない。
かわいい千代子を溺愛し、わたしはいつも一人ぼっちだった。
かわいい妹と、かわいくない姉。
そうやっていつも区別されていた。
わたしの両親にとって大事だったのは、なによりも容姿だった。
かわいいが正義であり、法。
千代子が悪いわけじゃないと頭では理解していても、心が追いついていかない。
だって何度言われただろうか。実の親に、かわいくない方の娘、と。
俯いている間に家に着いたのか、無言のまま京次が車を降りた。
助手席側のドアを開けて、引きずり出されたわたしは、なんの脈絡もなく横抱きにされて部屋へと運ばれた。
「え、え、なに?――なにが起きた!?」
布団にこてんと寝かされて、すかさず襲いかかって来た京次を、なんとか手足で押し留める。
「やだ、待って!なんでこんなことになって……!や、ちょっ、は、話をしよう!」
「話なんかしても俺の気持ちを疑うんだろう?だったら手っ取り早く、この愛をあますことなく伝えてやるよ」
近すぎる顔面を手のひらで押さえて、わたしは脳が揺れるくらい何度も首を振った。
「わかった!京次の気持ちは伝わったから!もう二度と疑いませんから〜……」
「じゃあ、俺のこと、好き?」
「変態はやだっ……!」
「あれぇ?乗り換えられたら寂しいって、さっき拗ねたのはどこの誰だったかなぁ〜?」
寂しいとは言ってない。
拗ねた……かもしれないけど、好きとも言ってない。
ひたすらニタニタする京次を見上げる。顎に目がいく。
「その髭は無理ぃ!」
「でもこれがないと和菓ちゃんのほっぺを可愛がれねぇ」
「毎回地味に痛いからやめろ!」
「じゃあ、髭を剃ったら、いいのか?」
ブラウンの瞳が、じっと見下ろしてくる。
髭がない京次……。
「違和感しか、ない」
「ほら見ろ」
京次は「隙あり!」と言って、わたしの額に口づけた。
ぎゃっ!キスされた……。距離を詰められたぁ……。
「今日のところはこれくらいで勘弁してやる」
「……ご容赦痛み入ります」
なんでわたしが下手に出ないといけないんだ!
おそらく赤くなっている顔を隠すように、キスされた額を押さえながら、京次からころころ転がって逃れた。
悔しいが、これくらいなら……嫌じゃない。嫌じゃないことが、嫌だ。
「夕飯、食べる?」
「食べる。けど……その前に、洗濯しないと」
溜まりに溜まってるから、そろそろやらないと。京次のせいで、遅くなったし。
食事の支度のために部屋を出ていきかけた京次が、あ、と言って振り返った。
「そうそう。和菓ちゃんの洗濯ものはもう、畳んでしまっておいたよ」
なんでもないことのように、とんでもない台詞が聞こえた気がした。
「畳んで、しまった……?って、あ、洗って干した……の?」
「ああ。ちゃんと下着は手洗いしておいたからな」
京次が悪意のない、とてもいい笑顔で言ってのけた。
「ひぃぃっ!なんで家主が下宿人の下着を手洗いするんだ!」
「え?旦那だから?」
旦那だってそんなことしない!知らないけど!
「もう、やだぁ!最悪!おばあちゃんだってそんなことしなかったのに!」
「はいはい。破れてたのは捨てて、新しいのをちゃんとネットで買っておいたから」
「や、やぶっ、破れて!?」
終わった。女としてというか、人として詰んだ……。
「よくあんなのつけてられるよなー。ブラの紐はだるだるだったし、装飾取れてるし、パンツのレースなんかぼろぼ――」
「いやぁーー!!忘れて!記憶から消して!」
聞くに耐えれず耳を塞いで、意地悪な京次を睨みつける。
「睨んでも、ただただかわいいんだけど?それにさ、洗濯できない子が悪いんじゃないのか?そこに洗濯ものの山があったら、よしやるぞ!って気になるだろう?」
アルピニストか!
「ああ、大丈夫。変なことには使ってないから」
「当たり前じゃーー!」
わたしが叫ぶと、ぶはっと京次が笑い、諦めて脱力した。
結局なしくずし的に許してしまうのは、変態でもこの男のことを、どうしても憎めないからなんだろう。