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ここから、1話の冒頭部分のあとになります。
そして朝。
一悶着後のわたしは、完全に抱き枕にされてしまっていた。触れた部分から全身にかけて、拒絶反応がほとばしっている。
なんか頰はやけにヒリヒリするし、最悪だ。
「あー、まだ眠ぃ」
だったらそのまま寝てて欲しい。その間に逃げるから。
「ん、すべすべ」
パジャマの裾から入ってきた大きな手が、わたしのお腹を撫で回した。
「いやらしくあちこち触るな!」
「一応遠慮して触ってる」
「もういい!わたしは起きるから永遠に寝てろ!」
布団から這い出ると、京次も上半身を起こして、大きな清々しいあくびをした。
「だったら俺も起きるわ。朝飯作らねぇと」
そのあたりは下宿の家主としての自覚を持ってるからか真面目だ。
京次が朝食作りに行ってくれた隙に、わたしは着替えを済ませるべくパジャマを脱ぎ捨てた。
覗いたりしてないよね?
一度ふすまの方を窺ったけど、きっちり閉ざされていることにほっとした。
だいたい京次は、わたしをからかってなにが愉しいんだろう。
さっさと彼女でも作ってくれればいいのに。
「…………いや、ちょっと待てよ」
京次に彼女ができたとして、もし結婚まで発展してしまったら?
わたしの住み家はどうなる?
首の皮一枚繋がったと安心していたのに、また新たな難問が浮上してしまったじゃないか。
アパートを探すか、京次の恋路を邪魔するか……。
「うぅむ……」
うんうん考えながらもたもた着替えをしていると、急にふすまが開かれた。
「和食か洋食、どっちがいい?」
そこでしばし、沈黙が下りた。
自前のエプロン姿の京次と、ほぼ下着姿のわたしの間には、なんの隔たりもない。
「な、みっ、見んな変態!」
我に返ったわたしは、慌てて服をかき集めて前を隠す。だけどどう考えても手遅れだった。ばっちり見られたはずだ。
それなのに京次はまったく無反応で、それどころか普通に返事の催促を求めてきた。
「和食か洋食」
「なんで真顔!?」
「下着姿で誘ってくる女は見飽きた」
「誘ってない!」
「恥ずかしがる女を焦れったく脱がす方が興奮するしなぁ」
京次は顎の髭をさすりながらそう呟く。
「変態の嗜好なんかどうでもいいから!ふすま、閉めて!」
「だから、和食か洋食」
「わ、和食!」
「りょーかい」
京次はあくびを噛み殺しながら、ふすまの向こうへと消えていった。
いやらしい目で見られたいとは思わないにしても、あそこまで興味なくされるとヘコむのは、なんなんだろう。
巨乳でもないけど、貧乳でもない、この中途半端な胸のせい?
脱いだら残念だったとか?だけどがっかりさえもした様子、なかったし……。
つまり、あれか。京次にとってわたしは、ペット的な立ち位置なのか。
撫でたりじゃれたりするのは、ペットだからか。
嫁にもらうなんて適当なこと言ってたのに、女として見てないじゃないか。
だけど、そりゃあそうだろうな。わたしはかわいくないし、愛嬌もないから。
小さくため息をついてから、慌てて首を振る。
京次に好かれていようが嫌われていようが関係ない。
しっかりと服を着込んで支度を完璧に済ませてから居間に下りていくと、こぢんまりとした食卓に朝食が並んでいく様子が窺えた。
野菜たっぷりのお味噌汁に土鍋で炊いたご飯、それに生卵に納豆。
おばあちゃんがいつも作ってくれるのと同じ朝食のメニューだ。
「お。下りてきたか。もう食べれるよ」
「料理とか、得意なの?」
「こんなの料理の内に入るのか?」
どう見ても料理に入るだろう。
味噌汁の作り方を知らない人だっているんだから。
だいたい普通の独身男は、土鍋で米を炊いたりしないんじゃないか?
席に座ると、京次が醤油を取ってくれた。気がきくな。
卵かけご飯の味はどこもそんなに変わらないけど、味噌汁の味はやっぱり家によって変わる。
一口すすって、おばあちゃんの味だったからほっこりとした。
「味どう?」
「……おいしい」
「それならよかった。……なんかこうしてると、熟年夫婦みたいだな?」
新婚夫婦よりはましなたとえだったから、なにも返さなかった。
京次もさすがにご飯どきだからか、静かに食べ進める。
なにごともなく穏やかに朝食を平らげ、気づくと遅刻ギリギリの時間。わたしは大慌てで仕事へと出かけることにした。
**
「和菓ちゃんずるい〜!いつの間にあんなイケメン彼氏ができたなんて!」
二つ年下でバイトの毬ちゃんに肩を揺さぶられた。
毬ちゃんはわたしよりも身体が小さいのに、なんでこんなに握力が強いんだろう?
「か、彼氏なんかじゃ、ないって」
「彼氏でもない男が職場まで送迎なんかしませーん!お泊まりしてきたんでしょ?吐ちゃった方がきっと楽になるよ〜?」
わたしは犯罪者か!
「あれは新しい家主でっ。それ以外のなにものでもないから!」
「家主ぃ〜?」
毬ちゃんの疑いの眼差しが突き刺さる。
まったく!いいって断ったのに、おばあちゃんのところに行くついでだとかなんとか言って、無理やり送迎されたせいで、めんどくさい誤解が生じたじゃないか。
それで遅刻を免れたから、強気に出られないけど。
「あ、美沙子さん〜!和菓ちゃんってば、今日彼氏に送ってきてもらったんですよぉ!」
毱ちゃんが訴えたのは、わたしが働くこの、ペットサロンに併設されたドッグカフェのオーナーである美沙子さん。
職を失ったわたしに、救いの手を差し伸べてくれたのが彼女だ。学生時代、ここで真面目にバイトしていて、本当によかった。
美沙子さんには成人した息子さんが二人もいて、さらに孫までいるようには見えな若々しさと快活さに満ちあふれる、美魔女だ。
容姿もだけど、内面も、わたしがいくら年を重ねようと、絶対こうはなれない。
「なあに?和菓ちゃんにもようやく春が来たの?」
「来てません!まだ凍える冬です」
「そんなこと言ってると、冬眠から覚めずに年老いて死んじゃうわよ?穴蔵のどんぐりばっか食べてないで、ちゃんと外へ出て蜂と戦って、はちみつを食べないと」
美沙子さんの中では、わたしは冬眠中のくまなんだろうか。……複雑だ。
「それで毱ちゃん、どんな人だったの?」
「聞いてくださいよ!ちょっと日に焼けた背が高いイケメンでした!くわえ煙草とか似合う感じの……ちょいワル系?」
毬ちゃんがきゃっきゃっと楽しげに美沙子さんへ京次の説明をする。
見た目だけで言えば確かに、あの男はくわえ煙草が似合いそうではある。だけど実際、京次からは煙草の匂いなんて少しもしていなかった。
たぶん喫煙者ではないんだろう。
おばあちゃんが煙草苦手だからかな?
京次って、どう見てもおばあちゃん子っぽいし。
「あー!今、彼氏のこと考えてたでしょ?」
「なっ、考えてない!」
なんでわたしが京次のことなんて考えないといけないんだ。
いや、考えていたけども。
毱ちゃん鋭すぎる。
「いいないいなぁ。わたしも新しい恋したいなっ!」
毱ちゃんがテーブルを拭きながら「いいなぁ」を連呼する。
あの変態の本性を知らないからそんなことを言えるんだ。
そんな毬ちゃんに、美沙子さんが呆れた顔をした。
「毱ちゃんは毎回そう言っては次の恋をすぐに見つけて来るじゃないの。あちこちふらふらせず、一つの花に絞ってみつを吸い続けられるようにしないと」
「えー。それは無理ですよ〜」
毱ちゃんのたとえは、花から花へ飛び回るちょうちょらしい。
「それに比べて和菓ちゃんは年の割に枯れてたから、心配してたのよ」
「枯れてませんよ!好みのお客さんを眺めてきゃっきゃしたりしてますから」
「和菓ちゃんのそれって、お客さんの子供とかでしょ〜?未成年に手を出して捕まる前の趣旨替えに、実はわたし、ほっとしたんだよねー」
毱ちゃんに、ぽんと肩を叩かれた。
わたしは犯罪すれすれで生きていたのか?
京次を変態呼ばわりしているわたしこそ、変態だったんだろうか……。
「はいはい。毬ちゃんも和菓ちゃんも、おしゃべりはそこまでにして集合ー」
わたしと毬ちゃんはそこで私語をやめ、慌ててエプロンと気を引き締めた。
美沙子さんに続いて店内へ行くと、すでに他のバイトの子や、トリマー部門のお姉さんたちまでもが席に着いていた。
空いている席に鞠ちゃんと腰かけると、美沙子さんが皿に乗ったトリュフチョコをみんなに配る。
「……犬用のチョコレートですか?」
「そう。本物のチョコではないわよ?動物が食べてもいい材料で作ってあるの。これをバレンタインデーに乗じてメニューに入れるつもりだから、はい。みんな試食してね」
一見チョコレートだけど、カカオではなくキャロブという豆の粉を使っているらしい。
ここの従業員は基本的に、犬用の料理を一通り試食することに抵抗のない人たちだ。人が食べれないようなものを犬に食べさせれるか!という美沙子の主義を理解できる人しかいない。そういう人しか、そもそも面接で受からない。
犬用とは言え、味かうすいが意外とおいしいとわかっているので、みんな嬉々として新しいメニューを試食し始めた。
「おいしいですよ〜」
毬ちゃんが横でペロリと平らげて、わたしの取り分を狙っている。
なので一口だけ味見してから、そっとお皿を差し出した。
「わんちゃんにバレンタインもいいんですけどぉ、この店の従業員のリア充度低すぎますよね〜?」
毬ちゃん……なんて正直な。
みんな聞こえなかったふりをして、無言で黙々と犬用チョコを食べている。
切なすぎる!
「別にバレンタインデーだからって、男に渡さなくてもいいのよ。今は自分へのごほうびチョコの時代じゃない?」
美沙子さんがそう言うと、バイトの男の子たちが声を上げた。
「えー。義理でもいいからチョコくださ〜い」
「それは君たちのがんばり次第ね。義理よりも、どこかで本命をもらって来なさい」
「本命なんて、無理ですよ……。あーあ。千代子さんみたいな美人からだったら、義理でも家宝にするなぁ」
ぽぅ、として願望をもらす彼らに、鞠ちゃんの片眉が上がる。
「千代子さんって、あのマルプー(マルチーズ×プードル)のモカちゃん連れでよく来るお客さん?無理に決まってるでしょ、あんな美人。彼氏なんて片手で足りないくらいいそうだしー」
ねぇ?と急に振られて、びっくりしたわたしは手にしていたフォークを滑り落としてしまった。
カララン、と皿にぶつかって、みんなの視線が集まる。
「えぇと、ごめんなさい。……それと、あのお客さんにはあんまり、期待しない方がいいと思う」
「そうそう。下心ありで眺めてると、二度と来なくなっちゃったりして〜?」
毬ちゃんの脅しともとれる忠告が効いたのか、彼らは黙った。
「美人は鑑賞用!それに、この店には美沙子さんっていう美人オーナーがいるんだから」
「はい、毬ちゃん時給五十円アップ」
「やったぁ〜」
万歳する毬ちゃんの陰で、わたしは曖昧に苦笑した。