11
また京次が下品な……すみません。
店の前で待ち伏せされていなかったから、完全に油断していた。
呼び鈴が鳴り、玄関を開けた先に立っていた千代子は、にっこりしてから当然のようにキャリーケースを引きずり、ずかずかと室内へと侵入してきた。
「勝手か!――ちょ、千代子!」
「あ、いい匂い〜!クリームシチューだ!ねぇ、わたしの分は?」
「あるわけないだろ!コンビニでおにぎりでも買ってこい!」
「えーやだ。寒い。お姉ちゃんが買ってきてよ」
わがまますぎる!
千代子は居間にモカを放し、キャリーケースを置くと、ちらっと台所を仕切るすりガラスの戸を見遣った。そのタイミングで、向こう側から京次の声がかけられる。
「客?誰?」
「き、気にしなくていいから!今すぐ追い返すから!絶対こっち覗くなよ!――絶対だからな!」
「お姉ちゃん口悪すぎー」
「誰のせいだ!お願いだから出てって!」
「やだ」
千代子は捕獲しようと奮闘するわたしの腕を、嘲笑うかのようにすり抜けると、コートを脱いでこたつに入った。
わたしの定位置を横取りした千代子は、うなだれるわたしへと、手にしたみかんをずいっと突き出してきた。
「ネイルしたばっかだから、これ剥いて。筋は綺麗に取ってね?」
「あんたは女王なのか!」
わなわな怒りに震えていると、ガラス戸が開いた音がして、はっと顔を上げた。
あれほど言い聞かせたのに、京次がひょいと顔を出している。その手には、湯気の立つおたまが握られていた。
「覗くなって言ったのに!」
「いや、和菓ちゃんが荒れてるから、気になって……」
そう呟いて千代子へと向きかけた京次の目をめがけて、わたしは機敏な動作で飛び上がる。ふくらはぎをぷるぷるさせながら背伸びをして、なんとか両手で京次の視界を遮ることに成功した。
「見るな!石にされる!」
「……ゴーゴン三姉妹でもいるのか?」
「お姉ちゃん、ゴーゴン三姉妹ってなに?美人姉妹みたいな?うちは二人姉妹なのに?」
ああ、もう!一人一人でも扱いがめんどうなのに!
美人という言葉に反応した京次が、目を覆っていたわたしの両手首を掴む。そしてそのまま容易く目元から外してしまった。
遮るものをなくした京次の瞳に、千代子の可憐な姿が映り込む。
「おっ、すげぇ美人」
「こんばんは。おじゃましてます〜。和菓子の妹の、千代子です」
自分の見せ方を最大限に知り尽くした妹の、完璧な角度からの小首を傾げて上目遣い。
普段は呆れるだけなのに、なぜだか今は胸がざわついた。
こんなの見せつけられて、いい気にならない男なんていない。
ばかはバレてもかわいければ大抵許される。むしろもっと愛される。
千代子にじっと見入る京次に無性に腹が立ったわたしは、急所に膝蹴りをお見舞いした。
「くっ……!」
苦悶に満ちたうめきをもらして、でかい京次があっけなく頽れた。
一応手加減したつもりだったけど、脂汗までかいてうずくまるその様子に、わたしは急に怖じ気づいてしまった。
それってそんなに、痛いものなの?
「だ、大丈夫……?」
「うぅ……使いものに、ならなくなったら……ど、うすんだ……」
弁償できるものでもないし、わたしだって膝が気持ち悪い思いしたし……。
「お姉ちゃん、それはやりすぎでしょうー」
京次に駆け寄り介抱の手を差しのべた。自分から人のために動くような子ではないのに。
まさか、京次を気に入ったの?
京次も千代子の手を借りて、なんとか立ち上がろうとしている。
「……もう勝手にしろ!不能になれ!」
わたしは子供じみた呪詛を浴びせかけて、部屋を飛び出した。
自分の部屋に引きこもり、布団にくるまる。
あんなにわたしにしつこくしてたのに、千代子にでれでれして!
がむしゃらに枕を殴りつけて力尽きると、急激に頭が冷えてきた。
「なに怒ってるんだろう……。こんなの、いつものことなのに」
いつかはこうなる予定だったじゃないか。
京次からの押しつけがましい愛情表現がなくなるからって、なんだ。住むところを追われるわけでも、ましてや死ぬわけでもない。
だけど京次が千代子といちゃいちゃしているのはムカつくし……見ていたくないな。
目を閉じていても、耳を塞いでも、階下にいる二人を気にする自分がいる。
今頃きゃっきゃと、クリームシチューに舌鼓でも打っているんだろうか。
「京次の変態……。クリームシチュー、わたしだって好きなのに……」
「誰が好きだって?俺?」
なんか、幻聴が聞こえた
下にいるはずの京次が、すぐ近くにいるらしい。
音を立てずに部屋に侵入してくるとか、忍の者なのか?
「和菓ちゃん?拗ねてるのはわかったけど、普通の男なら、いい女がいたら見ちゃうよ。性だもん。だけど一番大事でかわいくて好きなのは、和菓ちゃんだけからさ、怒ってないで、一緒にご飯食べよう?」
かけられた言葉があまりに優しくて、べたべたな甘やかし声で、暗闇からちょっとだけ這い出てみた。
まだ冬なら冬眠し直そう。
布団から顔を出したわたしを、京次は怒ることなく、よしよしと撫で回した。
「千代子は……?」
「ああ、下でクリームシチュー食べてる」
「そうじゃなくて、その……」
言い淀むと、京次がにたぁーと笑った。
「かわいいなぁ。妹に俺を取られると思ったんだ?」
かぁっと顔が紅潮する。図星だ。
すかさず穴蔵に戻ろうと後退するも、引きずり出されて、あえなく捕獲された。
あぐらをかいた足の間に閉じ込められて、無駄な抵抗だと頭では理解していても、足をばたつかせて離せと訴えた。
「ん?足を愛でてほしいっていう、アピール?」
「違う!違うから、や、触るなっ……!」
ジーンズ越しでも、むくんだふくらはぎをほどよい力加減でマッサージされれば気持ちいいもので……。
やわやわ揉まれて、変な声が出そうになる。慌てて口を結んで、京次のシャツにすがりついた。
その絶妙で的確なツボ押しに、わたしの身体があっけなく陥落する。
「……っ、」
「顔真っ赤で声殺しながら悶えるとか、やばい。けど……あーよかった。不能にはなってなかった」
「ひぃっ!」
悲鳴を上げて京次の膝から飛び退いた。
「あはははっ!冗談だって」
「たちが悪い!」
「え?それは和菓ちゃんが蹴ったから――」
「やだもう変態!お願いだからしゃべらないでくださいぃ〜!」
なかば土下座のように伏せると、大笑いしながら覆いかぶさられて、またつんざくような悲鳴を上げた。
京次の愛情表現はしつこすぎて鬱陶しい。だけどまだそれがわたしに向けられていることが、どうしようもなく……嬉しい。
それでも軽々転がされて両手を布団に縫い止められたところで、身の危険を感じて冷や汗がたらりと流れた。
この状況は、まずいのでは?
髭が擦りつけられて嫌々したところで、突然、スパーンとふすまが開け放たれた。
まずいタイミングで来てしまった妹は、わたしと京次の今の状況を脳内でどう解釈したのか、目を剥いて部屋に乗り込んで来た。
「ちょっと!なにしてるの!」
ああ、自分じゃなくてわたしが構われてるから、不機嫌なんだなと考えていたのに、千代子はなぜか京次の脇腹を、容赦なく蹴り飛ばした。
これは……自分をかわいがらない男への制裁か?
京次が本日二度目の物理攻撃に、うめいて横へと転がった。いや、吹っ飛んだ。
「お姉ちゃん嫌がってるじゃん、この変態がっ!」
うん?
今のは、聞き間違いか?ちょっと理解が追いつかない。
女王然として腰に手を当て、仁王立ちした千代子は、わたしをびしりと指差し、尊大に言い放った。
「これはわたしのだ!」
おい。わたしはいつからあんたの所有物になった。
うろんな目で妹を見上げていると、今度は京次が腰の負傷に顔をしかめつつも、勝ち誇ったような顔で言い返した。
「いいや、これは俺のだ。悪いけどすでに、俺のものだという印がつけてある」
印……?
ニヤリとした京次はわたしを反転させてうつ伏せにすると、服の裾を掴んで豪快に捲り上げた。
「ぎゃー!やめろ、変態!」
わたしの背中になにがあるんだ!
「うわ……」
千代子!青ざめながら手で口を覆うな!その反応が怖すぎて、わたしの背中になにがあるのか聞きたくなくなる!
「いやぁー、浮気防止にキスマークつけまくったかいがあったな〜」
そうだとは思ったけど、やった本人の口から素直に犯行を自供されては、どこにも現実逃避ができない。
わたしは意を決して、おそるおそる首をひねった。
外気に触れた素肌には、まんべんなく赤い痣が散っている。
わたしは普段、背中なんて意識しなければ鏡にも映さない。そしてこの家に、全身を映すような鏡はない。
この男は、わたしが気づかないと確信していたに違いない。
「ひぃぃぃ……」
トラウマになりそうな狂気じみたその光景に、涙がじわりとあふれてきた。……怖い。
「和菓ちゃん眠りが深いから、なにしても起きないし」
毎晩なにされんるんだ!
「うわぁーん!もう絶対にお嫁に行けないー!」
「責任取ってやるから、泣かない泣かない」
頭を撫でてくる京次の手を叩いて、わたしは穴蔵に逆戻りし、傷ついた心と身体を慰めた。




