7
「オゼン?」
深く長い洞窟の奥。けれど洞窟の奥は明るい。それは天井に適度な大きさの穴が開いているからだ。
自然のものとは思えない形のそれは、大地の力を操る山犬が作ったもの。
岩を変形させ動かし、二枚の岩が互い違いに重なるよう作られた、明り取りの窓だった。
その窓から差し込む光は朝日なのに、いつも隣にいるはずの夫の姿がない。
いつも自分を抱きしめて微笑んでいるはずの、夫の姿が。
「オゼン、どこにいるの?」
最近では起き上がることすら億劫なほど衰弱した身体。それをなんとか起こすとハルシャは辺りを見回した。
「オゼン、どこ?」
食物の調達にでも行っているのだろうか?
結婚して以来住んでいた家を出たのは、つい最近。
生まれてくる子が人間以外の姿だった場合のことを考えて、ふたりは人目のないこの洞窟に出産を迎える目的で居を構えた。
そして山奥にあるこの洞窟での日々は、そのほとんどをオゼンに頼る生活だった。
山を駆け動物や山菜を狩り、里に降りては食事と交換して運んでくる。
そうやって生活していたふたりだったが、自分が目を覚ました時にオゼンがいないなんてことは初めてだった。
「よ……いしょ、っと……はぁ、はぁ……ダメね、すっかり身体が重くなっちゃって」
まるいお腹は大きく膨らみ、やや下方に垂れている。それが臨月を表すことを、産婆あたりが見ればすぐに分かるだろう。
けれど、とハルシャは思う。
最近とみに身体が重いのは、なにも臨月だけのせいではない、と。
オゼンのいう通り、力あふれる妖怪の血にこの身体が耐えられないのだろう。
はぁはぁと肩で息を継ぎ、壁伝いに外を目指す。
少し歩くだけで身体は悲鳴を上げたが、それでも今は外に行きたい。晴れた青空が見たい。
強い本能にも似た渇望が身体を突き動かすから。
がくがくと震える膝を叱咤し、息が切れてくらくらする身体をおしてハルシャは歩き続けた。
そして、酸欠でそろそろ眩暈を覚えるころ、彼女はようやく外界に出た。
「はぁ、はぁ、は~……気持ちいい」
壁に背を預けたまま座りこんで、眼下を見下ろす。
山の頂上付近にできた洞窟は、人の足どころか普通の獣でも辿りつけない難所にある。
だからこそ見晴らしは抜群で、空は青く澄みわたり、また眼下に広がる森の深緑が美しい。
ただの人ならば一生目にすることもできないだろう風景を目にして、ハルシャの口元は緩やかな弧を描いた。
「ふふ……得した気分だわ」
頬をなで、髪をゆるく揺らす風が心地よい。
こんな素晴らしい光景を見ることができるのは、ひとえにオゼンのおかげ。だとすれば妖怪を愛したことも悪いことばかりではないだろう。
涼やかな風に目を細め、ハルシャはまるく大きな腹をそっと撫でつける。
「ね、あなたもそう思わない? わたしの人生はとても幸せだったって」
そう話しかければ、ぽこんと腹を蹴られた感触が返る。
「あら、あなたも同意してくれるのね。ふふ、うれしいわ」
子からの反応がうれしくて、また腹をなでる。
ぽこ。
「お返事するのがお上手ね、あなたは」
ぽこ、ぽこん。
「ふふ、元気そうでなによりだわ。愛しい子、早くあなたの顔が見たいわ」
ぽこ!
強い蹴りにハルシャは笑う。幸せそうに、得も言われぬ表情で。
幸せであることを疑いようもないほど、その微笑みにはくもりがなく。
透徹な表情には、迫りくる死を受け入れた静謐さに満ちていた。
きっと、もう間もなく自分は死ぬであろう事実を、受け入れて。
受け入れているからこそ、彼女は世界の美しさを強く感じている。
己の人生を振り返り、幸せであった時間の積み重ねを愛おしく想い、こうして風に吹かれている。
「ああ、今日はいい天気ね。空の青さが気持ちいいわ。こんなきれいな空を独り占めなんて勿体ないくらいね」
そう独りごちれば腹の子がぽこん、とまたひとつ腹を打った。
「ああ、そうね、ごめんなさい。独り占めではなく二人占めね。……ふふ、早くオゼンも帰って来ないかしら。どうせなら三人で見たいわね」
青い空も、輝く月も、色とりどりの花も。きれいなもの、すべて。
「ねえ、早く生まれていらっしゃい。オゼンとあなたと私で、たくさんきれいなものを一緒に見ましょう?」
ゆっくりと、腹を見つめながら語りかけていたハルシャは、ふと風が強く動いたのを感じた。
「あら?」
視線を上げれば、そこにはオゼンの姿があった。
いつもと変わらぬ、山犬の姿で。
いつもとはどこか違った様子で。
「オゼン……?」
なにか、いつもの彼とは違う匂いがハルシャの鼻先をかすめた。かすかな、それは錆びた鉄のような匂い。
瞬間的に香ったそれは、なぜかハルシャの鼓動を速めた。
『不吉』。そんな予感めいたものが、彼女の胸の内を掠めたからだ。
「オ、ゼン? どうしたの?」
自身の動揺を押し隠すようにつと手を伸ばせば、愛しい獣はすぐに人身を取ってハルシャを抱きしめた。
「どうしたの、は俺が言いたいよ。ここまで来るのは辛かったろう、ハルシャ。一体どうしたの、無理は禁物だって言ったでしょ?」
そのまま妻を抱き上げ奥に戻ろうとしたオゼンだったが、ハルシャがおし留めた。
「あ、まってオゼン。少し風にあたりたいの」
だからこのままで、と願えば、オゼンは少し渋ったのち、その場に腰を下ろすと妻を膝の上に乗せた。
「少しだけだよ。身体を冷やすのはよくないからね。少し外を見たらすぐに戻るよ?」
「ええ、ありがとう」
すっかり細くなってしまった妻の身体を後ろから抱くように腕を回し、自分に背中を預けるよう促す。するとすぐにハルシャはオゼンに寄りかかってきた。
「ふぅ……こうすると楽ね。ありがとう、オゼン」
「辛いならすぐに戻るから、言うんだよ?」
「あら、せっかくあなたが帰ってきたんだもの、しばらくはこうして三人で空を眺めたいわ」
そう言うとハルシャは腹の前で組まれた夫の手に、自身の手を添えた。
ごつごつとした手。けれどあたたかい手。ハルシャの大好きな、夫を成すものの一部。
その爪の中にどす黒い、けれどどこか赤くも見える汚れが付着している。それに気づいたハルシャは自然と息を詰めていた。
「…………」
うすく、ごく薄くだが、いつからかハルシャの胸に芽生えたモノ。
それは、愛しいはずの夫への――疑心。
(……いつから、かしら。あなたの顔色がよくなってきたのは)
以前の彼は自分の命を削ってこの身に精気を与えてくれた。
それはもう彼の衰弱が顕著になるくらいに。
「ハルシャ? どうかした?」
やさしい声に振り向けば、出会った頃から変わらぬ笑顔がそこにある。
けれど。
(あんなにきれいに澄んでいた瞳が濁ってしまったことに、気づいている? オゼン)
過去に一度ハルシャが大泣きして精気を拒んでから、彼は正面切って精気を与えることをやめた。
けれど彼女は知っているのだ。夜、ハルシャが寝静まった頃合いを見計らって、彼が精気を与え続けていることを。
それなのに。――それなのに、彼は以前よりも活気に満ち、血色もよくなっている。
その理由にひとつだけ心当たりを見出した時から、ハルシャの胸には不安が沈殿していった。
『妖怪は好んで人間を喰う』
それは力を手に入れるためだと、人間なら子供でも知っている事実だ。
もしかして。
でも。
妖怪の性質を思い出しては不安になり、けれど夫の人となりを信じたい気持ちがそれを否定する。
その葛藤が苦しくて。信じたいのに信じきれない自分がイヤすぎて。
指先の熱が引いて、手のひらに汗がじわりとにじむ。
「……ねえ、オゼン?」
(もしかして、あなたは――)
積もり続けた懐疑心が口を開かせる。事実を確認させようと。
けれど、愛した人を信じたい気持ちが、ブレーキをかけるから。
「今日はどこまで行ってたの?」
強く覚える違和感を意識して除外して、ハルシャはたわいない話題をふっていた。
「うん? いつもと同じだよ。今日はほら、君の好きなヤマモモを摘んで来たんだ。今年のヤマモモは甘くて瑞々しいよ。ほら、食べてごらん」
そう言ってオゼンは腰に吊るした袋を開いては彼女に渡す。
袋の中にはたくさんのヤマモモが入っていた。
最近では食事が喉を通らなくなってきたハルシャを案じて、せめて食べやすいものをと探してくれたのだろう。
以前と変わらぬ夫のやさしさに、ハルシャの胸はじんわりとした熱をもった。
けれど赤く熟れ、ところどころ黒くも見えるそれに、どこか不吉なものを感じてしまったハルシャはそれを手にすることなく注視する。
「どうしたの? 果物は好きだったよね?」
「え、え……でも、今日はちょっと」
「それとも果物さえ、もう受けつけないの?」
深刻な声にハルシャの胸が痛む。夫を悲しませるのは本意じゃない。
常に、何に於いてもハルシャのために心を砕く彼だからこそ、心配をかけたくはなかった。
(気のせい、よね。きっと出産が近いから神経質になっているのよ……)
そう、自分に言い聞かせて、ハルシャはオゼンの差し出した袋からヤマモモの実をひとつ口に運んだ。
――よく熟れたヤマモモの甘さは、なぜか喉に沁みた。