6
(……あったかい)
ゆらゆらと浮上し始めた意識が、まず感じたのは心地よい温かさ。
人肌のぬくもりが与える安心感。そしてそれを上回るのは大樹のような安定感を放つ気に包まれていること。
それらをメイファに与えてくれる人は、一人しかいない。
「ます、たー……?」
たゆたうような心地よさの中うっすらと目を開ければ、そこには見慣れた、けれど見飽きない人の端正な顔があった。
怜悧さを滲ませる、切れ長の目。けれどそれを『冷たい』と感じさせないのは、夜空にも似た瑠璃色の瞳のせいだろう。
すべてを包み込むような、温かなまなざしが自分を見つめている。
案じている様をありありと映しだして。
「ふふ~」
くすぐったくも温かな気分のまま、シンの首元に頭をすりよせれば、大きな掌が動いてメイファの頭をくしゃりと撫でた。
「具合はどうだ? 辛いところは?」
「ん~と……」
まだうまく回らない頭で、それでもメイファは彼の言葉とおり損傷のチェックをおこなう。
右肩、腕、胸も、……あ、おなかもだったっけ。
一通りダメージのチェックをしてみたが、どこにも痛みはなく、違和感も感じられない。
「だいじょぶ、みたいです。マスターが精気を分けてくれたおかげで、傷は治りました」
「そうか」
少女の言葉を受け取ったシンは胸中だけでため息をつく。
(やはり一晩で完治は無理だったか)
『傷は』というのならば、それ以外はまだ本調子ではないのだろう。
たとえば、それは失血に伴う貧血とか。
そして――己が力に傷ついた肉体、とか。
半妖というのは往々にして厄介な身体だ。妖怪の血は人にあらざる力を揮わせるくせに、それを行使する肉体が自身の力に悲鳴をあげる。
その脆弱さは如何ともしがたい。
だからこそ少女が傷を負えば、シンは少女が癒えるまで彼女を抱き、眠らせるのが通例だった。
己が精気を与え、治癒を促進するために。
それでも残ってしまったダメージに、シンは無言で華奢な少女の身体をいま一度抱きしめ直した。
長い腕がメイファの身体に絡みつき、小さなその身をシンの胸へと引き寄せる。
わずかにあった二人の間の隙間はすぐに潰れてなくなり、少女は大きな胸板に当てた耳で彼の鼓動を聞く。
トクトクと規則正しい、命の音色。それはまるで子守唄のようにメイファのまぶたを重くさせるから。
……このまま、もう一回眠っちゃおうかな。
うつらうつらする意識の中で、それはとても魅力的な判断だと思えた。
が、しかし、次の瞬間メイファは温かな睡魔を蹴たぐり倒した。
「っ、て、そうだ! シャルちゃんは?!」
ガバッと見上げた先で、少々その勢いに驚いたらしいシンが目を瞬かせていた。
「シャルちゃんは無事ですよね、マスター?!」
「……ああ。金花のこどもは無事だ」
聞けば昨夜メイファが寝ついたあと、シンはあの親子の所に足を運んだらしい。
そして彼は告げた。
メイファがケガを負ったため、明日は一日静養を要することを。
そして不安がるパーラを宥めるために、シンは彼女の前で多重結界を展開してみせたのだと、淡々と説明を受けたメイファは小さな安堵の息をはいた。
「はぁ~、そうですか。よかった」
師匠にしりぬぐいさせる自分の実力はため息ものだけど、それでも彼女らが安全なら憂いは減る。
ほっと肩の力を抜いたメイファは、現在時刻を測るために窓を見た。
厚いカーテンでも遮れない陽光が室内を侵食している。
光の強さといい、その短さといい、たぶん昼くらいだろうと当たりをつけて問えば、案の定シンは肯定した。
「お昼かぁ」
身体はだるいけど動けないほどじゃない。これくらいなら師匠の精気をもらうより、階下で食事を取った方がいいかな、などと考えていたメイファはふと気づいた。
すん、と鼻を嗅ぎ鳴らす。
今の今まで気づかなかった。きっと体調がいま一つのせいだろう。
(それにしても……これ)
顔色が変わった弟子に、シンもまた身を起こしメイファと同じようにカーテンで遮られた窓の方を見る。
「……マスター」
「気づいたか」
先ほどまでのやわらかな様子が嘘のように師匠の声は固かった。
だって――
「どうしてこんな……血の匂いがするの?」
バクバクと胸が音を立てて、息が苦しい。手のひらがじっとりと汗ばんで、指先が冷たくなる。
臨戦態勢にも似た緊張感のなか、ぎこちなくシンを振り返れば、厳しく引き結ばれた彼の口元がゆっくりと言葉を紡いだ。
「昨夜の獣が逃走の折、際限なく人間を襲い喰らったそうだ。その件についてドン・ワンから呼び出しが掛かっている」
「なっ!?」
「早朝こちらに使者が来たそうだ。お前の目が覚め次第、奴の屋敷に出向くように、だそうだ」
目線だけで「呼び出しに応じるか?」と問いかけてきたシンに、メイファは下唇を噛んで答える。
「……行きます、ドン・ワンのところに」
行って詳細を聞かないと。
あれは、自分が責任を持つべき案件。
だから、と焦燥にふらつく身体を叱咤して、メイファは妓楼を後にした。
息苦しい。気持ち悪い。
ひと呼吸するたびに、胃のあたりにひどく冷たい澱が溜まるみたい。
「う……」
吐き気を催すほどの血の匂いは、すなわち死の匂い。
いったいどれだけの人数が死んだら、これほど死の匂いがするのか。
この匂いを嗅ぎとれない人々ですら、この異常さを肌で感じとるのか常より活気がない。
それは極彩色で彩られたはずの街から色が抜けてしまったかのような印象を抱かせた。
「使うか?」
そういって差し出された厚手の綿手ぬぐいだった。
気休めにしかならないだろうが、それでも人間の数億倍以上鼻の利くメイファにとって、この状況は軽い拷問だろう。
弟子の身を案じて差し出したシンだったが、メイファは青ざめた顔色だが、意外にしっかりした口調で「いえ、大丈夫です」と手ぬぐいを固辞した。
――罪悪感ゆえ、なのだろう。
生真面目な性格の少女なら、さもあらん態度だ。
シンは嘆息すらつかず手ぬぐいを懐にしまうと、不器用な少女に寄りそい歩き続けた。
前回と同じ執務室に通されるかと思いきや、メイファたちを出迎えた男はそのまま屋敷の外周に沿って歩き始めた。
行きつく先はまったくの不明だが、ロクでもないところなのは確信できた。
なぜなら歩を進める毎に強い腐臭と、それでも消せない血生臭さが鼻をつくからだった。
「大丈夫か?」
案内役の男の後ろをついて歩きながら、シンが小声で問いかける。
「大丈夫、ではないですけど……」
血の匂いに古いトラウマを刺激されて、心身ともに気分が悪い。
自分の顔色がひどいことは承知しつつも、メイファは自分に喝を入れるように、ぐっと手のひらを握りしめる。
「山犬のやらかしたことなら、あたしは知らないとダメ、だから」
そう答えて、少女は先導する男の後ろに続いた。
そうして歩くこと、しばし。
屋敷の最北端に位置する場所には粗末な小屋があった。どうやら屋敷のゴミをまとめて置いておく小屋らしいと分かったのは、涙が出るほど強烈な血生臭さと腐敗臭のせいだった。
陰鬱な印象の小屋は、なにも日陰にあるからだけじゃない。
目には見えない『死の影』が重く冷たく張り付いているからだ。
「……く」
乾き張りついた舌をなんとか動かして、形ばかりの嚥下をしたメイファに。
「入れ」
簡素な言葉と共に案内役の男が小屋の扉を開ける。
「ここ、っは、げほっ……!?」
扉が開いた途端、猛烈な死臭にむせた。慌てて鋭すぎる鼻を押さえたが、もう遅い。
鼻に張り付いた匂いに、こみ上げる吐き気が、鳥肌が止まらない。
「ここには、なにが……?!」
半分涙目になりながら案内役の男を振り返れば、冷淡な視線が返ってきた。
「昨夜、妖怪に食われた者たちの残骸だ。むごたらしいほどにバラバラのな。もう個人を特定できる状態ではないから、仕方なくこちらでまとめて埋葬をすることになった」
部屋の片隅に置かれている大きな麻袋。いびつな形は数多くの人体――その残骸――が詰まっているからだろう。
その事実を目の当たりにして、メイファの視界がぐにゃりと歪む。
青ざめよろけた弟子を抱きとめて、シンは感情の読めない平坦な声で問いかけた。
「なぜ我らをここに呼んだ。話だけなら執務室で充分ではないのか?」
「被害の実物を見せろと、ドン・ワン様からの指示だ。お前たちが仕損じたせいで甚大な被害が出たことを、その罪を思い知れとのお言葉だ」
むっつりとした男はそう告げると、メイファ達に麻袋の口を開けるよう命令した。
「袋を開けずとも、惨状は十二分に理解した。この娘は人間より数段鼻が利くのでな」
だから、と開封を拒否したシンだったが、案内役の男は気にも留めず、メイファの肩を掴むと遺体の前へと乱暴に押し出した。
「見ろ。そして己が罪を思い知れ。おまえのせいで、これだけの住人が殺されたのだ!」
「あ……」
血の匂いが鼻をつく。鼻腔から入る死臭が体内を埋め尽くす。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!
でも、言霊で操られたように身体が動く。
「メイファ」
師匠の案ずるような声でもそれは止まらない。
伸びる手。触れた麻袋のヒモを解いて。
口を、開く。
「……っう、ぐ!」
眼下に広がるのは一面の赤。
無造作に詰めこまれた腕や足。
内臓の絡みついた下半身。
それに苦悶と絶望が張り付いた、生首。
「う……」
混ざり、数えきれないほどの肉片は、どれも歪に食いちぎられたせい。
まるでゴミのようにいっしょくたにされ、人間の尊厳など打ち棄てられたその姿。
それを目の当たりにした時、
「……あ、ぅ」
全身の血が音を立てて引いていくのをメイファは感じた。
「メイファ!」
世界が暗転する。暗闇に引きずり込まれる。
泥沼のような、底なし沼のような重たい闇に。
崩れ落ちる少女。その身体を掬いあげたシンは、労わるようにメイファをその胸に抱き上げた。
生まれて間もないとも言える十六歳、そんなメイファに人の死への耐性があるはずもない。
(ましてやこの子は両親を妖怪に食い殺された身。……これはあまりにも、むごい)
シンとて分かってはいるのだ。これはメイファが取り漏らしたが故の結果であり、彼女がきちんと山犬を倒していれば、これだけの人命が果てることもなかったと。
だからこそ、メイファは己が業の結果を見届けなくてはならないことも。
分かっていても遣りきれないのは、――情ゆえの庇護欲か。
意識のない少女を横抱きにした青年は、そのまま部屋の外へと歩き出す。
そしてそんなシンを男は止めようとはしなかった。
なぜなら男の役目は彼らにこの事実を突き付けることだけだからだ。
歩きだすシンに道を譲るよう半身を開けた男。その傍を通り過ぎる時、シンは言った。
「ドン・ワンに伝えてくれ。昨夜で仕留められなかったのはこちらの手落ちだ。すまない。だが、この後一人たりとも犠牲者は出さないと誓おう」
「当然だ。でなければ、お前たちの首に賞金をかけるだけだ」
無駄口のない冷静な返しは現実的で、この男がドン・ワンと違い優秀であることが窺えた。
そんな男に、シンは余裕の笑みを口元にたたえ応える。
「そんな無駄金の心配は不要だ。この子は必ず仕事を遂行する」
明日までに、と呟く声を残し、シンは来た道を戻っていった。
父さま、母さま。
夢を見ていると分かって、メイファは夢を見る。
いつも飄々とした態度で博識で、人間なのにすごく強くて。だけど、おちゃめな所があった父。
そんな父にたびたび振り回された母はよく文句を口にしたけれど、でも彼女はいつも幸せそうな笑顔だった。
『おいで、おいで。ボクの可愛い娘よ~!』
父が笑顔で手を叩く。こっちにおいでと、囃し立てるように。
その声にまだ言葉もロクに話せない幼子は、よちよちと歩き始めた。
覚束ない足取りで、それでも精一杯、自分を呼ぶ声の方へと。
すると父は満面の笑顔で自分を抱きしめてくれた。
『おお、すごい、すごい! メイファは本当になんでも出来るんだねぇ!』
『それくらい普通だってば。あたしの娘なんだから、本当はもう駆けだしてもおかしくないのよ』
そう言いつつも、母は瞳を細めてやさしく頬を撫でてくれる。
『ねー、メイファ。あんたはきっと誰よりも強く綺麗な娘になるわよ。それこそあたしみたいな傾国の美女級にね』
そう言って母は娘の鼻に、ちょんと口づけた。父に似て少し低めの可愛い鼻に。
くすぐったくて、きゃっきゃと笑うメイファ。そんな娘の頬に、父もまた口づけながら笑う。
『そんなのとっくになってるよ。ボクはメイファにメロメロだもの』
『……親バカも大概にしなさいよ、コウ』
『あ、拗ねなくてもいいよ、ヨーコさん。ボクの特等は娘だけど、特別はキミだけだから』
『バッ……! 誰がいつ拗ねたのよ!』
『えー、キ・ミ・で・しょ?』
おどけたような口調で、猫のように瞳を細めて笑う父は実に楽しげに――愛しげに――赤面する妻を抱きしめた。
娘ごと、その両腕で。
『愛してるよ、ボクの宝物たち。キミたちさえいればボク、他にはなんにも要らないよ』
額にキス。あたたかな、キス。やさしい抱擁。
『もう、ホントにコウは口ばっか達者なんだから!』
口先だけの文句は照れ隠し。
だってほら、彼女はほんの少し拗ねたように、でも押さえきれない幸せに口元を緩めている。
幸せだと、全身で語っている。
愛し愛され、互いを守り慈しむ。そんなふたりの子供に生まれてきて、メイファは本当に幸せだった。
愛されることが当たり前の、幸せな日々。
――――だからこそ、奪われた時の哀しみは、絶望は、八つ裂きすら生ぬるいほどの痛みを少女に与えた。
『父さま! 母さま!!』
むせ返る血の匂い。
血。血の匂い。愛する父と、母の匂い。
大妖率いる妖怪たちの大群に襲われ、父母の健闘もむなしく劣勢に追い込まれた時、メイファだけが遥か遠くの地へと飛ばされた。
他ならぬ父の術で。
この目が最後に捉えたものは、父母の浮かべた慈愛の微笑み。
愛していると、どうか元気でと代わる代わる、抱きしめられて。
天地が猛烈に回る気持ち悪さがメイファを襲い、気づけば戦地とは無関係な場所にいた。
たったひとりで。
それから。
(父さま、母さま!)
幼子は駆けた。母譲りの自慢の足で、父譲りの根性で大地を駆け抜けた。
父母の残り香を探して、探して、探し回って。
そしてようやく探し当てた先にあったものは、黒く凝った血の痕だけだった。
残らない。何ひとつ残っていない。
やさしい父の笑顔も、あたたかく艶やかな母の毛並みも。
なにひとつ。
なにひとつとして、メイファが愛した、少女を愛してくれた両親の欠片はなかったのだ。
――――あいつらが……喰らった、の?
メイファの脳裏に浮かぶのは、両親と共にいられた最後の刻。
数多の妖怪に喰らいつかれ、美しい毛並みを赤く汚していた、母。
端正な顔立ちを何度となく苦痛に歪めていた、父。
彼ら、を……妖怪が、喰らった?
白い手を、美しいかんばせを、しなやかな肢体を、あたたかな笑顔を、たくましい腕を胸を。
すべて、すべて喰らったのか、あの下衆たちが?!
『とうさ……っ、ひ、えぐっ……かあさっ、まぁ!』
涙が止まらなかった。理不尽な現実が恨めしかった。両親を喰った妖怪たちが憎かった。両親を守れない自分の弱さが悔しかった。
けれどなにより――悲しかった。
悲しくて、哀しくて、かなしくて。
もう会えない。両親にはもう、逢えない。
どれだけ願っても、どれだけ渇望しても、祈っても泣いても喚いても怒っても哀しんでも!
逢えない。感じられない。髪一筋さえ残さず逝った彼らには。
「と……さま……かぁ……さ……」
夢に傷つき、夢で泣くメイファを揺するのは、大きな手。
「起きろ、メイファ」
その腕は明確な意思を以て、少女を夢の淵から引き上げようとする。
「起きろ。夢でさえおまえを苛むなら、起きて現実を見るがいい」
揺さぶる手。けれどそれは慈愛のこもった手。
「起きろ、メイファ。目を覚まして見るがいい、私は現実にいる。おまえの傍に」
「…………う、ます、た……?」
「そうだ、私がいる限り、おまえは独りではない」
ひどい衝撃に、古傷が痛むのだろう。
開いた双眸は、深い悲しみに涙でいっぱいだった。
瞬きする度に零れ落ちる哀しみの雫たち。
それを親指で拭ってやりながら、シンは黙ってメイファを見つめた。
「ます、マスター、あたし……あたしっ」
幼子のように両腕を伸ばして彼を求めれば、すぐに逞しい両腕が少女の願いに呼応する。
「大丈夫だ、私がついている」
「マスター!」
縋りつくように背中を掴むメイファを抱きすくめ、その小さな背中を宥めるようにシンはなでる。
「マスター、あたし……っ、あたしが……!」
応える声はない。ただ彼は少女をなでるだけ。
「両親も、あの人たちも……っみ、見殺し、にっ……!」
メイファの胸の内にある悲しみを吐き出せるように、ただなでるだけ。
「ちっ、力が……ないばかりにっ」
「そうか」
「ど、しよう……えっ、う……ま、マスター、あたし」
幼子の頃に戻ったように、メイファは泣いた。顔をぐしゃぐしゃにして、シンに縋り付いて。
過ぎた不安と後悔が、彼女から立ち上がる自信を、気力を奪うから。
「マスター、あたし自信、ない。あた、あたしっ、が、ちゃんと出来なかったら、また人が死ぬ。死んじゃうの……父さまたちみたいに!」
大切な人がいただろう。死んだ人たちを思って、今もどこかで誰かが泣いているだろう。
あんな悲しい、やるせない思いをさせたのは、自分の責任なのだ。
「ど、しよ、マスターあたし、どうしたら……!?」
人命の重さに恐れおののき、幼児のように泣きじゃくるメイファ。そんな彼女の肩に手を置き、少し身を離したシンはメイファをじっと見つめた。
「どうしようじゃない。お前がどうしたいか、だ」
「……マス、ター?」
深く澄んだ瑠璃色の双眸がメイファを見据える。深く深く、その心の奥底まで見透かすように。
「メイファ、お前はどうしたいのだ? この件から手を引き、全てから目をつむるのなら、後始末は私が引き受けよう。お前はただ事が終わるのを待てばよい。しかし己が目でこの行く末を見届ける気があるのなら、いま一度立て。立って己が望む結末をその手で掴むがいい」
「マスター……」
青い、蒼い輝き。深い夜空を思わせるその瞳に、古い記憶が疼く。
あれはこの人と出会った晩のこと。
死に瀕した自分を助け、彼は問うた。
何のために、永らえた命を使うのか、と。
(そう……そうだ。あたしは、あたしがしたいことは)
たった一つ、父母の仇をこの手で取ること。
そのために、強くなると決めたのだ、あの晩に。
「あ、たし」
そうだ、迷うな。やさしかった両親の仇を、理不尽に散らされた彼らの命を『奴ら』に贖わせてやるのだ。
そのために、自分は生きてきた。そして今も、生きている。
そう。
「成すべきことを、します。そのために、あたしは生きてるんだもの」
ぐっと前袖で涙をこする。
泣いてる場合じゃない。思い悩む時間じゃない。
「もうこれ以上、あたしみたいな思いをする人を出したくないから。次にあいつが来たら、必ず仕留めます」
泣くくらいなら行動を。思い悩むヒマがあったら、一歩でも前へ。
今はもう、前に進むことの出来ない両親の代わりに、自分が歩いて行かなければ。
固い決意をこめた瞳でしっかりと師匠を見据えれば、満足そうに微笑むシンの姿があった。
その笑みに、メイファはふと思う。
「ね、マスター? もしかしてあたしの答え、最初からわかってました?」
そう問えば、男はうすく微笑みながら立ち上がった。
「ああ。他ならぬ、手塩にかけて育てたお前のことだ」
くしゃり。やさしく頭をなでられて。
「生半のことでは倒れんよう育てたつもりだ」
そのまま彼は踵を返す。室外へと通ずる扉へ向かって。
「マスター、どこに?」
追い縋る声に彼は振り向いて、
「この妓楼全体に結界をかけてくる。……一匹たりとも妖怪どもは通さん。お前は安心して休むがいい」
あの獣も今宵は来まい、と残して彼は部屋を出て行った。
四神である青龍の血を引く師が本気で結界を張ったなら、それこそ四凶クラスの大妖でなければ歯が立たない。
となれば、今宵は彼の言う通りに休んでも構わないだろう。
もそもそと布団の中に身体を横たえ、そっと目を閉じればシンの残り香が鼻先をくすぐる。
幼いあの日からずっと共にあった香りに包まれると、口をつくのは安堵の吐息。
独りではない。その事実が胸の荒波を静めるから。
(今度はいい夢、みられそう)
確信に近い予感を抱いて、メイファはあたたかな闇に身を委ねた。