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メイファがシャルの護衛について、はや三日目。
その間に襲ってきた妖怪は、まさに数知れず。
中にはあからさまにメイファより格下の相手もいたが、彼らは火に飛び込む蛾のように、一心不乱に金花を狙ってきた。
だから夜は妖怪退治に精を出し、昼は昼で警戒を怠らずシャルに付きっきりの生活が続いていたメイファだった。
そしてそれは今日も同じく。
「……ちゃん、おねえちゃん!」
何度か名前を呼ばれてハッとした。……いけない、金花の匂いに酔いかけていた。
メイファは纏わりつく匂いを振り切るように頭をひとつ振り、シャルに笑顔を向ける。
「あー、ごめんね。ちょっとぼうっとしてたみたい」
「ん、もう。ほら、おねえちゃんの番なのよ」
水連の咲く小さな池。妓楼の中庭にあるそこで、ふたりは爛柯に興じていた。
そう、風通しのよい場所でないと息苦しさを覚えるほど、シャルの金花は今が盛りと咲いていたから。
甘く香るそれは吸い込むと頭の芯が痺れ、正常な思考が浚われそうな危うさがある。
半妖のメイファをしてそうなのだから、生粋の妖怪にこれは耐えられないだろう。
半ば強制的に引き寄せられ、惹きつけられ、求めずにはいられなくなる。
現にほら、そこの角。日差しが強い午後だというのに、物影の闇。深い影のなかに蠢めく妖怪の気配を感じる。
一匹、二匹、三、四、五匹。
百足にわいら、悪虫などの、気配すら殺しきれない低級妖怪。そんな有象無象の位置を正確に把握して、パチンと指をひと鳴らし。瞬時に現出した狐火は、断末魔さえ許さずに妖怪たちを瞬殺した。
「おねえちゃん、どうしたの?」
小首を傾げる幼子に、メイファはにっと笑うと白い石を持つ。
「閃いちゃったんだなぁ、これが」
そして石を盤上に置く。パチンと小気味よい音を立てて。
「あ~! ずるい、おねえちゃん! そこずるい~、まってまって!」
「ずるくないもん、待てないもーん。シャルちゃん、勝負は正々堂々が常道、でしょ?」
一気に白い石の割合が増し、くやしがるシャルを正面に、メイファは意識をこらす。
(うん、大丈夫。仕損じはない、よし!)
影に蠢いていた妖怪たちはきれいに一掃できたようだ。
本当に、普段は用心深い妖怪たちが、時も場所も弁えなくなってしまうのだから、この金花の誘引力は厄介だ。
「うう~」
眼前では一気に形勢不利に陥ったシャルが、黒い石を持ったまま長考状態に入っている。
教養の一環として爛柯を教え込まれているだけあって、シャルは幼くともなかなかの腕前を誇る。そしてメイファもまたそれなりに嗜む腕前だったので、こうしてふたりはよく手合わせをしながら様々な話をした。
(まさかマスターに付き合って覚えた爛柯が、こんな所で役立つとはね)
そんな感慨を抱きながら、手の中の石をころころと弄んでいると、間もなくシャルから「投了」の声が上がった。
「むぅ~」
不満を隠さない素直なシャルに微苦笑を浮かべていると、幼女は不平を口にしつつも盤の片付けに入った。
そろそろ稽古の時間なのだ。妓女見習いであることを、シャルは幼くとも忘れない。己に課せられた義務を、この子は常に果たそうとしている。
そんな少女の姿を目の当たりにして、つい。
「シャルちゃんは小さいのにえらいなぁ。お稽古さぼったりしないもんね」
そう呟けば、シャルは得意げに胸を張りながら答えた。
「当然よ。シャル、かかさまと約束したんだもん。一生懸命お稽古して、かかさまみたいな売れっ子の妓女になるんだって。……それでね」
時間にしたらほんの一拍。云い淀んだシャルは、次に小さな声で呟いた。
「すごく、すごく有名になって、ととさまが会いにきたくなるくらいの妓女になるの。……シャル、ととさまのお顔、知らないから」
だから会いたいのだと続けるシャルに、思わずメイファは胸を突かれた。
「……そっか」
胸が詰まって、これ以上の言葉が出ない。
会ったこともない父に、一目会いたい気持ちはよく分かる。
会いたくても二度と会えない両親への思慕を、今なお抱き続けるメイファだから。
「父さまに、会えるといいね」
「うん!」
元気な声をひとつ残して稽古場へと向かえば、パーラが娘を出迎えた。
「おかえりなさい、シャル。ちゃんと時間を守れたようで母さま嬉しいわ」
「かかさま!」
母親の腕の中に飛び込むシャルを抱きとめ、パーラは微笑む。
「さ、今日は香を学んでらっしゃい。仮母がお待ちかねよ」
「はい、かかさま」
す、と抱擁をとき、娘の背を押すパーラ。シャルも慣れたもので母に手を振って稽古場の扉をくぐった。
小さな音を立てて扉が閉まる。それと同時に部屋を包む結界が展開したことを確認する。
「ん、さっすがマスター。結界も完璧!」
戦闘しか能のない自分とは違って、シンは攻守共に秀でた才能を持っていた。
そのひとつがこれ。彼の感知しうる範囲ならば、どこであろうとシンは結界を展開できる。
その強度はさすが龍神というしかないレベルだ。
結界に閉ざされたこの空間に、干渉できる妖怪はいない。その信頼がメイファに束の間の休息を与える。
そして今日もメイファは短い休憩にはいった。
「ねえパーラさん、少しお茶しません?」
そう誘えば、頷いたパーラと共に稽古場の隣にある茶房室へと足を運んだ。
あたたかな湯気と共に立ち上るのは香気。
茶を淹れる。ただそれだけの所作が見惚れてしまうほどに美しい。
一流と呼ばれるゆえんの一端を垣間見て、メイファは感嘆の溜息をついた。
「は~、パーラさんのしぐさってとてもきれいですよね。どうやったらそんな上品に出来るんですか?」
素直な賛辞にパーラの目元が緩む。
「そうですね、くり返し、くり返し、身体が覚えるくらい練習することが一番ですが……」
茶器に回し湯をかけ、温める動作、そして湯を切る動作までもが演舞のようだ。
それだけの間の後、彼女は追憶に瞳を細めて口を開いた。
「大切な人に振る舞うという『気持ち』があれば、指先の動きにすら神経が通うのではないでしょうか?」
そう言って微笑むパーラは美しく、そしてどこか儚い印象を受けた。
返らない時間を懐かしく思うような、けれど過去は過去としてこころの区切りをつけているような、そんな表情をしていたから。
なんとなく、心当たりに近いモノを感じたメイファは、ためらいがちに口を開いた。
「……それって、シャルちゃんのお父さんのこと、ですか?」
そう問えば、パーラの瞳が僅かに揺れた。
見間違いじゃない。耳と鼻ほどじゃないが、メイファは視力だって人間に比べたらかなり利く方だから。
じっと凝視したらぶしつけかな、と遠慮がちに視線を送っていたら、パーラはわずかに苦笑して答えた。
「そう……そうね。今の私を形作るものは、全てあの方のためだけに、習得したものだから」
そう言って、懐かしそうに瞳を細める。
もう返らないと十全に知っている瞳で。
だからこそ、メイファは告げてしまう。告げずにはいられなくなってしまう。
「シャルちゃんは、お父さんに会いたい一心でお稽古をがんばってますけど、……その夢は、叶うと思いますか?」
そう問いかければ、パーラは悲しげに瞳を伏せた。
その仕草だけで分かった。シャルが父に会えることはないのだと。
言葉が続かなくて、場を満たす沈黙に、少し息が苦しくなる。
パーラは口を閉ざしたまま二人分の茶器に茶を注ぎ、ひとつをメイファの手元に置いた。
そして、手にした茶器から立ち上る香気を味わってから、彼女は口を開いた。
「あの方に親子の名乗りをあげれば、きっと迎え入れて下さるでしょう。けれど、それをしたらシャルの命が狙われる……あの方の正妻が許しては下さらない」
ひと口、茶をふくんで。パーラは微笑む。
「私はあの方との生活よりも、シャルを選んだの」
そう言ってから、パーラはぽつぽつと話し出した。
自分が昔、隣国の宮妓であったことを。
「教坊に入ってからの日々は、それこそ血の滲むような努力の毎日だったわ。でも、辛くはなかった。お慕いするあの方の目に止まるよう努力することは楽しかったから」
そして稽古に稽古を重ね、宮妓としてパーラの右に出る者がいなくなった時、彼女は皇帝の覚えめでたく妾妃として召されたのだった。
「あの方に愛され、共に過ごした時間は、いま思い返しても胸痛むほど幸せな日々でした。あの方のためだけに生きていると言っても過言ではないくらいに」
唯一人を愛して、愛して、愛し抜く。
そんなパーラの姿勢は皇帝の寵愛を欲しいままにし、やがて彼女は身籠った。
それは至極当然のことだったが、それこそが悲劇のはじまりだった。
「あの方には正妻がいらっしゃったの。けれど後から召し上げられた私が先に身籠ったことで、正妻の方の怒りを買ってしまった」
皇帝がパーラを寵愛することは正妻を蔑にすること。由緒正しく、また正当な後ろ盾もある自分が、劣るはずのない宮妓に負ける屈辱。その凄まじさは苛烈な仕打ちに集約された。
聞えよがしの悪口に、あからさまな嫌がらせ。パーラを包囲するのは底知れぬ悪意のカタマリ。パーラに使える女官たちが傷つけられ、怯えた者から彼女の傍を去ってゆく。
そんな風にじわじわと真綿で首を締められるような攻撃の連続に、それでもパーラは黙って耐えた。愛しい皇帝を想う一心で。
「でもね、それが正妻の方の怒りを更に煽ってしまって……」
毒薬の混入や事故を装った故意。
パーラへの憎しみは生まれる子にも及び、正妻の標的は明らかに腹の子に移っていった。
「正妻の方の執拗ないやがらせで命の危険を覚えたわ。でもそれが私の命だけならいい。皇帝のお傍にいる以上、そう言ったこともあると辛抱もできる。だけどシャルを狙われた私は……愛しいあの子を守るために私は、あの方の傍を離れる決意をしたの」
それは苦しい決断だった。痛みを伴う決意だった。
命すら捧げてもいいと思えるほどの人に、自ら別れを述べるなんて。
泣いて、泣いて泣いて泣いて。
引き裂かれた想いを胸に、それでも腹の子の命を取った。
最愛の人に別れを告げた。
「あの方は正妻の方を諌めると、だから留まってくれとおっしゃって下さった」
瞳、伏せて。口元には満足げな笑みがのぼる。
「そうおっしゃって下さったからこそ、私は心おきなく後宮を出ることができたの」
「……なんで、ですか? 大好きだったんでしょう? せっかく旦那さんがパーラさんのためになんとかしてくれるって言ったのに」
若いメイファには分からない。人の心の機微は。ましてや恋を経て愛を知った者の心の機微は。
だからそう問いかければ、パーラはやわらかく瞳を細めた。
「あの方が動かれれば正妻の方は更に逆上するでしょう。表面上は諌められても、人のこころを変えることは容易ではないもの。……私はね、シャルを守りたかった。たとえそれがあの方から離れることになっても」
それでもいい。それでもいいと思えるほどの強い母性が、パーラを突き動かしていたから。
「シャルさえいれば、私はそれがどこでも生きていけるのよ」と呟く女性は美しかった。
メイファの中の、大切な記憶を刺激するくらいに。
(……母さまに、似てる)
慈愛に満ちたその笑みは、満ち足りた美しさを滲ませている。
子を思う、それは母の表情。
それを目の当たりにしたメイファは、鼓動が駆けだすのを感じていた。
息が少しだけ苦しくて。胸のうちの一番やわらかい所がきゅっと痛くなる。
その痛みが、苦しさがメイファに強い決意を与える。
「大丈夫です」
伸ばした両手は、パーラの手に。ぎゅっと強く握りこんで。
「シャルちゃんは絶対に守ります。パーラさんの想いを私にも守らせて下さい」
まっすぐに瞳、見つめて。こころからの思いを告げれば、パーラの笑顔が返る。
そこにメイファは、大好きだった母の面影を見出していた。