3
香る、花の匂い。誘うような甘い香りが薄くうすく、風にのって運ばれる。
これは力ある花の香り。――金花か?
「金花が、咲く?」
だとしたらなんという僥倖。なんという巡り合わせ。
彼は真っ暗な洞窟の中で頭をもたげ、風が運ぶかすかな匂いに集中する。
やはり、匂う。これは間違いなく金花。
まだ、咲いてはいない。まだ、蕾がほころび出したところだ。
この香りに気付けたのは、ひとえに自分の鼻が利くおかげだろう。
彼は生まれて初めて自分の作りに感謝した。
これなら、金花なら助けられる。きっと、助かる。
急速に熱くなる胸は希望を見出したから。
「ハルシャ……」
彼は万感の思いを込めてその名を呟く。
彼の隣で眠る女の髪を愛おしげに梳きながら。
「君の命は俺が守るよ。なにをしても、どんなことをしても、絶対に」
かすかな、空気すら震わせずに呟く声では、泥のように眠るハルシャを起こすことはない。
それでいい。
彼女には少しでも体力を付けてもらわないといけないから。
「愛してる、ハルシャ。……俺には君だけ。君だけが、俺の生きる全てだ」
そっと頬に触れた唇。愛しい人のぬくもりを、生きている証を唇から感じて、彼は切なげに微笑んだ。
「だから、俺のすることを知らないでいて」
許さないで、俺のことを。君以外を選べない、我欲に満ちたこの心を。
彼は腕の中の想い人を、今一度抱きしめなおすと瞼を閉じた。
月が天空に登っても、そして西に傾こうとも眠りは彼に訪れない。
なぜならその身は妖怪。夜に生きるモノだから。
それでも彼は眠る彼女を守るように、瞼を閉じたまま思いを馳せる。
遠い昔、まだ世界がどんなものか知らなかった頃。
世界がまだ輝きに満ちていた、あの頃のことを。
「キャンッ!」
耳をつんざく銃撃と共に、思わず悲鳴が漏れた。痛みではない。ただ灼熱が足を貫いた衝撃に声が出た。
バランスを崩して転ぶ。転がる。運悪く道を外れた。
転がり落ちるのは急斜面の崖。
落ちる。落ちる。グルグルと回る世界。回るたびに身体のあちこちが木々にぶつかり、時にむき出しの岩に当たり、その衝撃で息も出来ない。
回る。回る。どこまでも回る世界に意識が遠くなる。
沈む意識の淵で思う。
痛い。苦しい。寒い。怖い。
叩きつけられた小さな身体。この世に芽生えて間もない、弱い身体。
(……死ぬの、やだ)
冷たい大地に落ちる涙は黒々と地面の色を変え。
そこで、小さな山犬の妖怪は意識を閉ざした。
遊びに夢中になって、気付けば親兄弟からはぐれていた。
夜の闇は彼に恐怖を与えない。夜に住むモノには普通の世界だから。
でも、親兄弟を呼ぶためになりふり構わず吠えていたら、運悪く猟師に見つかり撃たれてしまったのだ。
夜目だったのが幸いし急所は外れたけれど、坂を転がり落ちた衝撃で山犬の仔は死を覚悟した。
が、しかし。
「あ、目をあけた! ワンちゃん、もう大丈夫よ」
目を開けたとき、そこに映ったのは幼い人間の女の子だった。
自分を殺そうとした『人間』の。
「ウガゥッ!」
「きゃっ……!!」
殺される前に殺す!
手負いの山犬は噛みついた。
差し出された少女の手に小さいが鋭い牙で。
「っい……う~~……だ、だいじょうぶ、よ? ワンちゃん、わたしなにもしない。ぜったい痛いこと、しない……からっ」
気丈な少女だった。こころ優しい少女だった。
咬まれた手はそのままに、彼女は反対の腕で山犬の仔をそっと抱きしめる。
そっと、大切なものを抱くように。
そこから伝わるのは慈愛のこころ。敵意は徐々に溶かされて。
「ゥ……クゥ」
牙を外せば、ぷくりと血の珠が浮かび上がる。
いくつも、いくつも浮かび上がったそれは、やがて筋を成して流れ落ちる。
けれど少女は――痛いだろうに、懸命に痛みをこらえて、山犬の仔に笑いかけた。
「ありがとう、分かってくれたの? いいこね、ワンちゃん」
そして血で汚れていない方の手で、少女はやさしく山犬の頭を撫でた。
山犬はそこで初めて気づいた。銃痕がきれいに手当されていることに。
それから山犬は『オゼン』と名付けられ、『ハルシャ』と名乗る少女と共に時を過ごした。
自分の傷が癒えるまで。
彼女の傷が治るまで。
そう自分に言い聞かせ、傍にいるうちに少女の人となりに惹かれてしまった。
ハルシャのやさしさに、温かさに強くこころ奪われて。
朝も、昼も、夜も。
春も、夏も、秋も、冬も。
犬のふりして少女の傍にいるうちに、オゼンに芽生えたのは強い欲だった。願いといってもいい。
この子の傍にいたい。ハルシャを守りたい。その笑顔を独占したい。
――――彼女と、ずっとずっとずっと、一緒にいたい。
だから、ある日オゼンはハルシャの元を去った。
生涯傍にいる、その願いを叶えるために。
痛むこころ抱え。
寂しさに軋むこころ抑え。
人身が取れるよう妖力を溜めて技を磨いて、完璧な人型が保持できるまでオゼンは少女と距離を取ったのだった。
そして、十年ほどの時を経た彼は、ひとりの『人間の青年』としてハルシャの前に現れた。
「君が好き。大好き。ずっと一緒にいたいんだけど、どうしたら俺を選んでくれる?」
人懐こい笑顔で、気さくで明るい。もちろん見目だってそこらの男よりも断然上。
好青年を絵に描いたようなオゼンは、ハルシャに長年のひたむきな想いを告げた。
しかし、ハルシャは手ごわかった。
「ごめんなさい。初対面で軽々しくそういうことを言う人は信用できません」
ぴしゃりと言葉で叩かれた胸が痛い。
『初対面じゃないよ。ずっと昔に君が助けてくれたオゼンだよ』
ありのままに告げてしまいたい衝動と戦う時はいつも苦戦した。
幼い頃の笑顔がみたい。あの笑顔を向けてもらいたい。
あの優しい手を、もう一度。
その一心でオゼンはハルシャを口説き続けた。己を律し、紳士的に振る舞い、彼女のペースに合わせて距離を縮めた。
そして、二度目の出会いの日から約一年が経って。
「ふふ、あなた私の大好きだった友達によく似ているわ。偶然かしらね、名前も一緒だし……うん? いえ、違うわ。その子は人間じゃないの、山犬の仔だったの。傷を負った仔を保護してね、それからはずっと一緒にいたのよ。私、あの子がすごく大好きだった……え? ええ、そうなの。ある日ふいにいなくなってしまったのよ。大好きだったから、余計に悲しくてね。あの頃は毎日山に探しに行ったわ」
伏せたまつ毛に見えるのは、過去のやるせなさ。
けれど次に視線を上げた時、彼女はやわらかく微笑んだ。
「でも、あの仔が選んだことなら、それでいいと今は思えるわ。生きる場所を、その生き方を決めるのは自分自身だけだもの」
そしてハルシャはオゼンの手をとった。
「あなたはどこか懐かしい感じがする。……一緒にいると、こころが温かくなるわ」
「ハルシャ。じゃあ……」
期待に胸ふくらませて。上気する頬が熱い。
掴んだ手が汗ばんで、激しい鼓動に頭がクラクラする。
「ええ」
肯定の言葉を紡ぐ桜桃のような唇を凝視して、彼は待った。
「わたしも、あなたが好き。あなたの傍に、ずっといたいの」
その時の歓喜を言葉で表すのは不可能だ。
嬉しくて、うれしくて。
頭に昇った血で眩暈すらした。
――ようやく。十年越しで手に入れた唯一の宝物。希望。ぬくもり。
自然と流れ落ちた涙を目にして、ハルシャは困ったように微笑んだ。
「きれいな涙。……でも、泣かないで」
そっと目尻にキスしてくれた。
そうしてオゼンは正体を隠し、彼女の夫として――人間として――の生活を始めた。
ハルシャのために。そのためだけに人の世を学び、人の世で働き、人間のように振る舞った。
彼女のためなら、人間のふりなど辛くもなんともなかった。
働いて、生活して、村に溶け込んで。ありふれた若夫婦として生活する。
その心地よさに浸っていた数年は、今思い返しても幸せな時期だった。
けれど、そんな幸せな時間は夫婦としては当たり前の、けれど自分たちの間柄では不可能なはずの事態に直面したことで終わりを迎えた。
――――ハルシャに子が出来たのだ。
異類婚姻。人間と妖怪の間に子が出来ることは滅多にない。
ほとんど不可能とも呼ぶべき事態に直面した時、その悲劇を知らないハルシャは純粋に喜んだ。
けれど事の重大さを知っているオゼンは蒼白になり、そして悩みに悩んだ末にハルシャに全てを打ち明けることにした。
「ハルシャ……腹の子を、堕して欲しい」
「な……っ!」
何を言いだすの、と責める声はオゼンの絶叫に途絶えた。
「その子が君を殺すからだよ……っ!」
「い、みが……分からないわ、オゼン」
苦渋に満ちた声、苦艱のにじむ表情、色がなくなるほど強く握りしめた拳。
夫が嘘を言っているわけではないと、一目でハルシャには分かった。
だからこそ、その理由を知りたかった。
情の深い夫が、なぜそんな非情なことを言うのか。
「理由を……理由を、教えて? なぜ、この子が私を殺すの?」
妻の問いに男はぐっと息を詰め、固く、かたく唇を噛みしめ。
「――……俺、が」
最愛の女性を、この胸痛むほどの幸せを、手放す覚悟で口を開いた。
「俺が……妖怪、だからだよ」
妖怪。人とは異なる種族。人よりも力に溢れる種族。――人と相いれない種族。
だからこそ、力ある存在の血をその身に宿したら、脆い人間の身体は耐えられない。
「だるいだろう? 妊娠してからずっと。日に日に身体が辛くなるだろう? それは君の中の半妖が、君の命を削っているから。……存在するだけで、君を害する。それが妖怪の血なんだよ」
妻を見下ろして告げる姿は巨大な山犬。彼女の目の前で見せつけるように変化した。
自分が妖怪であることを、一目瞭然にするために。
(ああ……ハルシャ、君が遠いよ)
巨躯から見下ろす彼女は、なんて小さいのだろう。
泣きたくなるような気持ちを押し込めて、オゼンは告げた。
ずっと隠してきた真実を。
「君が昔、山で助けた仔犬。あれが俺だよ。山の精気を糧とする妖怪『山犬』。君に助けられ、君に惹かれたから、俺は……」
人間になってでも、君と一緒にいたかった。
変化を解き、人身を取る。
近くなった妻との距離。交わす視線が揺らがぬよう力を込めて。
「俺は、人間に化けて君の元に来たんだ」
「……オゼン」
そう告げるオゼンの目は、別れを覚悟していた。
嫌悪されてもいい。唾棄されてもいい。騙したことで彼女に殺されるなら、それすらも自分は受け入れよう。
でも、ハルシャがいなくなることだけは耐えられない。
愛する女性が死ぬことだけは許せない。
だからオゼンは懇願する。
「お願いだ、ハルシャ。君を騙した俺を憎んで、許さなくていい。だからどうか、どうかお願い、その子を堕ろして! 君の命以上に大切なものなんて、俺にはないんだ!」
狂おしく渦を巻く感情が、彼の瞳の色を変える。
濃く強く、熱く激しく。
言葉にならない万感の想いを映す、それは鏡。
愛しているから願う。ハルシャの安全を、幸せを。
それ以外の真実など彼は持ちえない。
「……オゼン」
――愚直な夫。正直なひと。
ハルシャの脳裏に浮かぶのは、今までの幸せな日々。
一緒に暮らし始めて、すぐにこの人の世間知らず具合に驚いた。
それはもう、ドジとか抜けているとか、そういうレベルではなくて。
口先の上手い旅商人の云う事をすんなり信じてしまう。
そんなオゼンは、まるで子供のように無垢で、そして危うくて。
「ああ、この人は私が守ってあげなくちゃ」と自然とハルシャに思わせた。
けれどその一方で、彼はとても頼りになった。
山里の小さな集落。
そこがふたりの住処だったから、狼やクマ、イノシシにもよく遭遇した。
時に襲われることもあった。
けれど彼は「狩りは得意なんだ」と笑いながら山に分け入り、大物を仕留め、害獣を駆除した。
そしてふたりでは到底食べきれない量の獲物を近所におすそ分けするうちに、住民との交流も盛んになって。
「ありがとうね、この間おたくの旦那さんにもらったシカ肉、あれ本当に美味しかったよ。これはほんの少しだけどお礼だよ」
そういって、たびたび……ううん、しょっちゅう野菜やら山羊の乳やら羊毛やら。生活に必要なものは大抵、物々交換で揃ってしまった。
「うわー、ふたりで食べきれる量じゃないよね、これ」
大量の野菜を前に、困ったように笑っていたあなた。
「あ、じゃあさ、これ三軒先の家にあげようか。あそこの老夫婦、最近腰を痛めて畑仕事に出られないって言ってたからさ。あげたら助かるんじゃないかな」
そう言って、回りを大事にする人だったから、当然のように村民もあの人を大切に思った。
私の生きる世界はいつも、温かいやさしさに溢れていた。
――この人が、与えてくれたの。やさしい輝きに満ちた、愛しい日々を。
「ハルシャ!」
返答のない妻に業を煮やして叫ぶオゼン。
そんな夫を、今目の前にいるオゼンを見つめて、ハルシャは一歩踏みだした。
最愛の夫へと、この腕が届くように。
何度も抱きしめた愛しい人の身体を、回した両腕で抱きしめて。
ハルシャは言った。
「この子は絶対に堕ろさないわ、オゼン」
「ハルシャ?!」
驚愕にこわばる身体。それを宥めるように彼女は夫の背中をなでる。
「だってこの子は私たちがこの広い世界で出会い、愛し合った証だもの。たとえ私が死んでも、私が生きていたことを、あなたを愛したことをこの子の存在が証明してくれる。そんな愛しい証拠だもの。殺せるはず、ないじゃない」
「っ、そんなこと言ってる場合じゃないんだ、ハルシャ! 出産まで君の身体が持たないんだよ!」
「そんなこと、やってみないと分からないでしょう?」
「やってみなくても分かるよ! 君の命が刻々と削られていくのが俺には分かる。妖怪の俺には、手に取るように分かるんだ!」
なんで分かってくれないんだ、と激高するオゼンの抱擁が苦しい。
いつもはもっとふんわりと、まるで壊れ物を抱くように抱きしめてくれるのに。
「苦しいわ、オゼン……」
「君が無謀なこと言ってるからだよ!」
無謀。無謀、かしら?
ぎちぎちと縋るように抱きしめる腕の力に、彼の焦りを感じる。
けれどそんなきつい抱擁の中で、ハルシャは思考の波間を漂う。
愛する人に出会い、結ばれ、共に暮らす。そして次世代へと命をつなぐことは、とても自然なこと。そしていつの世も命がけの大仕事。
現にこの村でも出産をこじらせて亡くなる女性がいた。
昔住んでいた街でも、そう珍しいことではなかった。
それでも、人は子を産むのをやめない。それは、自分の生きた証を、愛した人の存在をこの世に残したいからじゃないの?
そう、それは本能に近い強さでハルシャを突き動かした。
「たとえ」
ハルシャが言葉を紡ぐ。その声に決意の色、強く滲ませて。
「たとえこの先に待つものが死でも、私は諦めないわ。最後の最後までがんばって、必ずこの子を産んでみせる」
「ハルシャ!」
悲鳴のような声がハルシャを責める。けれど彼女はオゼンの目を見て、凛と言い放った。
「これが、私が決めた私の生き方なの」
そう、これが私の生き方。あなたが妖怪でも人間でも、構わない。
愛したあなたの子を産む。それが私の願い。私の選んだ道。
だから、
「心配かけてごめんなさいね、オゼン。でもお願い、どうかこの子を厭わないで。……妖怪でも、半妖でもいいの」
「だって」の続きはハルシャからのやさしいキスだった。何度も触れた愛おしい口唇に想いを込めて。
『愛してる』と伝える。
ひと呼吸分のキスのあと、ハルシャはゆるりと微笑んだ。オゼンの双眸をしっかりと見つめたまま。
「愛しいあなたの血を引く子だもの」
「――――っ!」
その衝撃はオゼンの意識を打ち抜くに充分な威力を持っていた。
息が詰まる。呼吸を忘れる。愛しい人の言葉が、信じられなくて――夢かと思うほど、それはオゼンにとって都合が良すぎて。
愛しいと、言ってくれるの? 妖怪の俺を? 妖怪だと、人と敵対するモノだと知っても、君はそう言うの?
「ハ、ル……?」
信じられなくて声が震えた。喉の奥には焼けた石のような塊がせり上るから、それ以上の声は封じられて。
声に、ならなくて。
固まったオゼンの背中を撫でながら、歌うようにハルシャが囁く。
「愛してるわ、オゼン。あなたも、この子も。……妖怪でも、いいの。あなたのやさしいところも、頼りがいのあるところも、ちょっと早とちりでおっちょこちょいなところも。全部ぜんぶ、愛しいから」
妖怪でも、人間でも、それは変わらない。
そう告げれば、強くつよく抱きしめ返された。
嗚咽を堪えるように、震える身体に包まれて。
「……あなたが泣くのはあの日、以来ね」
そう呟けば、
「っな、いてなんか……ない!」
肩口に、わずかに沁み込むのは水の気配。
きれいな彼の泣き顔が見られないのは少し残念だ。
そう思いながらも、ハルシャの口唇は幸せそうに弧を描く。
「あなたの涙はきれいだから私、好きだわ。……次に見られるのは、この子が生まれた時かしらね」
暖かな午後の日差しが差し込む室内で、ハルシャは愛おしそうに夫を抱きしめた。
夜明けはまだ遠い。
山と積んだワラの上で休む妻を暖めるように寄りそって、オゼンは愛しい人の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
甘く、どこか懐かしい香りは胸を温かいもので満たす。
「ハルシャも、お腹の子も俺が守るから、心配しないで」
返事が返らないことを前提にオゼンは囁く。
そして今日も彼は妻に口づける。
そっと触れた唇は乾燥し、わずかにひび割れていた。
「……消耗が激しいんだね」
妖怪の血が彼女に強いる負担の大きさを痛切して、オゼンの眉根には深いシワが寄る。
だからこそ、今夜も行わなければならない。
固い決意を抱き、オゼンは妻へと再度口づけた。
彼女が死なないように。子に食われてしまわないように。口移しで精気を分け与える。
ハルシャの意識がない時だけに行われる、これは『秘密』。
初めは、――そう、自身の精気を分け与えた。
山犬は山の精気を糧に生きる妖怪。だからオゼンは自然が生み出す精気をせっせとその身に取りこんでは彼女に与え続けた。
けれど子の成長と共に、彼女を生かすために必要な精気はどんどん増えていく。
山が作りだす精気では足りず、自分の命を削って与えても、彼女の衰弱は止められなくて。
日に日に弱るハルシャ。日毎に大きくなるお腹。
耐えられなくて、削れるだけ自分の命を削って与えていたら、ある日ハルシャに気づかれ泣かれた。
「あなたが命を削ってどうするの? この子を今後守っていくのは父親のあなたでしょう?」
そう言って、わんわんと泣かれた。
それでも精気を与えることはやめられなかった。
オゼンが彼女に精気を与えなければ、彼女はきっと三日ともたない。
いや、今でも足りていないのだ。
混血が、妖怪の血が人間にかける負担の大きさに、彼女の身体は悲鳴を上げている。
だってほら、血の気のない顔。やさしい面差しの顔はげっそりとやつれ、面変わりをしている。触れたら折れそうな細い身体に不釣り合いなほどふっくらと膨らんだお腹。
その対比が怖くて、恐ろしくて。
刻一刻と妻が死にゆく恐怖に晒され続けた彼は。
オゼンは――ある日追いつめられ、恐慌状態に陥った末に人間を襲った。
それは女だった。山一つ越えた先にあるトルダンの街で見つけた、やたら華美な格好をした女。
見た目につられた訳ではない。オゼンが狙いを定めたのは、ひとえにその女の霊力が高かったからだ。
山の精気を集めるよりも強く大きな、霊力。食らえばかなりの力になる。
そうすれば、よりたくさんの精気をハルシャに与えてやることができる。
――迷わなかったと言えばウソになる。オゼンは今まで人を害したことはなかったから。
でも、後戻りできないくらいに彼は追いつめられていた。
(ハルシャのため……ハルシャと子供のためだ!)
逡巡は一瞬のちに霧散した。
闇に紛れて待ち伏せる。深夜遅くまで賑わっていた街中も、夜明け前には静まり返り。
足音を消し、気配を潜め、一気に跳躍し襲いかかる。
女は、ただのひと声も上げずに絶命した。
そしてオゼンは女を深い山奥へと運ぶと、そこで遺骸を喰らった。
「……っ、なんて濃厚さだ……!」
頭の芯が痺れた。酩酊と云ってもいい。
それほど人の身に宿る霊力は多大だったのだ。
これならいける。ハルシャにかなりの精気を与えてやれる。
嬉々としたあの夜の感情を、オゼンは今でも克明に覚えている。
こうしてオゼンは人間を狩るようになった。
常人よりも霊力が高い人間を狙って、三日と空けず狩りに出る。そこで得た霊力はオゼンの力となり、最愛の妻を生かす糧になる。
ひとり、ふたり、三人、四人、………十人、二十人、三十人……。
数えることは、もうやめた。数えることに意味はないから。
彼にとって意味のあることは、妻が生き長らえること。
無事に子を産み、その後も生を紡ぐこと。
だから。
「絶対。なにがあっても君を死なせはしないから」
大きなお腹をひと撫でしたなら、眠っているはずのハルシャが、どこか幸せそうに微笑んだ。
「愛してる、ハルシャ。だから死なないで……俺を、置いて逝かないで」
闇の中、光る双眸には切なる願いで揺れてにじむ。
「お願い」
オゼンはこんこんと眠る愛しい人へと唇を寄せた。
『絶対に、金花を喰らってみせる』
固い決意をその胸に抱いて。