11
荘厳な夜明けも過ぎてしまえば、いつもと変わらない日常が始まる。
昨日の続き、明日へと続く【今日】が。
誰の元にも等しく時が流れるように、花街もまた強い日差しに覆われた一日を迎えていた。
「本当に、何度感謝しても感謝しきれません。ありがとうございます」
これは、ほんの気持ちです、とメイファの手に乗せられたのはずしりと重たい砂金の袋。
両手に収まりきらないそれは、一体どれほどの価値を持つものか?
考えただけで総毛立つ思いだった。
「え、やだ。いらないですよ、パーラさん」
慌ててパーラへと砂金の袋を返そうとするが、そこはパーラも負けてはいない。
「いいえ。いくら述べても伝わらない感謝ですから。少しでもこの思いを形にさせてくださいませ」
メイファの手を上から握りこみ、砂金の袋を手放させない。
「や、でも、こんなには……!」
「これでも少ないと思いますが、あまり多くてもお荷物になるでしょうから」
そんな押し問答をするふたりを、カリンガはにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら見つめ、シンに水を向けた。
「ほら、助け舟出してやんなよ、兄さん。アンタの可愛いコが困ってるじゃないか」
「これも修練の一環だ。自分で捌けないようでは今後の仕事に差し支える」
淡々となんの感情も浮べず言い放つシン。そんな彼の脇を肘でつつき、カリンガ。
「よく言うよ。内心やに下がってるクセにさ。あのドン・ワンの鼻を明かしてやったんだろ、あの娘がさ」
カリンガの言葉にシンの脳裏には今朝方の出来事がよぎる。
一連の事件に片がついたあの後、シンはメイファと共に依頼主であるドン・ワンの元へ報告に上がった。
人喰い妖怪は山犬だったこと、それを確実に仕留めたこと。よってこれ以降、山犬が人を襲うことはないことを、メイファは装飾も隠蔽もしないよう、語れる事実だけをとつとつと語った。
請け負った仕事は成功した。それだけを報告しに。
ところが、メイファの報告に難癖をつけてきたのだ、ドン・ワンは。
「何をえらそうに! おまえのせいで一夜にして大勢の人間が殺され、我が街の名に傷がつきおった! おかげでこの街を経由するはずのキャラバンが、相次いでキャンセルを申し入れてきたんだぞ! どうしてくれる?!」
まるで吐き捨てるように投げつけられた言葉は欲望のカタマリ。
人が死んだことよりも、商業的な損害を嘆く言葉だった。
「このトルダンに与えた損害をお前が弁償できるのか?!」
なにを、言ってるの?
「この街では一日に何千と金が動くのだぞ?!」
人がたくさん死んだのに。
「その損害をくい止めるために妖怪退治を依頼したのに!」
なぜ、金の心配などしているの?
「おまえのせいで大赤字だ!」
失った人たちは、戻らないのに。
「ああ、もう! おまえのような汚らわしい半妖の小娘に頼むのではなかったわ!」
――――金の心配、……金、なんて。
ぎしり、と頭蓋骨が軋む音がする。あまりにも強く奥歯を噛みしめたせいで。
荒れ狂う怒りを抑え込むため、握り込んだ拳は白く色を失くし、小刻みに震えている。
(こんなヤツでも、契約者だ……契約を裏切らないのが『仕事』の鉄則……!)
「おまえのような根なし草が弁償できる額ではないんだぞ! 分かってるのか?! この脳なしが!」
吐きそう、怒りで。爆発しそう、怒りが。
罵声を浴びせ続けるドン・ワンを害さないように。俯きながらひたすら自制していたメイファの肩に触れたのは、シンの手だった。
「……マ、スター?」
湧き上がる怒りに黄金色に変わり始めた瞳孔で師を仰ぐ。
すると、いつもと変わらぬ表情のままシンは静かに告げた。
「報告を終えた時点で契約は終了した」
「――――それは……」
もう、好きにしていいということ?
視線だけで問えば、師はかすかに頷いた。
契約は完了した。あとはおまえの好きにするがいい、と。
「っ!」
一度開いた拳を再度ぐっと握りこむ。
そして少女は黄金の双眸で、喚き散らすドン・ワンを見据えた。
「なっ?! うわッ、あわわわわわわわわあああああああああああっ!」
その刹那。ボン、と音を立てて燃え上がったのは、ドン・ワンが拳を叩きつけた机。
黒檀で出来ているのであろう、気品溢れる執務机が青い狐火に包まれ、みるみるうちに焼け崩れていく。
メイファが焼失を狙ったのは机のみ。だが、少女は同時に熱を持たない幻影の焔でドン・ワンを包んだ。
「ぎゃあああああああっ! 炎! 炎があああああああ!!」
(バカだ、こいつ。熱くもないくせに)
妖弧の狐火は対象以外を燃やさない。そしてメイファが念じなければ熱も持たない。
「うわあ! なんだ炎が!」
「消せ! 火を消せ! だれか水を!」
「だ、誰か! ワシを助けろおおおおおおおおお!!」
(幻影の焔に翻弄され、死の恐怖を、亡くなった人たちの痛みを少しは思い知ればいい)
メイファの視線が凍てつき、感情豊かな少女の顔から表情が消え失せる。
(あたしは誰にも、何にもおもねらない。あたしが従うのはあたしの心だけ)
厚意を抱いた相手にはやさしくしよう。
敵意を抱いた相手には容赦しない。
どこにも帰属しない【半妖】の生き方、その指針をメイファはようやく自覚した。
寄る辺ない自分たちだからこそ、正義も道理も己が決めて選ぶのだと。
自分の中に芯が一本通ったような、地に足ついたような感覚。それを噛みしめながらメイファは冷めた目つきで見つめていた。
ドン・ワンを含め、お付きの者たちが右往左往し「水! 水!」と叫んでいる滑稽な姿を。
そして執務机が完全に消失したあと、ようやく彼女は幻影の焔を消し去った。
熱くもない焔に恐慌をきたし、床を転げ回っている矮小な男を見下ろして、一言。
「なんで幻影の焔なんかに怯えてんの? 熱くなんてないクセに」
「ひいいいいいいいいいいいいい~~~~~~~…………は?」
あれ、と。言われてみてドン・ワンは気づいた。自身が欠片ほども火傷していないことに。
そして無傷であることを認識してしまえば、自尊心だけは高い男のこと。みるみるうちに顔を憤怒の赤に染めて、彼は怒鳴り散らそうと口を開いた。が、しかし。
「あたしと殺り合う気? 別にいいけど」
ドン・ワンは瞠目した。金に煌めく双眸を、人にはあり得ない三角の耳を、そして好戦的に揺らめく五本の尾を見てしまって、開けた口を塞ぐことも忘れ凝視した。
「あたし、あんたのいう通り半妖なの。半分妖怪、この意味分かる?」
そう言いながら少女は手にひらの上に狐火を喚ぶ。
「理性よりも本能を重視する種族、力こそが全ての存在って、ね?」
青く揺らめく幻想の焔を、ゆらゆらと。弄ぶように手の上で踊らせて、見せつける。
自分が彼ら人間と違う存在だということを。
「は、はわああああ……」
驚いて腰を抜かす男を睥睨して、メイファは母そっくりだと言われる笑みを浮かべた。
「今回の件は、あたしが街の人を助けたかったから受けただけ。別にあんたの為でも報酬のためでもない。そこのところ、履き違えないで。……人の痛みが分からないあんたでも、半妖を怒らせるのは得策じゃないってこと、分かるよね?」
ひどく蠱惑的で艶やかな、けれどどこまでも冷たい微笑を。
そして、メイファたちはドン・ワンの館を後にした。
報酬はなく、けれど追手もかからない状態で。
宿を引き払い、強い日差しに負けない旅装束で身を固める。
依頼をこなし、また半妖と知られた以上、長居は無用だ。
それでもシャルの様子が気になったメイファが最後にと、花街を尋ねたのは昼過ぎのことだった。
メイファが統治区で起こした一連の事件。それを耳の早いカリンガはすでにその全容を把握していた。
諸手を挙げて迎え入れるという、予想外の反応で。
パーラもカリンガから聞いていたようだったが、そこには特に触れてこなかった。
ただただ、尽きぬ感謝の念をメイファに捧げるだけで。
そこからパーラとメイファの攻防は今も続いている。
「いや、愉快痛快爽快よ! あのいけすかない小男の鼻を明かしてやったなんて。ああ、何年ぶりだろうね、この気分の良さったら! アンタんとこのお譲ちゃん、いい仕事したねえ!」
カリンガは鼻歌でも歌いそうな上機嫌さで懐に手をいれる。そして彼女はそこから丸々と太った砂金入りの巾着袋を取り出して、シンの手に握らせた。
「これはアタシからの礼だよ。聞けばアンタたち報酬はなしって話じゃないか。身体張って妖怪退治したってのに、それじゃあんまりだからね。これはほんの気持ちさ。パーラとシャルを守ってくれてありがとね。それと……」
ほんの少し言い淀んで。表情も心持ち、神妙になって。
「ラナシィ以下、花街の娘たちの仇討ち、感謝するよ」
「ああ」
「それにしても」
一瞬で表情もまとう空気も変えて、カリンガは笑う。
「アンタたちタダ者じゃないと思ってたけど、まさか半妖だったとはねえ……いくらアタシの鼻が利くとはいっても、そこまでは分かんなかったわ」
未だ金銭の押し問答をしているメイファとパーラを見遣りながら、カリンガはしみじみと呟く。
その声に宿るのは純粋な驚きのみで、嫌悪や蔑視などは見受けられなかった。
(――さすがは花街の頭だ)
声には出さず、シンは思う。
苦界と言われる花街。その清濁併せて飲みこむ街で頭を張るだけあって、考え方は非常に柔軟だ。
カリンガが数少ない人種であることに気づいたシンは、ほんの少しだけ安堵の息をはく。
自分はもう慣れたものだが、弟子である少女を白眼視に晒すのはどうにも躊躇われる。
だからこういう人間がいてくれることは、とても有難い。ゆえに彼は、
「……我らは旅を続けるが、何かあれば一報よこせ。相談に乗ってやらんこともない」
糸を一本。ここで切れるのは惜しいと、一本の縁を差し出す。
これを取るか取らぬかはカリンガ次第。ただ、手は伸ばしてみなければ結果は分からない。
果たして人生経験豊富なカリンガは、この男の意図を正確に汲み取り、そしてにやりと笑った。
「そうさね。また普通じゃムリな事件に出くわしたら、その時は頼もうかね。あの娘はアンタと違って、素直でとてもイイ子みたいだし?」
からかうような言葉だったが、そこはそれ。人生経験ではカリンガなど足元にも及ばないほどの年月を経てきた男は、我が意が通じたことを知り頷いた。
「ああ、そうしろ。メイファはまだまだ伸びる。だが、あの子の性質が変わることはなかろう」
困っている人を見捨てられない。人の痛みを見ぬふりできない娘。
それは父から受け継いだ性か?
なんにせよ、身体は妖怪寄りの作りでありながら、中身は人間に近いメイファのことだ。カリンガたちが縁を望むなら、喜んで少女は駆けつけるだろう。
互いの目の中に、足らない言葉の続きを見取って、シンとカリンガは共にうすく笑んだ。
この縁は、ここで切れるものではないと、確信を得て。
そしてふたりは、まだ決着のつかないパーラとメイファの攻防に視線を向ける。
「パーラさん、ほんとにほんとに勘弁してください~! こんな大金見たことも持ったこともないですから!」
「じゃあ、ぜひこれを機に慣れて下さいませ。労働には正当な対価が必要なのですよ。それなのに真っ当なお礼すらお渡しできないとあらば、どうしてシャルに道徳を説くことができましょう? どうぞ私を助けると思ってお受け取り下さいませ」
「うっ……で、でも、そんなつもりでシャルちゃんを守ったわけじゃないんですよ? あれはあたしの自己満足みたいなもんで……」
必死に逃げを打つメイファと、たおやかに、けれどその外見や口調からは想像もできない押しの強さを発揮するパーラ。
この攻防はどう見てもシンの愛弟子が不利なようだ。さすがは最高級妓女。言葉巧みにメイファを篭絡しつつある。この分だとあと幾ばくかでメイファは落ちるだろう。
「粘るねぇ、アンタのカワイコちゃん」
「まだ人の世に慣れていないからな。擦れておらん分、堅い」
「で? どうするの、過保護な兄さん。そろそろ助け舟でも出すかい?」
それはメイファに折れ所を教えてやることだが、シンは緩くかぶりをふった。
「その必要はあるまい。……そら」
見てみろ、と顎をしゃくったその先に、妓楼から飛び出してきたシャルの姿があった。
「お姉ちゃん! よかった、まだいたぁ!」
シンたちが訪れた時、運悪く舞いの稽古に入っていたシャル。彼女は稽古を終えたいま、息せききって駆けつけてきたのだろう。
小さな身体全体で息を継ぎながら、シャルはメイファの胸に飛び込んだ。
「わ……っと!」
「間にあってよかったぁ! シャル、の……」
語尾が途切れたのは、抱きとめられたメイファの胸、その外套の下からひょこっと黒毛の犬が顔を出したから。
「え、あれ? わんちゃん?」
まじまじと仔犬を見つめる。
「クウ?」
黒い大きな目をぱちりと開いた仔犬が、メイファの胸元から顔を出し、シャルを見つめていた。
「この仔、いつ拾ったの、お姉ちゃん?」
「あ、あ~……えと、その、昨日……かな?」
「そうなの? かわいい! この仔のおなまえは、なに?」
「キュウ!」
【ヨル】と言葉にならない声で答えたこの子は頭がいい。さすがは半妖。たかが半日で目も開き、思考もだいぶ整ってきた。人語はまだ話せないが、こちらの言うことは簡単なことなら理解できているようだった。
たとえて言うなら一歳児くらいの知能か。
そんなヨルはメイファの懐から顔を出し、嬉しそうにシャルに話しかけている。
「クキュウ、キュ、キュウン」
「え、なあに? お姉ちゃん、この仔なんて言ってるの?」
「あ~……たぶん、だけど。可愛いシャルに会えて嬉しいんじゃないか、な?」
自信なさ気な言葉だが、仕方ない。なんせ言語でも精神感応でも意思疎通はまだ難しいのだ。簡単な喜怒哀楽くらいしか、幼いヨルからは読みとれないから。
それでもそんなメイファの語りは概ね当たっていたようで。
「キュキュキュウ!」
ヨルは小さな尻尾をぴこぴこと振って喜んでいた。
「うわあ、かわいい! ね、お姉ちゃん。シャルこの仔ほしいなぁ」
おねだりはキラキラした瞳と上気した頬で。
幼くとも手管を仕込まれているシャルは、今できる最大の必殺技でおねだりをする。
「……うっ!」
その威力たるは凄まじく、将来どんな伝説の妓女になるのか、今から不安……もとい期待を抱かせるほどだった。
「や、あのシャルちゃん?」
「シャル、お友達がほしいなぁ……」
ちらり、上目遣いで。技の効果を確かめるあたり、シャルも生粋の妓女である。
そんな小悪魔ⅴS半妖の戦いを面白そうに見守るのは三対の瞳。
「この戦い見物だねえ」
「ええ、シャルにはわたしが持つ技術のすべてを教え込んでいますから」
「…………」
傍観を決め込む大人たちをよそに、メイファはひとり冷や汗をかきながら、あわあわと狼狽していた。
(待ってこの子、どんだけ自分の魅力を知ってるの?!)
思わず内心でのけ反りながら、メイファはこほんと一つ咳払い。
場を仕切り直しながら、彼女は口を開く。
可愛いシャルに、きちんと目線を合わせてから。
「あのね、シャルちゃん。本当に申し訳ないんだけど、この子、あ【ヨル】って名前なんだけどね。ヨルはあたしが責任を以て育てるよう、この仔のお母さんと約束したんだ。だから残念だけど、シャルちゃんの頼みでもこればっかりは聞けないんだ。ごめんね?」
「むぅ~」
ふくれっ面すらかわいくて。面目ない気持ちになるけれど、これは本当に譲れないから
困った笑顔を浮かべて、シャルが諦めてくれるのを待つ。
やがて幼女はメイファがテコでも動かないと知ると、母に助けを求めに行った。
「かかさまぁ~! シャルもわんちゃんほしいの! お友達欲しいんだもん」
「そうねえ」
飛び込んできた娘を抱きとめながら、パーラは何か思案気な表情を晒し、そして。
「じゃあ、こうしましょう? メイファお姉ちゃんにこの袋をシャルから渡してちょうだい。お姉ちゃんがきちんと受け取って下さったなら、ご褒美に市場で可愛い仔犬を買ってあげるましょう」
「え、本当?!」
「あら? 母さまがシャルに嘘ついたことなんてあったかしら?」
「ない! ないよ、絶対なかった!」
小さな握りこぶしに、力説に赤く染まった頬。パーラの可愛い娘は、感情豊かに母の言葉を否定する。
「そうね、じゃあこのお仕事頼めるわよね、シャル?」
母の念押しに幼子は「はい!」と元気に返事をした。
「うーわー……パーラさんそれ卑怯じゃ……」
思わず恨み事が口をついたが、もちろん何の抑止力にもならない。
シャルはメイファが先ほど必死の思いでパーラに返した砂金の袋を持つと、「はい!」と元気よくメイファの鼻先に差し出した。
「お姉ちゃん、どうぞ! これシャルのかかさまからです!」
「うっ」
細い腕には重たいのだろう。ぷるぷると腕を震わせながら、シャルはメイファが受け取ってくれるのを待っている。
そう、ぷるぷると震える腕で、でも笑顔を絶やさない見事なプロ根性で。
「………………ありがとう、ございます」
これはダメだ。負け戦だ。この愛らしい幼女のぷるぷる攻撃に勝てるわけがない。
「やった! かかさま、シャルお仕事きちんとできました!」
というわけで、ずしりと重い砂金をメイファが受け取ったのを見たシャルは、満面の笑みで母に抱きついた。
「ええ、ありがとうシャル。じゃあ約束通り仔犬を探しに、あとで市に行きましょう」
「きゃあ! やったぁ!」
母に抱きついてきゃっきゃと喜ぶシャルと、それをやさしく受け止めるパーラ。
そんな母子を見て、
「あの、パーラさん。本当にこんな大金頂いてしまって大丈夫なんでしょうか?」
おずおずとメイファが問いかけても、パーラは薫るような笑みを浮かべるのみ。
代わりにカリンガが答えた。
「いいから取っておきな、お譲ちゃん。パーラはこの花街筆頭の妓女だよ。それっくらい一晩程度で稼いじまうさ。気にするこたぁない。路銀として受け取っときな」
「え、ええ?! これ、一晩でですか?!」
だってこれだけあったらひと月、いやふた月は余裕で暮らせる。
それだけのものを一晩で稼げるとは、妓女とはどれほどの高給取りなのか?
想像も追いつかないメイファの視線は、何度もパーラと巾着袋の間を往復する。
そんなメイファの視線をやさしい微笑みで受け止めて、パーラはいま一度深く頭を下げた。
「このご恩は一生忘れません。旅の途中でなにかお困りのことがおありでしたら、是非ここへお立ち寄り下さいませ。金子くらしか用立て出来ませんが、誠心誠意お力添えさせて頂きます」
「いえ! そんな、もう充分ですからっ!」
慌ててぺこりと頭を下げる。と、その途中で思い出したように少女は顔をあげた。
「あの、じゃあ、もし知っていたら教えて欲しいんですが」
いったん言葉を区切って、こくりと喉を鳴らす。
【その名】を口に出すには胆力がいる。こころ乱さず、感情を高ぶらせないために。でないと【その名】を口にしただけで、殺気が漏れてしまうから。
ふ、と鳩尾に意識して力を溜めて、メイファは【その名】を口にした。
「【檮杌】という妖怪について、何か知ってることはありませんか? なんでもいいんです。どんな小さなことでもいいので、何か知っていたら教えて欲しいんです」
「……それは、四凶のうちの一柱のことですね。十年以上前にどこかで大規模な戦を起こした、という噂は聞いていますが。それ以降ぱったり聞かなくなりましたね」
「そう、ですか……」
やっぱりなしの礫か、と胸のうちだけでため息ひとつ。元々そんなに期待はかけてなかったから、落ち込みもしないけど。
それでも、十二年前に両親を襲った後、完全に行方をくらました檮杌。その情報に飢えていないと言ったらウソになる。
心なしか落ちた肩の稜線。それに気づいたパーラが慰撫するように言葉を繋いだ。
「でも、この街はキャラバンが多く訪れますから、多くの情報も集まります。もし【それ】の話題がのぼったら、お知らせ出来るよう手を打ちますわ。ね、カリンガ姐さん?」
話を振られたカリンガは、薄い微笑を湛えた唇を開いた。
「ああ、周辺国の花街にも協力を仰いで、アンタの欲しがる情報に注意しとくよう声をかけとくよ。周辺国に足を踏み入れたら花街に寄っておくれ。アタシの名を出せばそれなりに融通が利くようにしとくからさ」
「は、はいっ。ありがとうございます!」
今度こそ精一杯、こころをこめてメイファはカリンガとパーラに頭を下げた。
そして少女は面をあげ、踵を返した。次の街を目指すために。
「おねえちゃん、ばいばーい! また来てね!」
小さなシャルに手を振り返し、パーラたちの笑顔に笑顔を返し。
メイファとシンはトルダンを後にした。
「おいで、ヨル。こっちだよ」
鼻先をかすめるようにひらりと飛んでゆく蝶は、狩猟本能を大層刺激するのだろう。ヨルは道を脱線して追いかけようとする。
それを適度にいなしつつ、メイファは愛しげにその瞳を細めた。
「やっぱり小さくても山犬だねえ、蝶が気になるんだ」
「キャン!」
かぷりと噛んだのは空。牙もまだ生えてない赤児ではまともな狩りを期待する方が間違い。
それでも本能がそうさせるのか、ヨルはぴょんぴょんと跳ねては蝶を狙った。
愛くるしい大きな瞳。まだ少し垂れ気味の耳をそれでもしゃんとして、小さな尻尾でかじ取りをする幼子。
その姿をして『愛くるしい』と呼ばずしてなんと呼ぶ?
「あはは、ダメだよ、ヨル。そんなんじゃムリムリ。もっとこう、獲物との距離を見極めてからじゃないとさー」
可愛いかわいいヨルの姿に、緩んだ顔のままメイファが近づき。
「クゥ?」
「もっと鼻を利かせて、タイミングを測って」
彼女は狩りのコツをヨルに話して聞かせる。
「……」
そんな少女を見守るシンにしてみれば、メイファもヨルも大差ない。せいぜい年長の子供が幼児を可愛がっているようなものだ。その光景は微笑ましい、の一言に尽きる。
(さしずめ弟分が出来て、嬉しいところか)
はしゃぐ少女の表情は至極明くて、翳るところはどこにもない。それはシンにとって好ましいものだったから、彼の口元は薄く弧を描いた。
「あれ? マスターなんか機嫌いいですね」
なにか楽しいことでもありましたか、と問う少女の表情はあどけない。
それがますます胸の内に愛おしさを掻き立てるから、男は持ち上げた手で少女の頭をひとなでして。
「いや、お前が楽しそうでなによりだ」
「へ? なんですか、それ」
意味も分からずきょとんとするメイファにシンは「独り事だ、気にするな」と話を畳んだ。
撫でられるのは好き。マスターに触れられていると安心するから。
でも、とメイファは思う。
「マスターってば、いっつも秘密主義なんですもん。もうちょっとあたしにも分かるように話してくれたらいいのに」
追いかけたい、追いつきたい背中。並び立ちたいの、この人に。
でも、彼はいつも自分をコドモ扱いするから、メイファはちょっとだけむくれて見せた。
それが彼の子供扱いを助長させると分かっていても、感情が言うことを聞かない。まだそこまで達観できない。
む、と突き出した下唇。不満を如実に表す少女の素直さにシンは笑む。
(まったく、誰に似たのやら)
母は妖弧。人を化かし騙してなんぼの妖怪。
そして父は人間といえば、その食えなさ加減は筋金入りで妖弧である妻を手玉に取る始末。
そんな両親を持ちながら、この純粋さとはある意味最強だろう。
ふつりと沸いた温かな感情に、シンの手は少女の頭から頬へと滑ってゆき、
「マスター?」
きょとりと見上げてくる琥珀色の双眸。
無垢な瞳にひとつ笑んで、
「お前はいつまでも、そのままでいてくれ」
シンは少女の額に唇を寄せた。
「? なんですか、いきなり」
「今は分からずともよい」
両親を失っても曇らない、天性の明るさ。そして不器用なまでの純粋さ。時にそれは見ているシンに痛みすら覚えさせるけれど。
(それでもメイファ、おまえの持つ輝きは貴い)
遠い昔に失くしたもの、それを持つ少女を守りたいと願う男はうすい笑みを浮かべる。
まひるの月のようにうすく曖昧な笑み。
その意味をメイファは知らない。彼の真意を分かった試しもない。
でも、今はそれでいい。
はしゃぎ疲れて『抱っこ』をねだるヨルが、足元に身体を擦りつけるから抱き上げて。
メイファはシンを見据えて言葉を紡いだ。
「侮らないでね、マスター。『今』は分からなくても、あたしだって日々成長してる。いつまでも何も分からない子供のままじゃないんですから」
そう宣言するように言い放てば、腕の中のヨルもまた同意するように「キュ!」と鳴いた。
キラキラと輝く双眸は、未来だけを見据えて邁進する。
――それはシンの目を釘付けにしてやまない、貴い輝き。
その輝きを傍で見守ることが許された我が身に感謝して、シンは今度こそはっきりとした笑みを浮かべた。
「……ふ、そうか。それは、楽しみだ」
「ええ、せいぜい楽しみに待ってて下さい。いつか片手でマスターを支えられるような大人になってみせますから」
「キュ、キュウ!」
「こーら、ヨルはとりあえず自分の足で歩けるようになってから! 高望みしないの」
「キ……きゅう」
可愛い仔の鼻先をきゅっと指先で押して黙らせる。
(この先の旅はしばらくにぎやかになりそうだなぁ)
メイファは胸の内でそう呟く。
シンとの行動は基本あまり喋らない彼と一緒なので、静かなことが多いけれど。ヨルと一緒なら、もっと賑やかで楽しい旅ができるだろう。
賑やかなこと、楽しいことが大好きなメイファの心は弾む。
そして、彼女は笑顔を浮かべた。
「ね、マスター。あんまり子供扱いしてると、いつか足元掬っちゃいますからね?」
「っ……!」
とびっきり、それは妖弧らしい悪戯っぽさが際立つ笑顔。
そして、それは妖弧らしい婀娜っぽさの滲む笑顔だった。
さすが妖弧と、そう感嘆せずにはいられない、そんな艶めいた笑みだった。
照りつける太陽の元を往くのはふたりと一匹。
あてのないまま、気の向くまま。
彼らの旅は、まだ始まったばかり。