10
(ハルシャ、ハルシャ、ハルシャ、ハルシャ! 俺が行くまで無事でいて……っ!)
満月が照らす山道を、オゼンはひたすら駆け抜ける。
妻の容体を危惧して荒れ狂う胸中は、オゼンから冷静さを剥ぎ取り、俊敏なはずの獣は木の根に足を取られては転び、目測を誤っては着地した岩からずり落ちるなど、目も当てられない惨状だった。
そうして満身創痍に近い状態でふたりの家である洞窟に着いた山犬は、弾丸のような勢いで妻の傍へと駈けつけた。
「ハルシャ!」
「あ……オ、ゼン……っはぁ、はぁっ、はっ……く、ぅ……!」
そこには虫の息の妻がいた。
座ってもいられないのか、横に倒れた姿で、息も荒く顔色は蒼白で。
まさに死の淵を彼女は彷徨っていた。
「ぁ……あ、ああっ!」
苦しげな声。けれどお産は思った以上に進んでいない。
――――力が、精気が足りないのだ。子を産む力が、生み出す力が。
だからほら、苦しげに喘いでばかりいて、子の姿がまるで確認できない。
オゼンは即座に獣態を解くと、ハルシャをゆっくりと抱きおこした。
「ハルシャ、ごめん。ひとりにさせてごめん。もう離れないから」
そう告げながら、彼は愛しい妻を抱きしめた。
密着させた肌から、精気を分け与えるために。
子に殺されようとしている妻を、助けるために。
けれど、
「……っ」
与えた端から消費される精気では妻を回復させること叶わず。
壊れた桶のように、オゼンが注いだ精気は子に流れていく。
「オゼン……手をっ……手をにぎ……って」
死期を悟っているのか、ハルシャは縋るように夫のぬくもりを、その存在を求めた。
「ハルシャ! がんばるんだ、ハルシャ!」
与えても、与えても、与えても。まるで足りない。熱砂に一滴の雫ではなんの意味もないように。
止まらない。命の流出が止まらない。
(ダメだ! 全然足りてない!)
大地から精気を補おうとしても、そもそも自身が枯渇している状態ではうまく彼女に回せない。
傷ついた身体は彼の意思をよそに自身の傷を修復しようとするから。
「くそ……っ!」
吸い上げても吐き出すこと叶わない。
妻に与えたいのに。この力、命のすべてを与えてでもハルシャを助けたいのに!
妖怪の性が恨めしい。妖怪である身が心底うとましい。
「俺が、妖怪じゃなかったら……!」
思わず漏れた呟きに、それに反応したのはハルシャだった。
「そん、なっ……言っちゃ、ダメ……!」
苦しい息のもと、ハルシャは聞き捨てならない一言を否定する。
冷たくなった指先に力をこめて。
「オゼンは……っ、私が、好きになった人は……うぁっ……あ、あなたしかいないの……!」
愛したひとが、たまたま妖怪だっただけ。ただそれだけ。
だから自分を否定しないで。
あなたが自分を否定するなら、私も人間であることを嘆くわ。
どうしてあなたと同じ妖怪に生まれてこなかったのかしら、と。
「しあわせ、よ……私、あなたを愛して……っ、子、も……授かって……」
たとえここで命尽きたとしても。
私の命を次へと繋げるなら、なんの杞憂もない。
でも、そうね。
できれば、あなたと一緒にこの子を育てたかったわ。
普通の夫婦みたいに。普通の家族のように。
「う、あぁ……っ!」
「ハルシャ!」
ズクン、と一際大きく腹が胎動する。生きるために、生まれ出るために必死な腹の仔が、母の命を吸い取って胎動する。
一気に遠くなる意識。子の出産までこの身体はもたないだろう。
その事実を思い知り、ハルシャの頬には涙がこぼれた。
「お、ねがい……あなた、おねがい、あかちゃ……うま、せて……」
それすらも出来ないなら、自分の命に意味はない。
必死に夫の手を握る。その力の弱々しさにオゼンの心は恐怖に包まれ恐慌をきたした。
「ハルシャッ!!」
死んじゃダメだ死んじゃダメだ死んじゃダメだ!!
精気を注ぐ。けれど到底間に合わない。
命が掛かっているのだ。腹の仔が死に物狂いで生まれようとしている。
そしてそのエネルギーにハルシャの身体は耐えられない!
「ハルシャ! しっかりするんだハルシャ!」
焦るこころが視界を閉ざす。ハルシャ以外なにも見えない。感じない。思えない。
狭窄していく意識の中で、オゼンの嗅覚はふと自分たち以外の匂いを捉えた。
「っ! 狐か!?」
風が運ぶ。妖弧の匂いを。ハルシャをこんな目に合わせた怨敵の匂いを。
好機、と瞬時に脳が判断した。
あれだけの妖力。喰らえばハルシャの糧になる。
実力差など、焦燥し視野狭窄を起こしたオゼンには認識できなかった。
ぎゅっと妻を抱きしめる。そしてささやく。
「一瞬だけ待ってて、ハルシャ」
君を絶対に死なせはしない。死なせはしないから!
疾風のように飛び出すオゼン。その形はすでに獣態に変化して。
洞窟の入り口から飛び出した彼は、目前に迫っていたメイファに飛びかかった。
『グオゥッ!』
「山犬、覚悟!」
応戦するメイファ。振り抜く爪は月光に輝く白銀の刃。
鉄をも裂くメイファの爪を避けることなく山犬は突っ込んで来た。
「わっ!」
驚嘆の声はメイファから上がった。
我が身を省みない山犬の特攻は少女の爪を紙一重でかわし、肉薄したから。
ガチンと牙が空を噛む。
浅い傷をメイファの腕に残して。
そしてそのわずかな血で充分だった。
忌避すべき混血児。けれど力ある混血児。
その血がもつ力を舌で実感したオゼンは吠えた。
『ウオオオオオオオオオオオオン!』
(混血児! 母の命を喰らって産まれたヤツが、俺の邪魔をするな!)
憤りをこめて吠える。
前足で大地をかき、ぐっと身をかがめ力を溜めて飛びかかる。
それはまるで弾丸のように。体当たりを目的として。
動揺に身を固くしたメイファ。その一瞬の隙を狙って。
「なっ!?」
巨躯の体当たりを交わしきれず倒される。
見上げる格好になった山犬。その瞳に浮かんでいたのは焦燥と恐怖だった。
「……ッ!」
喉を狙った牙が襲いかかる。それをなんとか右腕で死守したが、灼熱感が右腕を襲った。
噛みつかれた。深々と、憎しみと焦燥と恐怖と恐慌と。
喰いこんだ牙からさまざまな感情がメイファに流れ込んでくる。
ギリギリと、腕を折らんばかりに顎に力を入れる山犬の心情が、
(おまえはナゼ生きている?! 半妖のくせに! 母の命と引き換えに生まれてきたくせに! なぜ半妖が俺の邪魔をする!)
「っ! お、まえにそんなこと言われる筋合いはないっ!」
山犬を吹き飛ばすべく、狐火を召喚しようとしたが、焔は顕現する寸前に山犬の気迫によって弾き飛ばされる。
なんて気迫。――そして、なんて焦燥。
(おまえは母の命を糧に生まれた罪深い存在! そんなヤツが俺の邪魔をする資格があるのか?!)
組み敷かれたまま、腕一本を間に挟み攻防を繰り広げる。
「っく……う!」
巨大な山犬の重さは尋常じゃなく、ぐいぐいと迫る顎を右腕一本で支えるのは至難の業だった。
(罪人が! 命汚い半妖が!)
耐えきれない加重に、紅く染まった少女の腕がふるふると小刻みに震える。
「っお、まえにっ……愚弄されるっ~~~~~~~謂われはないっ!!」
全身のバネを使って。収縮して溜めた力、解放する。
跳ねあげる。蹴りとばす。四肢を拘束する山犬の足を、その腹を。
渾身の力をこめて、真上に蹴り上げる。
「っつ、う!」
急所である腹を蹴り上げたことで緩んだ牙。でもそれはメイファから離れる寸前に彼女の腕を寸断の直前にまで追い込んだ。
(――骨がイカなかっただけマシかな)
ずくずくと腕は傷むけれど。戦えないわけじゃ、ない。
「焔!」
特大の狐火を喚ぶ。
月光よりもなお明るく周囲を青白く照らすそれを、投げつけようとした瞬間。
オゼン、とか細い声がした。たぶん妖弧の耳でなければ拾えないくらいに、か細く弱々しい声が。
『ハルシャ!』
その声を拾った瞬間には、すでに山犬は走り出していた。
後方にある洞窟へと。メイファを置き去りにして。
「なん、なの?」
女の声。「オゼン」とは、あの山犬の名か? ならば山犬は誰かに呼ばれたのか?
判断を仰ぐように後ろを振り返れば、シンが頷いた。
『追え』と背中を押されて、メイファは頷く。
怪訝に思いつつも、メイファは任務を全うすべく洞窟へと向かった。
長く深い洞窟内は暗く、月の灯りすら届かない。
そんな暗闇を震わせるのは、悲壮な叫び。それは男の声だった。
「ハルシャ! しっかりするんだ、ハルシャ! 死んじゃダメだ!」
駆けつけたメイファが捉えたもの。それは苦しむ女性をかき抱く、ひとりの青年の姿。
そしてかすかな血の匂いと、キツい死の香り。
「……なに?」
目の前の男は山犬が変化したものだとすぐに分かった。姿形は変えられても匂いまでは変えられないから。
でも、とメイファは思う。
じゃあ、あの女性は? あれはたぶん産気づいている。だって血の匂いに混じって、半妖の匂いがうっすらと漂い始めてる。
半妖の? 匂い?!
「その女性、あんたの子を身ごもってるの?!」
思わず叫んだ。驚愕がそのまま言葉になった。
そして返ってきたのは、ギラリと光る殺意。
憎悪に歪んだ視線!
「……おまえに、半妖のおまえに親の苦悩が分かるものか! ハルシャは俺の子を宿したばかりにこのありさまだ! 腹の子に命を削り取られ、日々衰弱していく姿なんて黙って見ていられるわけがない! 俺はそんなの耐えられない! だから人間を喰らった、金花を狙った! すべては愛する人を守るためだ! それの何がいけない!? 親の苦しみも知らず、母親殺しの大罪を犯してまで生まれてきた貴様に、俺の行動を咎める権利があるのかっ?!」
「っ……!」
言葉に貫かれて、とっさに動けなかった。
瞬時に獣態を取り、襲いかかってきたオゼンに対し、メイファは動けなかった。
「ハルシャのために、おまえの命を寄こせえええええええっ!」
だってそれは、愛した人を守りたかっただけ。異質な血に命を削り取られる妻を助けたかっただけ。
――――メイファの両親と、なんら変わらないふたり。
その事実にメイファは動きを絡め取られた。瞬時に判断が下せなかった。
その一瞬が、死に繋がる妖怪同士の戦いの最中に。
棒立ちになったメイファにオゼンの牙が襲いかかる。
差し込む月光を弾き、白い牙に凶悪な光が宿る。
(やられる……!)
一瞬で充分だった。獣態のオゼンがメイファの懐に入るまで、刹那にも満たない時間で充分だった。
驚愕に少しのけぞった顎。月夜のもと、仄かに発光してみえるほど、メイファの喉は白く美しい。
命を狩り取る、そのためだけにオゼンは顎を大きく開く。
喰らうんだ。喰ってハルシャを助けるんだ。ハルシャが死んでいいわけがない。腹の子に殺させるわけにはいかない。
彼女には、もっとたくさんの幸せを、もっと多くの笑顔を。
――ハルシャは俺が、幸せにすると決めたのだから。
『グォウッ!』
「っ……!」
ひと噛み。それですべての片がつく。
凍りついたような表情の少女。――――それが、オゼンの現世最後の記憶になった。
メイファの肌に牙がふれる寸前、闇夜を切り裂いたのは煌めく月輪。
蒼銀の軌跡が命を狩り取る。
「……あ」
何が起こったのか、メイファにも捉えきれなかった。
闇すら切り裂く蒼銀の輝き。続く斬撃の音は鈍く重く。
光の収束と共に、重量感のある物体が地に落ちる音が聞こえる。
そして、数拍の無音のあとに響き渡るのは絶叫だった。
「ぁ……あ、オ、オセ……う、あ、あ、ああああああああああああ!」
悲痛さを具現化した声が洞窟内にこだまする。
斬り落とされた夫の首。その転がる様を目にしてしまったハルシャが。
喉も裂けよと言わんばかりの悲鳴をあげる。
「オゼン! オゼン、う……あぁっ……あ、く……あ、あなたああああああああ……!」
ドスン、と。重い響きと共に倒れたのは山犬の身体。頭のない、からだ。
首は断ち切られた衝撃でメイファの少し後ろに飛んでいた。
金縛りが解けたかのように、のろのろと首を動かせば、目に入るのは蒼銀の輝き。
愛刀である蒼月刀を手にしたシンの姿だった。
「……ま、マス、ター……?」
なんで?
殺した、の?
硬直した思考では、うまく声が発せない。言いたい言葉が、言うべき言葉が出てこなくて。
ただ呆けたようにシンを見上げるメイファに、彼は無表情のまま告げた。
「お前の命に代えられるものなど、私にはない」
「マスター……」
たとえメイファの仕事に手出しすることになっても。それが少女の成長を妨げることだとしても、彼女の命に代えられるものはない。
それはシンにとって絶対の基盤だった。だから手を下した。
交差する視線に、シンの強い意思を感じる。それは自分には持ちえないほどの頑健な意思。
……それを受け止められるほどの芯を持たない自分に、今の彼は直視できない。
だからメイファはそっと視線を落とす。
マスターは間違っていない。でも喜ぶこともできない、中途半端な自分には。
両親と同じ立場の彼を迷いなく殺したシンに、今は戸惑う気持ちが強くて。
彼の視線をメイファは受け止められない。
(分かっては、いるの。山犬はあたしの両親じゃない。でも……同じ立場のひとだった)
妖怪と人間。困難を越えて愛し合うふたりを、今ここで引き裂く必要はあったのか?
感情の整理がつかず、困惑する気持ちを持て余すメイファは見るともなしに見つめる。
地に横たわる山犬の死骸が塵と消えゆくさまを。
妖怪の死は、ある意味再生への道である。
形を保てなくなった妖怪はその形をほどき霧散したのち、やがて長い年月を経て生まれ変わるのだ。
だからこそ人間のように死体は残らない。塵芥と消え、いずこへと消え去る。
(あたしたち半妖は、違うけどさ)
内心でため息をひとつ。
シンが自分を庇ったのは、死んでしまえば半妖は【そこで終わる】存在だから。
妖怪のように、再生することもなく死に途絶える。
それを知っているからこそ、メイファもまた山犬の死自体を悼むつもりはなかった。
山の精気が凝った姿である山犬は、いずれまたこの世に出現するのだから。
メイファの感情を乱すもの。それは残された妻のことだった。
「オゼン……あっ、う……オゼ、ン……っ」
震える声で夫の名を呼ぶハルシャ。
夫を喪った彼女は苦しい息の下で嘆いている。その身を半妖の子に削られ、その命を風前の灯火に晒しながら嘆いている。
(妖怪が再生することを知らないの、かな……)
知っていたとしても、引き裂かれた哀しみは変わらないけど。
嘆き悲しみ、産みの苦しみに喘ぐハルシャに向かって歩くメイファ。その足取りは重く、一歩近づくたびに胸が重く塞ぐ。
だって彼女から夫を奪ったのは、自分だから。
たとえシンが手を下さなくても、もともと自分はあの妖怪を殺すためにここに来たのだから。――この状況を見てもなお、敢行できたかといえば……自信ないけど。
メイファの瞳は地に這うように嘆き悲しむハルシャの姿を映す。
半妖の子を身ごもったがために、間もなく命の終焉を迎えるだろう、人間の女性。
その彼女の命を長らえるために山犬は人を喰らい続けた。人の生命力を妻に与えるために。
(このままじゃ、きっとこの人はお産まで持たない……そして、子供も)
母子共に放っておけば亡くなるだろう。
あの山犬がしてきたこと全てを無駄にして。死んだ人たちは何ひとつ浮かばれなくて。
(そんなの、あんまりだ)
突然生を断たれた大勢の人たちも。
父母の思惑など知らず、ただ一生懸命生まれてこようとしているお腹の子供も。
なにもかも、意味のないこと――なんて、そんなの許せない。
そう思ったメイファは、そっとハルシャの傍に膝をついた。
「あっ、あなた……っ!」
「うん」
メイファを見上げたハルシャの瞳には絶望が灯っていた。
それはそうだろう。死の間際に夫の死を見せつけられた女に、他にどんな感情を抱けと?
それが分かっていたから、メイファは余計な言葉を発さず、そっとハルシャの手を握った。
「……がんばって、『お母さん』」
与えるのは、励ましの言葉と自らの精気。
メイファのそんな行動に、ハルシャの喉からは鋭い音がした。息を飲む、それは小さな驚愕の音が。
「お腹の子、生まれたいっていま必死にがんばってるよ。だからあなたもがんばって。もう少し、あとちょっとで生まれるから……がんばろうよ」
繋いだ手から感じるあたたかい気配。それは夫と同種のもの。己の命を分け与えてくれているのだろう、衰弱しきったこの身体に。
(この娘は……)
この少女が誰かは知らない。夫とどんな因縁があったのかも。
それでも、
(ああ、この少女はお腹の子の敵じゃないのね)
繋いだ手をぎゅっと握る。助けてくれるのなら、今は何にでも縋ろう。
お腹の子を、オゼンと自分が愛した証を世に生み出すために、今は全力を尽くそう。
「う……あ、ぅ……アッ」
「がんばれ! がんばれ!」
握りしめた手に力を、念を、精気をこめて。メイファは応援する。
それはきっと山犬の守りたかったもの。そして彼の守りたかった女性が、いま命を掛けて生み出そうとしているもの。それは自分たちの数少ない同胞だ。
「がんばって、もうちょっと!」
「ううう~~~~……っ!!」
ハルシャの顔が一段と苦痛にゆがんだ。
あと少し! メイファはハルシャが壊れない程度の精気をありったけ注いだ。
「がんばれ! この世界に出ておいで!」
すると、次の瞬間。
「ああああああああああああああっ!」
「――――……きゅ……キュウン……」
一際大きな叫び声のあとに、小さなちいさな鳴き声が聞こえた。
疲れ切った、弱々しい声。それでも誕生を示す声が。
「っは……はぁ、はっ…………あ、あ」
出産に耐えきったハルシャが肩で荒い息を継ぐ。
びっしょりと汗で濡れて、力が入らない腕を震えながら伸ばす、その先は、
「キュ……キュウ……」
闇夜にも艶めいてみえる黒毛の仔。父と同じナリをした山犬の仔は、か細い声で必死に鳴いた。
この世に生まれ出たことを、精一杯主張するように。
「キュウ! キュ、キュウウ!」
生まれたばかりの我が子の声に、ハルシャは重くて持ち上がらない腕をふらふらと伸ばしては我が子を求めた。
「……ほら、いっておいで。おまえの【お母さん】だよ」
もぞもぞと母を求めて地を這う黒毛の仔を、メイファはそっと抱き上げてハルシャの胸に渡す。
半妖の仔はあたたかな母の胸に抱かれて、安堵したように一声鳴いた。
「ふふ……いい子ね。ずっとあなたに会いたかったわ、わたしの愛しい子」
抱きしめて、頬擦りして。はちきれんばかりに募る愛情を子に伝える。
愛しているわ、愛しているわ、あなたをずっと愛してる。
ああ、この胸にある愛情を余すことなく伝えられたらいいのに。
涙で視界がぼやける。涙? そう涙よ、きっと。
意識が遠のくせいじゃないわ。だって早すぎる。まだこの子は生まれたばかりなのに。まだ目も開いてないのに、ここでお別れなんて。
「……そんな、の……早すぎ、る、わ……」
ああ、ダメ。あの子が見えない。可愛いかわいいわたしの子。黒毛の小さなあの子が。
抱いているはずの感覚も、伝わるはずのぬくもりも、なにもかもが遠くなる。
ああ、いや。ダメ、まって。まだ、わたし……
「心配しないで。あなたの子供は、あたしが責任をもって面倒をみるから」
子を抱いているはずの手に―なんの感覚もないはずの手に―感じるのは力強い温かさ。
そのぬくもりが死にゆくハルシャに伝え、彼女を安心させる。
すべてを委ねても、大丈夫だと。
だからなのか、ハルシャの口元には自然と笑みが昇った。
うすく、けれど満足げな笑みが。
――お願いね――
そう、声にならない言葉を残して。
妖怪を愛し、そして妖怪に愛された女性は息を引き取った。
「キュウ、きゅ……きゅうん」
仔犬の声に悲しみが混じる。小さくとも半妖。その血が、感覚が捉えたのだろう。――母の死を。
「きゅううん……」
一際高い声で泣く小さな仔を、ハルシャの胸からそっと掬いあげてメイファは抱きしめた。
「おまえも、わかるよね……? お母さん……もう、いないんだよ……?」
なんだか力が入らなかった。吐き気がするほど切なくて、やりきれなさに目頭が熱くて。
小さくとも温かな赤ん坊を抱きしめて、メイファはペタンと座りこむと、ほろほろと涙をこぼした。
その涙が意図するところ、それすらも分からずに。
母を亡くしたこの仔が憐れなのか?
半妖の存在がもたらした悲劇が悲しいのか?
それとも父母によく似た境遇の彼らを死に追いやってしまったことが辛いのか?
様々な感情が飛来しては、とめどなく少女に涙を流させる。
「っひ……っく、ふ……」
突き上げるような、吹きだすような激情に涙が止まらない。
ただ、ただ奥歯を噛みしめ、嗚咽を噛み殺すことしか。
そんなメイファの頬をぺろりと舐めるあたたかいモノがあった。
「……おまえ……なぐさめて、くれるの?」
おまえの父母を殺したあたしを――
ペロペロと流れ落ちる雫を舐め取る舌は小さくて。
その小ささに、更に涙が溢れる。
だってこんなに小さい。まだこんなに幼い。それなのに、あたしはこの子から両親を奪ってしまったんだ。
父母を奪われる辛さを、誰よりも知っているこのあたしが!
「う……え……っく……ふ」
壊れないように力加減はもちろんしつつ、メイファは縋るように仔犬を抱きしめた。
その温かさが、傷ついたこころに沁み入る。
ごめんね、助けてあげられなくて。
ごめんね、両親を奪ってしまって。
ごめんね、それでもあたしは……。
声を上げて泣くことを己に許さないメイファの頭にそっと触れるもの。
それはメイファがなにより好きな、シンの掌。
「……マス、ター……」
見上げた先は、涙でぼやけて輪郭すら危ういシンの顔。
表情なんて分からないけど、きっと彼はいつもと変わらない。湖水のように静かな表情でメイファを見下ろしてるのだろう。
そんな彼を見つめていると、一拍の後シンは口を開いた。
「おまえがその子供の面倒を見るのなら、揺らぐな。お前が揺らげば、その仔も惑う」
「あ……」
「くぅん……」
困惑の滲んだ声が耳を打つ。……そうだ、泣いている場合じゃないんだ。この仔は、あたしが育てないと。あたししか頼れる者はいないんだから。
ぐい、と涙をこすりあげてメイファは黒毛の仔を見つめた。
片腕に収まるほどの小さな仔。この小さな同胞にキスを贈って。
「誕生、おめでとう。生まれてきてくれて、ありがとう」
ゆっくりと抱きしめる。
「これからは、ずっと一緒だよ」
小さな君に名を贈ろう。君が君でいられるように、君の存在がぶれないように。君にカタチを与えよう。
すべてを包み込むこの闇のように、広く深い懐を持てるように。
「約束するよ、【ヨル】」
どうか、すこやかに。望むことはそれだけ。幸せに、願うことはそれだけ。
ヨル、君の両親のぶんまで、君が幸せになれますように。
「ずっと、一緒にいよう。ヨルがあたしを必要としなくなる日まで」
「クゥ……」
抱きしめた身体に頬擦りして、メイファは明けゆく空を見上げる。
朱鷺色の空。淡く薄桃に染まった空は荘厳なほどに美しい。
「夜が……明ける」
人々の様々な苦しみを、あまたの苦悩を飲みこんで、それでも世界は美しく在り続ける。
残酷なまでに清々しく、苦しいほどに胸痛む美しさで。
「空が……」
空の色に誘われるように、ヨルを抱いたメイファは立ち上がった。少し、空が近くなる。
「――……きれいだね、ヨル」
そう呟いて唇を噛む。
無垢なる世界の美しさが、涙を誘うからきっとこれはそう、哀しみなんかじゃない。ただ正視できないほど美しい朝焼けがまぶしいだけ。
細めた目から零れ落ちる涙が、ひとつ、ふたつ。
まばたきもせず空を見上げるメイファに寄りそうように立つ姿はシンのもの。
何も言わず、なんの弁解もせず。ただ立ちつくすだけ。ただ、少女を見守るだけ。
傍に在る。いついかなる時も。
在りし日に誓った、それは絶対の約束。
今日もまたその誓いのままに、シンはメイファの隣に立つ。
――いつか、自分が独りで立てるようになる、その日まで。彼はこうして居てくれるだろう。
「ありがとう、ございます。マスター」
呟きは小さく、朝焼けの中に溶けて消える。
けれどそれが少女の言葉なら、どれほど小さくともシンは拾えない男ではない。
了承を示すように持ちあがったシンの腕。それはぽん、とやさしい音をたてメイファの頭をなでた。何度も、なんども。あやすように、そして甘やかすように。
「マスター……」
その手に甘え、少し首をシンへと傾ければ、いつものように受け止めてくれるシンがいて。
メイファは包み込まれる。力強く安定した彼のまとう気に、彼の温かな体温に。
「…………あったかい」
腕の中の小さな存在と、この身を包む大きな存在が夜明けの寒さを忘れさせてくれるから。
黎明を迎える世界の片隅で、メイファはいつまでも空を見上げていた。